保険会社の外交員
  かなり前から、混色のスーツを着た中年の女性が祖父母の家に来ていた。

 

 

 その女性は、大手の保険会社の外交員で隅田美代子と名乗った。祖父はその会社の古くからの顧客で、長期の生命保険に入っていたのである。
  隅田は、新たな保険の勧誘をほとんどしなかった。昼過ぎに立ち寄っては、祖母の早苗と小1時間ばかり世間話などをするだけだった。
 マリアの事も新聞で知っていて、悲惨な事故を嘆いてくれた。早苗は、物腰柔らかな隅田の接し方に好感を持っていた。
  ある時、早苗が、進行してきた夫の認知症について隅田に話した。
「夫の病状は悪くなる一方で、手の施しようがなく困っています。何か良い手立てがないものでしょうか」
と、藁にも縋る思いで隅田に相談した。事実、医師が処方した薬に効き目がなく、様々なアプリを試しても一向に改善しなかったのである。それならと、隅田が眼を細めて言った。
「私は仕事上、様々な分野の人とお付き合いをしています。会社勤めの人だけでなく、政治家、弁護士、大学の教授や医師の方とも知り合いになっています」
「立派な方々と親交があるのですね」
「その中に漢方薬に詳しい方が居られて、その方から聞いたお話です」
「はあ・・」
早苗は身を乗り出して、隅田の話に耳を傾けた。
「千八百年ほど昔の中国の話です」
「中国のお話ですか・・」
「後漢と呼ばれていたその頃に、華佗という医師がいました。華佗は、どんな病気でも治したとする名医でした」
 

 

「どんな病気でもですか」
「はい。治せない病気は一つもなかったようです」
「認知症もですか?」
「もちろんです」
「そのお薬は、今でもあるのでしょうか?」
「御座います」                  
「どこへ行けば手に入りますか?」                          
「華佗だけが調合できた秘伝のお薬なのです。代々、門外不出になっていますので、どこにも出回っていません」
「では、どうすれば・・」
「ご心配はいりません。そのお薬を持っている漢方医の方を知っていますので、手に入れることは可能です」
「良かった」
「でも、この事は内密にお願いします。世間一般に知られてしまうと、我先に欲しがる輩が現れ、本当に必要な方に渡らなくなってしまいますので」
「承知しました。ここだけの話にしておきます」
「世の中には、それで儲けようとする悪人もいます。障子に目あり壁に耳ありで、油断が出来ないのです」
隅田の顔が、少し険しくなっていた。
「それで、そのお薬はどれ程のお値段になるのでしょうか」
「1ヶ月分で百万円だったと思います。3ヶ月分あれば、認知症が完治できると思います」
「三百万円ですか・・」
「少々値が張りますが、病気が治ることを考えれば安い買い物です」
「それはそうですが・・」
「このお薬を内服された約95%の方が完治されたと聞いています」
「本当に効果があるお薬なのですね」
「ええ。まさに特効薬です」
「残りの5%の方には、効き目がなかったのですか?」
「治る前に、認知症とは異なる病気で亡くなられたようです」
「回復する事を心待ちにしていたご家族がお気の毒ですね・・」
「確かに残念な思いでしょうね。本来なら治っていた筈なのに」
「そのお薬は、すぐにでも買えるのでしょうか?」
