ヒマジンノ国 -14ページ目

 ヒマジンノ国

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インディ・ジョーンズ5を鑑賞しました。ハリソン・フォードが今作でジョーンズを引退するという作品です。

 

インディ・ジョーンズ・シリーズは人気があります。しかし自分は嫌いではありませんが、そんなに好きなシリーズでもないです。今回は時間があったので初日に鑑賞しました。

 

自分がこのシリーズの苦手なところは、あの悪ノリというか。おふざけな映画なのは分かっているのですが、雑なストーリー、都合の良い展開など。好き勝手に人の乗り物を奪ったり、割とあっさり人を殺したり。こんな事ばっかりいってると、映画は観れなくなりますけどね。ただこのシリーズは、有名な割に、他の映画より、雑な印象が強いですね。シリーズ4作目の最後で宇宙人が出てきたときは、このシリーズも終わったな、と思ったりしましたけど。しかし、続編の登場です。

 

・・・とはいいつつも・・・今回は面白かったので、感想を書きます。

 

このシリーズは、数々の有名な「古代の遺物」が登場します。聖書のアークとか、クリスタル・スカルとか。今回はアンティキテラ島の機械ですね。当然本物とは違うものになっていますが、それを基に想像された物語ですね。日本では恐らく有名でない遺物だと思います。

 

話をちょっと横道にそれます。

 

1901年にエーゲ海の、アンティキテラ島付近に沈んでいた古代の沈没船から、27の歯車からなる不思議な機械が発見されました。紀元前60~70年ぐらい前のものだそうです。古代のワイン壺や、彫刻の外に、この見慣れない機械が見つかったのです。これをアンティキテラ島の機械といいます(アルキメデスが作ったといわれている)。

 

シラクサの戦いで、ギリシアからローマに奪われたものです。

 

 

これを現代の研究者たちが、何十年もかけて詳しく調べた結果、惑星の「食」の周期を予測するものであることが分かりました。古代の高度な天文学から導かれた機械で、2000年前に作られたとは考えられないような精巧な品物です。非常に込み入った歯車式(金属製)の機械で、現代の水準でも精度の高いものであることが分かりました。歯車の歯の数を使って、太陽系の天体の動きを表現しています。

 

この機械が後にアラビア(6世紀ぐらい)に渡り、その後ルネサンスのヨーロッパに逆輸入(13世紀ごろ)されることで、時計の原型になったものともいわれています。

 

紀元前の時代にこれだけ精度の高いものが存在していた、ということが現代の学者に非常な驚きを与えました(機械の全容が分かるまで、発見から100年近くかかっている)。

 

 

↑、アンティキテラ島の機械の完成模型です。古代では「食」(日食や月食)は不幸の前兆と思われており、それを予測できる技術が望まれていたようです。そしてこの機械は、それを正確に予測できました。

 

ということで、これが多分今回の映画の遺物のモデルです。当然、実際の物より誇張して描かれています。しかし映画の中ではこんな解説もなく、登場します(知らなくても楽しめる内容かと思います)。

 

このシリーズはJ・ルーカスが子供の時に思い描いた、冒険活劇の具現化なんでしょう。いつも通りのカーチェイスあり、世界を股にかけた冒険ありで、楽しかったです。

 

モロッコでのカーチェイスなど、相変わらず無茶苦茶ながら、良く練られていて中々興奮しました。水中のシーンや、冒頭の若いインディ・ジョーンズのシーンなど、多分CGをうまく使って作っているんでしょうけど、全然おかしくありませんでした。技術の発展はすごいと思います。

 

今回の物語のオチも奇想天外で、ちょっとびっくりです。ネタバレになるので書きませんが、自分はおかしくってちょっと笑ってしまいました。馬鹿々々しくて、かなり面白かったかな。

 

年老いたインディ・ジョーンズの描き方も良かったと思いますね。

 

有名人物の最後のシリーズは悲劇で終わることが多いですけど。これはそうではないですね。

 

もしかしたらディズニー辺りが2代目インディ・ジョーンズとか作りそうな気もしますけど。1作目の「失われたアーク(聖櫃)」の公開が1981年ですから、40年以上かけてこのシリーズも、遂に完結ということになるんじゃないでしょうか。

 

幾分名残惜しい気もしますが、今回のインディ・ジョーンズは娯楽大作として、期待を裏切らない映画でした。

 

25日、マルク・ミンコフスキ指揮による、ブルックナー交響曲5番を鑑賞。池袋の芸術劇場にて。

 

久しぶりに実演のブルックナーです。期待して行きました(^o^)。

 

ミンコフスキの得意なジャンルはバロック音楽。そっちの方の権威といって良いのかもしれません。フランス人の名指揮者でしょう。自分もラモーとリュリのオペラの録音を持っています。そんな指揮者がロマン派後期のブルックナーを演奏します。

 

ミンコフスキも実演では初めて聴きます。

 

 

↑、丸っこいおじさん指揮者でした。

 

割とツイッターは絶賛の嵐のような気がしますが、どうでしょう。少数派ですが、ちょっと早すぎてついていけないという人もチラホラ。自分も聴いているうちは後者でした。ちょっと期待外れかな〜、なんて感じたりもしました。

 

芝居気のない指揮ぶりで、この曲も持つ、壮大な空間性は薄く、マッシヴな印象でした。バロック音楽のような感じで、飾り気もなく、ずんずん進みました。

 

音色は流石に清澄で、特有のオルガンのような響きは出ていました。確かに美しいは美しいですが、旋律や曲の内容を解きほぐすよりは、純音楽的演奏という感じです。個人的には「タメ」が欲しい部分や、もっと引き延ばして欲しい部分もあるんですが、ミンコフスキはそんなこともお構いなく、あっさりやっていきます。

 

しかし反面、力こぶはかなり入り、ホールを埋める大音響は素晴らしかったです。こういうのがないと、ブルックナーとかマーラーは面白くありません。ただ大音響のないところは、先も書きましたが空間性が薄く、端的でバロックのようです。

 

ただ第3楽章までは何だか目新しさもなく、実はちょっと飽きていました。多分、昔耳がタコになるぐらい、ブルックナーを録音で聴いたせいです。これぐらいの演奏なら、まあ・・・という感じでした。純音学的な感じとしては、充実感があるという感じではないでしょうか。

 

ただフィナーレは面白かったです。

 

フィナーレが1番は早かったんじゃないですかね?あれだけ早いと音楽のスケールは幾分落ちるんですね。ただ、ちょっと退屈していたので、変化があって面白かったです。2重フーガもゴリゴリ進みます。都響も良くあのテンポについていきました。

 

そしてコーダ。この曲の最大の聴きどころで彼は爆発。ここは素晴らしかった。なんというか、自分は、開放的な世界に大音響で放り出されるような感じがないと、ちょっとブルックナーを聴いている気にならないので、最後になって、やっとという感じです。ウーンこういうのが欲しかったんです、みたいな。

 

コーダは、第1主題を土台として圧倒的なこの世への賛歌(コラール)になりますが、確かに賛歌になっていました。涙ぐんでしまいました。中々神々しかったです。最後に帳尻があって、満足しました。

 

70分ぐらいの演奏時間で、ずいぶん早めに終了しました。

 

何だか新しいブルックナーだと思いますね。面白いといえば面白いのかな?

