簡単な各論を書きます。いくらか過激な内容と思える部分もあるかもしれませんが、あくまで個人的意見ということで、お願いいたしますm(__)m。
<ウクライナ>
今回、この件は戦争そのものの道義性を問うのではなくて、マスコミの報道が本当に正しいのか、という疑義について書いています。
ウクライナ軍の優勢というのが、連日マスコミで報道されていますが、本当なんだろうか?という疑問ですね。小国が大国に勝つ場合、例えば技術水準が一世代(半世紀、最低でも四半世紀)は先行でもしていないと、中々難しいと思います。他は本当に核兵器にでも頼るぐらいですね。
チャーチルは、ナチスに対し、あと半年反撃が遅れていたら、連合国はどうなっていたか分からない、といいました。ナチスに負ける可能性があったことを示唆したわけです。例えば米国の2002年に発表されたステルス戦闘機は、多分にナチスのホルテン戦闘機の発想を拝借していると思われます。その時間の経過は50年以上前のものです。他にも当時のナチスの技術は米国に渡り、ロケットミサイルやジェット戦闘機などの開発に使われました。ナチの技術が30年とか、50年先行していたといわれる所以です。

↑、既に退役しましたが、米国のF117。
そうでもない限り、大概戦争は資源のある国が強いですね。ナチスがスターリングラードを押さえようとした理由の1つが、隣接するボルガ川の補給路を断つことでしたが、結局ボルガ川から大量のソヴィエト兵が運ばれてきて、第2次世界大戦における、ナチスの本格的な、初めての敗戦になったといわれています。戦死者については圧倒的にロシア軍の方が多かったにも関わらず、結局ロシアは圧倒的な国力で押し返していきます。
先日ロシアが予備役を動員しましたが、これは30万人程度で、本来はまだ150万人以上います。
前提として、もとから、NATO全体でも、ロシア軍に敵うかどうかは分からない、といわれていたのに、本当にウクライナ軍だけで、どうにかなるとはいえないと思いますけどね。局地的な戦闘では勝ったりするかもしれないのですが、勝ち負けを繰り返しながら、結局最終的に戦闘がどうなるか考えると、マスコミの報道は微妙ですよね。本当にドンバスを取り返したいなら、NATOと共に米国がある程度まで前線に出て、優位を獲得しないと無理だと考える方が普通な気がします。
しかしNATOも米国もその気がないので、細々と、ウクライナ軍の戦いを存続させるために、兵器供与を続けているだけなのでは?ウクライナ軍が何時までもつか疑問を感じる方が常識的な気がしています。マスコミとか専門的な軍事関係者の国内の意見なんて、本当に信じてよいのか疑問ですね。
日露戦争のようなケースもありますが、今回はウクライナ同様、ロシアも民族問題がかかっているので、引かないと思います。
<LGBT>
最近はLGBT問題をやたらやっていますね。何でだろうとか思います。統一教会なんかは「家族」のあり方にうるさかったけど、彼らが叩かれ出したのち、日本国内で、表立って、この話が出てくるようになりました。
まあ「生産性がない」発言なども、自民党議員から、以前にあったといえばありましたが・・・。
美輪明宏さんが自身の体験を基にして、性的マイノリティーの話をしていらっしゃいます。同性愛を苦にして自殺する方の話など、やはり聞いていて辛いものがあります。彼らについては、本当に世間の偏見というものがあるのだと思います。こういう人たちの話を聞いたりして、問題解決を図るのは必要なことだと思います。
他方、現在起きているLGBT問題が、これらの問題の解決のためにあるかどうかは疑問があるところがあります。要は別の側面に進み過ぎなのでは?という懸念ですね。
それにしても、性の問題を扱うのは難しいですね。人間の性的嗜好は、直接その人間の本質に結びついており、社会性を超えてプライベートな嗜好性の対決となるため、直接的な意見が出やすくなります。故に性的嗜好性の違う人間を「気持ち悪い」という感情は、他者の嗜好性に同調しようとすれば、当然のように発生する感情でしょう。そしてこれは「少数派」のものに、より厳しく向く傾向はあるように思われます。
自分は同性愛嗜好性は持っていません。それ故ここに書く言葉は、偏見を免れませんので、それは初めに謝っておきます。
さて、どのような嗜好性持つ人間であれ、悪いことをしなければ人権は認められるべきだし、自由であるべきだと思います。それ故、人の上に立つような人間が、性的マイノリティーに対して、差別的な発言をするのは問題があります。
他方で今日みられるLGBTに対する解決法についてはどうでしょうか?ミスコンにトランスジェンダーが出場して優勝する。オリンピックにトランスジェンダーが出て活躍する。これらは悪いことでもない気もしますが、どうなのでしょうか?

