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 ヒマジンノ国

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映画の「TAR」(ター)を鑑賞。好きな映画でもないんですが、感想を書くべき内容だなって思います。で、ちょっと書きます。

 

近ごろアバドの演奏したマーラー5番のLPをよくレコード屋で見ていたので、何だろうと思っていたんですが、この映画の布石だったようです。

 

 

 

↑、映画の中でも出てきますが、主人公ターをアバドに似せようというアイデアです。実際にドイツ・グラモフォンからサントラとして発売されているようです(余談ですが、映画のなかで出演者はグラモフォンのことを、いつもDGといっていました)。またTAR(ター)はARTをもじった名前だとか。

 

 

以下、ネタバレあります。

 

非常に難しい映画で、1回観ただけでは全部分かりませんね。一応、今回は分かった部分だけ書きます。

 

要は、権力とか権威の持つ無意味さを、クラシック業界を題材に映画化していて、一見高尚に見えるクラシック音楽にしろ、究極的に、その権威は本物なのかと問うています。クラシック業界の暴露的な意味合いもありますかね。鑑賞しながら、何度かアマゾン・プライムの「モーツアルト・イン・ザ・ジャングル」を思い出しました。

 

架空の人物、リディア・ターという女性指揮者が、世界楽団のトップ、ベルリン・フィルの監督にいます。一応設定では、彼女はレニー(レナード・バーンスタイン、米国初の大指揮者)の弟子で、マーラーの解釈に一家言あるという風です。当然これは架空の人物なんですが(バーンスタインは実在する有名な人物)、クラシック音楽の知識がない人には分からないかもしれないですね。(監督にいわせると、ター自身が語っている、レニーとの関係の言説は、この主人公の妄想ということらしい。しかし映画を観ているだけでは分からないです。時系列が合わないらしい、という話です。そうなってくると、後半自宅でレニーのビデオを、涙目で見つめるターの姿は、中々不気味です。)

 

そして、マーラー5番の演奏をフューチャーしながら、今日的なLGBT、あるいは、キャンセル・カルチャーなどを含めつつ、権威的なものの崩れ行く様、あるいは現実世界の権威に対する反対のテーゼなどを提出します。

 

非常にリベラルな映画で、単純な自分のようなクラシック・ファンには、ああ、「この監督とは音楽に対する感じ方は違うな」、と感じることが多いですね。自分なんかは最近、クラシック音楽に関しては古典的な価値観の方が良いと思い始めています。しかしこの監督はそこに疑義を提出しているんですね。何だか、アドルノの音楽論文でも読んでいる気になる映画でした。だからこういう話題も、実際新しい話でもないとは思います。映画でやっているから面白いのかもしれません。

 

マーラーの交響曲5番の第1楽章の葬送行進曲、第4楽章のアダージェットのリハーサル・シーンがちょろちょろと出てきます。第1楽章は葬送行進曲ですから、なんかちょっと暗示的だな、という印象です。冒頭のトランペット吹かせるシーンをやらせてね。(多分5番はマーラーのプライヴェートな問題を扱っていて、愛情と疑念がテーマなので、この映画に使われたと思います。当然マーラーの音楽ということは、19世紀のものと20世紀のものとの橋渡し的な意味合いもあるからでしょう。時代の変化を描いている、ということです。)

 

他にもアダージェットは、作曲家マーラーが、後に妻になる女性、アルマに対するラヴ・レターだといわれていますから、一応、愛情の問題も絡めている、この作品のテーマに合います。(ルキノ・ヴィスコンティの映画のことをいう人もいますが、個人的には関係ないと思いますけど、どうなんでしょうか?アンチという意味合いならありうるのかもですが。映画のセリフの中でも、日本語訳されない部分で、一部言及しているそうですが。)

 

主人公のターはレズビアンで、女性の妻と養子の子供もいます。他にもこの作品には「全愛的」という男性などが出てきて、「性」と「愛情」に対するテーマも提出しています。

 

他方で主人公のターは権威的で、そういう人物にありがちな、「自分の好きなことを優先する」傾向を持ち、それが元で次々と破滅の原因を作っていきます。彼女は権威を基に、好みの女性の性的搾取をしているような描写もあり、実に複雑です(話題の日本の某芸能事務所のようですが)。

 

そして主人公のターが、自分の先達に警告を受けるシーンでは、少年性愛で告発を受けた指揮者、J・レヴァインの話や、付き合っていた女性にDVを振るっていたC・デュトワ、非ナチ化の問題があった(実際にはナチスではなかった)フルトヴェングラーの話などが出てきて、クラシック・ファンには、おなじみの話といったところでしょう。他にももっと面白い話も出ていましたが、度忘れしました(汗)。この辺はうがってみれば、実話を並べて、旧時代のキャンセル・カルチャーが描かれているといっても良いかもしれません。

 

結局彼女は色々な問題が明るみに出て、破滅し、代役の指揮者を聴衆の前で指揮台から叩き落すという行為に出ます。ここのブランシェットの登場シーンは、マーラー5番の冒頭、トランペットの鳴る中で行われて、破滅への葬送行進曲ということになります。音楽の伏線の回収ということです。この辺が物語の頂点っぽいですが、どのシーンも描写が実に淡々としていて、それほどの驚きもなく進みます。

 

