J.ルージュリ著「1871年」(その1) | matsui michiakiのブログ

matsui michiakiのブログ

横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

1871年 par Jacque Rougerie

 

p.49   1871年は伝統か、創造か! 「くり返しくり返し」この報告を成し遂げんとして(もちろん、これでもって仕上げをすると主張するつもりはないが)、19世紀のわが国の革命運動について言われてきた連続、すなわち、革命の波が次から次へと押し寄せたこの世紀においてこの連続という用語は適切であろうか。そして、ここにこそ、歴史家が一生懸命に説明しようとする現実がある。私の見るところ、われわれが懐く意図ほどに困難なものを見ない。あらゆるレトリックを犠牲にして自分の手の内を見せざるをえない。私は1871年においても伝統を明瞭に見る。或る者はあまりに確固としたとか、あまりに重いとか言うだろう。この遺産 ― 自然につくられ、修正され、歪められ、しかし、本質的に無疵の遺産 ― を人はてっぺんから下にいたるまでのコミューンの人々行動・思想・身振りにおいて飽きもせず認める。人はまたこの思い出を、それに先行するあらゆる革命、あらゆる人民的「感情」の幾重にも重なり、二重焼きとなったものを認める。その第一のものはフランス大革命、ミシュレの言葉を借りれば、革命ではなくて「基礎」―L. ジラール(Girard)がいみじくも言ったように、19世紀の「基礎のレベル」―であり、L. シュヴァリエ(Chevalier)にとっては過去を「祝聖した」事件であった。

 創造や刷新というのは私にとってはもはや問題の中心をつかむのは不可能なように思われる。凡庸なことに、コミューンは72日間しか続かず、その議会は業績を残すのに数週間しか開かれなかった。創造すること、たったこれだけの期間では何を実現できるというのか? そして、次いでこの3か月間に伝統と刷新は厳密に区別できないほど絡みあっていた。19世紀にその双子の兄弟である共和政と同様に、「一つであり不可分」であった。

p.50  1871年が望んだ事がらというのは、以後に続く革命運動にとっての一つの伝統となることを忘れてはいけない。

 伝統・創造、現象を拓くには方法がある。私が力づくで排除するのはひとつでしかない。それはわれわれによって便利な仕事を与えるであろう。そして、われわれはほとんど忽ちのうちにそれを片づけるであろう。コミューンにおいて2つの傾向、2つの陣営が対峙する。一つは「多数派」、もう一つは「少数派」。この2つは徹底的に対決した。特に公安委員会の結成を決定するかどうかが問題になった時がそうである。公安委員会こそ偉大な伝統の特徴的機関である。しかし、状況は異なっている。こちらに古きもの、あちらに新しいものをつごうよく見出すことができる。私はマルシアル・デルピ(Martial Delpit)を引用しようと思う。彼は3月18日蜂起に関する議会査問委員会の総括報告者であった。

 「2つの大きな党派がコミューンを分けた。一つはジャコバン派ないしはブランキ主義者であり、これは1792年のコミューンを模範とするものであり、その独裁はすべての権力を集中し、フランス全体にそれを課そうとするものである。インターナショナルの支部にとってコミューンは労働階級の願望を初めて満たすものであり、土地と工場を所有することにより、またそれぞれの利潤のために仲間うちで役割と利潤を配分しあうことによりすべての社会的力を集中しようとする集合的存在がこれである。」

 これはもちろん、完全に的確な表現とはいえない。そして、これについて私は今一度たち戻るであろう。コミュヌー自身、この恐るべき亀裂の存在と重要性に強い関心をはらっていた。流浪という弱める時間が経過しても、この亀裂は緩和することはなかった。しかし、これはたぶんに後の理由によると思うが、これは私の今の主題ではない。シャルル・リス(Ch.Rih)が『コミューンの教義』の究明にあてた全著作をまとめたのはコミューンを分かつ2つの ― 事実的には3つ、なぜなら厳密にいうとジャコバン派とブランキ派は区別しなければならないから ― 党派のこの仮説に関してである。しかし、訴求力のある歴史家ほどに、私は正確で厳密なエチケットを愛さない。あまりに体系化することは現実を大きく見失うのではないか? ジャコバンは独裁的・中央集権的であるだろうか?

