祖父の死去
マリアが中学2年生の時に、祖父の光太郎が亡くなった。死因は、脳梗塞である。
5年前にも脳梗塞で倒れ、右半身マヒの後遺症が残っていた。それに伴って認知症が進んでいき、マリアが自分の孫である事も分からない状態になってしまった。
早苗は、仕方なく光太郎を介護施設に預けたのだが、彼はそこの職員とトラブルを起こしまい、「こんな所には居たくない。今すぐ家に帰る!」と怒鳴り散らした。
連絡を受けた早苗は、光太郎を自宅に連れて帰ってひとまず落ち着かせた。やはり、光太郎にとっては住み慣れた家が一番なのであり、早苗もそれを受け入れざるを得なかった。
それからは、一度も外出をせず、時折、縁側で盆栽の手入れをするだけの平穏な日々を過ごした。
献身的に介護をしていた早苗であったが、光太郎の病状は次第に進んで行った。日増しに体力が衰えていき、最期は早苗とアリアに看取られ、静かに息を引き取った。
早苗の希望により、身内だけの家族葬になった。葬儀には、光太郎の弟と早苗の妹が参列したが、妹の一人息子である良夫も来ていた。
良夫は、20年前までは母親に連れて来られて中山家でよく遊んでいた。中学生になってからは光太郎夫婦と疎遠になったが、この日ばかりは弔問のために現れたのである。
葬儀は滞りなく終わり、光太郎の弟と早苗の妹が帰った。良夫は母親といっしょに帰らず居残ったが、早苗に何か頼み事をしたい様子であった。
案の定、頃合いを見計らったように良夫が早苗に切り出してきた。
「伯母さん、こんな時に何だが、伯母さんのために儲け話を持ってきたんだ」
「儲け話?」
「うん」
「まさか、株とかの投資じゃないでしょうね?」
「株じゃないよ」
「じゃあ、何なの?」
「仮想通貨さ」
「仮想・・?」
早苗は、聞き慣れぬ言葉に首を傾げた。
「仮想通貨というのは、所謂デジタル通貨の事なんだ」
「デジタル・・?」
「伯母さんも、キャッシュカードの事は知っているでしょう」
「商品を買う時、現金じゃなくカードで支払うのよね」
「VISAやJCBが有名だけど、この先、キャッシュレスの世の中になって行くんだ」
「そう言われても、あまりピンと来ないわ」
「これからは、一万円札や百円玉という通貨がなくなって、ビットコインやイーサリアムといった仮想通貨で物を買う時代が来るんだよ」
「ふーん」
早苗は、良夫の目的が何なのかを粗方予測できた。
「それで、私にどうしろというの?」
「今それを買いたいんだ。すぐに価格が跳ね上がるに違いないから、その時に売ればかなり儲かるんだよ。だけど、纏まったお金が手元にないんでね」
「だから?」
「伯母さんには、伯父さんの生命保険が入ってくるでしょ。その中からいくらか貸して貰えないかな。儲けたら、その30%を渡すから」
「そんな事は、私の妹に頼めばいいのよ」
「母親には頼めないよ。若い頃に離婚して、これまで女手一つでやってきたんだから」
「確かに色々苦労したとは思うけど」
「僕も、『母親のために堅い仕事に就かなきゃ』と思ったんだけど、それができなかった」
「妹の心配の種が、貴方の就職先だったわね」
「どうも、地道にコツコツと働くのは性分に合ってないようなんで」
「自分勝手な言い分ね」
「だから、いろんな事に手を出したんだけど、どれもダメだった」
「本当に困った人ね」
「だから、頼める人は伯母さんしかいないんだ」
「そう言われてもね。海の物とも山の物ともつかない物に、そう簡単にお金は出せないわ」
「日本だけじゃなく、世界中で活用されている安全な物なんだ。まったく心配はいらないから」
「信じてやりたいけど、年寄りにはよく分からない事なんでもう少し考えさせて」
「3日後に、仮想通貨を扱う会社の説明会があるから、伯母さんも来たらいいよ」
「こういう事は若い人がよく知っていると思うので、マリアに一度に聞いてみるわ」
「マリアちゃんの将来のためにも、貯金を増やしておいた方がいいと思うよ」
仮想通貨
場違いであると恐縮ながら、マリアを引き連れた早苗は、会場の出入り口付近まで立ち寄った。
会場の中を覗いてみると、どこかの会社員らしき中年層の男性、リクルートスーツ姿の若い女性、メモを取る準備をしている学生風の人たちが、説明会が始まるのを今か今かと待ち侘びていた。
