人類はこの先、どこに向かうのか                            仲代 章

・時代は変わる 
 私の自伝的な内容である「あの頃の私」の中でも述べているが、世の中のすべての物が著しく変化してきた。例えば、普段日常で使っている生活用品である。
 60年前までは、我が家に扇風機はなかった。勿論、クーラーやエアコンもなく、熱帯夜になると寝苦しく、団扇であおぎながら寝たものである。

  蚊の対策は、蚊帳を吊って蚊取り線香に火を付けた。蝿には、便所に湧いている蛆虫に乳剤を散布して、天井には蝿取り紙を吊るした。たまにそれが頭の毛に絡んで難儀した。
   冬になると、火鉢に豆炭を入れ火をつけて手元の暖を取り、やかんで沸かした湯を湯たんぽに入れ布団の足元を温めた。
   家の中の小さな埃やゴミは、はたきと箒を使い塵取りで取ったのであり、電気掃除機はなかった。
   ご飯やおかずも、かまどで炭や木材を燃やしてお釜やお鍋で炊いていたので、出来上がるのに時間がかかった。電子ジャーや給湯器、電子レンジなどのような電化製品が売り出されるのはずっと後になる。
   冷蔵庫も電気冷蔵庫ではなく、氷屋で買った氷を中に入れて食品を冷やすものであった。当然、冷凍庫は付いていなかった。
   洗濯も洗い物をタライと洗濯板で洗い、手で絞って竿竹に干した。その後、電気洗濯機が出てきたが、洗った物を付属のローラーに入れて手で回して絞った。全自動の乾燥機付き洗濯機が出てきた時は、スイッチを入れるだけで用が済むので時間のゆとりができた。
 トイレは汲み取り式で、溜まった糞尿を農家の人が長柄杓で汲んで肥桶に入れて持って帰った。それを作物用の肥料に使ったのである。今日では、糞尿は下水道管を通って水再生センターで処理され、川や海に流されている。
   トイレットペーパーなどはなく、「落とし紙」と呼ばれるザラザラしたちり紙を使った。最近はトイレの機能も多様になり、ウォシュレットが付いたものが主流になってきた。
   娯楽は、映画鑑賞が主流であった。ラジオ放送は既にあったがテレビ放送はなく、童謡や流行歌はラジオで覚えた。
   テレビが売り出された時はまだ高値の花であり、街頭に置かれた1台のテレビに群がった大人たちが、プロレス中継を熱狂的に観ていたようだ。
   その当時は画面が白黒であったが次第にカラーになり、ブラウン管も薄型の液晶に変わって、番組の録画が出来るDVDレコーダーも普及してきた。                        
   先程の洗濯機のように決めた時間にオン・オフが入る機器がたくさん出回り、自宅にいなくても自動的に仕事をしてくれるので助かった。
 更に、車、鉄道、フェリー、旅客機などの移動手段が作られて、『この時代に生まれてきて良かった』と思うことが沢山ある。昔の人は、そのような器具や機械もなく暮らしていたのであり、そう思うと文化の発展は、人類にとって非常に有難い事だと感じる。
 このように電化製品の開発によって、日常の生活がとても楽になってきたのであるが、その中でも、特に著しく進化してきた物が伝達手段である。
 江戸時代までは、相手に伝える方法は手紙でしかなかった。その手紙を飛脚が担いで運び、遠い所になると届けるのに何日もかかったのである。                
   明治になって郵便制度が始まり、鉄道などの交通機関の発展により届くのがより早くなった。
 同時に電話機も設置されたが、少ない数であった上に限られた場所だったので一般庶民には無縁の代物であった。数年後、公衆電話が各地に置かれ、庶民にも利用できるようになる。料金も高くなく10円玉一つで繋がった。
 私が小学生の頃は、誰かに何かを伝えたい時は、遠くの電話ボックスに行くか、固定電話機を置いている家に頼み込んで使わせて貰った。その場合は、会話の内容がそこの家の人に丸聞こえになるので、恥ずかしかったものである。
  その後、ポケットベルなる通信機器が出回ったが、主に仕事をする人が利用する器具であり、相手に「電話をして欲しい」と合図を送るだけの代物だった。
   携帯電話が出てくるのは、それよりずっと後になる。まるで大きなトランシーバーのような形をしていて、高額であったので一部のブルジョワしか持てなかった。
 格段と安くなって出てきたガラケーは、各社が価格の安さで競い合って1円で買える機種も登場した。
 その後継機であるスマホが誕生してからは、様々な機能が搭載されて普及も早かった。本来の通話は勿論、用途によってTwitter、Line、Instagram、Facebook、YouTubeなどが選べて、多くの老若男女に使われている。現在では、その利用が欠かすことが出来せないメディア機器になっていると言える。
 もし、江戸時代に生きていた人がタイムスリップでこの時代に来たなら、空を飛ぶ飛行機や整備された線路を鉄で出来た電車が走っているの見て驚き、遠方の人と会話ができるメディア機器にびっくり仰天することだろう。
 これからも、更に優れた機器が発明されて利用されていくのだろう。特に人工知能を持ったAIが開発されて、様々な分野で活躍して人類の暮らしは今以上に楽になるに違いない。
   しかしその反面、それに関連した犯罪が起きている事実も否めない。発信者が誰なのか特定されないように相手を中傷・誹謗したり、コンピュータウィルスによって企業の中核になるシステムに不具合を起こさせるというサイバー攻撃をしたりと、SNSを利用した卑劣な犯罪が多発しているのであり、その被害件数は、計り知れない程多い。
   また、振り込め詐欺のような事件も起こっていて、そのような詐欺行為は、手を変え品を変えて、更に増えていく傾向にある。
   このように、便利な機器も人類に仇なす物となるリスクがあって、手放しでは喜べないのである。
   この先、人類繁栄の役割を担うべきAIが、戦争に悪用されないことを祈るばかりである。