 

堤未果さんの「堤未果のショック・ドクトリン」という本を読みました。おそらく今後日本でも起こってくるであろう、政府の横暴などについて詳しく述べたものになっています。

 

1度読めば、転ばぬ先の杖になるのかもしれません。

 

LGBT法案が決まってしまい、日本の政治家や官僚が、どれぐらい外国の政治家や、起業家の考えている基準で、自分たちのキャリアを図っているか、目に見えて、分かってしまいました。LGBTに関しては駐日米国大使のエマニュエル・ラームが扇動しているといわれ、日本国内でデモに参加し、内政干渉といわれていました。ふざけた話ですよね。これにノーといえない政治家も情けないです。

 

LGBT法も、おそらく大半の日本人には、必要のない法案という認識のはずです。

 

 

しかし我々の思いとは裏腹に、政府からは何の批判もありません。

 

ちょっと話はずれますが、なんで事前に「統一教会」が批判にさらされたのか、今回の件でよく理解できました。「統一教会」の教義など、ひどいものですが、しかし「家族」を基にした教義ばかりだったので、おそらく邪魔になったのでしょう。安倍さんともども葬ってしまいたかったのでしょう。

 

いずれにせよ、LGBT法案が施行されれば、今度は子供たちが狙われるので、親御さんたちは注意が必要です。LGBTが国策になるということは、学校でも普及させるということになりかねません。

 

 

子供庁はLGBT推進以外にも、その支援団体によって次のような施策を用意しているともいわれています。

 

以下はかなり不気味な内容です。

 

 

 

異常な考えですが、一般の人々が思っているより、真面目に議論されています。ここにはマルクス主義が反映されており、子供庁の支援団体の1つが提言をしているようです。以下はネット上の解説です(高橋史郎氏による)。

 

<●「日本型包括的性教育」の構築に向けた留意点

 

 次に、「グローバル性革命」思想に基づく「包括的性教育」についても補足しておきたい。ガブリエル・クビー著『グローバル性革命』によれば、1968年に起きた学生運動によって急進的なフェミニズムと性の解放を目指す性革命が始まった。性に対する認識を根本的に変革することを目指す世界的な戦略である「性革命」を主導するジェンダーイデオロギーの思想的淵源は家族破壊を目的とするマルクス主義にあった。

 性革命論者は、性道徳を固守する人を嫌い、「差別禁止法」という欺瞞的な悪法を成立させて、その法律に反する人を「逆差別」し、弾圧することを狙っているという。彼らが性革命を実現するために取り組んでいるのが「包括的性教育」で、性に対する道徳的制限を撤廃し、ゆりかごから幼稚園・学校に至るまで、ジェンダー平等イデオロギーを子供たちに注入することを狙っている。

 

 1991年に米国性情報・性教育評議会が『包括的性教育のためのガイドライン:幼稚園―12学年』の初版を出版し、社会の変化等に伴って、米国政府による性的行動の節制教育と避妊教育の両方を含むガイドラインが2021年に米国保健福祉省によって作成されるに至った。

 1999年に「性の権利宣言」を採択した「性の健康世界学会」会長によれば、同宣言は1960年~1970年代の性革命に続く史上3番目の性革命であるが、その後「性の権利」概念をめぐる議論が紛糾し、国際家族計画連盟等が改訂作業に加わり、2014年に同宣言が改訂され「包括的な性教育への権利」が盛り込まれた。

 2016年に「性の健康とウェルビーイングのためのグローバル諮問委員会」が従来のネガティブ・アプローチをポジティブに転換する「トライアングル・アプローチ」を提唱し、性の権利と性の健康と性的喜びを統合し、2019年に次のような「セクシャル・プレジャー宣言」を発表し、昨年の「世界性の健康デー」のテーマに採用された。

「人間に性的喜びをもたらす経験は多様であり、(それ故に)喜びがあらゆる人にとって肯定的な経験でありつつ、他者の人権とウェルビーイングを侵害して得られるものではない。これを保障するのが、性の権利である。」

 8月に開催された第50回記念全国性教育研究大会において、特別講演を行った全国性教育研究団体連絡協議会の野津有司理事長(筑波大学名誉教授)は「日本型包括的性教育の構築に向けた実践上の留意点」として、①学習指導要領を正しく理解し、実践する拠り所を明確にして、教職員の共通理解を図って取り組む、②各教科の内容との関連性や児童生徒の実態を踏まえて教材等を工夫する、③家庭・地域との連携を推進し、保護者や地域の理解を得る、④集団指導と個別指導の連携を密にして効果的に行う、の4点を挙げ、「低年齢段階における性教育について、家庭との役割分担と連携の在り方を具体的に検討すること」などを課題とした。

 「幼児期からのジェンダー平等教育の実施」を掲げる欧米の「包括的性教育」を根本的に見直し、「過激な性教育・ジェンダーフリー教育の実態調査」を踏まえた中教審答申に基づく性教育の「歯止め規定」に立脚した日本独自の「日本型包括的性教育の構築」として提唱する野津理事長の問題提起は高く評価できる。

 クビー著『グローバル性革命』によれば、「包括的性教育」の基本文書「欧州の性教育標準」(WHOと独連邦健康教育センターが2010年に発刊)には、具対的な年齢別性教育の内容が次のように明記されているからである。

・0~4歳:裸の状態と身体と性同一性を探求する権利がある。
・4~6歳:時慰行為を通して自分の体に触れる楽しさの情報が与えられなければならず、同性に向かう友情と愛、秘密的な愛と初恋、権利に対する認識を学ばなければならない。
・6~9歳:様々な避妊方法、インターネットを含むメディアでのセックス、自分の体をタッチする時の楽しさと喜び(自慰行為等)、自ら自分の体を点検し、性的言語を使用し多様性を受け入れなければならない。
・9~12歳:最初の性体験、性行為の多様性、避妊薬とその使用法、快楽、自慰行為、性的権利等について学ぶ。性的な経験をするか否かの意識的な決定を下さなければならない。
・12~15歳:コンドームを使用する技術を学ぶ。ポルノを扱う方法を習得する。
・15歳以上:処女膜と処女膜再生、同性の関係での妊娠、避妊サービス、性別出産、性売買について学び、妊娠および親になることと関連した多様な「文化的・宗教的規範に対する批判的見解」を身につける。

(「包括的性教育」の基本文書「欧州の性教育標準」より)

 クビーはこの「包括的性教育」は子供たちを「性的強迫の深淵の中に溺死させ」、親の子供を教育する権利と文化的宗教的規範を破壊し、若い世代に伝えなければならない性道徳の価値を全面否定している点を厳しく批判している。さらに、自慰のススメ、性行為のススメ、中絶のススメによって、「全世界の若者たちが自分のまだ生まれていない子供を殺害(中絶)できる『権利』を持つ必要はない」と批判している。>

 

LGBT法は、日本人の性観念と、家族制度の破壊が目的と思われます(多分そうはならないとは思いますが・・・)。

 

しかし、自民党政調会長の、萩生田議員などは「統一教会」とズブズブの関係でしたが、今度はLGBT推進に回り、見ているだけでも見苦しいものがあります。本当に信用できません。

 

統一教会の教義など擁護するに足りませんが、しかし、ギリギリ擁護するのなら、「家庭」という観念は守ろうとしていたように思います(当然「家庭」の観念を捻じ曲げて信者から搾取を繰り返していた)。多くの自民党議員はこの「統一教会」から支持を受けていたはずです。確かに現状「統一教会」は解散される可能性が出てきました。

 

とはいえ、彼らから支持を受けていた議員たちが今度は急にLGBT法の賛成に回るというのは、ちょっと理解しづらいものがあります。結局、彼らの多くは、政治思想も信条もあったものではないということでしょう。

 

第2次世界大戦中、米軍の捕虜になった、小松真一氏は戦時中の出来事を日記にして残しており、それが「虜人日記」として刊行されています。その中で日本軍が戦争に負けた理由の1つとして「思想的な徹底性のなさ」が挙げられています。

 

今の自民党員をみていると、まさにそのままで、場しのぎ的な考えしかもっていないのでしょう。

 

かつて陸軍大臣だった、杉山元という男がいました。しかし大臣ながら、彼は凡庸で、大した意見もないのに偉そうにふるまっていました。盧溝橋事件が起こった時も、省内を納めることができずに、ついたあだ名が「便所のドア」だったそうです。その心はといえば「押せばどちらにでも開く」(多分の当時のトイレはそうだったのでしょうね)。

 

こう書くと、単に悪口になってしまうかもしれませんが、まさに今の自民党こそ「便所のドア」です。

 

さて、ショック・ドクトリンについては他にも色々問題ある政策が世界中で進められています。しかし、近ごろはこれらの政策に、世界中で「おかしい」と思い始めた人たちが増えていて、デモを起こしたり、法案を廃案に追い込んでいます。

 

先日は日本のマイナンバーカードのことを書きましたが、世界規模でもまた似たようなことが進められようとしています。

 

 

 

WHOなどは、未だにワクチンパスポートを強制させるべく、意見をしています。こうした事柄が、世界中でのデジタル管理やスマートシティ(いずれ市民を区切られた地域でしか生活させないようにする構想)などに結びつけられ、一般市民の管理や誘導に使おうという話です。

 

こういう危ない話が、最近は臆面もなく世の中に出てくるようになりました。市民の側から意見をして、政治家や政治を変えていかないと、こういう流れに飲まれてしまいます。

 