マリアが、最前列に友人と陣取っている良夫の姿を見つけた。声を掛けようかと早苗は迷ったが、誘導係に後ろの席を案内されたので、二人は黙ってパイプイスに腰掛けた。
満席となってから10分後、30代半ばと思える黒服の男がマイクの前に立った。
「只今から、ヨークBCの説明会を行います。MCを務めるのは私、横尾でごさいます」
ざわついていた会場は、誰かの空咳が聞こえる程シーンと静まりかえった。
「まず最初に、会長である楠木実からご挨拶があります。では、会長、お願いします」
高級な背広を着込んだ初老の男が、壇台の後ろ側へゆっくり向かった。
「ようこそ、この会場においで下さいました。お忙しい中をご足労して頂いて、心から御礼を申し上げます」
楠木会長は、一礼をして会場を見回した。
「正直申しまして、どれ程の方がこの場に来られるのかと心配していおりましたが、取り越し苦労でした。この盛況ぶりにスタッフ一同、諸手を挙げて喜んでおります」
会長が再度深々と頭を下げて、感謝の意を表した。
「さて、世の中は、キャッシュレスの時代になろうとしています。VISAやMasterCard、JCBのようなクレジットカードが世界中に普及し、スーパーやコンビニの会計もpaypayなどの電子マネーで済むようになっています」
「つまり、社会におけるすべての支出は、現金を扱わずに処理をしていく方向に向かっていると言えます」
「仮想通貨は、このような方向に則して考え出されました。これからは、紙幣や硬貨を持たずに、様々な取引ができるようになります」
「給料などの支払いも、国が発行している法定通貨ではなく、ビットコインのような仮想通貨になっていくことでしょう」
「実際、ビットコインがエルサルバドル共和国で法定通貨となりました。国が仮想通貨を認めた訳です」
「近い将来、世界中の国が貨幣制度を必要としなくなり、仮想通貨が主流となっていくのです」
「その事を鋭く見据えた皆さんは、先見の明と行動力がある方ばかりなのです。どうか、この説明会が皆さんにとって実のあるものになることを切に願うばかりです」
会長の挨拶が終わり、大内という講師が出て来た。同時にプレゼン用の大きなスクリーンが正面に現れた。
「初めての方もおられると思いますので、まず最初に、『通貨制度とは何か』をご説明します」
スクリーンにその概要が映し出された。
「大昔は現代のような貨幣はなくて、すべてが物々交換でした。例えば、米を作っている人と魚を捕っている人が手持ちの物を持ち寄り、その時の価値によって分量が決められて交換しました」
「ところがこの方法だと、手持ちの物と自分の欲しい物がいつでも交換できるとは限らず、不便でした」
「そこで、価値が高く保存が効く布や塩、貝や砂金などを手に入れて、欲しい物と交換するようになりました。所謂、物品交換です」
「貨幣の役割をしていた物品でしたが、価値がまちまちだったので、それ以上に適正な価値の貨幣が考え出されました」
「その材料は、金、銀、銅といった貴重な金属でした。日本では、江戸時代の大判や小判が有名ですね」
「これらの貨幣は、嵩張ると重くて持ち運びができにくいのがデメリットです。そこで、それらを資産家に預けて『預り証』を貰い、好きな時に換金できるようにしました」
「この『預り証』というのが、紙幣が造られる大元になるのです。つまり、皆さんがよくご存じの1万円札や千円札の原点なのです」
「金貨や銀貨を預かった資産家は、後に『銀行』になっていきます。金融機構の中心になる中央銀行が設立され、様々な都市銀行も出来ました」
「嘗ては、銀行に預けると10%の金利がついた事もありましたが、現在に至っては限りなく0%に近いので、預ける意味がなくなりました。それでも預けているのは、大金を家に置いておけないからです」
「同じように、財布に入れて現金を持ち運ぶのはリスクがあります。盗まれたり紛失したりと結構危ないのです」
「そのような理由から、VISAやJCBのようなクレジットカードが造られました。キャッシュレス社会の始まりですね」
「店側もおつりを出す必要がなく、会計がお手軽です。もしカードが盗難にあっても、暗証番号によって保護されているので安全なのです」