 

・終わらない戦争
 毎日のようにどこかの国で戦争が起こっている。そのニュースを見る度に、『いつまで続けるのか』と腹立たしい気持ちになってくる。
 何の罪もない幼気な子どもやその両親、病気で動けない老人が無慈悲な砲撃を受けなければならないのは、一体、どういう理由なのか。
   戦争の要因は様々であり、一口に説明することはできない。また厄介なことに敵対する双方に言い分があって、終結するのは非常に困難である。それでも、同じ人類同士が殺し合うのは頂けない。
 大昔、人類が誕生した頃は、食料になる獲物の狩り場や採集の場を奪い合って争ったようである。
 村や国ができ、今度は隣の村や隣の国を敵として争うことになる。負けた村や国の人々は、他の土地に逃げ込むか奴隷として働かされるかになった。
 常勝する国の中から、世界を制覇しようする者が現れた。巨大な軍事力を持って、自分の領土を拡大しようと企てた独裁者である。
『多くの国をひとつの国に統一する』というのは聞こえがよいが、万民の為ではない。重い税を課して、絶対的な富と権力を手に入れようとしたのである。
   要するに、すべての国や人民を自分の思うように支配したいという権力者の欲望に過ぎないのである。
 異なる宗教の対立から起こった戦もあった。ユダヤ教の旧約聖書にある『汝、殺すなかれ』は、「例え敵であっても殺してはならない」という人類愛を述べている。キリスト教の新約聖書やイスラム教のコーランにも同様の戒めが書かれているようである。
  ところが、それとは真逆の殺戮が行われていた。自分たちが信じる神が正しいのであり、他は邪教で排除すべきと双方が思っていたのである。
  また、目指す社会体制の違いから、一つの国が二つに分かれて戦争になったこともあった。資本主義国と共産主義国が双方の後押しをして、同じ民族や人種でありながら泥沼のような殺し合いになったのである。
   このように『戦争の火種』が世界中で燻っているのであるが、それが大きく燃え上がるのを手薬煉を引いて待っている漢がいる。
 それは、『死の商人』と呼ばれている者たちである。武器を売るのを生業として、人が何人死のうがお構いなく、莫大な利益を得て喜ぶ大悪人である。その存在が戦争が起こる要因となっていて、武器売るために戦争をけしかけていることもあるようである。
『戦争は残酷である。平和な世界を破壊するのであり、すべきでない』
そのことは、良識のある人なら誰でも分かる事である。それなのに何故このような悲惨な事が蔓延るのか。
 仮に、地球上に人がひとりしか存在しないとしょう。争う相手がいないので戦争は起こらない。その人の寿命が尽きるまで、平穏に日々が過ぎていくだけである。
 もし、人が二人いたなら、喧嘩になったり、殺し合いになったりするかも知れない。
 現在、人類の総人口は80億人を超えている。そのすべての老若男女が手をつなぎ合って仲良くしている訳ではない。差別、虐待、いじめ、パワハラ、モラハラ、セクハラなどが日常的に行われていて、その被害は後を絶たないのである。
   紀元前5世紀頃に出現したとされる釈迦は、このように述べた。
「人は、自分が思うままには生きられない。誰もが老いる。病気にもなる。必ず死を迎える」
  所謂『生老病死』である。人はこの四つの苦を背負って生きているのであり、その道のりは平坦ではなくとても険しい。
 更に釈迦は、人間の本質についても述べた。人は必ず、「物欲」や「性欲」といった『煩悩』を持つものであると。
   優越感、劣等感、自尊心といった『煩悩』は、人を対立させる。時には争いになって、悲惨な結末に至ることもある。
   そのようにならないためには、『煩悩』を断ち切ることである。釈迦はそれを『解脱』と言ったが、それによって精神が自由になり、迷いから離れられるとする。
 しかしながら、すべての人が釈迦のような悟りの境地になる事など有り得ない。幼い子どもや認知症の老人もいるのだから、無理である。
 それでも、「人は、『煩悩』の赴くままに生きてはならない。その結果、他人との間に軋轢が生じて衝突する事になってしまう」と戒める。
「喜怒哀楽を表すにも、過度な態度を取ると他人に嫌悪感を持たすことになる。何事においても、節度をわきまえなさい」と、いうことなのだろう。
 釈迦は、民衆に「慈悲」を説いてそれを広めようとしたが、その後に現れたイエスは、「博愛」を理念として、その教えを弟子たちに伝道した。  
「同じ人類どうしが争ってはいけない。憎しみ合うのではなく、助け合いなさい」
と諭したのであるが、現実は争いが絶えがない。全ての人がイエスや釈迦のような人格者になるのは不可能なのである。
 今なお、人と人とが、人種と人種とが、民族と民族とが、国と国とが、宗教と宗教とが何らかの理由で敵対して争っている。同じ国や民族の中においても、内紛が起こって殺し合っている。
 世界中で毎日のように悲惨な争いが起こっていて、終わりが見えない。その要因は、支配欲、独占欲、自己顕示欲を強く誇示する者の存在である。
 国民のすべてが、『政府の政策に満足している』という国はまずないだろう。どこの国でも、不満を持つ反対派はいるものである。
 一時、ブータンの国民が世界一幸福であると評価されていたが、そんな国王がいる国は僅少である。反対に、大統領とその夫人が国民の税金で贅沢三昧をしていたという酷聞は、よく耳にする話であるが。
 不正のない選挙によって国のトップが選ばれたのなら、それは承認できる。ところが、反対派を武力によって阻止し、国民を自分の思うのままに支配しようとする悪い輩がいるのである。                                                              
   人を犠牲にしてまでトップに昇りつめようとする輩たちは、味方のふりをして嘘八百を並べていく。薄ら笑いを浮かべながら、民衆を狡猾に騙していく。
 いつまでもトップの座にいて、権力を持ち続けたいという独裁者の野望であり、国民の生活がどうなろうと知ったことではないのである。
 結局、イエスの述べた「博愛」はあくまでも理想であって、争いのない世界は実現しそうもないようである。
   殺伐とした光景を見る度に、『いつになれば平和で安寧な世の中になるのか』と、憂鬱な気持ちにならざるを得ない。
 

