R. ゴセ著「1848年」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

労働者の自治と税、組織

 印刷協会の抵抗組織の立ち上げという経験をした果てに中央委員会は、ストライキに入った大工職との連帯を調整する任を帯び自らのイニシアティブで形式的代表なろうとし、1845年に結成された中核をつくるのを無視したのは突然の投票を避けるためだった。

 当時、「頂上」ではないこの中核は機械工のイニシアティブで再建されていたが、今度もまた成功によって刺激を受けていた。3月7日、北部鉄道の労働者協議会と会社理事会とのあいだに9時間労働制の約定が交わされた。この結果をうち固めることはそれを一般化し、引き続いてすべての賃金を改定しようと考えた。各国家機関(corp d’Etat)における賃金表を基礎に組織委員会の友誼的結社すなわち真実の組合(syndicats)が結成されたが、それは組織委員会がその全体において構成する労働者集会の直接的な表現であった。

 以上、カルリエ(Carlier)の警察官がセーヌ県の労働者の中央委員会をそう名づけたように、「産業に敵対するリュクサンブールの代表の同盟」であった。セーヌ県中央委員会は中央共和主義協会によって3月6日に提案され、次いで再び人権協会と中央友愛協会によって取り上げられた選挙延期のキャンペーンと並行して組織された。ブランキは自身で国家機関のさまざまな集会を前にしてその問題を問うた。特に3月12日、ブランキを招いた北部鉄道の労働者は彼の面前で宣言する。「もし集会がよくないのであれば、われわれはそれを転覆するであろう」、と。そして彼は3月17日、選挙延期に関して政府からの回答を定めた。「さもなくば、彼らは武器を執る自由をもつ」。ある技師は政府にこのように警告した。彼らの代表ドルヴェ(Drevet)、コラン(Colin)、ラヴァージュ(Lavage)らは国家機関の代表部を通じて選挙を5月31日に延期を決定させ、3月17日に市役所でこの要求を提出するために、クラブの15人の代表から成る委員会を補佐する15人を労働者に選ばせた。

p.42  委員会の委員長はどんな意向であったかというと、彼はクラブとともにこの準備を調整し、国家機関に固有の意志に影響を及ぼそうとした。3月17日、委員会が力の統一を脅かすやいなや、政治的表現を起草する。ブランキに対して味方というよりはむしろ階級的感情にとらわれた料理人労働者団体の代表は、ルイ・ブランが階級の上におく国家へのこうした従属を「裏切り」と解した。この労働者の意志をもって外部的扇動が干渉したことは直接的表現を引きだす政治的責任者への追及は一段と強まった。

 国家機関によって組織された20万を動員するデモそのものの組織化は機械工の3人の代表による既成事実である。「労働の組織化のための労働者の代表委員会の名において」彼らは明らかにする。「たとえ何人かの高慢な連中がわれわれをこの運動に導き入れるという栄誉を自分の手がらにしたいと願っても、彼らにはまったくの文盲と思われるような労働階級ももはや幼稚さを抜け出しており保護者なしで済ませるということ彼らに示すこともできよう。・・・ われわれが正当に身を委ねている者以外の指導者をけっして認めまいとするわが確信とは異なったすべての影響に対してわれわれは抗議するものである。」

 労働者の集会はこのような正当性を、彼らに取って代わろうと決めている代表に対してというよりは、おこなわれた決意の実現を調整する任にある受任者に付託するのだ。こうした実践と比較から後退して国家機関の代表部の結成はそれを明確にすることなく懸案の利害の直接的表現を避けやすい取引的要素を導く。じっさい、党派的要求にもとづき、リュクサンブール委員会はその委員長が決済し調停するはずの懸案問題の利害にすでに干渉したのである。

 形式的というより実際的はケースにおいて以前において、そのイニシアティブにより仲間の注意を向けさせた指導者というのは p.43  セーヌ県の労働者中央委員会において結成された国家機関の代表部である。セーヌ県の労働者は3月27日、「統一組織、・・・つまり今日まで孤立するままに放置されていた人民権力の中央集権の組織化をわれわれに緊急に与えるべく最初の宣言を出した。その規約には、印刷協会の会長にして創立者のパルマンティエ(Parmentier)と並んで副会長ノラヴォワ(Lavoy)の署名があった。パルマンティエ会長のあとは4月にジャン=バティスト・ラガルド(Jean-Baptiste Lagarde)すなわちクロノメータ同盟の会長が引き継いだ。そして、ラガルドが5月15日に辞めたあと、『統一・友愛リュシュ・ポピュレールRuche populaire, del‘Union et de la Fraternité』紙の編集長ピエール・ヴァンサール(Pierre Vinçard)が就任。中央委員会の書記局はつねに更新され、1848年8月、常設委員会となった。そのなかに機械工のコラン(Colin)、石工で理工科大学の代表オーギュスト・ブラン(August Blun)、印刷工で『人民』紙主幹のデュシェーヌ(G. Duchène)と靴職人で6月蜂起者のギヨーム(F. Guillaumou)と携行のデュパ(E. Dupas)が含まれる。デュパは1870年9月4日、パリ市役所にも姿を現わし、「パリの80の街区とそれ自体20区を危険な集権化に再編成されないようにするため、その独立性と自治において緊急に組織せねばならない」と叫んだ。