もう少し話は続いて、キャリアを失ったターは東南アジアで、新たなスタートを切ろうとします。多分場所はベトナム?(「地獄の黙示録」の話題が出てきます。何かの皮肉を描いていると思いましたが、恥ずかしながら「地獄の黙示録」は観てないので理解できず)でしょうか。

 

ベトナムの交響楽団を指揮しようとする、ター(追記:後日調べたら、撮影場所はフィリピンらしいです、すいません)。楽譜から作曲家の書いたことを読み取ろうというようなセリフがあり、まじめにスコアを研究する様子も描かれます。

 

そして遂にラスト、キャリアを失った指揮者ターの演奏が始まると、演奏された曲はゲームの「モンスター・ハンター」の音楽で、会場はコスプレした若い聴衆で一杯というオチ。はっきりいって、このオチがこの作品で1番衝撃的でした。

 

オーケストラで演奏される、ゲーム音楽と、クラシック音楽のどこにそんな差があるのか?といわんばかりのオチです。確かにこれは一理あるんですが。

 

 

<総論>

 

非常に現代的なテーマを扱っていて、芸術にしろ、他のジャンルにしろ、SNSの発達によって脅かされる権威の存在を、批判的に描いていると思います。またふんだんな情報を映画の中に盛り込むことによって、いくつもの発見が起こるように制作されているようです。ですので、音楽や映画についての、それなりの予備知識がないと面白くありません。

 

映画的にはスリラーやホラーの要素も取り込んでいるようで、自分は全く気づきませんでしたが、わざと幽霊のような者が画面に移り込んでいるような演出もされているようです。それだけ繰り返し観てみると新しい発見があるように作られているようですが、ナボコフの小説ロリータではありませんが、自分はそんなに繰り返し観てみたいとは思いません。

 

よくいわれているのが、ケイト・ブランシェットの熱演が凄いということでしょうか。確かにその通りでした。チェロと女優業を兼任しているというソフィー・カウアーの存在も印象に残りました。

 

 

クラシック音楽に関する個人的な意見を述べさせてもらえば、こういう描き方はあんまり好きではありません。「モーツアルト・イン・ザ・ジャングル」のように冗談めている方が、やり方としては正解だと思います。

 

監督は確かに、芸術に造詣が深い人物だと思います。色々知っているわけです。ところがアドルノの論文がそうであったように、知識が深く、かつ、指摘が的確であっても、総論としてみると結局物事を破壊している。しかも、破壊していると思われないように巧妙に破壊している、という印象を受けました。

 

ここまで書くなら、実際の権威の「力」になっている部分の、芯のところはちゃんとどこかという指摘と、必要以上に持ち上げられる「権威」の部分をもっと細かく的確に描くべきかと思います。個人的な感想ではありますが。

 

確かに現代は「権威失墜」の時代で、次々とそれが起こっています。そして人々はよりどころを失っていきます。しかし、他方どうしても必要なことは残るので、そこが何かという話題もないと、観た人は野放図な世界に放り出されます。この映画を観て、「何がいいたいのか分からない」と思った人たちの心境は、そんなところから来ているのだと思います。

 

そして最後のオチも、非常に冷笑的で、何者かを馬鹿にしています(観方にもよるんですが、監督はそういうつもりはないと思います、しかし、深層心理は出ている気もします。好意的にみるならば、クラシック音楽から権威を外せば、底流する感動の質は、必ずしもゲーム音楽などとは変わらない、という回答でしょうか?感動そのものに、上下という格付けは不要ということかと思われます。)

 

あんまり後味は良くないですね。まあ、知識人とかはやたらこの作品に興奮して、批評している方もいます。それなりの評価があって、当然ではあります。色々な情報がパズルのように嵌まる面白さ、とか感じたりして、映画としては良くできているということです。

 

そのことと提出されているテーマへの回答とか、真摯さはまた別物ですよね。個人的にはその辺が、あまり好きにはなれませんでした。

 

Orquesta de camara de merida tema Lilium Elfen lied por Serenity (youtube.com)

 

↑、おまけ、日本のアニメソングが外国で認められて、聖歌隊などで歌われている曲の1つです。エルフェンリートのリリウムという作品です。

20世紀の大指揮者ブルーノ・ワルターの自伝、「主題と変奏」を読み終わりました。

 

 

ブルーノ・ワルター、「主題と変奏」(内垣啓一、渡辺健訳)。ネットで手に入れた書籍なんですが、新装丁ではなく、1966年発行のものでした。旧版だという説明もなく届いたので、ちょっとびっくりしました。

 

ワルターは、20世紀の4大指揮者とか3大指揮者とかいわれるカテゴリーに入る指揮者で、現代でもファンは多いと思います。しかし、他の20世紀の大指揮者フルトヴェングラーやトスカニーニに比べると彼は落ちる、という人も多くみうけられます。

 

ブルーノ・ワルターのファンはSNSでもよく見かけますが、彼らはワルターを「仰ぎ見るような存在」としてとらえておらず、まるで「友人」というような感覚でとらえていると思います。彼らは物静かで、必要以上に自分たちが「ファン」だという主張をしません。ですので、実際考えているよりも、ワルターを好んでいる人は多いのではないかと考えています。ワルターの悪口にも必要以上の抗議はしません。

 