 「市の主権、県でもなくて、県のものでもない。解放、自由化、平等主義により再建されたコミューンの自治、自由に統治し生命と力と意志をもつ。」

 この原文は1850年代の初め、「革命的」コミューンの名をとった亡命者組織からの抜粋である。欄外の署名の筆頭はフェリクス・ピヤ(Férix Pyat)がいる。彼は1871年のジャコバン主義の指導者の中で最も活動的な人物の一人である。この点で私は手間を取りたくない。4月19日の「フランス人民への宣言」を思い起こそう。コミューンの連邦主義の遺言は僅か一回の投票において全会一致で採択した。ヴァ―レスが示唆するように、ドレクリューズに代表されるように、純粋のジャコバンはけっしてその起草者ではなく、もし彼らが起草したならば、修正加筆したはずである。

p.51  インターナショナルにたち向かうことにしよう。前出のシャルル・リスにとって ― 他の者にとっても同じだろうが ― 彼らはたぶんにバクーニン主義に染まったプルードン主義者であった。論じるべき点は残っているにせよ、インターナショナル派はこの意味で革新的である。彼らの「伝統主義」をどんな証拠で蓄積できようか? 彼らは大革命の言語や用語そのものを、1870年9月4日夕方の「ドイツ人民への」宣言の中で再発見した最後の人たちである。

 「名目であると同時に革命的な同じ感情によって激励された3,800万の声によってわれわれは諸君に対して、われわれが1793年に同盟したヨーロッパに向かって宣言したことをくり返そうと思う。

「フランス人民は国土を占拠する敵とはけっして講和しない。

フランス人民はすべての自由国民の友人であり、同盟者である。

フランス人民は他国民の政治についてけっして干渉しない。他国民がわが国民に干渉することもゆるされない。」

 思いちがいでなければ、共和暦第1年憲法の第121条の正確な本文はこうである。また、1871年4月29日の本文も然り。

 「諸君!本日、諸君は2つの綱領の前にいる。

1つは、ブルボン的シュアヌリによって導かれ、クーデタの将軍によって支配されたヴェルサイユの綱領がそれである。

p.52   諸君!もう1つの綱領は、諸君が達成した3つの革命のためのそれであり、それは人権の要求である。

 ところで、無用ではない。婦人は負傷者を慰撫し、老人は若者を激励すべし。壮健なる男子はその兄弟たちを追い、その危険を共有するために。

 これは1793年8月23日、バレール(Barère)が国民公会でおこなった演説を思わせないだろうか? この文はパリ第17区、つまりインターナショナルの影響力が極めて強大だったバティニョルの区役所に貼りだされたポスターの一部である。また、他の機会に第18区つまりモンマルトルの区役所 ― ここはブランキ主義の強い処だが ― にも同じような宣言が貼りだされている。

  まったく同じように、他のコミュナール、インターナショナル派も絶えず1789年、92年、93年の「わが父祖たち」を援用する。ポール・マルティーヌ(Paul Martine)はその「回想録」のどこかで宣したことがある。「そうだ!! われわれは確かに93年の人びとの息子であり、最も毅然としたジャコバン派の、最も固い決意の山岳派の直接相続人である」、と。マルティーヌはバティニョルのインターナショナル支部の会員(1881年2月18日以降)である。ところで、公安委員会に話題を転じよう。この公安委員会を中心にこれこれの亀裂が生じたといわれる。人が熟考するならば、「少数派」と同じ数だけのインターナショナル派を「多数派」にも見出すであろう。前者がおそらくこの93年型の委員会を要求したであろう。これは籠城以来、20区委員会である。コミューンに参画しなかったが連盟委員会会議の事務長であったアンリ・ギュレ(Henri Gullé)はインターナショナル・パリ支部の最も活動的で、最も有力なメンバーの中に数えられる。決定された委員会の創設について彼は『政治的・社会的革命La Révolution politique et sociale』紙(コミューン期のインターナショナル機関紙)で無条件的な擁護者であった。

p.53  「1792年、人民が獲得した権利は … 喪失の危機にある。われわれの階級のために当時において身を捧げた人々は革命の生命力を幾人かの市民に与えるために、この極端な手段に訴えた。これら市民は無限の力で武装し、その行動はエネルギーと明晰さによってしばらくわが権利を救うことが可能になったのだ。コミューンは、状況に指揮されたこの措置に依拠したのだ。われわれはもはやわがセクシオンにおいて哲学論争をしているのではない。パリを救済することが問題なのだ。」

