映画の「TAR」(ター)を鑑賞。好きな映画でもないんですが、感想を書くべき内容だなって思います。で、ちょっと書きます。
近ごろアバドの演奏したマーラー5番のLPをよくレコード屋で見ていたので、何だろうと思っていたんですが、この映画の布石だったようです。
↑、映画の中でも出てきますが、主人公ターをアバドに似せようというアイデアです。実際にドイツ・グラモフォンからサントラとして発売されているようです(余談ですが、映画のなかで出演者はグラモフォンのことを、いつもDGといっていました)。またTAR(ター)はARTをもじった名前だとか。
以下、ネタバレあります。
非常に難しい映画で、1回観ただけでは全部分かりませんね。一応、今回は分かった部分だけ書きます。
要は、権力とか権威の持つ無意味さを、クラシック業界を題材に映画化していて、一見高尚に見えるクラシック音楽にしろ、究極的に、その権威は本物なのかと問うています。クラシック業界の暴露的な意味合いもありますかね。鑑賞しながら、何度かアマゾン・プライムの「モーツアルト・イン・ザ・ジャングル」を思い出しました。
架空の人物、リディア・ターという女性指揮者が、世界楽団のトップ、ベルリン・フィルの監督にいます。一応設定では、彼女はレニー(レナード・バーンスタイン、米国初の大指揮者)の弟子で、マーラーの解釈に一家言あるという風です。当然これは架空の人物なんですが(バーンスタインは実在する有名な人物)、クラシック音楽の知識がない人には分からないかもしれないですね。(監督にいわせると、ター自身が語っている、レニーとの関係の言説は、この主人公の妄想ということらしい。しかし映画を観ているだけでは分からないです。時系列が合わないらしい、という話です。そうなってくると、後半自宅でレニーのビデオを、涙目で見つめるターの姿は、中々不気味です。)
そして、マーラー5番の演奏をフューチャーしながら、今日的なLGBT、あるいは、キャンセル・カルチャーなどを含めつつ、権威的なものの崩れ行く様、あるいは現実世界の権威に対する反対のテーゼなどを提出します。
非常にリベラルな映画で、単純な自分のようなクラシック・ファンには、ああ、「この監督とは音楽に対する感じ方は違うな」、と感じることが多いですね。自分なんかは最近、クラシック音楽に関しては古典的な価値観の方が良いと思い始めています。しかしこの監督はそこに疑義を提出しているんですね。何だか、アドルノの音楽論文でも読んでいる気になる映画でした。だからこういう話題も、実際新しい話でもないとは思います。映画でやっているから面白いのかもしれません。
マーラーの交響曲5番の第1楽章の葬送行進曲、第4楽章のアダージェットのリハーサル・シーンがちょろちょろと出てきます。第1楽章は葬送行進曲ですから、なんかちょっと暗示的だな、という印象です。冒頭のトランペット吹かせるシーンをやらせてね。(多分5番はマーラーのプライヴェートな問題を扱っていて、愛情と疑念がテーマなので、この映画に使われたと思います。当然マーラーの音楽ということは、19世紀のものと20世紀のものとの橋渡し的な意味合いもあるからでしょう。時代の変化を描いている、ということです。)
他にもアダージェットは、作曲家マーラーが、後に妻になる女性、アルマに対するラヴ・レターだといわれていますから、一応、愛情の問題も絡めている、この作品のテーマに合います。(ルキノ・ヴィスコンティの映画のことをいう人もいますが、個人的には関係ないと思いますけど、どうなんでしょうか?アンチという意味合いならありうるのかもですが。映画のセリフの中でも、日本語訳されない部分で、一部言及しているそうですが。)
主人公のターはレズビアンで、女性の妻と養子の子供もいます。他にもこの作品には「全愛的」という男性などが出てきて、「性」と「愛情」に対するテーマも提出しています。
他方で主人公のターは権威的で、そういう人物にありがちな、「自分の好きなことを優先する」傾向を持ち、それが元で次々と破滅の原因を作っていきます。彼女は権威を基に、好みの女性の性的搾取をしているような描写もあり、実に複雑です(話題の日本の某芸能事務所のようですが)。
そして主人公のターが、自分の先達に警告を受けるシーンでは、少年性愛で告発を受けた指揮者、J・レヴァインの話や、付き合っていた女性にDVを振るっていたC・デュトワ、非ナチ化の問題があった(実際にはナチスではなかった)フルトヴェングラーの話などが出てきて、クラシック・ファンには、おなじみの話といったところでしょう。他にももっと面白い話も出ていましたが、度忘れしました(汗)。この辺はうがってみれば、実話を並べて、旧時代のキャンセル・カルチャーが描かれているといっても良いかもしれません。