・自我
 生命があるすべての物は、いつか死が訪れる。永遠には生きられないのであり、同種が絶えないようにと子孫を残していく。
 その事は、遙か昔の起源から続いていて、それが生物の共通の摂理になっている。人類も同様である。自分の子孫を残すことを繰り返して、今に至っている訳である。
 これらの人たちすべてが、順風満帆に生涯を終えるとは限らない。天災に遭ったり人災に遭ったりと、平穏無事でない人も結構いるのである。
 戦禍に巻き込まれた人、事故に遭った人、大病を患った人、経済的に破綻した人、大きな詐欺に遭った人、差別されている人など、こういう人たちは日々不安な気持ちでいるに違いない。
 また、どんなに裕福な人でも、どんなに容姿が優れている人でも、どんなに運動能力が優れている人でも、何某かの悩みは持っている。それが大きな苦悩になる場合もある。
 道端に転がる石ころは、意思を持たない。無機質な物質であるので、人に蹴られても投げられても痛くも痒くも感じないのである。
   ところが、有機質である人には『自我』という意識がある。常に自分を中心に物事を捉えて行動しようとする思いがある。
   その一方で、自分とは異なる他人の動向に心が動いてしまう。それが善行であっても悪行であってもである。
   この世に、自分ひとりで生きてきた人などいない。家族や友人など周りの人たちに関わりながら成長してきたのであり、その影響は大きい。
   更に、天運が生涯を左右する場合もある。巡り合わせの善し悪しで、状況が一転するのである。
   人生には、思い通りにならないことや辛い事がたくさん起こる。時には、深い傷を負う事もある。
   それでも、折角授かった命である。他人の恐怖に怯えることがあっても生きていかなくてはならない。いつか終焉が来るまで、一生懸命に生きなければならないのである。