↑、2022年、米国のミスコンでトランスジェンダーの、ブライアン・グェン氏が優勝。参加者の外は全員女性。110万円の奨学金を得たそうです。
女子選手の中にトランスジェンダーが加われば、体力差で男性のトランスジェンダーが有利になったりします。
また最近の海外のテレビドラマだと、割合普通に同性愛のカップルが登場したりします。また今年のグラミー賞では史上初めてトランスジェンダーのキム・ペトラスが受賞。

↑、右がキム・ペトラス。
こういう状況を簡単に「良い・悪い」で論じるのは難しいです。ただ欧米型のLGBT推進のやり方は、ちょっと問題があると思っています。
オリンピックにトランスジェンダーを出場させるならば、やはり別の枠を作るべきだと思います。他にもミスコンなどでも。タイなんかでは性転換者のみのミスコンなんかやっていたりします。
「差別」と「区別」は違います。やっぱり「区別」は必要だと思うんですよね。それがないと社会は混乱します。最近の論争は区別を差別といいだしている感じがあり、これでは混乱するばかりです。
「性」が違えば各自「差」が出ると思うんですよね。その「差」を原因にして「悪意」などを抱くのが差別だと思います。その「悪意」や、「社会的不合理」さえなければ、「区別」をはっきりさせること自体は、問題ないのでは?
非常に素人的な発想ですいませんが、個人的な見解を述べるならば、統計なんか取って、世のなかにどれぐらいトランスジェンダーなんかがいるかを調べて、新たに「第3の性」なり「第4の性」なんかというカテゴリーを作ったらどうかと思いますけどね。それを科学的な権威があるところが発表して、まず世間に認知させるとかの方が良いと思います。人間として、これらの人たちも、決しておかしなことではないという話です。そして差別してきた側の、反省が求められます。
確かにL(レズ)G(ゲイ)B(バイセクシャル)T(トランスジェンダー)というカテゴリー分けは簡単ではなく、とても複雑になる気もしますが、やる価値はあると考えています。
それでこの「新しい性」の概念を持つ人たちが、今ある社会との関わり合いを考察するために、1度シュミレーションするなり、実験的に進めるなりして問題点を洗ったらどうかと思いますけど。
今でも明らかに「女性」と「男性」という区別はあります。その「女性」のなかに「トランスジェンダー」が入って、体力差でトランスジェンダーがスポーツで優勝ともなれば、やはり「女性」たちは納得しないでしょう。こういうやり方をするから、話がおかしくなると思うんですけどね。
今のやり方は「急ぎすぎ」なんだと思います。結局TPOを考えて、状況ごとの判断がいるんじゃないんですか。
今ある欧米型のLGBT推進のあり方は、「差別」と「区別」をごっちゃにした拙速なやり方だと思います。だから、色々反感を持つ人も出てきているんだと思いますね。
LGBT問題を論じるなら、幾分いいにくいことも、いわなければならないはずで、それを差別だといいだすと、いわれた側は「逆差別」といいだすでしょう。いつもいいますが、まずは論議するべきなんですよね。急に誰が決めたか分からないルールを出してきて、これが正しいとやられても、簡単には通らないのではないでしょうか?

↑、レズビアンのナブラチロワ(元プロテニスプレイヤー)がトランスジェンダーが、女子テニスの大会に参加するのはおかしいといっています。やはりトランスジェンダーごとで枠組みを作った方が良いのでは?と思います。
<優生思想>
イェール大学の助教授、成田悠輔氏が高齢者の自殺を促すような発言をして、物議(特に海外で)を醸しています。