結局彼女は色々な問題が明るみに出て、破滅し、代役の指揮者を聴衆の前で指揮台から叩き落すという行為に出ます。ここのブランシェットの登場シーンは、マーラー5番の冒頭、トランペットの鳴る中で行われて、破滅への葬送行進曲ということになります。音楽の伏線の回収ということです。この辺が物語の頂点っぽいですが、どのシーンも描写が実に淡々としていて、それほどの驚きもなく進みます。
もう少し話は続いて、キャリアを失ったターは東南アジアで、新たなスタートを切ろうとします。多分場所はベトナム?(「地獄の黙示録」の話題が出てきます。何かの皮肉を描いていると思いましたが、恥ずかしながら「地獄の黙示録」は観てないので理解できず)でしょうか。
ベトナムの交響楽団を指揮しようとする、ター(追記:後日調べたら、撮影場所はフィリピンらしいです、すいません)。楽譜から作曲家の書いたことを読み取ろうというようなセリフがあり、まじめにスコアを研究する様子も描かれます。
そして遂にラスト、キャリアを失った指揮者ターの演奏が始まると、演奏された曲はゲームの「モンスター・ハンター」の音楽で、会場はコスプレした若い聴衆で一杯というオチ。はっきりいって、このオチがこの作品で1番衝撃的でした。
オーケストラで演奏される、ゲーム音楽と、クラシック音楽のどこにそんな差があるのか?といわんばかりのオチです。確かにこれは一理あるんですが。
<総論>
非常に現代的なテーマを扱っていて、芸術にしろ、他のジャンルにしろ、SNSの発達によって脅かされる権威の存在を、批判的に描いていると思います。またふんだんな情報を映画の中に盛り込むことによって、いくつもの発見が起こるように制作されているようです。ですので、音楽や映画についての、それなりの予備知識がないと面白くありません。
映画的にはスリラーやホラーの要素も取り込んでいるようで、自分は全く気づきませんでしたが、わざと幽霊のような者が画面に移り込んでいるような演出もされているようです。それだけ繰り返し観てみると新しい発見があるように作られているようですが、ナボコフの小説ロリータではありませんが、自分はそんなに繰り返し観てみたいとは思いません。
よくいわれているのが、ケイト・ブランシェットの熱演が凄いということでしょうか。確かにその通りでした。チェロと女優業を兼任しているというソフィー・カウアーの存在も印象に残りました。
クラシック音楽に関する個人的な意見を述べさせてもらえば、こういう描き方はあんまり好きではありません。「モーツアルト・イン・ザ・ジャングル」のように冗談めている方が、やり方としては正解だと思います。
監督は確かに、芸術に造詣が深い人物だと思います。色々知っているわけです。ところがアドルノの論文がそうであったように、知識が深く、かつ、指摘が的確であっても、総論としてみると結局物事を破壊している。しかも、破壊していると思われないように巧妙に破壊している、という印象を受けました。
ここまで書くなら、実際の権威の「力」になっている部分の、芯のところはちゃんとどこかという指摘と、必要以上に持ち上げられる「権威」の部分をもっと細かく的確に描くべきかと思います。個人的な感想ではありますが。
確かに現代は「権威失墜」の時代で、次々とそれが起こっています。そして人々はよりどころを失っていきます。しかし、他方どうしても必要なことは残るので、そこが何かという話題もないと、観た人は野放図な世界に放り出されます。この映画を観て、「何がいいたいのか分からない」と思った人たちの心境は、そんなところから来ているのだと思います。
そして最後のオチも、非常に冷笑的で、何者かを馬鹿にしています(観方にもよるんですが、監督はそういうつもりはないと思います、しかし、深層心理は出ている気もします。好意的にみるならば、クラシック音楽から権威を外せば、底流する感動の質は、必ずしもゲーム音楽などとは変わらない、という回答でしょうか?感動そのものに、上下という格付けは不要ということかと思われます。)
あんまり後味は良くないですね。まあ、知識人とかはやたらこの作品に興奮して、批評している方もいます。それなりの評価があって、当然ではあります。色々な情報がパズルのように嵌まる面白さ、とか感じたりして、映画としては良くできているということです。
そのことと提出されているテーマへの回答とか、真摯さはまた別物ですよね。個人的にはその辺が、あまり好きにはなれませんでした。
Orquesta de camara de merida tema Lilium Elfen lied por Serenity (youtube.com)
↑、おまけ、日本のアニメソングが外国で認められて、聖歌隊などで歌われている曲の1つです。エルフェンリートのリリウムという作品です。
















