ブルーノ・ワルター(1876-1962)は1876年にベルリンに生を受けました。この時代にはテレビもなければ、ラジオ放送もありません。人々は楽しみのために観劇にでかけ、あるいは、議論のためにカフェに集いました。音楽の演奏会なども盛んにおこなわれていたそうです。このような独特の当時の雰囲気が、この自伝からは伝わってきます。人々は現実と隣り合わせで暮らし、世界を理解していました。現代のように何でも機械に頼っていませんでした。

 

 

↑、20世紀前半に活躍した指揮者としては長生きををして、晩年にはステレオ録音を残すことができました。ユダヤ人で、ナチスから追われるように故郷であったヨーロッパを離れ、アメリカのビヴァリー・ヒルズに定住。

 

最近の世相を見て思うに、1度我々はこの時代のものの見方というものを、理解し直す方が良いのではないかと考えることがあります。人間の根源的な生き方と、理性とが、現代的な歪みなく存在している、という当時の世界です(当然不条理も存在しています)。そしてその1つの理想的な形が、ブルーノ・ワルターの中に生きていて、彼の書いた書籍や、残した録音が、我々に啓示を与えます(一方でワルターは性格が悪かった、という話も出ていますが、実感できる程度に情報が集まらなかったので、従来の定説通りの話をします)。

 

他にも彼の友人で、非常に親しかった大作曲家マーラーの、生前の姿が生き生きと描かれていたり、あるいは、バイロイトの女王だったコジマの様子なども印象に残りました。

 

書籍の内容の多くが、第2次世界大戦前までに割かれていて、ウィーンで大人気だった、彼の幸福な時代の反映を見て取ることができました。

 

 

ブルーノ・ワルター指揮、マーラー「大地の歌」(1951)。

 

LXT2721-2722。銀文字仕様なので2版だと思います。音は充分に優れています。

 

 

↑、書籍の中に何度も大作曲家マーラーの名前が出てきます。読んでいると家族ぐるみの付き合いだったということが良く分かります。ワルターの描くマーラー像は、気難しいですが、人間的で親しみやすい人間のように描かれています。ワルターは、マーラーの死後、彼の残した曲の初演者になりました。特に有名な1枚はこの「大地の歌」で、彼の唯一のデッカ録音になります。1950年代初期とは思えないような、明晰な録音で、演奏もとても素晴らしいです。

 

今回この本を読んでみて色々と思うことがありました。ワルターという指揮者については、当時、同じようにドイツで指揮していたフルトヴェングラーとはかなり異なった印象を持ちます。フルトヴェングラーは生粋のドイツ人でしたが、ワルターは違うんですよね。彼はユダヤ人なんです。だからヨーロッパを離れて、アメリカへの定住もしやすかったのかもしれません(当時ナチスの猛威を避けたユダヤ人は、ナチスから一番遠い、米国の東海岸に住みたがった)。

 

ワルターは、自らの芸術をドイツ音楽に捧げたわけですが、彼の中でのその割り切り方など、いささか不思議に思う部分もありました。ワルターは決してドライな人間ではないのですが、倫理的な判断に関してはかなり割り切りができる人間で、人間は「寛容であるべき」だといいつつ、「不寛容には寛容であってはならない」といいます。ですのでナチスに対する態度などは、どうしても厳格なトスカニーニ寄りになります(半面、フルトヴェングラーボイコット事件については、彼はボイコットに反対しているので、ここでの割り切りは、ワルターならではと思います)。

 

フルトヴェングラーが自らを「真のドイツ人」という時、それこそが問題であると抗議するワルターの姿は、その内面を幾分覗き見させてくれる気がします。

 

<・・・(中略)・・・問題は「ドイツ人」であるとか、あるいは「ユダヤ人」でも、「フランス人」でも、「音楽家」でも、そのほかいっさいの集団的判断を私自身は受け入れません。

 

 しかし、われわれの道がもっとも分かれますのは、あなたが「真のドイツ人」について述べられるときです。先には紛争を国民的対立として誤って特色づけられたのが、ここでは国家主義の信奉に移行します。「真のドイツ人」とは称賛の意味で言われておりまして、そこから響いてくるのは、かの国家主義、かの愛国心であり、これを強調し高揚するところに災いが生ずるのです。

―――かような国家主義を克服し、世界的市民感情になじむことによってのみ、事態の改善を果たしうるものと信じます。>(ブルーノ・ワルターの手紙、ロッテ・ワルター=リント著、土屋修代訳)

 

 

これを今日的な国家主義者とグローバリストの争いの中で読み取って良いものかは分かりません。個人的にはフルトヴェングラーの言葉にも充分説得力はあると考えています。ただワルターにはこれをいうだけの権利があります。

 

最後に「音楽には倫理的な力がある」というワルターの言葉通り、この本の終わりで、彼は次のように語っています。

 

<その倫理的な力についての私の文章で述べたように、音楽というものは、常に交代するその感情にかかわりなく、慰めという永続的な使命を持っている。不協和音は協和音に向かおうと努める。そして解決されずにはいない。どんな音楽も協和音で終わるのである。だから元素(エレメント)としての音楽は楽天的な性質のものであって、私は、自分の生まれ持った楽天性はこれと関係があるのだと信じている。>

 

