J.メートロン著「アペール報告の批判的研究」(その2)
p.101 最後に恐るべき問題が残っている。それは百年後になってもなお解明されていず、また、今後も解明されないであろう問題である。すなわち、血の一週間のうちに判決もなく処刑されたコミュナールに関する問題がそれである。いったい幾人なのか? その評定は研究者によってまちまちで5千人から5万人に及び、最多で1万7千(パリ市議会が負担した埋葬数)から2~3万であることが知られている。それゆえ、コミューンに関する統計はどのような価値があるのか? この分野の仕事はすべて、私自身が自著『フランス労働運動人名辞典』の冒頭でおこなったように、人がしばしば欠席裁判で見出すような、また、しょっちゅうあることだが、軍事法廷でも知られない「無名のコミュナール」をもち出すべきであると思う。アペール将軍はこのような些事には煩わされない。第3表が50個の欄を使って大隊ごとに細かく記し、5月21日から28日まで日割りで逮捕者の数を算定しているのに対し、判決なしに銃殺された者についていかなる欄も記していない。アペール将軍が「この最後の恐ろしい一週間」のために捧げた27ページから成る歴史報告(pp.145-173)は僅か2件の銃殺刑しか挙げていない。それは「市街戦で死んだ」連盟兵のヴェリーク(Vérig)大尉(p.155脚注)と「1871年5月28日、軍隊によって銃殺された」(p.169脚注)ブリアン(Briant)である。前者についてアペール将軍は5月24日のロケット監獄で「犠牲者」に発砲を命じ、丸裸にすること命じた」と評している。
ところで、1875年、アペール将軍は5月21日から28日にかけてパリで展開されたシーンをまったく知らないのだろうか? その証拠は『3月18日蜂起に関する議会査問録』(p.183 1871年8月28日、マクマオン元帥の陳述に引きつづき起こされた討議)により提供された。M.ロベール・ド・マシー(Robert de Massy)は次のような質問をしている。
「パリで銃殺された者の数は幾らになるか?」元帥は答えて曰く。「男たちが武器を引き渡したとき、彼らを殺害してはならない。それは認められている。不幸にして幾つかの点で私が与えた指示が無視された。にもかかわらず、私は言わねばならない。人はこの種の処刑をあまりに誇張している、と。それについて具に述べることはできないが、それは極めて抑制されていたとだけは断言できる。」ここで、M.ヴァシュロー(Vacherot)が口を挿む。
「或る将軍が私に言うには、戦闘またはバリケードでまたは戦闘後に殺害された者の数は1万7千になるという。
【元帥】:彼がその算出について何を根拠として言っているのか私は知らない。私には誇張があるように思えるのだが、・・・
【ヴァシュロー】:この数値は包囲全体の、つまりイシー要塞とヴァンヴ要塞にも適用されたのかもしれない。
【元帥】:数字は誇張されている。
p.102 【ヴァシュロー】:アペール将軍は、私がその情報を得たのは彼からであるが、おそらく死傷者について語っていると理解する。
【元帥】:おお! それなら判る。
不誠実な行為について話をするつもりであっただろう。しかし、価値判断は他の者に任せよう。『フランス人名辞典』はアペール将軍の「機転」と「頭のよさ」について語る。おそらく彼の取巻き連の中では他の者は彼の分類について言うであろう。敵意に満ちた異なった社会環境について語る場合には、異なった分類になるであろう。アペール将軍が査問委員会の席上で1871年7月14日、ダリュ(Daru)伯爵と交わした議論がこのことを十分に証明している(『査問録』pp.284-286)。蜂起の原因に言及しつつ将軍は要因を2つに分ける。1つは物質的なものであり、35万の国民衛兵の創設である。
「大きな精神的要因はこうだ。労働者たちは秘密結社、インターナショナル、ジャコバン主義者によって歪められた精神をもっていた。私が思うに、下層階級は、彼らが上を見て物質的享受の保有に行きつかんと欲した。この邪な精神は民衆扇動的党派の陰謀家たちによってパリ籠城下で悪用されたのだ。…
【議長ダリュ伯爵】:あなたはインターナショナルの手先を捕えたのか?