そして、「仮に」こういうおかしな政策が通ってしまうと、この流れの先にある社会が、一体どんなものになるのか、よく考えてみる必要があると思います。

マイナンバーカードの杜撰な管理が問題になっています。さらにカードの所持は任意だったはずが、健康保健証と紐付けされて、実際には強制になったのと同様です。個人の重要情報は分散して管理するのが基本なのに、マイナンバーは個人情報を1か所にまとめてしまうというもの。4桁の暗証番号で、いずれ保険証番号から口座番号まで、全部分かってしまうようになる可能性があります。

 

国家による総合管理が始まろうとしています。まるで全体主義国家です。全然多様性じゃないよね。

 

世界的に個人情報の管理は1か所にまとめないような動きになっているのに、今の日本は狂っています(しかし、国民に番号を振った、似たような制度は各国存在しているようです)。

 

 

日本政府は、元々国民総背番号制を導入しようとして国民の反発にあい失敗。その後、住基ネットとして復活し、これも杜撰な管理で2000億円を計上し、ほぼ失敗。それでも懲りずにマイナンバーカードを導入しようとして、加入者が少なくて、強引に加入させるべく、各種重要な個人情報を紐付けしようとやっきになっています。さらに加入者は、2万円のマイナポイントが入るといいますが、これに政府は2兆円以上(!)も使っています。本当に無駄使いでね、ちょっと泣けてきます。酷い話ばかりに本当に嫌になります。何回同じことを繰り返すの?と思いますよね。

 

必要性がないんですよ。いい加減国民も気付かないと、と思いますよね。銀行口座を紐付けされれば、いずれ預金者は貯蓄税などがかかるのではともいわれています。これも電通などの利権が絡んでいるといわれているんですね。

 

こういう話を周りの人に伝えても、「自分が生きている間だけもってくれればいい」とか「あと30年何とかなってくれればいい」とか平気でいうんです。

 

結局そういう人は「自分のこと」しか考えていないんですね。そういう人ばかりの世の中が選ぶ政治家は、今のような「おかしな人」ばかりになるという典型です。そして世間ではこういう生き方を「保守」だというのも、まいってしまいます。

 

問題ある政治家は選挙で落とさないと駄目なんですよ。全然民主主義でもなくて、衆愚なんですよ。

 

自分はマイナンバーもいずれは頓挫すると踏んでいますが、しかし今の世の中の人たちはあまりに鈍感すぎますね。批判めいたことを書いて申し訳ないんですが、もうちょっと勉強すべきだと思いますよ。こういう話も、ずっと昔から書いていますが、政治家に身ぐるみはがされてからでは遅いんですけどね。

 

昨日はオペラパレスでR・シュトラウスの「サロメ」を聴いてきました。ヴェルディかプッチーニにしたかったのですが、タイミングがあわず、何故か(?)「サロメ」に。オッフェンバックもタイミングがあったのですが、主要キャストに日本人が多く、こちらは諦めました。個人的には去年の「薔薇の騎士」で分かったのですが、日本人キャストが多い公演は、どうしても劇のファンタジーが薄れるので、できるだけ止めることにしました。

 

今回は主役級4人が外国の歌い手で、良さそうでした。

 

ただ「サロメ」は心地良い作品でない印象が強く、若干不安でしたが、実際出かけてみると、公演は面白くて非常に良かったです。

 

多分以前全曲を聴いたのはK・ベームの録音で20年ぐらい前だった気がします。随分面白くない音楽だと思って聴いた気がしましたが、やはり録音で聴いているだけでは何も分からない音楽だというのを痛感しました。

 

 

↑、K・ベームのCD。

 

これは劇音楽で、「音楽をそのものを聴く」というよりも「劇」そのものに音楽が奉仕することに意味があり、それでこそ効果を発揮する音楽なのだと思い知らされました。

 

R・シュトラウスの作品では、「サロメ」だけでなく、「エレクトラ」や晩年の傑作といわれる、「影のない女」なども録音だけで聴いていると、あんまり面白くありません。逆に「薔薇の騎士」や「アラベラ」は音楽だけ聴いていても面白いです(違う意見の人もいるようですが)。

 

多分年のせいもあるんだと思いますが、若い時に「サロメ」に抱いていた印象は暗くて、薄気味悪い感触でしたが、実演では、シュトラウスの特有の陶酔感のある、かなり美しい音楽なのだと分かりました。

 

指揮はコンスタンティン・トリンクスで、響きは柔らかいながら、シュトラウスの巨大な音楽を1時間40分良く鳴らしていました。音楽を聴いていると時間がたつのが早く、体感では1時間ぐらいで終わった気もしました。

 

そして予想通り、主役の4人は劇サロメの役柄そのままに見え、かなり楽しかったです。

 

主役のペンダチャンスカ嬢は、もうちょっと演技してほしい気もしましたが、歌は良かったです。ヘロデ役のイアン・ストーレイとヘロディアスのジェニファー・ラーモアは、歌も演技も含め、確かにヘロデとヘロディアスの、背徳の夫婦にしか見えませんでした。

 

 

↑、アレクサンドリー・ペンダチャンスカ。

 

ハンサムな預言者を演じるトマス・トマソンは演技もうまくて面白かったです。

 

 

「サロメ」の原作はオスカー・ワイルドだそうですが、読んでないので良く分かりません。シュトラウスは内容をかなり変更しているらしいです。ただ、サロメの物語自体は新約聖書の有名なもので、昔からいろんな芸術作品の題材になっています。

 

聖書ではバプテスマのヨハネ(オペラのヨハナーンのこと)の首をはねるのは、母ヘロディアスが娘のサロメをそそのかすからですが、このオペラではサロメ自身の意思によって、ヨハナーンの首をはねさせることになります。

 

肉欲と、少女の淡い恋心をコントロールできないサロメは、自分の欲望のためにヨハナーンの首をはねさせ、欲望を満たすために「血の味がする」といいながら、首だけのヨハナーンの唇に接吻をします。これを見たヘロデ王はサロメを怪物だといい、命を奪います。

 

サロメはオペラの中で、聖書の物語に比べて、より「サイコパスな女」に仕上げられており、初演時は「不道徳だ」といってセンセーショナルな騒ぎが起こり、上演を拒否する劇場も多数ありました。

 

ただ今となって見ると、これを書いた側は人間が何故こういうサイコパスな人間になってしまうか良く分かって書いており、美しい音楽の中で繰り広げられる悲劇を、好意的に受容するのなら、人間という存在の理解が進む内容になっていると思いました。聴きに行って良かった公演でした。

 

今週末はブログを休みます。

今年はブログをさぼるつもりでしたが、なんだかコツコツ書いてる気がします。

 

先日眼の検査をしてきました。視野検査と眼底検査です。特に何ともかったので一安心です。ただ、最近はテレビ・ゲームなんかやっているとかなり目がつらいです。ゲームは少しだけ、やりたいと思ったものだけやっています。

 

最近のテレビ・ゲームは非常に優れていますね。エンターテインメントとしてかなり秀逸だと思います。

 

先日PS4で「ホライゾン」の続編をやりました。

 

 

舞台は未来世界ですが、文明が崩壊していて、機械の獣が暴れている、みたいな設定です。SFとかファンタジーとか色々な要素が混じりあっていて、ストーリーも良く出来ていました。

 

グラフィックも綺麗ですし、音楽も良かったです。

 

ユーチューバーの、カナダ出身のヴォ―カリストが、一部曲をカヴァーしています。

 

Horizon Forbidden West - In The Flood - Cover by Rachel Hardy feat. Anna Gold - YouTube

 

このゲームは、世界中でローカライズされているみたいですが、エンドロールのクレジットの長さに驚きます。一体どれぐらいの人が関わっているのか?各国に翻訳、音声を付けるだけで世界中の人材を必要とするはずです。さらに本編も、物語、美術、音楽など専門的に特化した人たちがいないと、こういうものはできないと思います。遊びでは作れないというか。

 

規模やスケール、ゲームの内容にしても、ハリウッドの映画と比べても遜色ないな、と感じました。それ以上かもしれませんね。

 

 

他には、オープンワールドの名作(シームレスに世界が広がる)「スカイリム」というゲームの曲なんかも、レイチェル・ハーディーがカヴァーしています。

 

Skyrim - The Dragonborn Comes - Cover by Rachel Hardy - YouTube

 