結局無調音楽は一般性を獲得できず、現代の聴衆もまた、19世紀の音楽ばかりを聴いていることを考えると、ブルーノ・ワルターの言葉の正しさが実感できます。

 

ワルターのように、全て物事は「不調和」から「調和」へと解決できるものだと信じる生き方は、実に素晴らしいものだと思います。

 

ジュピター |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、過去記事です。ワルターの演奏はベートーヴェン、シューベルトなども素晴らしいですが、特に評価されていたのがモーツアルトの演奏だと思います。

フランスではマクロンの政治に反対して、大規模なデモがありました。日本もフランス同様、政治内容はかなりひどいです。国内政治のやり方も、かなり露骨になってきているので、日本国内の人々も、いずれフランスのようになるのかもしれません。

 

 

ステファン・アスケナーゼによるショパン「ワルツとポロネーズ」(1951)。

 

17031B。10インチ盤。

 

 

ステファン・アスケナーゼ(1896ー1985)は、旧オーストリア=ハンガリー帝国で生まれた、ポーランドのピアニスト。現代では忘れ去られたピアニストですね。マイナーでもあります。ジャケットが面白いので、購入してみました。

 

リストの高弟から指導を受け、1919年にウィーンにデビュー。以来20世紀の半ばまで、ショパン弾きとしての名声があったそうです。また早くから教育に熱心で、門下からはマルタ・アルゲリッチや内田光子を輩出しています。

 

 

シュナーベルにしろ、コルトーにしろ、古い時代のピアニストから、ピアノの音色に、現代的な怜悧な切れ味というのは感じません。片や、現代のピアニストの多くに感じるのは、明晰な意志と、ピアノの音色の肉厚さ、加えてくっきりとした色合いです(当然異なったやり方の人も大勢いますが)。

 

しかし、このアスケナーゼのピアノの音色は、必ずしも威力的でなく、サロン的といえます。小粒な音色。一聴すると、ややせかせかして聴こえるピアノです。しかし昔の人の演奏の多くは、このようだったかもと考えさせられます。

 

録音技術が発達して、演奏家は自分の演奏をプレイバックできるようになりました。シュナーベルやコルトーの演奏は時に、あえて悪くいえば、「音が団子になって聴こえる」部分があります。これは古いピアニストに時折見受けられるもので、それほど録音を気にしていなかった時代のものだと、想像しています。あくまで「演奏」が、視覚的効果も含めて、コンサートでの聴衆のみを気にしているかのようです。

 

しかし演奏家が自分の演奏を録音で聴きなおすようになって、「弾いている音全て」を聴こえるようにしようと、思うようになったのではないのでしょうか?聴き手も含めて、「コンサートに行かなくとも、音だけを聴く行為」という特殊な状況が生まれたせいでもあります。近年のピアニストの録音は、まるでよく整理された「地図」のように、全ての音が団子状にならず、良く聴こえる場合が多いように思います。こうなると一音一音の距離ができ、自然と演奏時間も長くなります(全員がそうだといっているわけではないです)。

 

アスケナーゼのピアノの演奏がややせかせかして聴こえるのは、こうした旧時代の影響を残しているからだと思われます。現代的な演奏と比べると、どうしても古いと感じる瞬間はあります。

 

このピアニストは技術的なピア二ストではなく、ロマンティックに弾き、ルバートを利かせ、演奏に角を立てません。現代人のショパン弾きに比べると、アスケナーゼの方がショパン自身が弾いていた方法に近いのかもとは・・・と思ったりします。

 

ただそれが感動的かどうかはまた別で、多分現代人が聴くと、古さばかりを感じてしまうと思います。しかし、ここに過去の時代の、独特な雰囲気を感じ取る方もいるのかもしれません。

 

 

話はそれるんですが・・・このレコードのジャケットは1945年に撮影された、「楽聖ショパン」という映画からとられています。当時既に、テクニカラーで撮影されており、ショパンの外、パガニーニやリストなども出てきますが、史実とは異なる脚色が多数されています。面白いといえば面白い映画ですが。それなりにショパンの人生が分かるという内容です。

 

 

↑、フレデリック・ショパンをコーネル・ワイルド、ジョルジュ・サンドをマール・オベロン、フランツ・リストをスティーヴン・べガシーが演じています。

 

 

もう1点は、はクラウディオ・アラウによるショパンのソナタ3番(1960)。

 

OS3025。国内盤。

 

 

クラウディオ・アラウはショパン弾きではないので。ドイツ音楽の演奏家というイメージです。しかし、自分は人生で初めてショパンを聴いて良いと思ったのは、アラウの演奏からです。

 

 

↑、クラウディオ・アラウ(1903-1991)。チリ出身のピアニストですが、ドイツ音楽を得意としました。20世紀の巨匠の1人です。味わい深い演奏をする人です。

 

ここに載せてるのはアラウがまだ若い時の演奏です。個人的な好みからいえば、もっと後年の演奏の方が好みです。アラウのショパンは、非常にゆっくりとしたテンポで弾き、聴き手は曲の外部からショパンを聴く、という感じではなく、ショパンの音楽の中に入り込んで聴く、という感じになります。

 

こういうスタイルのショパンは、近代的なものだと思います。このような演奏も、それなりに評価する人はいるようです。

 