↑、高齢者は老害化する前に集団自決しろ、というような内容を語ったという話です。他の人たちも笑って聞いていたとか。しかもいっている本人は、まじめにいっているとかで、ちょっと空恐ろしい気がします。
年齢の高い低いにとどまらず、他者の生死を第3者が決める権利など本当にあるのでしょうか?仮に自分が死ななければならない立場になった場合、そうなった当人たちは、一体この問題の本質を、どう感じれば良いのでしょうか?「自分には死ねと・・・?」
成田悠輔氏に留まらず、最近テレビなどが持ち上げる、ホリエモン、ひろゆき氏、三浦瑠璃氏、古市憲寿氏などのコメンテーターは若者に人気という感じはしますが、その一方でかなり危ない印象も受けます。今まではいっていけないことだったのに、彼らはそれをあえていう、という感じです。そのおかげで人気を博しているのかもしれませんが。時には確かに、過激な発言も必要だと思いますが、それは本当に必要な発言なのか?
若者が回転寿司で、他人の寿司を舐めてみたりする行為は、これらと同様に、一種の炎上商法にも見え、目立ちたいとかという感情の発露にも見えます。
いじめについて | ヒマジンノ国 (ameblo.jp)
↑、古い記事なんですが、日本の指揮者、朝比奈隆氏が語っていた教育の問題です。要は中学、高校と子供と大人の分岐点なんですが、この時期の扱い方を現代は間違っているのではないかという問いです。
モラルとは? | ヒマジンノ国 (ameblo.jp)
↑、道徳や倫理は、本質的に、他人から押し付けられてしまうと、自主性が無くなります。これは本来ルールや法律で決めない方が良い案件です。
上で引用した、指揮者、朝比奈隆のいうところを再び掲載してみます。
「朝比奈
・・・(中略)・・・僕は今の教育制度を難しくしている原因は、戦後の新しい教育制度だと思います。それは、アメリカの行ったことにも責任の一端がある。つまり、中学校というものを小学校の上にくっつけてしまったことです。旧制の中学校は管轄も府県単位でしたから、今の高校と同じだったんですね。でも新しい教育制度は、今でいえば高校にあたる旧制の中学校のうち、最初の三年を義務教育へくっつけてしまった。小学校のあとを義務教育にしたこと、そこに問題がある。・・・(中略)・・・教育するほうの立場からすると、やりにくい部分がかなりあるんではないでしょうか。高校は義務教育じゃありませんから、試験を行って選別できます。・・・(中略)・・・とにかく、今の新制中学というものに無理があると思いますね。これはアメリカの占領政策なんでしょうけど。
宇野
いわゆる六三制ですね。アメリカはどういう考えだったんでしょうか。
朝比奈
日本の明治以来の教育制度をいっぺん解体したかったのでしょう。そこに日本という国の、国力の根本があるわけですからね。
・・・(中略)・・・幼年が少年になって大人になるちょうど過渡期が、こっちに付いているのか、あっちに付いているのかわからないのがよくない。」
個人的には回転寿司の若者の問題や、優生思想の問題などは、基本的に「大人になり切れない若者の問題」だと認識しています。
子供が大人になり切れない理由、つまり現実世界で、何かをしなくて過ごせる期間が延びてしまい、無駄に時間を持て余してしまうところにあるのかもしれません。
明治時代に大学に行くような人は、余程勉強ができる人でしたが、今日では必ずしもそうとも限りません。そのような中で、「現実社会」が本来教師となるはずの、「倫理」や「道徳」を学ぶタイミングを逸してしまうというのが、今日の若者に多く見られる現象ではないでしょうか?(自分もそう偉そうにいえるような人間ではありませんが。)
そして、そのような若者がそのまま今の自分に何の疑問もなく成長した姿が、上にあげたテレビコメンテーターたちの姿のように思えます(あくまで、個人的な憶測です、間違っていたらスミマセン(;^ω^))。
極端ないい分かもしれませんけど、申し訳ないですが、高齢者の集団自殺をほのめかすのは、やはり「犯罪者」側の心理であって、実際に生きている方々の心理を知らないから出てくる発想だと思います。いわゆる「ルフィ」たちと、何がそんなに違うのか?
有名な小説がありますよね。
ロシアの小説家、ドストエフスキーの「罪と罰」こそはこういった「優生思想」に対する全き対義語であって、人間がどんな理由にしろ、他者を殺すことを計画するのは「恐ろしいこと」だという認識を持つべき案件だと、教える内容のものです。

そして他者をどんな形であれ、貶めたり、殺そうとしたりする行為のもとになっているのは、この場合「目立ちたい」とか、時には「ずるをしたい(他人より優位にたちたい)」という感情が後押ししている可能性があるということです。自意識過剰な人間はあえて過激なことをしたがりますが、これは幼い人間のありようです。そこにあるのは正に「愛の欠如」そのものです。
そしてこのような人間が、そのまま成長すれば「知恵のある獣」になるのだと、ドストエフスキーは警告していました。
フョードル・ドストエフスキー6 | ヒマジンノ国 (ameblo.jp)
↑、ドストエフスキーの記事のまとめの部分です。
「優生思想」のような発想を表だってするようなこと自体、社会問題なんだと思いますが、政治家などほぼ無関心です。
また、このようなコメンテーターたちの意見は各論では同意できる内容だったりしますが、総論では物事を解体していくというところも問題です。自分にいわせれば「嘘」と「真実」を織り交ぜて喋っているだけで、全体の利益を考えて喋っているかは疑問があります。
朝比奈隆やドストエフスキーにしろ、先人たちは多くを見抜いていたと思うのですが、結局何ら生かし切れていないというのが、現代の悲劇です。