「スカイリム」の「ドラゴンボーンの到来」は渋くて好きな曲です。他にも色んなゲームの曲を、レイチェル・ハーディーは歌っています。

マーラー交響曲5番のことを、先日観た映画「TAR」の感想と合わせて少し書こうかという試みです。内容は所詮趣味の範囲にとどまりますのでご了承下さい。

 

 

さて、映画の「TAR」を観てから、久しぶりに複数のマーラー5番の録音を聴いています。映画「TAR」については、前回ブログを書いた後、評論家町山智浩さんの有料ノートを拝聴しました。これはかなり面白かったです。ただ「映画」の内容については面白いですが、個人的には音楽談議について、もうちょっと色々知りたいとは思います。

 

はたして、「TAR」の監督自身、意図的にキャンセル・カルチャーを描いたものではないといい、ラストのモンハンの音楽についても一言いっていますね。

 

以下はネット上に公開されている、トッド・フィールド監督の言葉です。

 

<まず、日本のゲーム音楽について話をさせてください。私はあのゲームのファンで、私の家族はいつも私があのゲームをプレイしていたことを知ってます。あの音楽を「TAR」に持ち込んだ理由は、あのゲームが“モンスター”についての作品であるということ、そして私があの音楽が大好きだからです。

 

・・・(中略)・・・

 

次に、西洋音楽のヒエラルキーの頂点に立っていた人物が東南アジアで仕事をすることについて、それをキャリアの転落だとするのは間違いであると指摘させてください。21世紀において、クラシック音楽はアジアの全域で高く評価されていて、そこでは最高レベルの演奏がおこなわれています。また、私が知っている優れた指揮者や作曲家たちは、ビデオゲームの音楽について偏見を持っていません。それどころか、現代において新しい音楽が生まれている領域として、ビデオゲームは最もエキサイティングなジャンルだと主張することも可能だと思います。>

 

評論家の町山氏曰く、ラストのモンハンはター自身の内面のモンスターを殺すために選ばれている。故にこれはマーラー5番の交響曲の構成からしてもター自身の再生の物語でもある、としています。多分これも正しい意見で、特に異論は挟みませんが、反面、これは音楽についての表面的な解釈のようにも思えました。

 

ベルリン・フィルハーモニーは20世紀の初めから、世界最高の楽団として存在し、その証明のように、多くの素晴らしい指揮者が音楽監督を務めてきました。特にフルトヴェングラー(1886-1954)とカラヤン(1908-1989)という存在が大きく、映画の中でも触れらている部分があります。カラヤンの後の音楽監督がイタリア人の指揮者、クラウディオ・アバド(1933-2014)でした。英国人のサイモン・ラトル(1955-)の後、その後継が注目されていましたが、先ごろロシア人のキリル・ペトレンコ(1972ー)に決定しました。多分ターは、このペトレンコの位置づけなんだと思います。

 

この映画の、ベルリン・フィルはクラシック音楽の歴史そのものであり、過去の栄光ある指揮者に触れつつ、ラストにゲーム音楽を持っていくという構成自体、監督に音楽に対する根本哲学があるとしか思えず、そしてそこに何かしらの「監督自身の(意図するにしろ、しないにしろ)」意見があるとしか、自分には思えませんでした。そこに対する解釈をしてくれる、映画評論家なり、音楽評論家なりがいると面白いと思います。

 

キャンセル・カルチャーを描いたものでないという事実と、しかし同時に、結果としては映画自体が自然とその方向を向いているという事実が、この作品の現代性をあらわにしています。

 

はたして、旧来、クラシック音楽作曲家の王者はベートーヴェンでしたが、今日に至り、オーケストラの魅力などを伝える作品として、マーラーの音楽が選ばれるようになりました。古い時代の、フルトヴェングラーとカラヤンの音楽の主軸は、やはりベートーヴェンであったでしょうが、クラウディオ・アバドに至ってはマーラーの権威の1人となり、また近代オーケストラにおいて、「マーラーを演奏するか否か」というテーゼは一種の踏み絵のようにもなってきたといえます。

 

ベートーヴェンの音楽は音符の数が少なく、指揮者が自己の情熱と、意志でもって繋ぎ止めなければいけない音楽です。ところが、当人自体が名指揮者であった、マーラーのスコアは複雑ですが、各所に細かい指示があり、この指示通りにやれば自然と音楽になるといわれています。しかしそれには確かなオーケストラの力量が不可欠であり、そのレベルをクリアしたオーケストラのみが演奏を許されます。マーラーの音楽は、近代オーケストラのため作曲された作品のように見えます。

 

とはいえその作品は複雑で、矛盾の多い作品です。

 

社会学者でもあった哲学者、T・アドルノ(1903-1969)はマーラーを高く評価していた人物でした。彼のマーラーに対する評論は的確だと思います。

 

 

彼の著作から引用します。

 

<マーラー以降の音楽史、とりわけその最新の局面は、統合への傾向を極限まで貫徹してきた。それはバッハやベートーヴェンやブラームス流の主題労作の原理を、あらゆる音楽要素が一つの潜在的な共通母から完璧に決定されるところまで推し進めた。それは本来統合されるべき多様性を、その際に実質的に溶かしてしまった。最新の音楽にとって個別は、既に当初から全体の単なる機能に格下げされてしまうことで、その実態を失ってしまった。>(T・アドルノ「幻想曲風に」、藤井俊之訳)

 

ここでアドルノは「マーラー以降」としていますが、時代を遡って、ベートーヴェンが始めた、「統一された1個の動機」でもって、曲全体を構成していく方法への批判を行っているともいえます。ベートーヴェンの音楽が1個の小宇宙を形成するとき、「その各部分」は、以前にもまして(モーツアルト以前)、全体の中で、単なる歯車として、個性を失うわけです。(その後のブーレーズやシュトックハウゼンの管理音楽に及ぶ、歴史の始まりであるとしている。)しかし、マーラーの音楽は必ずしもそうではないといいます。

 

<作曲の中に彼は―――自分自身がそうであったのと同じく―――抑圧されてきたものという次元を獲得したのであり、これこそが今日の音楽の可能性の条件に他ならないことが、明らかになりつつある。それは諸キャラクターという次元であり、現代の統合的言語の無差別的統一の中では、それらの間の差異はほとんど消し去れかけているのだ。(それに対して)マーラーの作品におけるあらゆる個々の領域は、極めて明確かつ一義的に定式化されていた。「私が継続です、私は移行です、私はその後です、私はその結びです」と、それらは語る。しかしながら、あらゆる個別をその機能―――全体の中でのその形式上の意味―――によって個別たらしめている。こうしたどぎついまでのキャラクターの徹底性によって、個別はまさに個別以上のものとなる。原理として外からこれらの諸キャラクターに調達されるのでなく、まさに個別の中から結晶してくるような全体へ向けて、個別は開かれるのだ。だからこそマーラーにおける諸キャラクターは、観想的に見紛いようがないにもかかわらず、決して作品プロセスの中で同一にとどまったままではなく、絶えず変化しているのである。

 

・・・(中略)・・・

 

彼が活用する処理方法は変奏である。諸キャラクターは全体に対してあまりに自立しており、また生成の中であまりに存在を主張しすぎるが故に、伝統的な主題労作の法則に従って分解したり、継ぎ目なしに全体に溶かし込んだりすることができない。(しかし)変奏の中ではそれらは常にそれと認識できる形を保っており、主題と変奏形象の構造は守られている。しかし個々の相貌は変化していくのだ。口頭伝承や民族音楽の原理が芸術作品に入り込んでくるのであり、旋律が反復される際にちょっとしたフェイントやに小さな差異を持ち込むことで、同一的なものを非同一的なものへと変えるわけである。技術の領域に至るまでマーラーは、逸脱の作曲家であった。>(「幻想曲風に」から)

 

マーラーの音楽にあっては、以前の作曲家に比べて、全体よりも個々の部分の個性が強く、それぞれの部分の主張が強くなったといっているようです。

 

実際にマーラーの交響曲を聴いた際に受ける、「分裂症的な雰囲気」というのはこうした傾向から免れることができないでしょう。確かに彼の音楽が、全体として1つの世界を作り上げているのは確かですが、個々の部分を見る限り、前後に脈絡のない音楽が割り込んでくるわけです。先にひどく興奮して情熱的であった音楽が次の瞬間には、落ち込んで鬱屈した雰囲気になる、という風に。

 

マーラーにおいては、第5交響曲以降は特にその傾向が強くなった、といえるでしょう。

 