 私はコミューン史の教義の系統化の問題を急いで離れようと思う。私が単にはっきりさせたかった事がらというのは ― 偉大な伝統の死者の霊を呼び覚ますような言葉、人民、市民、愛国者、シュアヌリ、人権、権力・・・に富むところの、既に多くの引用したように ― ジャコバン右翼にせよ、若きインターナショナルにせよ、すべてのコミュヌーが「基礎」「土台」としての大革命と背中合わせになっていることである。1871年に現れた新聞の大部分は1789~93年の思い出を直接的に呼び戻すタイトルをとった。『山岳派 La Montagne』『救国le Salut public』『復讐者Le Vengeur』・・・あるいはもっと純粋の直系を意味する当時の新聞を直接的に借用した。ヴェルモレル(Vermorel)はマラーの『人民の友 l’Ami du Peuple』を、パスカル・グルッセ(Pascal Grousset)の『鉄の口 Bouche de Fer』、リサガレーの『護民官 Le Tribun de Peuple』そして特にヴェルメルシュ(Vermerch)とヴィヨーム(Vuillaume)の『デュシェーヌ爺さん Le Père Duchène』 がある。これを読んだことのある者なら、これがエベールの偉大な『デュシェーヌ爺さん』の平凡な二番煎じであると主張することもできる。最も多くの読者をもった『デュシェーヌ爺さん』は6万部を発行した。このことは、パリの小市民が最もよく耳を傾け、最良の友であったことを意味する。これらすべての新聞をていねいに分析すれば、人はそこにかつての時代の偉大な用語をつねに発見するであろう。用語の問題であるとするなら、コミューンという用語もまさにそうである。この語は明らかに年月が流れることによってフーリエ派、カベ―派、プルードン派など数多くの汚染を蒙ってきた。だが、そこにどんな差異があるにしても、人が1871年の「コミューン」と言うとき、それは1792年8月10日のコミューンを意味する。

 

 私は今まで「上層部」の者のみについて語ってきた。「下層部」つまり人民のレベル(プロレタリアートと言いたいが、この語はもう少し私は我慢する)に下ってみよう。p.54 彼らは細民であり、「やせっぽち」である。それは『太っちょ』に対立するものである。彼らこそ革命の張本人である。

 

 私は今まで幾たびも小市民コミュヌーの像を描いてきた。あまり細かい問題に立ち入らないようにしよう。コミュヌーは私のみるところ、何にも勝って共和暦第79年のサンキュロットとして現れる。私はそれを掘り下げ、抉り、この印象深くてより全体的な像は1871年の人々と共和暦第2年の人々のあいだにあまりに類似性が多いとの結論に達した。ソブール氏やK.トムソン(Thomesson)氏またはG.リュデ(Rudé)氏の学説から剽窃するようなことはもはや無用であろう。彼らはそうするのを許すだろう。それは避けられないことだ。

