ブラックホールの熱力学を考える上で、重要なポイントの1つがベッケンスタインによるブラックホールのエントロピーです。
そもそもブラックホールが熱を持ち(温度があり)、エントロピーがあるというのは奇妙な話です。
ですが、それを奇妙であると考えること自体が一般相対性理論の枠組みでしかブラックホールを考えられていないことの指標となります。一般相対性理論ではブラックホールは特異点であり、ニュートン力学では(ラプラスたちの指摘するように)光の脱出できない黒い星です。光の脱出できないほどの重力というと想像を絶しますが、実際は地球を質量をそのままに半径9mmまで縮めればブラックホールになるわけで、そして現代の天文学の発展により、ブラックホールというのはきわめてありふれた天体であることが分かっています(余談ですが、ホーキング等が語るように、天文学というのはかつては科学者の引退後の優雅な楽しみであったのが、いまは物理学の最先端に躍り出ています。ガリレオ以前は肉眼での観察であり、ケプラーのボスであったティコ・ブラーエたちは肉眼で天文観察しています。そのころは占星術と天文観察の区別はそれほどありません。それがガリレオの望遠鏡やニュートンの望遠鏡を経て、間にレントゲンによるX線の発見を挟んで、そして宇宙というか軌道上にX線望遠鏡を飛ばすというハッブル宇宙望遠鏡まで一気に駆け上がります。この指数関数的な成長の軌跡というのは奇跡的です。ガリレオが望遠鏡を作ったのは1609年、ハッブル宇宙望遠鏡の打ち上げは1990年です。ちなみにその2年後の1992年にローマ法王庁はガリレオ裁判の誤りを認めて謝罪します、って遅すぎでしょう)。
ガリレオの望遠鏡(レプリカ)
A replica of the earliest surviving telescope attributed to Galileo Galilei, on display at the Griffith Observatory.
*ハッブル宇宙望遠鏡
ブラックホールに対する理解は一種の踏み絵として機能するということです。その人の信仰がニュートン力学にあるのか、一般相対性理論にあるのか、量子力学にあるのかが透けて見えるということです(信仰というのは冗談です、念のため)。
ブラックホールのエントロピーを考える上で、重要なポイントは以下の質問だと僕は考えます。
すなわち、「ブラックホールに1ビットの情報を落とすと、ブラックホールはどれだけ大きくなるのか」という質問です。
ブラックホールという湖があったとして、そこに一滴の墨汁を落とすとその湖はどれだけ大きくなりますか?というような質問です。ただ墨汁と違うのは、単位系が異なるということです。墨汁と湖であれば、墨汁の分だけ大きくなります。一滴分、湖は大きなります。しかしブラックホールに1ビットだとどう変わるのでしょう。
これは寺子屋「やさしいブラックホールの熱力学」のポイントの1つでした。
ちなみになぜ1ビットなのでしょう。
1つの水素原子ではなく、なぜ1ビットなのか?
これはシンプルです。ビットというのは情報の単位であり、1bitは最小単位です。もちろん物理量の単位ではないではないかという至極真っ当な疑問も浮かびます。
ただ、ここでは深入りせず、ホイラーの「Itはbitである(It from bit)」ということをぼんやりと思い出してください。物理は情報なのだと(セス・ロイド「宇宙をプログラムする宇宙」などを参照)。
以下は、サスキンドの「ブラックホール戦争」から引用しつつ、ブラックホールに1bitを落としたら、どう大きさが変わるかを考えます。
問題になるのは、ブラックホールにどうやって1bitを落とすかです。たとえば1bitを落とすために、1枚の紙に書いてある1個の点をブラックホールに投げ込むとします。しかし、1枚の紙には膨大な情報があり、1個の点ですら、膨大な情報があります(ここで言う膨大な情報とは物理的なものです。点を構成する黒鉛なら炭素原子の位置と運動量のことです)。
ですので、適切なのは1個の素粒子をブラックホールに投げ込むことでしょう。
しかし1個の素粒子として、光子を1つブラックホールに落としたとしても、その光子は1bit以上の情報を持ちます。すなわち、その光子がブラックホールのどこから落ちるかが正確に分かると、その分、情報は大きくなります。
そこでベッケンスタインはハイゼンベルクの不確定性をうまく利用します。
不確定性原理を逆用するのです。ハイゼンベルクの不確定性原理はまた寺子屋で扱いますが、位置と運動量など相補的な情報の不確定性についての原理です。
光子の位置が完全に不確定であれば、光子がブラックホールに入ったということ以外は不明です。そのような光子はブラックホールに1bitの情報だけ伝えます。ブラックホールのどこかに(そしてどこかは不確定)その光子があるので1bitです(あるorないは1bitなので)。
そのための数学的なトリックとして、ベッケンスタインはこう考えます。
このトリックが秀逸です。
すなわち、ブラックホールの事象の地平線全体に広がる長い波長の光子を用いればいいということです。ブラックホールの事象の地平線の半径と光子の波長がほぼ同じであれば良いのです。もしもっと長い波長を用いると、ブラックホールに捕らえられません。
ブラックホールに1bitを加えると(ブラックホールの事象の地平面と同じ波長の光子を放り込む)とブラックホールはほんのわずかに大きくなります。湖に墨汁を落とせば、湖はほんのわずかだけ大きくなります。