 あらゆる外部的な法権力である国家権力への抵抗として、1848年の労働者の自治はプロレタリアのこの組織を統一組織として定義した。その固有の利害はリュクサンブールへ派遣された労働者によって発刊された機関紙『労働者新聞Journal des Travailleurs』において表わされる。集められた同業組合協会の計画は生産者の直接的組合によって国家機関の支配のもとにおき、そして消費者をセクシオンごとに結成することによって人による人の搾取の廃棄を目標とする。

 この計画の実現のため、中央委員会は漸次ボナパルト派の浸透とたたかうことにより、国立工場の支配権を権力から取り上げるにいたる。そこにストライキ中の労働者を送り込み、国家機関組織の委員会は彼らを「毎日、17万フランで組織された永続的ストライキ」に転換する。ファルー(Falloux)の正確な判断はこう述べる。中央委員会の目標は国立工場を鉄道における労働の奪還 ― それにもとづいて機械工は「労働主権」を要求する ― を適用することである。じっさい、4月2日、市役所で鉄道を買い戻すという約束が北部鉄道の1,500人の従業員に対してなされ、「買い戻す義務から必然的に設立された」機械工の友誼団体のメンバーの一人はこう書いた。p.44 「労働者は会社から倍の俸給を受け取るよう国から半分を得るほうを好んだであろう」と。

 しかし、これはその固有の限界に衝突した労働者の自治を問うことではなかったのか? かくて、労働者の自治が中央集権化につながることを欲した人民権力の政治的代表のあいだの合意がないため、労働者の代表は4月16日、臨時政府に対するそれの圧力において、また、4月23日、24日、労働者の投票の訓練においてその責任者によって分割された5月15日の運動の統一において挫折する。

 2月以降、労働者組織はその固有の指揮者から発達することができた。というのは、その組織が労働者の武装によって、また、彼らが国民衛兵に入ることによって覆われたからである。しかし、国民英への選挙は労働者から「武装した労働者権力」の支配と計画を取り上げた。5月15日の提起された法令の目的は当時、予期された公安委員会以上の結果をもたなかった。最後に、警視庁のコシディエール(Caussidière)の山岳派は中立化された。

 

 労働者の武装解除は六月弾圧の実際的目標となるであろうし、武装した彼らの抵抗は遊撃隊に入った2月の若い闘士の力のせいで決定的干渉にぶつかるであろう。彼らはこの自称徒刑囚の蜂起において裏切られたのだ。彼らはすでに共和制反対派にまわっていた。

 虐殺される前に自暴自棄に陥ったこれら兵士らはラ・シャペル、ベルヴィル、ジャンティ、第8区、第9区の区役所を襲撃する時間的余裕しかなかった。彼らはそこでそう名づけることはなかったものの、それと同じ数の「コミューン」を下ごしらえした。彼らの目標は国民衛兵の武器を奪取し、国民衛兵参謀本部を制圧することだった。

 6月23日、ヴォ―ジュ広場、第8軽騎兵大隊の一つがフォブール=サン=タントワーヌの労働者によって武装解除された。その先頭に壁紙工場の労働者が立ち、第8区区役所で友愛協会の組織者の一人で『労働組織』紙の編集長を立てた。その最初の行為は国立印刷局の変化を確保することだった。

 国民議会に向かって進軍すべく24日、市役所を直接抑えるためにヴォージュ広場で1縦隊が編成された。市役所に近づくやいなや、縦隊、サン=ポールのバリケード、また、それを撃退した遊動隊の反撃で圧し潰された。バリケードでは中央委員会の2代目委員長ジャン・バティスト・ラガルドが戦った。

 ラ・シャペルを制圧した機械工らに関していえば、彼らが国民衛兵内で結成した中隊は23日、区役所を出発する。それら中隊は南下するために p.45 サン=ドニ門を通ってパリと合流するために区役所で武装し、そして国立工場の方向へ進軍した。

 彼らの代表ドルヴェ(Drevet)は仲間たちが軍隊の増強を阻止しようと企図している鉄道駅を巡察する。この連携行動は不慮の政治的な関わりあいを除いて、同業組合的起源をもち、社会的な性格をもつ、その受任事項にはなかった軍事闘争への中央委員会の非介入を補うことをめざした。あらゆる軍事的命令のイニシアティブは国民衛兵の選出における労働者が失敗してからは危うくなっていたのである。

