J.ルージュリ著「1871年」(その3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.ルージュリ著「1871年」(その3)

 

 革命の不連続性、これを歴史家に認めさせるのは難しい! この用語はいずれにせよ、私が取り組んでいるケースでも出てくる。それにしても、世俗界特にパリの監視・挑戦・恐怖・人民主権、これらはなお正確な用語であり、われわれの最初の諸革命に共通の用語である。私が社会学者の示唆を受け入れがたいと感じたとしても、それにしても・・・

 

p.62 私は幾つかの仮説をもっており、それをごく簡略に呈示してみようと思う。私の願いはそれらの仮説がなんらかのかたちで、より緊密にしてより深い調査に役立てられることだ。第一の示唆、それは非常に単純である! 状況において驚くほど類似している。共和暦第2年から1871年までの歴史はほとんど正確にくり返す。マルクスが残酷な機知の気紛れにおいてそう言っているような冗談とは限らない。再び始まるのは同じドラマである。危機に瀕する祖国 ― 祖国・国民・共和政はまだ同じ語でしかない ― 再びプロイセン軍と対決したパリ民衆、つづいて(あるいは同時に)王党派に対しても対決する。ここでも同じ一致は細部に及ぶ。ヴェルサイユ軍の指導者の中にシャレット(Charette)とかいう者がおり、彼は大革命時のシャレットの甥でブルトン人遊動隊を率いている。「シューアン」および「ヴァンデ」という語はまったく当然のことながら、1871年のパリ民衆の口吻にどうして上らないことがあろうか? 1792年からコミューンまで祖国・国民・共和政のこの3つの語の組み合わせに関し、もっと深めた通史研究がなされるべき課題が残されている! こうした研究は、1871年の「愛国者」、すなわち真の叛徒に関する解釈にとって非常に重要である。

 ところで、籠城と窮乏は極めて苛烈なものであったから、第二帝政の経済的進歩、その相対的繁栄を霞ませる傾向にある。いちばん新しい遡及でも1853~55年に遡るため(すなわち、リーヴルのパンが1867年には50サンチームもした)、その思い出はそれほど遠い話ではなかったにもかかわらず、非常に古い食糧危機、それに伴う結果のお供「窮乏の不平等」― M.L.ラブルースが言っているように ― これらはおそらく繁栄の中の不平等以上にもっと荒々しく感知されたにちがいなかろう。「30スー」、資力の乏しいこの民衆は、食糧をかかえている者、食糧商人、買占人、独占者に対して憎悪を再発見しなかったであろうか? 平行市場つまり「闇市」に供給する手段をもつ業者に対しても? 1世紀前の古い動機は古い本能を目覚めさせ、その生活やその力を古き伝統の擁護に引きわたした。

 さらにパリはその社会的・産業的構造においても大きな変化を見せていなかったし、その都市的・人的構造においてもほとんど変化していなかった。私は、だれもが貧しい「機械論者」の資格をもつという説明に特に拘るつもりはないが、A.ソブール氏が共和暦第2年のサンキュロットに関する論文の最終ページで提起したこの問題に真っ先に答えねばならない。すなわち、「19世紀全体を通して職人と商人は昔からの状態にかじりつくであろう。p.63  1848年6月の戦闘からコミューンまで固有の意味でのプロレタリアートにせよ、伝統的タイプの社会層にせよ、帰着する役割が何であるかを細かく検討することは興味深い。」この際、私の回答はほぼ絶対的である。共和暦第2年から1871年までパリはパリのままであった。その外観にもかかわらず、これこれの町はその構造においてそんなに素早く変わるものであろうか? 私はパリの振舞いについてすでに幾つかの語を述べてきた。最初に数を述べてみよう。たしかに、人がまちがって産業革命と呼ぶところのものはすでに大きな工場、製造場に影響を与えた。じっさい、特にその周囲においてそうだった。大工場が出現し、工業の職種のヒエラルキーまたはそれぞれの秩序は変わりつつある。しかし、それは非常に軽度にである! 労働構造に関して商業会議所によって実施された大がかりなアンケート調査(1848年、1860年、1872年)を比較してみよう。正確な意味での工業的職種(métier industriel)ではないすべての職種を除くとする。工場主の調査、しかし、ここではわれわれにとってさして重要ではない! まず、もっと伝統的なメティエがいつも筆頭に来る。私は職人的(artisanal)という用語を好まない。それ以上にプロレタリア的(prolétarien)という語も好まない。なぜなら、企業家、下請け人、俸給生活者 ― 集中されたものであれ、家内労働的なものであれ ― ともに商業資本主義を指すことができるからだ。全体の3分の1は衣料、つづいておおよそ5分の1の割合でパリのメティエつまりパリもの商品の製造人、貴金属、家具、書籍の製造人が来る。これは決定的な多数を占める。つづいて、活動的ではあるが、第二帝政下で停滞的であり、さらに伝統的な建築業、金属、金属加工、それ10分の1ずつが来る。合計しよう! 58,500人の雇用者に対して346,000人の賃金生活者、1860年のパリではほとんど同じ。第1~第11区で55,000人の雇用者に対して338,000人、併合された郊外地区を含めた「大」パリで、68,000人の雇用者に対して403,000人の賃金生活者となる。1872年には80,000人の雇用者と454,000人の賃金生活者となる。これら22年間について雇用者に対する賃金生活者の割合はほとんど1対6のままである。1872年にほんの僅かだが減ってきている。これは,ソブールが共和暦第2年のパリの労働者において認めた割合とほとんど変わらない。