個人的には他の「ショパン弾き」の演奏より「ショパン」を感じることが多く、空間的に引き延ばされて、透明感あるショパンの世界に、自分は非常にうっとりしてしまいます。ショパンの心を解きほぐしていくような演奏をします。しかし、嫌う人もおり、この辺は好みの問題でしょう。

 

このようなアラウの演奏も近代的な録音技術無くして、生まれなかった演奏ではないのかと推測しています。たっぷりと音と音の距離を取り、間合いを含んだ演奏で、コルトーや、また現代的なポリーニとも全く違うスタイルです。しかし旧来の「ショパン弾き」とは明らかに一線を画していて、確かにこれは伝統的な意味での「ショパン弾き」とはいえませんね。

 

他の「ショパン弾き」でないピアニストのショパンを聴いても、色々面白い発見があるので、多数聴いてみるのも楽しいですね。

「ショパン弾き」とは言葉通り、ショパンを得意としたクラシック・ピアニストということです。昔から「ショパン弾き」なるピアニストは沢山いて、時代ごとに語られてきました。

 

UKのグラモフォン紙はショパン弾きとして10人、ルービンシュタイン、アシュケナージとポリーニ、リヒテル、アルゲリッチ、コルトー、リパッティ、ソロモン、ペライア とピリスをあげているそうです。ソロモン・カットナ―がショパン弾きという認識は初めて知りました。UK紙が選んだからでしょうかね。

 

個人的にはコルトー、リパッティ、ルービンシュタインが「ショパン弾き」というのはかなりしっくりきます。

 

しかし、今回聴いたのはそんな有名なショパン弾きではありません。

 

 

ヴィトルト・マウツジンスキによる、ショパン「ワルツ集」(1959)。

 

SAX2332。

 

 

ヴィトルト・マウツジンスキ(1914-1977)はポーランドのピアニスト。自分はレコード屋で存在を初めて知りました。日本では紹介する人もほとんどいません(来日して演奏もしていますが・・・)。しかし今どき、かつての詳しい活動内容は中々紹介されていなくて、どんな人物だったか良く分かりません(汗)。ただヴィルトゥオーゾ風の、ショパン弾きだったのは、確かなようです。

 

 

UKの初期ステレオのSAXシリーズに収録されているので、海外ではそれなりの評価だったと思われます。

 

一聴、鋼を思わせるようながっしりした弾きっぷりで、結晶化した音の響きが美しいです。明確で迷いのない解釈と、指の動きで、曲調によどみがありません。しかし、強い表現ながら、繊細なコントロールがされており、ショパンの煌めく様な音楽が実にスムーズに表現されています。

 

自分は同じ音源をUK盤だけでなく、FR盤でも持っていて、聴き比べることができます。FR盤も悪くないです。FR盤の音の方が現実味があって、リアルな気がします。UK盤は音が透明で、コロンビアのレコード特有の品の良さがあります。おかげでUK盤は、自分には、音が「明るく」聴こえます。レコードの音によって、貴族的な雰囲気がより強められています。

 

SAXF820。フランス盤。

 

 

一般に、「魅力」という点においてはUK盤が勝る、ということです。

 

しかし、UK盤、FR盤一体どっちが真実を伝えているんでしょう?どちらも真実を伝えていない、ということもあり得ます。レコード同士の、音の差が大きいのです。レコード盤の音の差、というのは、「録音とは何か?」みたいな疑問が湧いてくる瞬間でもあります。

 

UK盤で聴くと、クリスタルなタッチの、美しい硬質な演奏です。

 

 

アレクサンダー・ブライロフスキーによる、ショパン「ピアノ協奏曲2番」(1954)。

 

アレクサンダー・ブライロフスキー(1896-1976)はウクライナのピアニストで、ヨーロッパで活躍、第2次世界大戦後は米国に移りました。19世紀生まれのピアニストで、録音はRCAのものが圧倒的に多いですね。しかし、これはミンシュと共に、HMVに吹き込んだものです。彼も20世紀のショパン弾きの1人です。

 

 

世の中には、2種類のピアニストがいるとみて、簡単な考察をしてみます。

 

例えば、マウツジンスキのようなピアニストはどちらかといえば、演奏において、弾き手側の理屈を優先する人だと思います。極端な話をすれば、現代のポリーニのような完璧主義者の演奏は、弾き手側に立たないと理解されづらいのだろうと想像されます(上手く弾くためにミスが許されないということです)。ポリーニとかミケランジェリみたいなスタイルは(この場合両方ともイタリア人ですが)、演奏家自身の調子が良くないと演奏しづらいと思いますね。コンサート・キャンセルも出るでしょう。ミスを怖がっている、ということでね。

 

 

↑、マウリツィオ・ポリーニ(1942ー)。現代の巨匠的なピアニスト。完璧主義者でミスをしないことで有名です。イタリアの演奏家は指揮者を含め、直接的な演奏をする人が多いですね。楽譜の行間を読むというよりは、楽譜をそのまま正確に再現するというやり方です。ポリーニは、それを徹底している演奏家ですね。

 

「弾き手に徹する」、ということでのポリーニなど、ちょっと極端な例をあげました。・・・マウツジンスキはそこまで神経質ではないと思いますが、いずれにせよ、曲を正確に弾きこなしていきます。要は「曲の内部」に入り込み過ぎないスタイルということです。

 

 