マーラーの、交響曲1番から4番にかけて作られた作品の雰囲気というのは、メルヘン的で、この作曲家の楽天的で無邪気な性格を示すものでしたが、この5番以降はより哲学的な傾向を示すようになり、分裂症的な傾向をはっきりと示すようになりました。

 

確かに第5交響曲は表向き、失意から栄光に向かう、旧来の打ち上げ花火式の軌道を、その構造は描いていますが、その内部には後にマーラー自身が抱いている、この世への不信感と、死への不安が、底辺に横たわっているともいえます。実際その曲調は、かなりグロテスクでさえあります。

 

そして主題は、かつて描いていたメルヘンの世界から、1人の女性をめぐる、マーラー自身のプライヴェートな内容へと変容します。当時ウィーン歌劇場では、マーラーに対する反発が増え、彼はその場を離れようかと思い悩みます。英雄の死とその回顧を描いた、第1、第2楽章は、おそらくそんなマーラー自身の姿を描いた楽章でしょう。そこに現れたのが若き才媛、アルマ・シントラ―でした。

 

 

↑、グスタフ・マーラー(1860-1911)。10曲の交響曲の作曲家。「死」を極度に恐れて、思い悩んだ人物です。未完の第10交響曲のスケッチには、「憐れみ給え! おお神よ! なぜあなたは私を見捨てられたのですか?」や「君のために生き! 君のために死ぬ! アルムシ!」という走り書きがあるといいます(アルムシは妻だったアルマの愛称)。彼はオーケストラや妻に対して不遜な態度を取ることがあり、それが後に問題化していきます。

 

第5交響曲、その曲自体が全体で醸し出す雰囲気はまさに、世紀末ウィーンの退廃美であり、憂鬱といえます。しかしその憂鬱の中にも、久遠の彼方から金色に輝きつつ、甘美な慰めとして、現れてくる第4楽章のアダージェットは、おそらく当時のマーラーが抱いていた、アルマ・シントラ―のイメージそのものであり、ここにきてウィーンの退廃美の極致といえる状況を作る作品です。

 

 

↑、アルマ・マーラー(1879-1964)。当時のウィーンの社交界の花形で、教養が深く自ら作曲もした才女でした。年の離れたマーラーと結婚した理由について、この夫婦を診たジークムント・フロイトは、妻アルマのファザー・コンプレックスの傾向を指摘しています。マーラーと結婚しているにも拘らず、バウハウスのワルター・グロピウス(1883-1969、当時前衛の建築家)と懇意になり、問題になりました。しかしこれはマーラにも問題があったというのが妥当かと思います。後には画家のオスカー・ココシュカ(1886-1980)などとの関係もありました。

 

さて、残りの、この交響曲のフィナーレは、打ち上げ花火式ながら、物事の解決を「知識」に委ねようかという、いわゆる「インテリゲンチャ」的な感触を保ったまま終わりを迎える、変わったフィナーレです。

 

<5番目の最後の楽章においては、これまですべての要素が結集し、再開し合う。形式の運びのモデルとなったスケルツォとくらべ、不安定さは和らげられたようにみえるが、克服されたわけではない。最後のコラールと「高邁な知性への賛歌」との「密接な」親近性が明らかにされるが、マーラーはそれによってコラールから、形而上学的な尊厳をはぎとってしまう。「葬送行進曲」とスケルツォの結びつきを彷彿とさせる不愛想な身振りが、楽章を、そして交響曲を閉じる。

 

マーラーの第5交響曲は、天国を魔力から解放しようとする第4交響曲と、英雄的な悲劇的な破滅を描く第6交響曲の間に立つものである。マーラーはここで、「高邁な知性の賛歌」を、すなわち、懐疑を通じての救いを歌っている。>(バーンスタイン指揮のCDのライナーノートから。ホルスト・ウェーバーの批評、磯山雅訳。「高邁な知性への賛歌」はマーラー自身が曲をつけた歌曲。そこの旋律的断片がフィナーレに使われている。)

 

フルトヴェングラーはマーラーの交響曲を、すすんで指揮しませんでした(第3を指揮したという記録などは残っている)。カラヤンは数曲録音しましたが、全曲録音はしていません。彼らにとっては「分裂」よりも「統合」こそが大事ということです。

 

彼らのメインはやはりベートーヴェンであり、その内面にあるのは偉大な人物への憧憬でありました。ところがマーラーは偉大ですが、人間的な弱さは否定しようもなく、人類の苦しみを一身に背負ったような音楽を書き、そのまま他界しています。それに比べると、ベートーヴェンの内面にはやはり、「神」がおり、そこへの回帰があります。

 

しかしマーラーにはそれがありませんでした。

 

また以下はアドルノの言葉からです。

 

<マーラーの内実はごく簡単に言い当てられると人は思いがちだ。絶対的なものが考えられ、感じられ、憧憬されながら、しかし存在しないという風に。彼以前のほとんどすべての音楽がお経のように繰り返してきた存在論的な神の証明を、マーラーは信じていない。すべて正しいのかもしれない、しかしその中身は失われている―――彼の痙攣的な身振りはこのことに反応している。しかしながら、まさにそれ故にこそ、彼の作品を前にしたとき(神は存在するという)不毛のお題目は、なんと惨めで、抽象的で、誤ったものに見えることか。>(アドルノ、「幻想曲風に」から)

 

19世紀の終わりから、20世紀の初めにかけて、ニーチェ流の無神論の中で人々は喘ぎ苦しむようになりました。マーラーもまた然りということでしょうか。神という内面の確信は疑念へと変わり、その位置に「知識」が乗っかってくるのです。

 

ベルリン・フィルの形も時代ごとに変化し、フルトヴェングラー時代は彼が家長の、1つの家庭のようなものだったといいます。しかし、カラヤン時代になって、指揮者と楽団の明確な差異ができ、結局のところ契約的な形になっていきます。

 

映画「TAR」の中でもベルリン・フィルの民主的な感じが描かれますが、そこにいる人々はやはり現代的な「ドライ」な人間関係を彷彿とさせます。

 

細部の分化と独立性がマーラーの交響曲の本質であったように、現代の人間関係もまた分離と独立の傾向を示しています。

 

フルトヴェングラーには何人かの隠し子がいたといわれていますが、彼を心から尊敬する楽団員は彼を擁護しました。現代なら、タイガー・ウッズのような「なんちゃら依存症」といわれても仕方のない案件です。

 

 

↑、ウィルヘルム・フルトヴェングラー。ドイツ史上最高の指揮者。現代から見るとその存在は、ほとんど神格化されています。芸術が芸術である理由、そういうことを「根本」から感じさせてくれる、非常にまれな存在です。しかし結局「クラシック原理主義」でない人たちには、理解されないのかもしれません。

 

そしてこのような分離と独立の傾向を、現代のSNSが一層助長しているわけです。

 

分離と独立の現代的傾向、それはこの映画の中でより一層強く感じられます。そしてそのこと自体が「音楽哲学」自体と全く無関係ではないという事実と重なって見えてくるわけです(マーラーの音楽と重ね合わされている)。

 

しかし逆に考えるならば、現代のクラシック音楽の行き詰まりは、そのせいだともいえるのではないでしょうか?何故「ゲーム・ミュージック」が、その代替になるといえるのか?この監督は結局、音楽については、ジャズの方が専門らしいですが、これは何だか村上春樹氏のことを自分は思い出させます(あくまで個人的な推測でものをいっています)。

 

村上春樹氏は「クラシック原理主義」でないといいました(彼もどちらかといえばジャズ畑らしいです)。自分は彼らに比べると完全に「クラシック原理主義者」ですが、その方向から見れば、過去に「進歩的」といって捨ててきたものの中に、現状、この音楽界の行き詰まりを暗示させる事柄があるとしか思えませんがね。

 

だから現代の音楽界はせいぜいマーラーか、なんとかショスタコーヴィッチ程度でとどまらざるを得ないという結果を、招いているとしか思えませんね。これは行き詰まりであって、必ずしも進化ではないと思えます。また、現代人にマーラーが似合うという感触は、そこに何分かの不安を暗示させているともいえます。

 

演奏の技術的向上や、スコアリングの正確さなどだけでは結局専門職の、自己満足でしかないということです。

 

 

クラウディオ・アバドによる演奏(1993)。

 