「今なら何とか購入できると思います。でも、他にも希望する方がおられるので、遅れると買えなくなる恐れがあります」
 早苗はあまりの高額な値段に購入を迷ったが、その言葉で決心した。
「では、そのお薬をお願いします」
その一言で、隅田の顔が緩んだ。
「分かりました。早速、その方に連絡を取ってみることにします」
「有り難うございます」    
「いえいえ。こんな私でも、何とかお役に立てて良かったです」
「隅田さんには、感謝しかありません」
「これからも、どんな事でもご相談に乗りますので遠慮なく言って下さい」
「宜しくお願いします」
 隅田が帰った後、早苗は三百万円を用意するために銀行の通帳と印鑑を持って家から出ようとした。
 その時、偶然にもマリアが家に帰ってきた。その日は、朝からひとりで病院に行き、骨折した右腕と肋骨の様子や脳の検査を受けた。結局、正午過ぎまでかかり、午後の体育の授業を欠席して帰宅したのである。
  早苗は隅田から聞いた話をマリアにして、外出する間の夫の世話を頼んだ。するとマリアは、早苗にこう言った。
「お祖母ちゃん、あの人を信用してはダメだよ」
「ええ?」
突然のマリアの言葉に早苗は驚いた。
「全部嘘だからね」
「どうしてそんなことが分かるの?」
「どうしてだか分からない。だけど、あの人は間違いなく悪い人です」
「いや、隅田さんはいい人だよ。マリアのことも心配してくれたし」
「人を見かけだけで判断してはいけないよ」
「そんな事言ったって・・」
 実は、マリアは一度だけ隅田に会ったことがある。その日は授業が午前中だけであり、いつもより早い時間に下校していた。家に帰った後は、図書室から借りていた本を自分の部屋で読んでいたが、隅田が尋ねて来て顔を合わせたのである。
「貴方がマリアちゃんね。私は、以前から早苗さんと仲良くさせて貰っている隅田という者です」
 マリアは隅田の顔をじっと見つめていたが、一瞬怪訝そうな表情になった。
「マリア、黙ってないでちゃんとご挨拶なさい」
早苗がマリアに促した。
「マリアちゃん、そのままでいいですよ。今は気分が落ち込んでいる時でしょうし」
 椅子に腰掛けていたマリアは、本を持ったまま黙っていた。
「ご両親の事は、本当に気の毒でしたわね」
 その言葉にもマリアは反応を示さず、顔は不機嫌なままであった。どうやら彼女は、隅田から何かを感じ取ったようである。
「それじゃ、これからも宜しくね」
 隅田が部屋から出た。早苗はマリアの非礼を詫びたが、隅田は『まだ心の傷が癒されていないのでしょう。気にしてませんから』と、マリアの心情を思いやった。
  それから1ヶ月ほど経っていたが、マリアの頭の中には隅田の記憶がはっきりと残っていた。戸惑う早苗に、マリアは更に言葉を続けた。
「それだけじゃないよ。あの人はもうすぐ警察に捕まるよ」
「それは本当なの・・」
 マリアの強い口調に早苗は狼狽えた。普段は物静かで大人しいマリアが、自分の思いを判然と言っているのである。まるで透視が出来る占い師のようであり、早苗はその言葉を聞き流すことができなかった。
 思い当たる節があった。それは、2週間前の事である。マリアと二人で家に帰る途中、ある政治家が選挙のための応援演説を街頭でしているのを見た。通り過ぎようとした時、マリアがこんな事を口にしたのである。
「あの人は、もうすぐ死ぬよ。恨みを持った人に拳銃で撃たれてね」