↑、アルフレッド・コルトー(1877-1962)。20世紀最大のショパン弾きである、フランスのピアニスト。しかし現代に彼がコンクールに出たら通らないだろうといわれています。技術面とか解釈などで。楽譜を読み込んで、文学的な解釈をします。単純に上手い下手を超えた演奏で、演奏とは何かということを考えさせられる存在です。演奏そのものに、創造性が宿っています。

 

20世紀の大家、アルフレッド・コルトーのようなピアニストは曲の「書き手側」に立っていて、技術よりも曲の内容を掘り起こすことを優先します。音楽の「行間」から詩情が溢れ出てくる感じですね。幾分かの気楽さも備えていたりします。

 

このブライロフスキーは、どちらかといえばコルトー側で、ショパンの書いた詩情を、聴き所では、華麗にピア二スティックに表現していきます。遊び心があるかな、と思いますね。

 

特に第2楽章辺り、ショパンの書いた心のひだに届く様な音楽を、ブライロフスキーは心を込めて演奏しています。ロマンを感じますね。

 

またそれをHMVのモノラル録音が良くとらえています。デッカとHMVのモノラル後期の録音は、透明感と明晰さ共に優れ、ピアノの音の録音も素晴らしいです。

 

「曲の内容を掘り起こす」側の意見からいえば、ショパンは病身で、ピアノの音は小さめだったといいます。多分にマザコンの要素を持った作曲家でしたから、男らしいというよりも、少年とか、青年を思わせる精神の持ち主だったと想像され、演奏もそういった傾向を示すものが欲しいというところでしょうか。男性的に過ぎると、その雰囲気が壊れます。確かにこれはロマン派風の見方かもしれませんが、作曲家の背景にまで思いをはせるような演奏家・・・最近はこの手の演奏家はめっきり見なくなりました。機械文明の米国のせいだとかいう話で。だからかもしれませんが、ブライロフスキーは米国では苦労したそうです。

 

今の演奏家は皆上手くて、ミスが少ないですね。ただちょっと演奏の「夢」とか「ファンタジー」に欠けることも多いかと思います。ブライロフスキーの演奏を聴いて、そんなことを思ったりしました。

 

ロマン派は遠くになりにけり、です。

最近も色んな事件が起きています。良い話が少ないですね。特に政治的なことなどは、先行き問題となることばかりな気がしています。ただ自分がブログで、これ以上書いてもどれぐらい意味があるか、ちょっと効果が分かりません。ある程度は書いてきた気もしますし・・・。結局それなりに、現実に問題が噴出してこないと、人は変わらないということなのかもしれません。自分は大衆とは考えが違うんだな、と実感するばかりです。

 

すいません、しばらく簡単な話題にします。

 

 

村上春樹著、「更に、古くて素敵なクラシック・レコードたち」(右側が新刊です)。

 

村上春樹氏のレコード本の続編です。クラシック音楽のアナログ・レコードのみ紹介しています。

 

前回の内容より、今回の方が村上氏の考えが反映されたものになっていると思いました。本人は「クラシック音楽の原理主義者」ではないということを標榜していて、個人の趣味的な演奏を選んでいるということらしいです。しかし、文章を読んでいると「クラシック原理主義者」ではないにしろ、「別の原理」をもって書かれている本だと思いますね。そうでもないと、こういう本は書けません。

 

大体ブルックナーなどは好みじゃないといいつつ、交響曲7番は上下に分けてまで紹介しています。これは本人の意向か、編集者の意向なのかは変わりませんが、あまり好きじゃない音楽家のことをしつこく書くのはどうかとは思います。やはり、一部ですが、理解のない言葉が並びます。ブルックナーなら、本の後半に紹介している、9番だけにした方が良かったとは思いますが・・・まあ、それでもこういう本は個人的には歓迎します。

 

今回はイタリア・オペラも紹介していますが、プッチーニを2曲のみで、ヴェルディでさえ紹介されていません。この辺も趣味が出ていると思います。他は前回通り渋い曲も多く、勉強になるかと思いました。

 

個人的には村上氏とは好きな傾向が違うかな、と思いつつ、紹介してあるレコードを見てみると、実際は自分も所持しているのと同じ音源であることが多いので、面白いです。ジャコモ・プッチーニ、「ラ・ボエーム」のレコードなど4種類紹介してありますが、自分は3種類まで同じ音源で、4種類目はレナータ・テバルディの音源で、彼は古い音源で、自分は新しい方という差だけです。

 

 

↑、村上氏の推薦する、シッパーズとビーチャム卿による、ボエームのレコード。後はカラヤン盤とモノラルのテバルディ盤を紹介しています。

 

ボエームのレコード |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、自分の所持している、ステレオのテバルディ盤です。

 

何だこうだで、他人と同じ音源を持っていたりすると嬉しかったりします。

 

レコード芸術が休刊になりますが、それこそCDではなく、アナログ・レコード時代からの雑誌だったわけで、もう少し最近の雑誌でもアナログ・レコードを紹介したらどうかとは思いましたけどね。かなりのアーカイヴなんかもあると思うんですけど。

 

情報が少ない時代には、レコード芸術のような雑誌は必ず必要だったと思います。そのような時代の演奏家にしても、今の演奏家の源流になるような大家ばかりで、録音される音源も必ずしも多くはなかったわけです。しかし、時代が過ぎ、大概のクラシック愛好家は過去の大家の録音は聴いてしまい、知識も持つようになりました。それはまさにこのような雑誌のおかげだったと思います。