「後払い決済なので、契約している口座に現金を振り込むだけですが、利用のための手数料が掛かります」
「また、外国に行った場合、自国の通貨が使えないのでその国の通貨に換えなければなりません。例えば、日本人が米国に行けば、日本の円をドルに換えなければならないのです。それにも、手数料が掛かります」
「我が社が扱う仮想通貨は、そのような手数料を一切払う必要はありません。どこの国に行っても、迅速かつ安全に利用できるのです」
「今のところ、使える国は限られていますが、急速に増えて行く傾向にあります。最早、製造費用が掛からない仮想通貨が主流になることは、間違いないのです」
会場の至る所から大きな拍手が沸き起こった。会長の楠木、講師の大内、MCの横尾は、手応えを感じたようで、満面の笑みを浮かべた。
2時間弱の説明会はひとまず終わったが、登録の手続きの仕方や現況をスタッフに聞く人たちで会場はごった返した。
後ろの方の席だった早苗とマリアはすぐに外に出たが、その5分後に良夫が出て来て早苗と顔を合わせた。
「やあ伯母さん、やっぱり来てくれたんだね」
「ああ。マリアもいっしょだよ」
マリアは、体を隠すように早苗の後ろにいた。
「マリアちゃんだね」
良夫が体を右に傾けて、早苗の後ろを覗いた。その声にマリアは黙って頷いた。
「私の妹の一人息子の良夫だよ。マリアにとっては、従叔父になるんだよ」
早苗がそう言ったので、マリアは良夫の顔をじっと見つめた。
「随分大きくなったね。マリアちゃんに会うのは、何年ぶりかな」
「確か、私の父親のお葬式の時だったと思うわ。マリアが幼稚園の年少になる前で、あれから10年以上も経っているわ」
「もう、そんなになるんだ」
「月日が経つのは早いというけど、本当にそうね」
早苗がマリアの顔を見ながら、しみじみとその頃を思い浮かべた。
「伯母さん、マリアちゃん、もし、仮想通貨で何か分からない事があったら、いつでも聞いてよ」
自信たっぷりの良夫に、マリアは小さな声で「うん」とだけ返事をした。
「それじゃ伯母さん、吉報を待っているからね」
上機嫌の良夫は、仲間たちといっしょに会場を後にした。
良夫の誤算
家に帰った早苗は、マリアに今日の説明会の事について聞いてみた。
「マリアは、仮想通貨の事をどう思う。良夫の言う通りだと思うかい」
「仮想通貨の事は、あまりよく分からない。でも・・」
「でも何だい?」
「このままでは、良夫おじさんはかなりの損害を被ってしまうわ」
「それは本当かい?」
「うん」
「あの会社が怪しいのかい?」
「ううん。そうじゃなくて、悪い人がネットを使って会社へ入り込んでしまうの」
「預けた仮想通貨が、他人に盗られてしまうということかい?」
「うん」
「それはダメだわ。良夫が『絶対に安全です』と言ってたけど、当てにならないねぇ」
マリアにそう言われて、良夫にお金を貸すのを止めにした。良夫には、
『生命保険のお金は、すぐには入らないので今は貸せない。それに、勝手に会社に入り込んで仮想通貨を盗ってしまう悪人がいるようなので、買うのをもう少し待った方がいいんじゃないか』と、断りと忠告の電話を入れた。
千載一遇のチャンスだと信じてやまない良夫は、『そんなことは絶対有り得ない』と言い切って不貞腐れた。思惑が外れたので、友だちやサラ金などから借りて元手を作り、有り金全部を叩いて仮想通貨を買ってしまったのである。
その会社のサーバーがハッキングされて、莫大なコインが流出したというニュースが流れるのは、購入してから2週間後の事であった。
マリアの苦悩
マリアは中学三年生になっていたが、相変わらず友達がいなかった。靴隠し事件の被害者である山本理恵だけが唯一の友達であったが、クラス替えがあって離ればなれになっていた。
マリアに友達が出来ない原因は、やはり彼女の透視力にあった。人の言葉には裏があってそれを察してしまい、誰に対しても不信感を抱くようになっていたのである。
大通りで、動物保護団体が保護犬救済の為のカンパをお願いしているのを見て、『あの人たちは、時給いくらのアルバイトです。本当のボランティアではない』と、その裏側を見抜いてしまうのである。
