青森県の野辺地駅と七戸駅を結んでいた、南部縦貫鉄道と呼ばれる鉄道路線が、かつてありました。

その歴史は意外と新しく、今から60年前の昭和37年に新設されました。そして、平成9年には実質的な廃止となる休止になっています。その運行期間は、わずか35年というほんのわずかな時間でした。

 

今回は、その南部縦貫鉄道の歴史を調べてみました。

 

この路線を誘致しようと計画していたのは地元の自治体の様です。ですが、重工業の産業が無く、資金力がなかった村を通る為に、実現にはほど遠かったようです。

その中で浮上してきたのは、この地方で産出される砂鉄を、鉄道で運搬しようとする計画でした。そして、砂鉄運搬の事業主体が資金を出資してから、計画が進みました。

そして、南部縦貫鉄道が開通したものの、わずか3年後には砂鉄産業化計画は突然白紙に戻っています。計画が頓挫した理由ですが、鉄鉱石の輸入価格が安くなったので国産では対抗できなくなったこともありますが、事業主体が国策会社だったので、見通しがあまかったというところにもあると思いました。

そもそも、民間が参入しないところに、国策事業が参入しても絶対にうまくはいかないのではないでしょうか。

 

鉱石運搬が頓挫した後は、旅客事業を主体で頑張るしかなかったようですが、いかんせん沿線住民が少ない場所というデメリットもあり、最終的には会社更生法を申請し、倒産しています。

 

さて、南部縦貫鉄道の特徴ですが、大きく2点あります。

 

1点目:レールバスについて

この路線は、通常の列車では無くて、バス車体工法によって組み立てたレールバスと呼ばれる小型ディーゼルカーだったようです。

 

2点目:旅客事業について

通常、廃線となった鉄道は最初に線路を設置し、その後にモータリゼーションの発達に伴い道路を整備されます。そうなれば、不便な鉄道よりも車の使用を主体と考えるようにして、最終的には廃線となります。

ですが、南部縦貫鉄道では、もともと道路があって、モータリゼーションが発達した中での鉄道建設でした。そこで、旅客で利益を上げることは、どだい無理な話だったのかもしれません。

 

さて、この路線の起点ですが、野辺地駅となります。この駅は、青い森鉄道の青い森鉄道線と、JR大湊線の接続駅となっており、いまでも現役の駅舎となります。

青色の跨線橋がありますが、よくみると切断して短くなっています。もしかしたら、南部縦貫鉄道の駅舎は写真上の手前側かもしれません。

 

 

こういった、細かいところを確認して、当時の状況をいろいろと想像するのも楽しみの一つです。もしかしたら、間違っているかもしれませんが。

 

 

野辺地駅の跨線橋が気になって、いろいろと問い合わせていると、青森県立郷土館様より参考資料を教えていただきたました。

やはり、昔は跨線橋が伸びて、南部縦貫鉄道のホームまで接続していたようです。

 

現在、これらの遺構は何も残されていないようですが、とても残念です。

 

【参考:青森県郷土館ニュース 2021/12/8記事より転載】

 

国道4号線を走っていたら、南部縦貫鉄道の橋台跡が残されているのを見つけました。橋台の上部に、桁が載せられていた為に2個の支承跡があります。また、奥に見える水色の鉄橋は、現役の青い森鉄道になります。野辺地川を横断する目的の橋梁の様です。

 

 

この橋台ですが、とても面白い構造をしています。中間よりも下側で煉瓦の部分が残されています。おそらく、南部縦貫鉄道の旧線なるものが存在しており、河川の増水で流されたタイミングで上に嵩上げしたのでしょうか。

いやいや、この路線が運行されたのは昭和37年になります。この時期の鉄道構造物は、コンクリートか鉄しか使用されていません。つまり、新設の構造物で煉瓦はありえません。

このことから、この橋台は元々国道4号線の橋が架けられていたが、再開発の一環で南部縦貫鉄道に場所を譲ったのではないでしょうか。

意外なところで、ミステリーに出会ったような気がします。

→【修正】 どうも南部縦貫鉄道は、国鉄東北本線の線路付け替えに伴って廃止された旧線を譲渡してもらったようです。よって、煉瓦橋台の痕跡は、その当時のものと判断しました。