ではどれくらい大きくなるのでしょう。どう計算したら良いのでしょう。
この計算は寺子屋でもチラッと補講で紹介しました。
最初に1bitの情報を加えたら(この場合は波長が指定された光子)、ブラックホールのエネルギーがどれだけ増加するかを計算します。その増加したエネルギーはもちろん光子のエネルギーです。光子のエネルギーはアインシュタインの光電効果を考えれば、周波数にプランク定数を掛けることで求まります。周波数は光速度を波長で割れば良いことです。ここでの波長は事象の地平面の半径なので、シュバルツシュルト半径です。
*Wikipediaより。最後の式のλがシュバルツシュルト半径に変えれば、上記の1bitの光子のエネルギー量となります。
ここでブラックホールに落ちていったエネルギーが求まります。
我々はE=mであることを知っています(もちろん正確にはE=mc^2ですが、cは所詮定数ですので、プランク単位系で考えましょう。そのほうが本質に迫れます)。
エネルギーと質量は等価ということです。
とすると、エネルギーから質量に換算することができます。
すなわち、1bitの情報量が、1個の光子に代わり、1個の光子はエネルギーに換算され、そのエネルギーが質量に換算されるということです。
そのときの方程式はもちろん
です。
E(エネルギー)がわかっているので、m(質量)について解きます。
ここまでで1bitがどれだけブラックホールを太らせるかが分かるということです。質量の増加分が分かります。質量の増加分が分かると、シュバルツシュルト半径の変化を計算できます。
半径が求まれば、事象の地平面の面積が求まります。
これは中学生でもおなじみの球の表面積の公式に入れましょう。
これであとは定数の値を計算にいれ、具体的な数値(たとえば太陽質量など)を計算すると面白いことが出てきます。
以下はサスキンドの文章を引用します。
(引用開始)
最後のステップは、地平線の表面積がどれくらい変わるかを計算することである。太陽質量のブラックホールでは、地平線の表面積の増加は約10のマイナス70乗平方メートルである。非常に小さいとはいえ今度もまた、「それは無ではない」。無ではないどころか、それは非常に特別な数なのだ。10のマイナス70乗平方メートルは、偶然にも1平方プランク単位である。
これは偶然なのだろうか?1地球質量のブラックホール(クランベリーほどの大きさのブラックホールだ)や太陽の10億倍の質量のあるブラックホールで同じことを計算してみたらどうなるだろうか?数字や方程式を使ってやってみてほしい。もとのブラックホールの大きさがどのようなものであっても、次の規則に従う。
どんなブラックホールであっても、1ビットの情報を加えると、その地平線の表面積が1プランク面積、すなわち1平方プランク単位だけ大きくなる。
(略)
ビットで測ったブラックホールのエントロピーは、プランク単位で測ったその地平線の表面積に比例する。
もっと簡潔にするとこうなる。
情報は面積と等しい。
地平線はそれ以上圧縮不可能な情報のビットでびっしりと覆われているように思える。テーブルの表面にコインをびっしりと並べて覆ったようなものだ。
コインの集まりにもう1枚コインを加えると、1枚のコインの面積の分だけ面積が増える。ビットもコインも原理は同じである。
(引用終了)(ブラックホール戦争 サスキンド pp.187-188 なお文中の指数表示「10のマイナス70乗」などは、表記できないために改変しております)
ブラックホールのエントロピーとは表面積にあらわれ、それは1ビットあたり1プランク面積が対応するというのは面白い現象です(もちろんこの後、視点の問題が出てきます。すなわち、観測者がブラックホールの外から見るか、それともブラックホールに飛び込むかでこの事象の地平面の扱いが変わるという話です。この相対性こそがブラックホールにまつわる論争を引き起こし、結論から言えばこの2つの立場が「波動性と粒子性」と同じく相補的であり矛盾しないということが解決でした。大きなパラダイムシフトです)
ですので、ブラックホールに1bitを落とすとブラックホールは1プランク定数だけ大きくなるということです。
ブラックホールがエントロピーを持つということは、熱を持ち、温度を持ち、温度を持つということは黒体放射をするということになり、それがブラックホールの放射につながります。
*という話を、寺子屋「ブラックホールの熱力学」では扱いました!
レジュメを少し修正して、本日寺子屋の受講生専用サイトにアップロードしております。ダウンロードして復習に活用してください!
【書籍紹介】
寺子屋でも紹介しましたが、ブラックホールのエントロピーについての啓蒙書としては、ホーキングとの20年越しの論争に勝利した当のサスキンドの書籍だけに非常に面白いです。
上記の引用はこちらからです。
ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い/日経BP社
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宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?/早川書房
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