去年イタリア人指揮者のファビオ・ルイージのベートーヴェンを、実演で聴きましたが、直接的な切れの良い指揮ぶりに、ああ「これはイタリア人の指揮だ」、というのを強く感じたのをよく覚えています。イタリアの、トスカニーニや、ムーティなどの指揮は叙情性よりも、男性的な強烈なアタックに魅力があります。音楽を演奏するというより、音楽を行為するという感じです。

 

それに比べると、同じイタリア人でもアバドはセンシティヴで、どこか女性的な雰囲気があります。彼が何故ベルリン・フィルの監督に選ばれたか、良く分からないところもあります。彼は、晩年のカラヤンや、チェリビダッケのように、演奏しました。つまり、「作曲家の意図」を重視するのではなく、指揮者独自の美学で曲を染め上げていった、ということです。特にマーラーは彼の得意とするところで、色彩的な音を出し、マーラーのグロテスクな側面を強調せず、しなやかで美麗なものにしています。この第5も、ウィーンの退廃美を繊細に生かし切った、美しさがあります。

 

 

レナード・バーンスタインによる演奏(1987)。

 

バーンスタインは2度、マーラーの交響曲全集を完成しており、特に2度目の全集は20世紀のマーラー演奏の模範として名高いといえます。1960年代以前、マーラーは人気がなく、人々の理解を超えた作品でした。彼の長大な音楽はコンサートだけでは理解できぬ内容で、録音が発達し、人々はその作品を一度自分の部屋でじっくり理解する必要がありました。

 

今日マーラーを演奏するオーケストラは増え、その精緻な演奏が色々なマーラーの音楽の側面を示すようになりました。近代的なオーケストラでベートーヴェンをやると、各旋律の分離が良く、見通しの良い演奏になりがちです。すると、ベートーヴェンの音楽は内面的に結晶化した、その音楽の精神を取りこぼすことがあります。美麗にやればよいというものでもないように思います。ところがそれがマーラーになると、各旋律が良く分離することによって、各々の部分の意味と主張がはっきりし、魅力的に聴こえるようになります。

 

しかし、バーンスタインの指揮は旧世代に属しており、必ずしも演奏の分離が良いわけでもありません。彼はマーラー内部に入り込み、その音楽と一体化するところに驚きがあります。それによって徹底的に音楽の意味を掘り起こしていきます。アバドの演奏を聴いた後、この演奏を聴くと、背景に広がる巨大な精神と、音響の像に圧倒されますね。20世紀後半のマーラー・ルネサンスを牽引した指揮者がバーンスタインでした。

 

 

映画「TAR」のサントラです。

 

ライナー・ノートから引用します。

 

<リディアはアメリカ人という設定なので、英語とドイツ語を混ぜながらオーケストラに指示を与えているが、第4楽章アダージェットの途中、リディアすなわちブランシェットが「Vergessen Sie Visconti(ヴィスコンティのことは忘れて下さい)」と言っているのが聴こえるだろう。要するにリディアは、アダージェットが使われたことで有名なルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」(1971)のイメージにとらわれず演奏してくださいと、指示を与えているのである。>(前島秀圀)

 

監督は、ドイツ語による指示の部分は、翻訳をしないように指示を出していたとかで。ドイツ語の知識がなければ、映画だけ観ていても、中々分からない部分です。

 

最近のグラモフォンはカラヤン時代と打って変わり、変わった試みばかりが増えました。アーティストは古典ばかりでなく、現代音楽や、映画音楽を交えたアルバムを制作するようになっています。これもそんな1枚で、映画との関連を抜きにして語れないアルバムで、映画を観た人が聴くべき内容になっています。

 

映画の「TAR」(ター)を鑑賞。好きな映画でもないんですが、感想を書くべき内容だなって思います。で、ちょっと書きます。

 

近ごろアバドの演奏したマーラー5番のLPをよくレコード屋で見ていたので、何だろうと思っていたんですが、この映画の布石だったようです。

 

 

 

↑、映画の中でも出てきますが、主人公ターをアバドに似せようというアイデアです。実際にドイツ・グラモフォンからサントラとして発売されているようです(余談ですが、映画のなかで出演者はグラモフォンのことを、いつもDGといっていました)。またTAR(ター)はARTをもじった名前だとか。

 

 

以下、ネタバレあります。

 

非常に難しい映画で、1回観ただけでは全部分かりませんね。一応、今回は分かった部分だけ書きます。

 

要は、権力とか権威の持つ無意味さを、クラシック業界を題材に映画化していて、一見高尚に見えるクラシック音楽にしろ、究極的に、その権威は本物なのかと問うています。クラシック業界の暴露的な意味合いもありますかね。鑑賞しながら、何度かアマゾン・プライムの「モーツアルト・イン・ザ・ジャングル」を思い出しました。

 

架空の人物、リディア・ターという女性指揮者が、世界楽団のトップ、ベルリン・フィルの監督にいます。一応設定では、彼女はレニー(レナード・バーンスタイン、米国初の大指揮者)の弟子で、マーラーの解釈に一家言あるという風です。当然これは架空の人物なんですが(バーンスタインは実在する有名な人物)、クラシック音楽の知識がない人には分からないかもしれないですね。(監督にいわせると、ター自身が語っている、レニーとの関係の言説は、この主人公の妄想ということらしい。しかし映画を観ているだけでは分からないです。時系列が合わないらしい、という話です。そうなってくると、後半自宅でレニーのビデオを、涙目で見つめるターの姿は、中々不気味です。)

 

そして、マーラー5番の演奏をフューチャーしながら、今日的なLGBT、あるいは、キャンセル・カルチャーなどを含めつつ、権威的なものの崩れ行く様、あるいは現実世界の権威に対する反対のテーゼなどを提出します。

 

非常にリベラルな映画で、単純な自分のようなクラシック・ファンには、ああ、「この監督とは音楽に対する感じ方は違うな」、と感じることが多いですね。自分なんかは最近、クラシック音楽に関しては古典的な価値観の方が良いと思い始めています。しかしこの監督はそこに疑義を提出しているんですね。何だか、アドルノの音楽論文でも読んでいる気になる映画でした。だからこういう話題も、実際新しい話でもないとは思います。映画でやっているから面白いのかもしれません。

 

マーラーの交響曲5番の第1楽章の葬送行進曲、第4楽章のアダージェットのリハーサル・シーンがちょろちょろと出てきます。第1楽章は葬送行進曲ですから、なんかちょっと暗示的だな、という印象です。冒頭のトランペット吹かせるシーンをやらせてね。(多分5番はマーラーのプライヴェートな問題を扱っていて、愛情と疑念がテーマなので、この映画に使われたと思います。当然マーラーの音楽ということは、19世紀のものと20世紀のものとの橋渡し的な意味合いもあるからでしょう。時代の変化を描いている、ということです。)

 

他にもアダージェットは、作曲家マーラーが、後に妻になる女性、アルマに対するラヴ・レターだといわれていますから、一応、愛情の問題も絡めている、この作品のテーマに合います。(ルキノ・ヴィスコンティの映画のことをいう人もいますが、個人的には関係ないと思いますけど、どうなんでしょうか?アンチという意味合いならありうるのかもですが。映画のセリフの中でも、日本語訳されない部分で、一部言及しているそうですが。)

 

主人公のターはレズビアンで、女性の妻と養子の子供もいます。他にもこの作品には「全愛的」という男性などが出てきて、「性」と「愛情」に対するテーマも提出しています。

 

他方で主人公のターは権威的で、そういう人物にありがちな、「自分の好きなことを優先する」傾向を持ち、それが元で次々と破滅の原因を作っていきます。彼女は権威を基に、好みの女性の性的搾取をしているような描写もあり、実に複雑です(話題の日本の某芸能事務所のようですが)。

 

そして主人公のターが、自分の先達に警告を受けるシーンでは、少年性愛で告発を受けた指揮者、J・レヴァインの話や、付き合っていた女性にDVを振るっていたC・デュトワ、非ナチ化の問題があった(実際にはナチスではなかった)フルトヴェングラーの話などが出てきて、クラシック・ファンには、おなじみの話といったところでしょう。他にももっと面白い話も出ていましたが、度忘れしました(汗)。この辺はうがってみれば、実話を並べて、旧時代のキャンセル・カルチャーが描かれているといっても良いかもしれません。

 

