J.ルージュリ著「1871年」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.ルージュリ著「1871年」(その2)

 

 さらに、政治的・社会的レベルの問題の検討に移ろう。共和暦79年のサンキュロット=コミュヌーの願望・傾向・要求はどんなものか。もうすこし引用を続けるのを許してほしい。コミュヌーは外敵との戦いを徹底し、次いで内部の敵と戦うために総動員を要求した。精力・復讐。すべての真の愛国者はたとえ少数派であろうと、公安委員会の創設を評価するであろう。恐怖政治も当然のことながらそうだ。オム・アルメ(Hommes Armés)=セクシオンの婦人シャランドン(Chalandon)は「パリの街角という街角のすべてにギロチンを設置すべきだ、と言った。コミューン第74大隊に属する酒保係の婦人はクラブを要求する。「その区に4台の常時作動するギロチンが必要だ」、と。p.57 反キリスト教運動は共和暦第2年よりもはるかに激烈に、かつもっと自発的に表明された。第二帝政下の教会は大いに世俗的権力を取得していた。モンマルトルの代表のル・ムッシュ(Le Moussu)は「僧侶は悪漢であるゆえに、また、僧侶は道徳的に大衆を虐殺する巣窟とは教会のことを指すとの理由で、サン=ピエール教会を閉鎖した。ブリュートゥス(Brutus)=セクシオンのサレット(Sarrette)検事も同じようなことを言っている。籠城期のパリで人民の窮乏に対して投機した買占商人の喉を締めよとの声が挙がった。共和暦第3年にも彼らの貪欲について悟った民衆が直ちに彼らに正直に振舞わせるべき時がやってきた」。1871のクラブのメンバーは「すべての金持ちを銃殺すべきか?」と問う。共和暦第2年の善良な愛国者ソーニエ(Saunier)は「すべてを銃殺すること」を語った。執行するに前に人々はいずれにせよ課税する。共和暦第2年には戦争の必要のため、1871年にはプロイセン軍から要求された50億フランを支払うための違いこそあったが。

 

 だが、もっと大きく、かつ根本的な要求というのは直接民主政のそれである。共和暦第2年には「国民公会議員は代表と呼ばれるべきではなく、人民の受託者と呼ばれるべきである。」1871年には「単なる官吏(Commis)の役割にとどまりたまえ。人民の奉仕者よ、主権者づらをするな。人民は救世主に飽きており、今後は人民がその行動について論じるのだ。」Commis!この用語は非常に頻繁に見出される。p.58 コミューンで3月26日に選ばれた者たちは「命令委任」の任務を帯びていた。これの意味するところは、その行動のコントロールと機関、罷免の可能性である。それが実際におこなわれることはなく、あるいはそれをなす時間的猶予は1871年にはなかったが、にもかかわらず、たとえば第17区、第4区の受託者の幾人かは要求された勘定書の呈示義務に喜んで従うことに同意した。クラブではしょっちゅう、コミューンと国民衛兵委員会は「十分にコントロールされていない」といった苦言が囁かれた。もう少し後の5月23日、モンルージュのサン=ピエール教会クラブのメンバーは「それがさして革命的でないゆえに、コミューンの失権を」と宣言した。

  直接統治、いわゆる地方政府と各街区が直接的に「自律的に」行政するための自由はどうだったか?パリの民衆がけっして耳を傾けるのを望まなかったのが革命的軍人。籠城期に勧告されなかったが、コミューン成立とともになされたこともある。共和暦第2年の国民衛兵は困難を伴いながらも、もっと頻繁に夢を見ることができたであろう。街区や区のこうした地方的生活は必ずしもよく知られていない。それは1871年の本質的な部分である。コミューンのメンバーは原理として、しかもしばしば効果的に、首都の各地区で起きた事を監視した。たいていの場合、地方委員会はコミューンを支え、彼らの代理を務め、事実上、彼らにとって代わった。第4区におけるような国民衛兵区委員会、多かれ少なかれ自然発生的な小さな市当局、多かれ少なかれコミューン議員そのものによって企図され、第17区ではインターナショナルのメンバーから成り、第13区ブランキ派、第19区ではジャコバン派から成る小さな市自治体。そして、主として教会堂に本拠地をもつクラブはこのような地方的・自律的・批判的な政治生活の交錯する点であり、場所であった。このようなクラブは、かつてマラーが希望したように、愛国者自身による教育の集会 ―「最も優れた市民が言葉の商人の野蛮な行為によって幻惑されないようにするための ― であり、コミューンの諸行為やその官吏のやり方に関して恒常的な討議をなす会合であった。p.59 各街区の国民衛兵を忘れぬようにしよう。これもまた大革命の創造物であり、何からなにまでセクシオンの武力に類似している。1782年8月の法律は司令官、将校、下士官が、武装したセクシオンのすべての市民から選出されるべきことを見越していた。すべての上官を例外なく選挙で選ぶことは1871年の衛兵の第一義的で最も恐ろしい要求ではなかったか?