【アペール将軍】:そうだ。他の細かな事がらの中でも、ひとりの男が私の処に来て紙切れを差し出した。これを連盟兵将校の遺体から発見したというのだ。・・・『伍長殿、あなたは最後の最後まで身を守らねばなりませぬ。もしあなたが可能なあらゆる活力をもって屈服し、抵抗しなければならないことをするのなら、あなたはわれわれが人類のためにあること知っているからにほかなりません。繁栄と友愛の久からんことを!』
人類という用語、それはインターナショナルの遣う用語である。
【議長ダリュ伯爵】:弾丸に当たって倒れたミリエール(Milière)の詞だ。
【アペール将軍】:守備隊の長に命令を与えてくれと書いた一人の大尉がこのような様式で、つまり『われわれは人類のためにある』と書き送るのはなんら不思議なことではない。…
かくて、アペール報告は非難攻撃を受けるに値する。そして、どんな形にせよ、科学的作業から出たものではない。こういうわけで彼の統計資料は慎重に取り扱わねばならない。それら資料は価値ある要素を含んでいるだろうか? そして、価値あるとすればどんなものなのか? だが、それらは真偽のほどを確かめることができない。だから、非難に値するのだ。なぜその当時、歴史家がこのような仕事を頼りにしたのか? 回答は単純である。それしかなかったからだ。百年間、少なくとも最近にいたるまで、一人の歴史家または歴史家グループさえも1万以上ものコミュナールに関する書類の巨大な束を取りあげようとしなかった。p.103 多数の書類が確実に消滅したが、それでもなお今日、少なくとも対審判決または欠席判決の有罪者に関して、国内・国際の古文書を利用することができる。今日の歴史家がそうであるように、地味な職人では不幸にして自由には使えない金銭的資力の問題があり、また、時間の問題があるだろう。そうした困難にもかかわらず、私は『人名辞典』でもってエグロ(Egrot)嬢の協力を得て国立古文書館の série BB24 のおかげで12,000の史料について完璧な総覧をつくることができた。ヴァンセンヌの陸軍省古文書館の欠席裁判の文書も使った。アペール将軍とは異なり、私が提示する統計はこの作業に基礎を置き、何ぴとも言葉だけで信じないようにするために有益なリファレンスを付けた。
p.104
2.反報告の試み
私は2つの細かなカテゴリー、つまり婦人とインターナショナルのそれを考究対象に選んだ。前者は関係者の数が限られていたからであり ― 婦人について情報の最大に達するのに十分であるために「対審判決」における有罪者のみをとり扱う ― パリコミューンに参加した婦女子についてアペールがもたらした特に不利益な判断のせいでもある。私が2番目のカテゴリーのインターナショナルを選んだのは、その数が同様に限定されていたからであり、さらに特に興味深いカテゴリーであったからである。なぜというに、それは革命運動において大衆から区別すること(アペール報告はそうしていないが)が重要なミリタンを再構成できるからである。
2つのケースにおいて私は幾つもの統計をつくった。私はしばしばコメントなしにそれらを呈示するだけで満足した。私にとって特に重要であるように思われた統計について主張するのを見合わせたのだ。
【婦人】
国籍について。 「対審判決」の115人の有罪者が『辞典』に含まれている。ルイーズ・ミシェル(Louise Michel)とル・モル(Le Mol)を除外すれば、これら有罪者リストの中に著名人物は一人も収録していない。したがって、115人は一般大衆の出身だと見なしてよい。すべてフランス人だが、おそらくは2人のポーランド人と1人のベルギー人を除いてはたった1人のインターナショナル加盟者で製本職人のナタリー・ル・モル(Nathalie Le Mol)がいる。外に、5人のインターナショナルのメンバーがいる。うち、2人はロシア人でエリザベト・ドミトリエフ(Elisabeth Demitrieff)とコルヴィアン・クルコフスカヤ(Korvin Krukovskaya)、1人がフランス人マルグリット・ティネー(Marguerite Tinaye)である。
年齢について。コミューンに参加し、年齢が判明しているこれら婦人のうち、105人が若年の誘惑に負けなかった。なぜなら、うち66人つまり全体の62%が30才から50才に属する。仔細は次のとおり。
10人 不明
25人 20~29才
41人 30~39才
25人 40~49才
12人 50~59才
2人 63才
婚歴について。 多くの者が未亡人であり、彼女らは、戸籍の知られている有罪判決者のうちの約4分3を占める。
13人 不明
58人 既婚
18人 未亡人
26人 独身
住所について。115人のうち66人が住所不明。したがって、この点について結論は留保したほうがよいかもしれない。パリ第18区と第12区が出身区のトップを占めることに注意したい。
66人 不明(おそらくパリ)
1人 パリ郊外
48人 パリ市内
48人の内訳は以下のとおり。パリ第7区は一人もいない。
1人 1区、2区、8区、9区、13区、15区、20区
2人 5区、16区、19区
3人 3区、6区、10区、11区、14区、17区
4人 4区
5人 12区
6人 18区
子供について。
51人 不明
29人 子供なし
15人 1人~7人 (7人の子供をもつ者1人、4人の子供をもつ者1人、1~3人の子供をもつ者33人)子供をもつ35人の婦人のうち、30人が既婚または未亡人、5人が独身。