 人は当然のことながら、オスマン土木工事、つまり1860年の合併をもたらした人口増大を反証として私の意見に異議を唱えるかもしれない。しかし、実際のところ、何が生起したのか? オスマンはパリの東部すなわち民衆的街区に対しては、戦略的といわれる幾つかの大きな並木道を通した以外はほとんど手をつけなかった。家賃の上昇に助けられてオスマンは「首都の危険な」中心部の混雑を緩和しようと欲した。こういうわけで真のパリ市民を郊外へ、つねに東部へ、特にベルヴィル方向へ追いやることを強いた。しかも、ベルヴィルとは「赤い」街区であり、大革命時の「アヴァンタン山 Mont Avantin」の一つであるベルヴィルは最もパリ的で、最も伝統的なパリの街区であった。

p.64   人口の単純な移動、すなわち「流出」があった。さらに人口はその真実の町を懐かしみ、それを回復しようとつとめた。

 新住民の絶えまない凝集はどうか? 不完全な数字を信じるとして、ここではアペール(Apert)報告が受け入れられる、と私には思える。逮捕され、暴動参加の容疑をかけられた者のおよそ4分の1はパリ出自の者である。当時の若者 ― たとえばマクシム・デュ・カン(Maxime du Camp)― は自ら進んで、パリの暴動を恐ろしい亡命者、社会的落伍者の仕業と描く。これらの者はパリに来てひと旗挙げんとした連中であるという。これは共通のテーマであるが、真相をほとんど突いていない! これとは正反対に、件の人々が落伍者であるというのはほんの稀な例でしかなかった。こうした見方は、首都に働きにきた労働者が極めて急速、かついとも簡単にパリに「帰化した」ということを忘れるに等しい。同時代人のオーディギャンヌ(Audiganne)またはマルタン・ナドー(Martin Nadaud)から歴史家ルイ・シュヴァリエ(Louis Chevalier)にいたるまでのすべての著者がそのことを言う。パリに来ること、それは出身地との関係を絶つことである。そして、仕事と街区が来訪者を直ちに吸収し、首都の記憶は来訪者のものとなる。優れたパリジアンの例を引こう。1830年に来たクルーズ県出身の石工ナドーは人権協会に加盟し、「1848年の事件」に関わり、帝政によって亡命を余儀なくされ、九月四日革命ののちクルーズの県知事となり、1871年、パリに再び出てきて、ドレクリューズに革命に参加したいと申し出た。伝染性のある役割をこれらの移住者はどのように担ったか。ここではわれわれの主題にとって重要である。これはおそらく特権者の例であろうが、それにしても典例といえよう。

 私は先ほど産業的・人口構造と都市的構造について語った。町そのものは記憶である。集合的記憶はアルプワック(Halbwachs)が極めて端的に示しているように、「シテの石において」根を張る。パリ、それは石である。記念碑であり、思い出を恒久化する街路である。p.65  公共の家つまり市役所、シテの心臓部、フォブール・サンタントワーヌの外れにあるバスティーユ広場(1830年、1848年の殉教者を記念して建立された円柱とともに)この円柱の周囲に1871年2月以降、悪しき共和政と講和に抗議して一大民衆デモがくり広げられた。パンテオン、パリ籠城期間中この施設前で、共和派の区長ベルティヨン(Bertillon)が義勇兵の兵籍登録の式典を厳かに挙行した。切断された大通りでは、かつての革命の行列に倣って行進がとりおこなわれた。ここで人々は戦い、また、ここで1848年2月の遺体を並べたのである。反対の極にヴァンドームの憎むべき円柱、すなわちナポレオンの円柱がある。バスティーユの民衆的円柱、恥ずべき宮殿、つねにテュイルリー宮、ルイ十六世の処刑の罪滅ぼしとして建立された贖罪の礼拝堂がある。アンリ・ルフェーブルはパリの記念碑に「罪がなくはない」と説明したのも尤もな話である。コミュヌーがそのことを示す。石、街路、街区による思い出の恒久化の証拠をもう一つだけ挙げよう。インターナショナルのパリ支部は1870年、「セクシオン」ごとに形成された。「セクシオン」、この語こそ大革命の言葉そのものである。これらセクシオンは昔日の名をもっている。セーヌ右岸から見てみよう。ルール(Roule)、フォブール=モンマルトル(Faubourg-Montmartre)、フォブール=サン=ドニ(Faubourg-Saint-Denis)、フォブール=デュ=ノール(Faubourg-du-Nord)、ポワソニエール(Poissonière)、ポパンクール(Popincourd)、などのセクシオン。セーヌ左岸ではジャルダン=デ=プラント(Jardin-des-Plantes)、ゴブラン(Gobelins)、パンテオン(Panthéon)の各セクシオン。20区から成る、そして80の街区、1860年のパリから成る新パリの地図上にそれらを配置することは大ごとであったかもしれない。頼りになるのは昔のセクシオンのパリ地図だったのだ。