 ところで、武装行動というものは地形的に1871年にパリ要塞内部でコミューンが代表するような出発点という基礎を必要とする。そして、労働者の行動と比較して労働者の自治に代わるべきもの、つまり何らかの中核のイニシアティブを必須とする。弾圧の衝撃を受けて前衛でなされたような、いわゆる「陰謀」的地位を超える。ブランキは当初、彼が以下のように定義を試みたとき、運動における一貫した軍事的・政治的性格を帯びていく。すなわち、「武器と組織、これこそ進歩のための決定的要素、貧窮を断ち切るための真正な手段である。鉄砲からパンが生まれる。人々は銃剣の前にひれ伏し、非武装の雑踏を掃き棄てる!「武装した労働者で覆われるフランス、これこそが社会主義の到来を約束する。」

 的を射た方向づけに関し予め準備することなく、武器・組織を維持することは労働者の側からみると、全体的共同体の骨格になることであった。その社会的孤立としての階級的簒奪を予防するためには、その運動の表現を欠くべからざる自治から軍事的・政治的手段を何らかのかたちで与えることである。このような労働の自治つまりは「革命的コミューン」は1854年以降に、追放されたそのメンバーの一人がロンドンで以下のように述べたとき、最初の中心を悔いた。すなわち、「人民の蜂起によって労働者が人間である権利を取り戻すとき、彼らがこの権利を彼ら自身で、しかも仲介者なしで行使するとき、彼らは正義と豊穣の支配を築くことになろう。・・・然り! 革命を起こせ! 特に諸君自身のためにそれを起こせ、そしてそれを起こせば、今度こそ革命派は真実をもって社会革命と呼ばれることになろう。」

 

 虐殺がおこなわれたにもかかわらず、「パリの労働者の創造物」は彼らの思い出から消すことができなかった。「創造物」は彼らの伝統となった。印刷協会の創立者の一人であり、p.46 六月蜂起者の一人でもあるヴィクトール・ボソン(Victor Bosson)によれば、「ひとつの真実しかない、それは伝統である。・・・ 時系列の鎖を結びなおそう。そうすれば、われわれは未来をもつことになるだろう。1845年の同胞の模範に倣おう。そうすれば、諸君は勝利を収めるであろう。」じっさい、クーデタが近づいたとき、百名余の代表たちはエミール・ド・ジラルダンの約束に対して『労働新聞Presse du Travail』 を投げかけ、1845年のそれと同じような同業組合中央委員会を再建し、ゼネストに注目した。『新同業組合暦Almanach des Corporation nouvelle』はクーデタを非難するポスターのほかに、彼らのイニシアティブで声明を保ち、1848年の運動をコミューンにおける中世的同業組合に、職人的慣習に、フランス革命による労働者集会の一時的解放に結びつける。同紙は「新同業組合による労働者の組織化」を予示した。これは六月のもう一人の蜂起者プール=マラサン(Poulet-Malassin)の手によって1860年に編纂された最初の労働者のための冊子のタイトルである。

 1848年に集められた鎖からこのように認められた「同業組合的」促成、コミューンの伝統は消失しない。労働者の自治は「人民の直接統治」の原理に由来し、その「解決法」は1851年2月、1848年以降の普通選挙により提起された問題を考察したヴィクトールによって再確認された。中央集権は「責任をもたない官吏の手のもとで実施された人民となった」ところから、当然至極の抵抗に位置する「コミューンのいわゆる物理的組織までも溶解して」しまった。1791年のパリ・コミューンの旧議員ロワイエ=コラール(Royer-Collard)の定義によれば、「社会はその固有の作品である唯一の組織をもはやもたないし、未だもったことがない。」

 ところで、「コミューンの組織は社会的構築物の礎石であり」、その組織の上に「あらゆる機能をもつ組織」が最適規模の生産単位の提携によって確保される。それこそ、ギゾーによって激賞された利害の制度の基礎である。1851年の「解決」はフーリエの次の桎梏をもたらす。つまり、「もし諸君が少数者の抑圧から多数者を庇いたいのであれば、多数者を組織化し、これに対し、未だかつて一度も代表されることのなかった積極的力を与える術を探索せよ。」p.47 この術は理工科大学卒のコンシデラン(Considérant)によれば、最も近代的な技術的処置の事がらであり、これこそ各地域における最良の数のセクシオン、集会の立法的討論の結果を合計することを可能にするであろう。同様に、罷免しうる吏員を直接指名するためにセクシオンでの人民の分割は結局のところ、この主権をそこ ― つまり、最大多数者の最大級の均質性をもって共同の利益を表明する状態、すなわちコミューンにおいて、じっさい、その領域に固定された各施設内において組織された「機能」に対応する基礎的単位において ― 位置するのである。

 

 「どんな民主主義者が、人民が自治を望んでいるとか、どんな民主主義者が人民を統治したがっているとかを見分けるための確実な基準」とは何か。・・・

 クーデタの前夜に「人民自治」を再発見することにより、『平和な民主主義』紙の編集長はつねに大衆の声に耳を傾けたが、彼らの運動のためにこれらの主権集会のために証言する。2月から6月の弾圧まで労働者は「仲介者なしに彼ら自身で彼らの権利を行使した」と。