 

現代は聴き手にもそれなりの知識ができ、それによって個人的な演奏の好みもはっきりするようになりました。雑誌が「この演奏を聴け」というような主張も、古い時代は通用したかもしれませんが、現代はそうもいきません。この手の雑誌の推薦盤は時に、一部の評論家の意図のみで発言されていたり、あるいはレコード会社に気を使っていたりするようなものが、入り混じっているとも思えたりで、真実味が無くなりました。腹を決めて利益相反になっても発言する人がいないと、評論など成り立ちません。しかし逆に、それが評論の弱点だったりするわけです。

 

聴き手もCDだけでなく、アナログ・レコードや配信などによって、音源を選べるようになり、一定の雑誌などが「これ」と主張できるものがリアリティを持たなくなりましたね。

 

ある程度の知識があれば、何を聴くかはまさに個人の自由になった、といって良い時代なのだと思います。

 

この傾向はもう止められないんじゃないかと考えています。

 

ミュシャ展に行ってきました。行くは予定なかったんですが、ツイッター上でミュシャの話題が出て、興味を持ちました。展覧会が八王子でやっているという情報も同時に流れてきたので、いい機会だと思って行くことにしました。

 

数日前に、ツイッター上ではミュシャが1流か2流か、という議論をやっていて、ある大学教授が炎上したんですね。その教授はミュシャを2流と断定、これが問題になっていました。

 

ミュシャの描く女性は「類型的」とかで。

 

ミュシャは長い間2流といわれていた歴史もあったそうですが、1960年代以降は再評価されているようです。アカデミズムからいえば、2流といいやすい作風だと思います。

 

かの大学教授の「1流、2流」の言説は、俺の見ている美術がすごい、それに比べれば「ミュシャの描く女性像など2流」、ぐらいの勢いのある言葉でしたので(当該のツイッターはすでに削除されているようです)、この「1流、2流」という言葉はあまりあてになりません。確かにこの人は面白い絵画を紹介していると思いますが、それで自分の理解できない作風を断罪できるか否かは、別の話でしょう。大体芸術品の1流、2流という品定めは難しいので、ミュシャの芸術が1流か2流か?といわれてもピンときません。ダ・ヴィンチとかミケランジェロを2流といえば、相手にもされないでしょうが、ミュシャのような近代的な位置付けの作風など、再評価されたばかりで、まだまだ受容の途中ですから、本当の統計などは、かなり先になると思います。

 

ミュシャの芸術は古典的な西洋画にはない、はっきりした輪郭線や、背景の装飾があり、時に記号的だったりするので、単に「絵がうまい、下手」という以外の象徴的な意味を、広告として賦与させているものが多いと思います。

 

これは象徴性(シンボリズム)を想起させ、人間の根源にある何かしらの深層心理を刺激します。

 

 

 

↑、米国の指揮者、バーンスタインの演奏したマーラー・チクルスのジャケットに使われた、フランスの画家エルテの図版。この何かしらを象徴した図版が、各交響曲のイメージをそれぞれ想起させます。

 

例えば連なる山並みを見て、漢字の「山」という文字が生まれました。これは物事の現実的な細かい条件を削って、特徴となる部分だけを残し、それこそ「類型化」するわけです。これによって万人が扱いやすい、新しい記号を生んだのだと思います。人によっては「家紋」なども、何かしら意味を持つこともあるでしょう。

 

例えば「馬鹿」という言葉が、人を怒らせることができるように、シンボル化は、一種の「意味」をその「記号」や「絵」に持たせる効果があり、時には人の感情を動かします。

 

ミュシャやクリムトなど、そのような記号性や、装飾性を程度よく絵画の中に取り入れています。そして、それを繰り返し見せることによって、人々に一定のイメージを植え付けていきます。このような手法は、古典的な美学では許容されないのかもしれません。

 

「類型化」やパターン化が、本当に芸術に向くか向かないかはまた別の議論を呼ぶかと思います。

 

ミュシャについても、彼のシンボリックな構図や作風は、独特の神話のイメージを想起させます。

 

本来西洋絵画は、現実世界を映像的にリアルに表現することにありました。しかしミュシャを始め、このころの画家にはそれを辞めて絵画の中に輪郭線や装飾などを入れるようになっていました。

 

ミュシャの作品にはいろんな要素があると思いますが、その1つはやはりこの象徴性でしょう。そしてこれは「類型化」によってさらに強化されるわけです。またこういう作風は、工業化によって、沢山の複製が作れるという、スタイルを取りやすいと思います。

 

古典的な絵画は、やはり現物を美術館で見ることが最大の醍醐味ですが、ミュシャのようなアートはプリントされることによって、我々の生活圏に入ってきます。古典的な作品が、じっくりひと所で観察される場合と、時にはTシャツにプリントされて、人目に触れるのと効果は全く違ってきます。

 

実際の社会に与える効果そのものをとれば、後者の方が大きいともいえます。

 

ミュシャの芸術には、現実にはない曼荼羅のような装飾、そして輪郭を強調し、非現実的な世界への入り口としているように見えます。そこにあるのは彼特有の「聖性」を感じさせる幻想と神話の世界のようにも見えます。