 思い出を恒久化するために、人、書きもの、歴史があった。書きもの、歴史だって! 人は真っ先に1871年に先行する10年間の頗る生き生きとした蘇りによって特徴づけられことを強調する。E.アメル(Hamel)の「サン=ジュスト伝」(1859年)、続いて「ロベスピエール伝」による革命史の再発見、1865年のブジュアール(Bougeart)の「マラ―伝」、アヴネル(Avenel)の「アナカルシス・クローツ Anacharsis Cloots」、ロビネ(Robinet)の「ダントンの生涯」、ガスティヌアール(Gastinears)の「自由の天才たち」、J.クラルタン(Clartin)によって1868年に公刊された「最後の山岳派」、p.66  1866年と1867年にヴェルモレルによって再編集された「革命の古典作家たち、ロベスピエール、ダントン、ヴェルニオー、マラー」。1864年、トリドン(Tridon)とブランキによるエベール派の名誉回復、そして前者トリドンによるジロンド派に対する呪詛がおこなわれたことが知られている。このような徴候は興味深い。しかし、いうまでもなく、これら著書の頒布の程度を検討する必要があろう。これらの著書が共和派と革命派のエリートに、しかも少なからず光輝を発するエリートに達していたことは明白である。民衆層に対してはどうか? 彼らが大革命についてとりわけ「サンキュロット的行動」についてもった記憶が興味深いものであったとは私には思われない。にもかかわらず、パリ籠城期の民衆クラブで登壇したブジュアールがマラーの名誉回復演説をなしたことが知られている。だが、その時の彼は風聞のみについて言及したにすぎない。私もこれに同意する。インターナショナルのミリタン労働者のイレネ・ドーティエ(Irénée Dauthier)は単に1500~2000部ばかり発刊された、トリドンによるエベールに関する小冊子を読みあげた。1871年、ドーティエは『デュシェーヌ爺さん』紙でトリドンを称賛する一方で信心家たちを非難した。彼はいま一度機会をとらえてこの呪われた主題に関してエベールについて長い引用をおこなった。彼がそれを読むことができたのは、エベールの出版物のではない。それはトリドンにより引用されたものである。これは極端な例であろうか? 私見によれば、歴史書というのは革命的記憶の維持において役立たないか、あるいはほとんど役立たないかのどちらかである。p.67  彼が労働者に提示する理想的文献の中に革命史が含まれる。「真の労働者」を例にとってみよう。人々は、彼がそのアルコール中毒の程度に応じてパリの労働者について与える分類を細かくなすことを可能にしない。ドニ・プレ(Denis Poulet)は「崇高」の中で書いている。

 「自分は『大革命史』であるラマルティーヌの『十年史』『ジロンド派』『12月2日の歴史』を所持している。歴史は自分の好きな読み物であるといえる」、と。

  われわれが今問題にしている19世紀の最初の3分の2という時期は、民衆の政治文化の歴史が非常に進化したわけではない。しかし、ここで書きものについて再び問うわけは、年月が経っているにもかかわらず、それらが広く知られ普及しているということである。人は1848年と同じく1871年についても語る。すべての民衆クラブで人々は注釈をおこない研究する。それはロベスピエールの「人権宣言」である。ここで全体的かつ直接的人民主権が問われている。

 「主権は人民に属する・・・人民のいかなる部分も人民全体の力を行使することはできない。・・・各市民は法の制定、受託者たる官吏の指名に協力というかたちで平等の権利を保持する。公的機能は本質的に一時的なものである。・・・人民の受託者たる官吏の違反はけっして処罰されて済むものではない。」