 

 

西千曳駅は、ホーム跡がはっきりと残されていました。南部縦貫鉄道の起点から2つ目の駅ですが、どうもここも国鉄の付け替え前路線だった様です。

 

 

ホームは、当時のままの設備が残されていました。駅舎撤去時に何故、これも取り除かなかったのかが不思議ですが、廃線跡巡りマニアとしてはありがたい物です。なお、鉄道設備マニアでは無いので、これが何に使われていたのかまではわかりません。

鉄道ファンも、いろいろなジャンルのマニアがいて、少しでもそのジャンルから離れると一切の知識が無いところがおもしろいです(笑)

 

 

西千曳駅から先は、農道として廃線跡が第二の人生を送っているようです。せっかくなので、サイクリングロードにでも転用していただくと嬉しいのですが。

 

 

西千曳駅の次は、後平(うしろたいら)駅となるはずです。ですが、遺構が見つかりません。その時に、たまたまバス停を発見しました。

 

 

よく見ると、後平駅のホーム跡がみつかりました。廃線跡探しでは、この場所に立っていて、この景色を見ていてもホーム跡などが自然に溶け込んでいて、見つからない場合が多々あります。本当に遺構探しは難しいのです。

 

 

残された築堤に、鉄道由来と思われる設備が残されていました。

 

 

坪川は、青森県坪川と七戸を結ぶ、一級河川です。美しく流れる水は、まさに清流でした。

 

 

その坪川を渡っていた橋梁の橋台が残されていました。(起点側)

 

 

坪川から見て、終点側の風景です。橋台と築堤が残されている姿がとても美しいです。

 

 

盛田牧場前駅があった場所です。右手に駅舎の様な遺構が残されています。地元の人に確認を取ると、駅舎の遺構と言われる人と、農業用倉庫だと言われる人がいました。

どちらが正しいのかはわかりませんが、駅がここにあったのは間違いないようです。

 


駅名にあった、盛田牧場はこのあたりです。鉄道の現役時代は、おそらく築堤があったのでしょうが、今は撤去されて何も残っていません。馬の放牧をするのに、築堤は邪魔だったのでしょうか。

 

 

盛田牧場ですが、競走馬の生産地としても有名であったようです。ですが、平成14年に南部縦貫鉄道が廃止となった、わずか4年後の平成18年に、競走馬の生産事業を閉場しています。競走馬の生産が衰退した理由ですが、やはり北海道に生産の主力が移っていった事にあるようです。

こちらも、地球温暖化の一つの影響なのでしょうか。

 

七戸駅にあった案内看板には、廃止された南部縦貫鉄道と盛田牧場の絵が残されていました。盛田牧場では、元気に競走馬が走っていますね。

 

起点の野辺地駅から20.9kmを走った終点に七戸駅跡が残されていました。

 

 

独特の自体と、カッコいい社章が残されています。現在は、南部縦貫株式会社と名称を変更しているようですが、あえて旧名を残しているのだと思います。

やはり、地域にとっては、南部縦貫鉄道に熱い思いがあるのでしょうか。

全国の廃線跡巡りをしていると、そういった気持ちを強く感じることが多いです。

 

 

七戸駅ですが、かつてはこの扉から出入りしていたのだと思います。残念ながら、私が訪れた時は内部を見ることができませんでした。

 

 

駅前ロータリーには、周辺案内図が残されていました。しっかりと、駅と線路が書かれていました。

 

 

構内は、自由に見学が可能でした。かつての駅名票が、かすれながらも残されていました。

 

 

構内は、広々として奇麗に整備されていました。

本来なら、レールバスを見ることができるようですが、私が行った時は見学が中止でした。

とても残念です。

 

 

南部縦貫鉄道は、平成9年の休止(実質廃止)から、わずか20年しか経過していません。しかし、その遺構構造物の大部分は撤去されており、いまや七戸駅くらいしか完全な状態では残されていません。

築堤などは残されていますが、歩いたり散策が可能な状態でもありません。

 

なんとか、サイクリングロードなどとして復活はできないものかと考えますが、なかなか難しい状況なことは現地を歩いてみてわかりました。

地域の活性化の起爆剤にならないかと考えてみますが、やはり難しいというのが現状ではないでしょうか。