 

 その言葉を聞いて驚いた早苗であるが、マリアの方に目を向けた時、彼女は平然としていた。
「マリア、そんな怖ろしいことを口にするもんじゃありません」
周りの人の目を気にしながら、早苗はマリアを叱った。
 ところが、家に帰ってから1時後に、『その政治家が銃撃された』という臨時ニュースがテレビで流れたのである。
  その後、政治家は搬送先で死亡したのであり、何もかもマリアの言う通りになった。決して、口から出任せの作り話ではなかったのである。
 その事実があったので、マリアの言葉を聞き流す事ができないのであり、『隅田を全面的に信用するのは危険である』と、早苗は感じ始めた。
「疑惑を持ったまま、高い薬代を払う訳にはいかない」
早苗は、隅田の調査を興信所に依頼した。
『念の為に調べておいた方が良い。マリアの言うことが本当なら、私は騙されていたことになる』
 早苗は早速、『三百万円は大金なので直ぐには用意できない。1週間待って欲しい』と隅田に電話を掛けた。
『そうですか。まあ、大金ですからね。でも、できるだけ早く用意してくださいね』と、いつになく少し不機嫌そうな声で隅田が催促をした。
  それでも、隅田は知っていたのである。仕事柄、マリアの後見人になっている早苗に死亡した息子の保険金が入っている事を。確かに三百万円は大金であるが、出せない金額ではない。必ず用意すると確信を持っていた。
 5日後に、興信所から「早急に連絡したい事がある」と、電話が掛かってきた。早苗は、その日の夕方に興信所に出向き、担当者からこう告げられた。
「隅田の近辺を調べましたら、とんでもない事が分かりました」
早苗は息を呑んだ。
「現在、隅田は顧客であった人たちから訴えられています」
「どんな事で訴えられているのですか」
「詐欺です」
「詐欺・・」
「何の効果もない漢方薬を高額な値段で売っていたのです」
「そのお薬で、95%の人が完治したと言っていましたが」
「嘘です。買って飲まれた方のほとんどが、未だに治っていません」
『やっぱり、隅田に騙されていたんだ』
早苗は、怒りで体が震えた。
「隅田は、認知症だけでなく、心筋梗塞や癌などの薬も扱っていました」
「そんな薬も売っていたのですか」
「3ヶ月過ぎても効き目がないと苦情を言うと、『漢方薬は効き目が遅いので、後1ヶ月分だけ追加をして飲んでみて下さい』を繰り返していたようです」
「病人を抱えて難儀している家族の弱みにつけ込んでいますよね」
「あまりにも効果がないので、その薬を製薬会社に調べて貰った方がおられました」
「疑問を持たれたのですね。それで、結果はどうだったのですか」
「詳しく調べると、どこの薬局でも売っているような精神安定剤でした。1ヶ月分が精々三千円程の価格で、百万円なんて有り得ない代物だったのです」
「ぼったくりですね。隅田の会社は、そのことを知っているのですか」
「いいえ、知りません。実は、隅田は既に会社を辞めています」
「ええっ」
「隅田の携帯に繋がらないので会社の方に電話をしてみると、『2年前に辞めています』と返ってきました」
「2年も前にですか・・」
「はい」
「大手の会社の社員であると思って信用していたのに・・」
「薬を売るチャンスを狙って頻繁に顧客の家に来ていたようですが、売って代金を受け取った後は、ほとんど来なくなったようです」
「どれくらいの人が被害を受けたのですか」
「まだはっきりとは分かっていませんが、私が掴んでいる限りでは100人以上になります」
「300万円の100人分と言えば・・」
「3億円です」
 早苗は、唖然とした。そして、マリアが口にしていた言葉を思い出し、人は見かけで判断できない事を身をもって感じたのである。
「間一髪で、被害を免れましたね」
「はい」
「隅田は内縁関係にある男といっしょに海外へ高飛びしそうですが、逮捕状を取っている警察が捕まえると思います」
「そうなることを願っています」
早苗は、胸をなで下ろした。
『それにしても、マリアはどうして分かったのだろう。隅田の詐欺にしても政治家の暗殺にしても、出鱈目に発した言葉とは思えない。2ヶ月前の交通事故が原因なのかも知れないが、そんな事で透視の力が備わるものなのか』
『いずれにしても、この事は私とマリアだけの秘密にしておこう。それを嗅ぎつけたマスコミが、マリアに押しかける恐れがある。それに、マリアの能力を好ましく思わない輩がいて、危害を加えるかも知れない』
 ようやく平穏な日々が送れているマリアに、何かの災いが降りかかるのは絶対に避けたいと考えた早苗は、『今までの事は、他人に口外しないように』とマリアに告げた。
 マリアは、祖母が自分を信じて被害を受けなかったことに安堵して、小さな声で「うん」と頷いた。
  後日、隅田はマリアの予想通り逮捕された。空港の待合室で、愛人の男といっしょのところを警察官に見つかり、手錠をはめられて拘置所へ送られた。

 

 

 入り口付近には、被害者たちと数人のマスコミが待ち受けていた。早苗はそのニュースをテレビで観ながら、『あれだけ香ばしい事を言っていたのにね。悪いことは出来ないものだね』と呟いた。
 隅田は犯行を認めず黙秘をしたままだったが、男の方はすべて隅田が仕組んだ事で、「自分は無罪だ」と言い切った。
 検察側は確固たる証拠を既に掴んでいるのであり、被害者たちの証言もあって有罪になるのは明らかであった。
 その事件から3ヶ月が経った。マリアの右腕のギブスが取れて、右手でお箸が使えるようになっていた。体育の授業は見学だけであったが、音楽の授業ではリコーダーが吹けてとても喜んだ。
  遠出するのに自転車に乗ろうとしたが、心配した祖母に『まだまだ早い』と許してもらえなかった。
  そうこうしている内にマリアは中学生になり、新たな学校生活が始まった。