職業について。職業の知られている88人の婦人のうち、43人が衣料関係(15人が針子、8人が洗濯業、4人が下着製造、3人がズボン製造、3人が飾り紐製造、2人が既製服製造、8人が以下に示す雑業)。 これらの婦人は労働者であり、もっと正確にいうと82.3%が民衆階級に属していた。4人のブドウ酒商、1人の靴商、1人の帽子製造、1人のレストラン経営、2人の八百屋、1人のトランプ占い、1人の教師(ルイーズ・ミシェル)、4人の門番を除けば、職業の知られている婦人の82.3%(73人)となり、大部分が衣料品労働者に属する。
27人 不明
15人 裁縫
8人 洗濯
7人 日雇い
4人 門番
4人 調理
p.106 4人 下着製造
4人 宿泊、酒商
3人 ズボン製造
3人 飾り紐製造
2人 ゴミ拾い
2人 既製服製造
2人 召使い
2人 八百屋
2人 靴縫い職
26人 その他(仕上げ職、刺繍、スリッパ、日傘、帽子、チョッキ、靴下、衣服)
品行について。 アペール報告は品行に関して婦人に特別な位置づけをしていない。時たま以下のような判定がなされている。「ほとんどすべて」が売春に身を落としている、と。第1表は、逮捕された823人の婦人(p.258)と、ヴェルサイユへ連行された850人(p.214)(16才以下で「子供」のカテゴリーに分類された4人を除いて846人)(p.306の第4表)を収録している。
130人の婦人(p.132)が有罪とされ(p.307)、623人が釈放された(p.215)。われわれは対審判決で有罪とされた者115人のみを見るが、それが何であれ、アペール報告によれば(p.214)、ヴェルサイユに連行された「850人の妻・娘」は「ほとんどすべて放浪者であり、不品行にして売春に身を任せている」。彼女らのあいだで「51人の淫売婦と分類された」ことが注目するに値し、このことは警察の長所でそうだと記されていることを意味する。品行の観点から見ると、われわれは2つの質問を投げかけるであろう。つまり、①売春婦について、②1871年3月18日以前の有罪判決について。
くり返しになるが、私の統計はただ単に「対審判決」有罪者(最大限の情報がそれから得られる)のみを扱う。多かれ少なかれ売春に近い関係をもつのはわずか4例であるにすぎない。4例とは次の者。
・アドルフ(Adolphe) 召使い(前科なし)、売春婦と見なされる。
・ジョリヴォー(Joliveaux) 針子(前科なし)は3か月間(時期不明)売春のかどでサン=ラザール監獄に収監された。
・ネクベッケル(Neckbecker) 飾り紐職人(前科なし)、既婚・未亡人、やもめ暮らし以来、売春をはたらいていたと推定される。
・ポワンブーフ(Poinbœuf) 前科なし。ビュルヌトン(Burneton)某と同棲したが、彼は彼女を売春宿から引き抜いた。
ここから2つの結論を導きだせる。軍事法廷は何よりもまず「51人の売春婦」と「ほとんどすべて放浪状態と淫売の不品行に身を任せた」「妻と娘」のほとんど全部を無罪放免にしたか、あるいはアペール報告の統計が偽造であったかのいずれかである。
p.107 次に、2番目の質問:3月18日以前における前科歴についてはどうか。私は2つの時期に分けて検討する。
1)記録された115件に関して記された統計
前科なし 4人
前科言及なし 85人
違反罰金または6日以内の拘留 4人
軽罪(6日~5年の禁錮刑) 22人
重罪(5年以上の禁錮刑) 0人
したがって、重罪人は一人も含まず、5年以内の科料に服した26人の婦人は全体の22.6%を占める。
2)長期の探究なしにコミューン以前の裁判記録を参照することができないならば(幾つかの場合、25年以上も前から)、そしてまた、日時を知る必要があり、古文書館が壊されていないならば、―少なくとも人は普遍法の違反を除外することができ、この点でそれらを疑わしいと見なすことができよう。それらとは次のような罪である。(私はインターナショナル派をこのタイプに入ると考えるが、それはいま一度ふれるであろう)
罰金
ブリュトー(Bruteau) 牛乳に混ぜ物を入れる
ガロワ(Gallois) 殴打、障害、過度の放蕩
テロン(Théron) 消印を捺された印紙の使用
ヴァトム(Vathomme) 投函された書籍に硬貨を封入
4か月未満の禁錮刑
ベルナール(Bernard) 貫通、公衆の面前で暴行
ベルジャルダン(Besjardins) 貫通
エレ(Ehret) 貫通、暴力
ジョリヴォー(Joliveaux) 売春
マルティ(Marty) 公衆の面前で暴行
レティフ(Rétiffe) 殴打、傷害、官吏への暴力
オルロフスカ(Orlowska) 殴打、傷害
1871年3月18日以来、名誉棄損と判断しうる有罪判決を受けた15人(15%)の婦人が残っている。その当時のパリ女性全体に対する同様の統計は不幸にしてまったく存在せず、したがって、比較は不可能である。
そのかわり、言いうることは、アペール統計に由来する28.71%に遥かに及ばないということであり、われわれは単純に2つの結論を導きだすであろう。
コミューンの婦人たちは売春婦ではないこと。
p.108 コミューン以前に一般法の有罪判決を受けた婦人たちはアペール将軍の理解するより遥かに少ない割合であったこと。