 

 大革命のこの伝統を終えるために、私が着手しなければならないことがある。大革命の重さは80年後も驚くべきものがあるからだが。コミューンの業績においてその刷新の側面をもつ幾つかの点を指摘しておこう。このような刷新の面 ― それ自体資質に値するが ― それもまた、有力な伝統の力を帯びる。伝統と刷新は緊密に結びあい、不可分である。ヴァイヤン(Vaillant)が1871年に世俗・無償・義務の教育に踏みだそう ― 彼は各区およびパリのセクシオンにその義務を委託する ― と言うとき、それは大革命の計画であり、ロンバール=セクシオンのサンキュロットが「義務的にして無償の」教育を欲した彼らの宿願ではなかったか? おそらくはもっと根本的な側面、それはコミューンの社会主義についてサンキュロットは救済の権利を要求した。彼らは同時に労働権を要求した。靴屋、仕立人、婦人はくり返し連合して国民公会に対して軍隊の制服調達の独占権を独占的仕立人から取りあげて、セクシオンのアトリエの範囲内の真の労働者に与えるよう要求した。同じことがまさに1871年にも生じた。コミューンが労働の組織化にとりかかったとき、国民衛兵の衣料をめぐってである。共和暦第2年ブリュメールの自由人協会の宣言を特に心にとめる必要がある。「自由と平等の支配する状態においては公共の事業は貧乏で勤勉な階級の財産である。」ほとんど同じような文句が1871年にも発せられたのを耳にする。こうした発言は人民の中からだけでなく、コミューン労働委員会代表のフランケルからも発せられる。

 

 したがって、大革命の伝統の新鮮で驚くべき活力! さらに多くの人々がすぐに重ねて強調した。歴史家にとって非常に貴重なその語彙論的研究 ― 1869~72年のフランスの政治的・社会的語彙に関する ― 少々高尚な語学の水準に私の趣味に限定されない、作家やジャーナリストの趣味にとっても貴重な ― J. デュボワ(Dubois)は「下層」の人々の記憶について語ることを軽視する。p.60  社会学者のH. ルフェーブルはその著書でコミューン宣言に関して歴史意識を階級意識の要素として分析する。いくぶん粗雑な言い方が許されるとして、社会学史研究者A.ドクッフレ(Decouflé)はその労作『1871年の人民権力と革命権力』を著した。しかし、伝統のこのような活力を人は確認し、それを書きとめる。その深さにつて説明すべき課題が提起されている。そして、人文科学の他の研究者もまったく同様に、歴史家はそれ自身でそれを為すのに、幾つかの困惑を見出すことを告白しなければならない。ダニエル・アレヴィ(Daniel Halévy)からアリス・ジェラール(Alice Gérard)の近著にいたるまで、われわれは革命は19世紀とそれ以降はフランス人にとって「信念」となったと言う。しかし、それほどに民衆的水準において重要である。民衆的水準に対してこそ、私はどんなかたちで、どうして、なぜに信念を向けるのか? 一つの説明としてあらゆる訓練の狭い結合が必要であり、それは大雑把に描かれているにせよ、まだ完成されていないのだ。

 

 私は、A.ドクッフレが引用するような「千福年説」の正当化をほとんど好まないことを告白する。アレヴィののち、E.モンテギュ(Montégut)のテキストは1871年8月に書かれたものである。

 「民衆はつねに千福年説的な性格をもっていると言われ、われわれは偶々書いてきた。いかなる時代、いかなる場所でも民衆はそうであったが、1789年以降のフランスではどこでも民衆はそうでなくなる。革命は民衆にとって1千年の支配に先んじる国民の大きな判断となった。それ以来、人民は最も残酷な否認でも同様できなくなった恒常性をもって約束されたメシアの出現を待望するのだ。」

 たとえ様相が少々単純だと見なさなければならなくなっても、われわれは世俗主義にとどまろう。A.ドクッフレは『革命の社会学』において革命運動では自然発生性またはお祭り、主権の要求、警戒、暴力、親切・・・の必要性が姿を現わすし、このことは確実である。