結局彼女は色々な問題が明るみに出て、破滅し、代役の指揮者を聴衆の前で指揮台から叩き落すという行為に出ます。ここのブランシェットの登場シーンは、マーラー5番の冒頭、トランペットの鳴る中で行われて、破滅への葬送行進曲ということになります。音楽の伏線の回収ということです。この辺が物語の頂点っぽいですが、どのシーンも描写が実に淡々としていて、それほどの驚きもなく進みます。

 

もう少し話は続いて、キャリアを失ったターは東南アジアで、新たなスタートを切ろうとします。多分場所はベトナム?(「地獄の黙示録」の話題が出てきます。何かの皮肉を描いていると思いましたが、恥ずかしながら「地獄の黙示録」は観てないので理解できず)でしょうか。

 

ベトナムの交響楽団を指揮しようとする、ター(追記:後日調べたら、撮影場所はフィリピンらしいです、すいません)。楽譜から作曲家の書いたことを読み取ろうというようなセリフがあり、まじめにスコアを研究する様子も描かれます。

 

そして遂にラスト、キャリアを失った指揮者ターの演奏が始まると、演奏された曲はゲームの「モンスター・ハンター」の音楽で、会場はコスプレした若い聴衆で一杯というオチ。はっきりいって、このオチがこの作品で1番衝撃的でした。

 

オーケストラで演奏される、ゲーム音楽と、クラシック音楽のどこにそんな差があるのか?といわんばかりのオチです。確かにこれは一理あるんですが。

 

 

<総論>

 

非常に現代的なテーマを扱っていて、芸術にしろ、他のジャンルにしろ、SNSの発達によって脅かされる権威の存在を、批判的に描いていると思います。またふんだんな情報を映画の中に盛り込むことによって、いくつもの発見が起こるように制作されているようです。ですので、音楽や映画についての、それなりの予備知識がないと面白くありません。

 

映画的にはスリラーやホラーの要素も取り込んでいるようで、自分は全く気づきませんでしたが、わざと幽霊のような者が画面に移り込んでいるような演出もされているようです。それだけ繰り返し観てみると新しい発見があるように作られているようですが、ナボコフの小説ロリータではありませんが、自分はそんなに繰り返し観てみたいとは思いません。

 

よくいわれているのが、ケイト・ブランシェットの熱演が凄いということでしょうか。確かにその通りでした。チェロと女優業を兼任しているというソフィー・カウアーの存在も印象に残りました。

 

 

クラシック音楽に関する個人的な意見を述べさせてもらえば、こういう描き方はあんまり好きではありません。「モーツアルト・イン・ザ・ジャングル」のように冗談めている方が、やり方としては正解だと思います。

 

監督は確かに、芸術に造詣が深い人物だと思います。色々知っているわけです。ところがアドルノの論文がそうであったように、知識が深く、かつ、指摘が的確であっても、総論としてみると結局物事を破壊している。しかも、破壊していると思われないように巧妙に破壊している、という印象を受けました。

 

ここまで書くなら、実際の権威の「力」になっている部分の、芯のところはちゃんとどこかという指摘と、必要以上に持ち上げられる「権威」の部分をもっと細かく的確に描くべきかと思います。個人的な感想ではありますが。

 

確かに現代は「権威失墜」の時代で、次々とそれが起こっています。そして人々はよりどころを失っていきます。しかし、他方どうしても必要なことは残るので、そこが何かという話題もないと、観た人は野放図な世界に放り出されます。この映画を観て、「何がいいたいのか分からない」と思った人たちの心境は、そんなところから来ているのだと思います。

 

そして最後のオチも、非常に冷笑的で、何者かを馬鹿にしています(観方にもよるんですが、監督はそういうつもりはないと思います、しかし、深層心理は出ている気もします。好意的にみるならば、クラシック音楽から権威を外せば、底流する感動の質は、必ずしもゲーム音楽などとは変わらない、という回答でしょうか?感動そのものに、上下という格付けは不要ということかと思われます。)

 

あんまり後味は良くないですね。まあ、知識人とかはやたらこの作品に興奮して、批評している方もいます。それなりの評価があって、当然ではあります。色々な情報がパズルのように嵌まる面白さ、とか感じたりして、映画としては良くできているということです。

 

そのことと提出されているテーマへの回答とか、真摯さはまた別物ですよね。個人的にはその辺が、あまり好きにはなれませんでした。

 

Orquesta de camara de merida tema Lilium Elfen lied por Serenity (youtube.com)

 

↑、おまけ、日本のアニメソングが外国で認められて、聖歌隊などで歌われている曲の1つです。エルフェンリートのリリウムという作品です。

20世紀の大指揮者ブルーノ・ワルターの自伝、「主題と変奏」を読み終わりました。

 

 

ブルーノ・ワルター、「主題と変奏」(内垣啓一、渡辺健訳)。ネットで手に入れた書籍なんですが、新装丁ではなく、1966年発行のものでした。旧版だという説明もなく届いたので、ちょっとびっくりしました。

 

ワルターは、20世紀の4大指揮者とか3大指揮者とかいわれるカテゴリーに入る指揮者で、現代でもファンは多いと思います。しかし、他の20世紀の大指揮者フルトヴェングラーやトスカニーニに比べると彼は落ちる、という人も多くみうけられます。

 

ブルーノ・ワルターのファンはSNSでもよく見かけますが、彼らはワルターを「仰ぎ見るような存在」としてとらえておらず、まるで「友人」というような感覚でとらえていると思います。彼らは物静かで、必要以上に自分たちが「ファン」だという主張をしません。ですので、実際考えているよりも、ワルターを好んでいる人は多いのではないかと考えています。ワルターの悪口にも必要以上の抗議はしません。

 

ブルーノ・ワルター(1876-1962)は1876年にベルリンに生を受けました。この時代にはテレビもなければ、ラジオ放送もありません。人々は楽しみのために観劇にでかけ、あるいは、議論のためにカフェに集いました。音楽の演奏会なども盛んにおこなわれていたそうです。このような独特の当時の雰囲気が、この自伝からは伝わってきます。人々は現実と隣り合わせで暮らし、世界を理解していました。現代のように何でも機械に頼っていませんでした。

 

 

↑、20世紀前半に活躍した指揮者としては長生きををして、晩年にはステレオ録音を残すことができました。ユダヤ人で、ナチスから追われるように故郷であったヨーロッパを離れ、アメリカのビヴァリー・ヒルズに定住。

 

最近の世相を見て思うに、1度我々はこの時代のものの見方というものを、理解し直す方が良いのではないかと考えることがあります。人間の根源的な生き方と、理性とが、現代的な歪みなく存在している、という当時の世界です(当然不条理も存在しています)。そしてその1つの理想的な形が、ブルーノ・ワルターの中に生きていて、彼の書いた書籍や、残した録音が、我々に啓示を与えます(一方でワルターは性格が悪かった、という話も出ていますが、実感できる程度に情報が集まらなかったので、従来の定説通りの話をします)。

 

他にも彼の友人で、非常に親しかった大作曲家マーラーの、生前の姿が生き生きと描かれていたり、あるいは、バイロイトの女王だったコジマの様子なども印象に残りました。

 

書籍の内容の多くが、第2次世界大戦前までに割かれていて、ウィーンで大人気だった、彼の幸福な時代の反映を見て取ることができました。

 

 

ブルーノ・ワルター指揮、マーラー「大地の歌」(1951)。

 

LXT2721-2722。銀文字仕様なので2版だと思います。音は充分に優れています。

 

 

↑、書籍の中に何度も大作曲家マーラーの名前が出てきます。読んでいると家族ぐるみの付き合いだったということが良く分かります。ワルターの描くマーラー像は、気難しいですが、人間的で親しみやすい人間のように描かれています。ワルターは、マーラーの死後、彼の残した曲の初演者になりました。特に有名な1枚はこの「大地の歌」で、彼の唯一のデッカ録音になります。1950年代初期とは思えないような、明晰な録音で、演奏もとても素晴らしいです。

 

今回この本を読んでみて色々と思うことがありました。ワルターという指揮者については、当時、同じようにドイツで指揮していたフルトヴェングラーとはかなり異なった印象を持ちます。フルトヴェングラーは生粋のドイツ人でしたが、ワルターは違うんですよね。彼はユダヤ人なんです。だからヨーロッパを離れて、アメリカへの定住もしやすかったのかもしれません(当時ナチスの猛威を避けたユダヤ人は、ナチスから一番遠い、米国の東海岸に住みたがった)。

 