また、町内会の会計係が何かの用事で早苗の家に来た時は、『あの女の人は、言葉遣いも立ち居振舞いも非常に上品であるけれど、家に帰れば夫を汚い言葉で罵る気の荒い悪妻です』と、彼女の本性を早苗に暴露して見せた。
更に、早苗とスーパーで買い物をしていた時の事である。精肉の特売コーナーで、「みなさん、産地直送の黒毛和牛ですよ。こんなに高級なお肉を通常価格の3割引きで販売しています。期間限定ですので、今買うとかなりお得になりますよ」
と、販売員が熱弁を振るっていたので早苗が売り場に近寄ろうとしたが、すぐに引き留めた。
「あの肉は、国産の黒毛和牛じゃないよ。見てくれは上質のようだけど、中国産の質の悪い肉だから』と、早苗に小声で耳打ちをした。
「ええっ。それじゃまるで、詐欺じゃないか」
早苗は、販売員を睨み付けた。早苗の怪訝な様子に販売員は、『もしや、嘘がばれたのか』と、不安になっていた。
こんな事があったので、マリアは人に会うのをすこぶる嫌うようになっていた。またこの頃は頭痛が頻繁に起こり、学校を休む日が多くなっていた。
心配になった早苗は、マリアを近所の医院に連れて行った。取り敢えず頭痛薬を処方されたが、一向に治る気配がなかった。それどころか、夜中に痛みを懸命に堪えるマリアの唸り声が聞こえ出して、自分の孫娘がとても不憫に思えた。
苦しむ姿に為す術がない早苗は、一縷の望みとして、以前にマリアの治療をした大谷医師に相談してみようと思い立った。
早苗はさっそくその病院に出向いて、今までの事を一切合切その医師に話した。聞かされた大谷医師は非常に驚いた。頭痛の事はともかく、透視力の事はまったく信じられないという顔をした。
「今までのお話によると、マリアさんの透視力は、脳の中に入り込んだ隕石が影響している可能性が高いですね」
「やっぱり・・」
「ところが、マリアさん自身はその能力を嫌っている」
「はい」
「おそらく、頭痛が起こる原因は、隕石が引き起こすパワーとそれを拒絶する想いが脳の中で葛藤している為だと思われます」
「では、どうすれば良いのでしょうか」
「隕石の欠片を脳から取り除くしかありません」
「命に関わる危ない手術になるのでは・・」
「確かにリスクはあります。でも、彼女を地獄のような苦しみから救うのは、その方法しかありません」
「・・そうですね。治る見込みがないのなら、そうするしかないですよね」
「それしかありません」
「これ以上、孫娘の苦しむ顔を見たくありません。どうか宜しくお願いします」
「私たちも、不測の事態にならないように最善を尽くすつもりです」
翌日、大谷医師は、脳神経外科の権威である矢上教授に助けを求めた。
脳神経科学研究センター
「人の脳というのは、大脳、小脳、脳幹から成り立っていて、それらは脊髄に繋がっています」
「大脳は、前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉の4つに分れて、前頭葉は思考や記憶を担当し、頭頂葉は感覚の認知、側頭葉は記憶、言語、音の解析、後頭葉は視覚による解析を主に担っています」
「小脳は、運動調節機能に関わり、脳幹は、呼吸、心拍、消化、体温調節などの生命維持を主な役割としています」
矢上教授が、液晶プロジェクターを使いながら研修医たちにレクチャーを行っていた。いつもの前説が済んだ後は、各部位ごとの専門的なテクニカルスキルを解説することになっていて、今日は『前頭葉』であった。その途中、いくつかの質疑応答があったが、約90分間の講義を淀みなく終えられた。
教授が自分の部屋に戻ろうとした時、待ち受けていた大谷医師が声を掛けた。そして、昨夜の電話で話したことを教授に伝えた。
「そんな驚くべき少女がいるなら一度会ってみたいものだね。また、隕石の摘出手術も私の知識を生かして成功させてみたい」と、快く承諾してくれた。
手術するにあたって、教授はある一つの条件を大谷に出して来た。それは、マリアの透視力のテストであった。実際にマリアの透視する所を見たかった訳である。
「分かりました。そのことを親代わりである祖母の中山早苗さんに頼んでみます」
「そうしてくれ賜え」