 その衣装、その武器からしてコミュヌーはその祖先と瓜二つである。その家族つまり国民衛兵の征服、それを着用せざる者は「疑わしく」共和政 ― ティエールの共和政ではなく、「真実の」共和政 ― はいつもフリジア帽を被っている。その武器つまり昔日の尊敬すべき槍と較べても、効力の点で変わらない悪しき銃。だが、「市民のみがパリにおいて武装する権利をもつ」。その言葉は共和暦第2年のものであり、1871年においても同じような表現が非常に多く使われたことを私は見出す。蜂起の偶発的要因のひとつとしての国民衛兵の根本的要求の一つは、恥さらしにも敗走した市民的でない軍隊たる正規軍が首都を離れ、「少なくとも20リュ―」ほど退却することではなかったか? このコミュヌーは毎日の生活の中でどのような振舞いをしていたか? コミュヌーは際立った愛国者であり、誇張された共和主義者、過激的共和主義者である。彼はパリという首都に属する「市民」である。この首都はフランスに対してその意志を命じる。これは大革命の遺産のひとつである。戦いの最中にパリを見捨てた者はなんらかしばしば使う用語でいえば「亡命者Emigrés」である。状況が課すところの類似性を見てみよう。国民衛兵は「30スー」であり、サンキュロットは「40スーの男」である。赤貧が回帰した。もっと根底的にコミュヌーは社会的に言えば「労働の男」である。勇敢なサンキュロットは「日々、額に汗して働く人々である」と、かつての「デュシェーヌ爺さん」は言ったことがある。1871年の「プロレテール」を意味するために、私は第11区の機関紙『プロレテール』紙のインターナショナル編集者の筆のもとでほとんど同じ定義を見出したことがある。すなわち、p.55 「日々生活している市民諸君」、先ず第一に日々、労働している人、これは明らかに固有の意味での俸給生活者であるとともに、彼自身も働いて親方 ― これは稀な例ではない ― 従業員である。人々はこれらの人々に対して共和暦第2年にそうであったように、1871年にも幾らか軽蔑の眼で見ていた。コミューン下で「小僧Courtauds」と言われた人たちは大革命期には「小僧cours-tôt」と呼ばれていた。1871年の叛徒の構成についてはまだ十分には検討されていない。一方、史料上の事情により、どんなかたちにせよ、大革命期の民衆運動と比較することは困難であるにもかかわらず、私は間接的手法でこの重要な問題にたち返ることもあろうかと思う。しかし、私に語るとすれば、細かな事例が私を驚かす。たとえば、国民衛兵代表団の構成、つまり原理として「首謀者」と暴動の指揮者のあいだには否定しがたい一致がある。もっとも民衆的な第3区の革命的民衆の例。これは大雑把な言い方だが、かつてグラヴィリエ=セクシオン、オム=アルメとアンディヴィジヴィリテ=セクシオンの10個大隊はすべて国民衛兵連盟に属し、すべての中隊は100人強の代表を選出した。彼らのあいだの共和暦第79年の状況を正確に述べることができる。労働者がほとんどすべて伝統工芸(宝石、時計細工、彫刻)部門に属していた。彼らは60人。内訳をいうと、44人が賃金をもらう労働者であり、14人が雇主と製造人、2人が職工長、7人が商人、7人が従業員である。ここで、A.ソブール氏によって集められた比率に近づいていると言えまいか? 私は中でも第11区の132人の代表、第20区の85人の代表を付け加えることができると思う。関係はほとんど変わらない。パリ民衆やパリの叛徒は非常に変わったと言いうるか?

p.56  私は奥深い精神状態について時間をぐずぐずかけることはできない。だが、私はコミュヌーは、そして以前のサンキュロットは「身持ち」が好かったことを思い出す。1871年の『デュシェーヌ爺さん』紙は言っている。「民衆は身持ちがよくてはならない。糞ったれ、デュシェーヌ爺さんはこれをもっていた。」時代こそ異なっても同じような品性。1871年には大酒飲みに対して措置が取られた。デュシェーヌ爺さんは「数杯」をけっして超えなかった。売春婦もさっぱり商売上がったりであった。共和暦第2年には同じように大酒飲みは追放された。「理性を失うことを欲する者は共和主義者の名にふさわしくない。」革命的共和主義協会は、売春婦は国営の家に拘留され、そこで「肉体的にも精神的にも浄化」されることを要求した。「ブルジョア的モラル」はここで見られるような代ものではない。法廷つまり軍事法廷は1871年の叛徒を訴追しようとしたとき、「内縁関係」を犯罪のひとつとして扱った。民衆にとってそれは自然的な結婚のかたちであり、そこから出てくる子どもたちは他の子どもたちと同じように尊いものであり、新しい社会は彼らを扱うべきである。1871年のすべてのコミューン政府はこの意味で必要な措置を執ったのである。