ワルターは、自らの芸術をドイツ音楽に捧げたわけですが、彼の中でのその割り切り方など、いささか不思議に思う部分もありました。ワルターは決してドライな人間ではないのですが、倫理的な判断に関してはかなり割り切りができる人間で、人間は「寛容であるべき」だといいつつ、「不寛容には寛容であってはならない」といいます。ですのでナチスに対する態度などは、どうしても厳格なトスカニーニ寄りになります(半面、フルトヴェングラーボイコット事件については、彼はボイコットに反対しているので、ここでの割り切りは、ワルターならではと思います)。

 

フルトヴェングラーが自らを「真のドイツ人」という時、それこそが問題であると抗議するワルターの姿は、その内面を幾分覗き見させてくれる気がします。

 

<・・・(中略)・・・問題は「ドイツ人」であるとか、あるいは「ユダヤ人」でも、「フランス人」でも、「音楽家」でも、そのほかいっさいの集団的判断を私自身は受け入れません。

 

 しかし、われわれの道がもっとも分かれますのは、あなたが「真のドイツ人」について述べられるときです。先には紛争を国民的対立として誤って特色づけられたのが、ここでは国家主義の信奉に移行します。「真のドイツ人」とは称賛の意味で言われておりまして、そこから響いてくるのは、かの国家主義、かの愛国心であり、これを強調し高揚するところに災いが生ずるのです。

―――かような国家主義を克服し、世界的市民感情になじむことによってのみ、事態の改善を果たしうるものと信じます。>(ブルーノ・ワルターの手紙、ロッテ・ワルター=リント著、土屋修代訳)

 

 

これを今日的な国家主義者とグローバリストの争いの中で読み取って良いものかは分かりません。個人的にはフルトヴェングラーの言葉にも充分説得力はあると考えています。ただワルターにはこれをいうだけの権利があります。

 

最後に「音楽には倫理的な力がある」というワルターの言葉通り、この本の終わりで、彼は次のように語っています。

 

<その倫理的な力についての私の文章で述べたように、音楽というものは、常に交代するその感情にかかわりなく、慰めという永続的な使命を持っている。不協和音は協和音に向かおうと努める。そして解決されずにはいない。どんな音楽も協和音で終わるのである。だから元素(エレメント)としての音楽は楽天的な性質のものであって、私は、自分の生まれ持った楽天性はこれと関係があるのだと信じている。>

 

結局無調音楽は一般性を獲得できず、現代の聴衆もまた、19世紀の音楽ばかりを聴いていることを考えると、ブルーノ・ワルターの言葉の正しさが実感できます。

 

ワルターのように、全て物事は「不調和」から「調和」へと解決できるものだと信じる生き方は、実に素晴らしいものだと思います。

 

ジュピター |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、過去記事です。ワルターの演奏はベートーヴェン、シューベルトなども素晴らしいですが、特に評価されていたのがモーツアルトの演奏だと思います。

フランスではマクロンの政治に反対して、大規模なデモがありました。日本もフランス同様、政治内容はかなりひどいです。国内政治のやり方も、かなり露骨になってきているので、日本国内の人々も、いずれフランスのようになるのかもしれません。

 

 

ステファン・アスケナーゼによるショパン「ワルツとポロネーズ」(1951)。

 

17031B。10インチ盤。

 

 

ステファン・アスケナーゼ(1896ー1985)は、旧オーストリア=ハンガリー帝国で生まれた、ポーランドのピアニスト。現代では忘れ去られたピアニストですね。マイナーでもあります。ジャケットが面白いので、購入してみました。

 

リストの高弟から指導を受け、1919年にウィーンにデビュー。以来20世紀の半ばまで、ショパン弾きとしての名声があったそうです。また早くから教育に熱心で、門下からはマルタ・アルゲリッチや内田光子を輩出しています。

 

 

シュナーベルにしろ、コルトーにしろ、古い時代のピアニストから、ピアノの音色に、現代的な怜悧な切れ味というのは感じません。片や、現代のピアニストの多くに感じるのは、明晰な意志と、ピアノの音色の肉厚さ、加えてくっきりとした色合いです(当然異なったやり方の人も大勢いますが)。

 

しかし、このアスケナーゼのピアノの音色は、必ずしも威力的でなく、サロン的といえます。小粒な音色。一聴すると、ややせかせかして聴こえるピアノです。しかし昔の人の演奏の多くは、このようだったかもと考えさせられます。

 

録音技術が発達して、演奏家は自分の演奏をプレイバックできるようになりました。シュナーベルやコルトーの演奏は時に、あえて悪くいえば、「音が団子になって聴こえる」部分があります。これは古いピアニストに時折見受けられるもので、それほど録音を気にしていなかった時代のものだと、想像しています。あくまで「演奏」が、視覚的効果も含めて、コンサートでの聴衆のみを気にしているかのようです。

 

しかし演奏家が自分の演奏を録音で聴きなおすようになって、「弾いている音全て」を聴こえるようにしようと、思うようになったのではないのでしょうか?聴き手も含めて、「コンサートに行かなくとも、音だけを聴く行為」という特殊な状況が生まれたせいでもあります。近年のピアニストの録音は、まるでよく整理された「地図」のように、全ての音が団子状にならず、良く聴こえる場合が多いように思います。こうなると一音一音の距離ができ、自然と演奏時間も長くなります(全員がそうだといっているわけではないです)。

 

アスケナーゼのピアノの演奏がややせかせかして聴こえるのは、こうした旧時代の影響を残しているからだと思われます。現代的な演奏と比べると、どうしても古いと感じる瞬間はあります。

 

このピアニストは技術的なピア二ストではなく、ロマンティックに弾き、ルバートを利かせ、演奏に角を立てません。現代人のショパン弾きに比べると、アスケナーゼの方がショパン自身が弾いていた方法に近いのかもとは・・・と思ったりします。

 

ただそれが感動的かどうかはまた別で、多分現代人が聴くと、古さばかりを感じてしまうと思います。しかし、ここに過去の時代の、独特な雰囲気を感じ取る方もいるのかもしれません。

 

 

話はそれるんですが・・・このレコードのジャケットは1945年に撮影された、「楽聖ショパン」という映画からとられています。当時既に、テクニカラーで撮影されており、ショパンの外、パガニーニやリストなども出てきますが、史実とは異なる脚色が多数されています。面白いといえば面白い映画ですが。それなりにショパンの人生が分かるという内容です。

 

 

↑、フレデリック・ショパンをコーネル・ワイルド、ジョルジュ・サンドをマール・オベロン、フランツ・リストをスティーヴン・べガシーが演じています。

 

 

もう1点は、はクラウディオ・アラウによるショパンのソナタ3番(1960)。

 

OS3025。国内盤。

 

 

クラウディオ・アラウはショパン弾きではないので。ドイツ音楽の演奏家というイメージです。しかし、自分は人生で初めてショパンを聴いて良いと思ったのは、アラウの演奏からです。

 

 

↑、クラウディオ・アラウ(1903-1991)。チリ出身のピアニストですが、ドイツ音楽を得意としました。20世紀の巨匠の1人です。味わい深い演奏をする人です。

 

ここに載せてるのはアラウがまだ若い時の演奏です。個人的な好みからいえば、もっと後年の演奏の方が好みです。アラウのショパンは、非常にゆっくりとしたテンポで弾き、聴き手は曲の外部からショパンを聴く、という感じではなく、ショパンの音楽の中に入り込んで聴く、という感じになります。

 

こういうスタイルのショパンは、近代的なものだと思います。このような演奏も、それなりに評価する人はいるようです。

 

個人的には他の「ショパン弾き」の演奏より「ショパン」を感じることが多く、空間的に引き延ばされて、透明感あるショパンの世界に、自分は非常にうっとりしてしまいます。ショパンの心を解きほぐしていくような演奏をします。しかし、嫌う人もおり、この辺は好みの問題でしょう。

 

このようなアラウの演奏も近代的な録音技術無くして、生まれなかった演奏ではないのかと推測しています。たっぷりと音と音の距離を取り、間合いを含んだ演奏で、コルトーや、また現代的なポリーニとも全く違うスタイルです。しかし旧来の「ショパン弾き」とは明らかに一線を画していて、確かにこれは伝統的な意味での「ショパン弾き」とはいえませんね。

 

他の「ショパン弾き」でないピアニストのショパンを聴いても、色々面白い発見があるので、多数聴いてみるのも楽しいですね。