 主に1871年のサンキュロット人民が真に文字どおりに受け止めた命題がそこにある。それは1848年においても事情は同じだった。

 そして最後に、人々がいる! 私はここで特にあらゆるかたちの伝統、口承による伝播を理解する。伝統を見出すことは容易な業ではない。しかし、『レオナール・ド・ナドーの回想録 Mémoires de Léonard de Nadaud』 に類する書物は多数ある。しかし、人々はその痕跡を常時暴き、補完し、書物よりも効果的な作品をつくりあげる。その歴史がすでにほとんどなされた歌謡のことを考えてみよう! 極めて単純に1870年と1871年、「ラ・マルセイエーズ」を忘れているような人は、それに「コミューンのマルセイエーズ」または「出発の歌」を接ぎ木するのではなかろうか? どれだけ新しいリズムが古い曲にもとづいて唄われたであろうか? そして、たとえば、しかも度々のことだが、「ラ・カルマニョーレ」の節で唄われたことか? コミューンに関するすべての書物は口を揃えて合唱室の前で「ル・カナイユ Le Canaille」を唄うボルダ(Bordas)をわれわれに語ってくれる。真ん中の節が以下のようになっていることは強調されない。

 彼らはマルセイエーズを口ずさむ

 わが父、古き放浪者

 93年に攻撃せし

 バスティーユを大砲が

 古き壁を守っていた・・・

 

 むろん、さらに私は職業革命家と言われるべき者、そしてその人生そのものにおいて私が語るこの伝統をすべて具現化する者を意味している。ブランキ、ドレクリューズ、そして彼らが活気づける秘密結社にふれるまでもない。彼らは長年の沈黙の時代にこの伝統が永続化するのに貢献した。

 家具商テオドール・シス(Théodore Six)は1830年のミリタン

 1848年、サン=メリ(Saint-Merry)修道院

 リュクサンブール委員会のメンバー

 第二帝政下で流刑

 1867年、各業組合の創設者

 優れた詩「人民から人民へ」の作詞者(1852年流刑時に書き、1871年に発表)

 あらゆる危険を冒したこのような無名のミリタンについてわれわれは調査を始めた。しかし、その一方、私は革命家の人々を理解している。革命そのものがこの世紀において固有の継続性をもっており、すべてがそれを形づくりながら、それを説明する。各々が次の者に投げ返す。「千福年説」を。

 「苛立ちは期待外れの度ごとに大きくなる。それはまず最初は口数の少ない落胆であり、疑い深い沈黙であり、次いで脅威を含んだ暴力的シーン(1870年を意味する)、そして、さらに続いて冒涜的言辞と大空に向かっての拳骨を伴う神経質な恐るべき危機(1848年)であり、さらに続いて絶望的希望の激怒した決意となる。・・・ われわれが今直面しているのは最後のシーンである。・・・ 革命がつねに継続しているというのは以上のことである。」

 当然のことながら、革命の度ごとに固有にしてかつ直接的な要因をもっている。しかし、1830年 ― 私はこれについてあまり語らないであろう。というのは、これについて私は深くは知らないから ― は人民と国民のために戦った。こうした用語はまた最新の新鮮さをもっており、むろんルイ=フィリップ的国民ではない。1848年、この時は明らかに、そして重要なことに、「パリ労働者の創成」があった。これについては、R.ゴセ氏がわれわれに語った。しかし、やはり同じように、さして遠くはない伝統の非常に重い、この重みがあった。この重みについて1860年にトクヴィルが極めて的確に見積もる。私見によれば、トクヴィルはマルクスとともにフランス革命的なこの19世紀、けっして終わることのないこの革命を的確に捉えている。

 「1789年の模倣はこのように明瞭であるため、それは事実の恐るべき創造性を覆い隠すほどだった。私は絶えず、そうした事実がフランス革命を継続しているというよりも、革命を再現しつつあるという印象をもっている。」

 『両世界雑誌Revue des Deux Mondes』の中でE.ラヴォレ(Lavollée)も同じことを述べている。1871年、彼には革命家たちが1848年をくり返す以外のことをなさなかったように思えた。古き上着の下で明らかにその度ごとに何かしら新しい要素があった。しかし、輝くような解放の最初の時期に1848年が享受した大気中のこの純粋に特殊な役割を強調しておこう。クラブ、新聞、ポスターは競って嘗ての民衆革命の偉大な用語をくり返す。1871年にも人々は同じものを見出す。すなわち、サンキュロット、委任権限、吏員、監視、祖国愛、公安委員会、そしてそれだけでも大した価値があるが、コミューン ・・・ 人権協会も偉大な時代に現れるであろうし、積極的活動と晴れやかな時に協会はまさしく「人権宣言」を流布し、9万部を印刷しようとした。

 あらゆる議論は歴史家が以下のことを正当化するのに何も引きわたしていない