三重県の最南端付近の山深い熊野市紀和町に、紀州鉱山と呼ばれる銅山がありました。

産銅量は3000トンを超えており、大きな規模だったようです。特に選鉱場での処理能力だけをとらまえると、東洋一の規模とあり、驚きました。

 

今回、その紀州鉱山跡地を見学するために旅しましたが、なかなか山深い場所でした。今でこそ道路はあるものの、鉱山の全盛期でも道路インフラは未整備だったようです。

 

<出典元:国土地理院 地図データーを二次利用>

 

それゆえ、銅山から、積み出しを行う為の鉄道駅までは、約15kmの距離を、索道(ロープウエイ)で運搬していたとありました。

 

紀州鉱山の歴史を調べてみると、奈良時代には東大寺建立の為に大量の銅を拠出したとあります。かなり昔の時代から本格稼働していたようです。ただ、あくまでも小規模の鉱山であり、全国的に知られた規模ではなかったようです。その小規模鉱山を回収して大きく育てたのは、石原産業であり、戦前の昭和10年代になります。

 

その後、昭和40年には最盛期を迎えましたが、その最盛期は長くは続きませんでした。

絶頂期から、わずか13年後の昭和53年には閉山となっています。

 

あまりにも急激な、事業変化で驚きました。

たった、10年ちょっとで企業の最高益から、事業場の閉鎖・・・まるでジェットコースターの様な急激な変化です。

 

何故、この様な急激な変化があったのでしょうか。

その理由は、大きく3つあるようです。

 

・外国産の安い銅が輸入されてくる事による競争力の低下

・公害の社会問題化による、環境対策費用の増加

・埋蔵鉱石の枯渇

 

国が豊かになるにつれて、円高になり、その結果安い外国産の銅鉱石が輸入されるといった皮肉な結果としかいいようがありません。

ちょうどその頃、日本は資源を輸入して、製品を海外に輸出するといった貿易体制に完全に移行したのでしょう。

 

では、さっそく紀州鉱山の最奥部から見ていきます。見渡す限り、森林部分と大きく蛇行する川しか目に入りません。

 

 

これらの山すそに、小規模な採掘跡と思われる穴を見ることができます。

 

 

内部は立ち入り禁止でしたが、いずれにしても穴は5mくらいのことろで、コンクリートで閉塞されていました。

いかにも落石がありそうな、無数の亀裂が見えます。やはり、山というのは、どこも地表部分の風化が進行していて、とても脆弱だと感じました。

 

 

紀州鉱山は、隧道で南北に貫いて採掘を行っていたそうです。現在、見ることができる、最奥部の隧道は、コンクリートで造られていました。

 

 

内部ですが、少しだけなら見ることができます。トロッコの線路は、二条を確認できます。よって、複線で運行されていた事がわかります。

 

 

隧道から振り返ると、トロッコの湯ノ口温泉駅が望めます。

隧道の振り返り写真が好きで、各地を巡っていますが、ここはとても味わいがある場所で、とてもいいですね。

 

 

トロッコ列車ですが、軌道は762mmのナローゲージになります。


 

湯ノ口温泉駅からトロッコ列車に乗ることができますが、せっかくなのでランチと温泉を楽しむことにします。

 

 

湯ノ口温泉は、広々とした露天風呂があり、透明の源泉が特徴です。もちろん、源泉かけ流しだと説明にありました。

 

ここの歴史を調べてみると、紀州鉱山の歴史とかかわっていました。

鉱山と呼ばれる場所は、閉山が決まったので、それで終わりというわけにはいかないようです。何故なら、閉山後も絶え間なく地中から湧き出てくる湧水に、鉱毒が含まれる事が多く、それを直接的に川に放流すると環境被害が発生します。

そこで、ある意味、永遠と湧水の無毒化処理を続けなければなりません。

 

その、湧水の処理を検討する為に、ボーリング調査を行ったら、たまたま温泉にあたったようです。その後はせっかくの温泉なので、地元に開放されだしたのがスタートだと、地元の湯治客の方に聞きました。

ただ、温泉の説明板によると、ここの温泉自体は、南北朝時代から金山工夫達の湯治場だったとありました。

温泉の歴史は古いですが、多くの湯量を安定的に生み出したのが、ボーリング調査による副産物だったというのが、実際のところではないでしょうか。

 

 

 

温泉を堪能した後は、いよいよトロッコ列車の乗車旅です。

 

 

実は、このトロッコが好きなもので、かれこれ5回くらい乗りに来ています。ナローゲージ独特の揺れと、線路から直接突き上げてくる振動がたまりません。

子供から大人まで楽しめる、とてもいいアクティビティだと思います。

 

 

牽引機関車である、バッテリーロコを客車に取り付けた後に、いよいよ出発です。

 

 

このトロッコの特徴ですが、実は運行区間のほぼすべてが隧道の内部になります。

 

 

 

とても味わいがある隧道の構内を見ることができます。

 

 

せっかくの隧道内部ですが、スピードが出だすと、撮影が困難です。ただ、このように写真がボケた方がスピード感があるのではないでしょうか。

 

 

トロッコの運行区間ですが、2本の隧道があり、途中で少しだけですが地上区間を走ります。

 

 

わずかな時間のトロッコ列車乗車体験ですが、終点の小川口駅(靜流荘駅)に到着です。

 

 

実際の紀州鉱山ですが、現役時代はこのようなバッテリーロコなども使用していたそうです。

 

 

トロッコ列車を堪能した後は、紀和鉱山資料館で鉱山の勉強がたっぷりとできます。

また、学芸員さんも親切で、いろいろな情報を教えてくれました。感謝です。

 

 

最後に、紀州鉱山の名称ですが、実は今回のブログの全てを紀和鉱山と書いていました。

紀和鉱山と書いた理由ですが、「紀和鉱山資料館」からそう思いこんでいました。

いろいろなホームページも紀和鉱山と書かれている物が多いです。

ですが、今回のブログをまとめている中で、紀州鉱山と紀和鉱山と書かれた両方の名前の違いに気が付きました。

どちらが正解なのでしょう?

この一帯は、昔は中小の鉱山がいくつかあったのですが、その中の紀州鉱山を石原産業が買収してを経営を開始したことから、両方の名前がごちゃまぜになったのでしょうか。

ただ、紀和鉱山資料館といった地元の施設もあるので、この周辺の総称を紀和鉱山と呼ぶのが正解だと判断しました。

ただ、ブログ化するのに若干の不安があったので、資料館に確認してみました。

 

その結果は意外なものでした。

 

「紀和町」にある鉱山資料館から、昔は、「紀和鉱山資料館」であった。

言うなれば、『紀和町の鉱山資料館』・・・

しかし、合併で紀和町の名前が消えたので「町」の名称を削除して、「紀和鉱山資料館」とした経緯があるようです。

という事で、結論から言えば、紀和鉱山はそもそも存在しなくて、紀州鉱山が正解の様です。

 

私も含めて、多くの人達が勘違いしている様でした。実は、過去にもブログを何度か書いてあるのですが、紀和鉱山とおもいっきり書いています。どうしましょうか。

 

まあ、ええか(笑)