 

それを、我々の現代的な現実世界の中で見る場合、よりミュシャは魅力的に映るのかもしれません。

 

 

↑、と偉そうなことを書きましたが(;^ω^)、今回は美術館で拝見しました。全部当時に刷ったリトグラフだと思います。やはりこれも現物を見ると、当時の雰囲気とか伝わってきて非常に良かったです。

 

 

↑、クロッキーのリトグラフもあったんですが、デッサン力はすごいんじゃないかと思います。あとはセンスですよね。食器とかのデザインなどのセンスも素晴らしいと思いました。

 

 

 

↑、油絵の現物などは1点もなかったです。大作も手掛けていますが、やはり広告などで、象徴的な一瞬を切り取るのが上手い人だと思いました。それが充分芸術に昇華している気もしますけどね。

 

畑正憲氏と坂本龍一氏が亡くなったそうです。

 

畑正憲氏の「ムツゴロウの動物王国」は良く観ていました。楽しい番組でした。

 

坂本龍一氏は個人的にYMOの活動より、映画音楽の作曲家、または役者としてみていました。特に坂本氏が音楽を担当し、出演もした、「ラストエンペラー」は音楽も映像も素晴らしくて好きですね。他にも自分には、思い入れのある映画の音楽などを担当されていて、感慨深いものがありました。

 

両人のご冥福をお祈りいたします。

 

年内で雑誌、レコード芸術休刊の話も出てきました。事実上の廃刊だという方もいますが、いずれまた復刊もありうるとは思います。

 

70年もの歴史がある雑誌なので、日本のクラシック音楽受容の歴史そのものです。日本では音源の評論家が「クラシック音楽の評論家」、のように考えられることが多くあります。日本はクラシック土着の地ではないので、音源から学ぶしかなかったとは思いますが、本来なら、これらを評論家というのは、ちょっと微妙な気もします。しかし、そのような「評論家」を多数作った原因の大きな部分は、この雑誌によるところが大きいでしょう。

 

あの盤が名盤だ、とか四六時中やっているのは日本とドイツぐらいだそうですが、それを象徴する雑誌だったと思います。

 

 

ロシアとウクライナの紛争における、NATO・米国の機密文書がリークされました。NYTは一部改ざんがあるとしていますが、どうでしょうか。それでも、今までの情報の中では1番角度の高い情報源ではないでしょうか。

 

 

ここに書かれた両軍の死者数はロシアが16000人、ウクライナが71500人。この数字は、先日のWPのウクライナ軍の死傷者数が12万人程度というのと、整合性が取れるような?取れないような?数字ではあります。ただ1ついえるのはウクライナ軍の被害の方が4倍以上多いということです。

 

いろんな心配 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、国際政治を研究する、田中宇さんは当初から、ウクライナ軍の方が被害が大きいとおっしゃってました。このNATOの機密文書は、田中さんの意見に近いところをいっているように思えます。ウクライナや西側の報告とはむしろ真逆の結果になっている、ということではないでしょうか。

 

また、今あるウクライナ西方がポーランドと一体化するのではないかという話も出てきています。この指摘も田中さんはずいぶん前からしていました。

 

今後ウクライナ西部はNATOの一部になる可能性があります。そしてフィンランドのNATO加盟も決定。これでロシアは長い国境線をNATOと直接接することになります。

 

今までは、ウクライナはNATOとロシアの緩衝地帯でしたが、これが消滅する可能性があるということです。NATO第5条によれば、NATOに属する国に対する攻撃はNATO全体に対する攻撃に見なす、といっていますね。

 

残念ながら、今回の紛争の長期化によって、NATO全体でのロシアに対する軍事態勢は整えられたように見えます。今あるウクライナで細々と戦火を残しておくだけで、NATOとロシアの全面戦争の導火線を残して置けるように見えるようになりました。

 

長期的な視野に立てば中国なんかよりもロシアの方が、国の基盤は安定していると思います。中国は政治的な分裂の可能性を抱えていますし、米国債の保有も多い。経済的な崩壊が起これば巻き込まれる可能性もあります。

 

そういうことのない、ロシアの最大の懸念はこのNATOとの確執だと思います。国際金融にしても、経済制裁が通じないロシア(要はプーチン政権)を潰すには、ほとんど軍事力しかないという考えなのではないでしょうか?しかもNATO全体を使わないと成功は難しい。

 

ロシアが200万人規模、NATOが350万人規模の軍隊で戦争になれば、当然これは世界戦争になります。

 

ただNATOも米国の後ろ支えがないと戦局は厳しいでしょうから、世界の運命は来年の、米国の大統領選にかかってきます。トランプは第3次世界大戦を止めると明言しています。しかしバイデンが再選すれば、第3次世界大戦になる可能性が一気に高まるということではないでしょうか?バイデンなんてのはまともじゃないと思いますよ。

 

個人的にはD・トランプの復活を願うばかりですね。

 

他にも、自衛隊のヘリ墜落の話も出ていますが、あの情報量では良く分からないことが多すぎるので、今回は触れることを止めておきます。


4/14追記:勘違いをして書いていたところがあるので、修正いたしました。すいません💦

色んな事件が起こっているみたいなので、少し書きます。

 

 

D・トランプ氏が、元ポルノ女優に対する不倫関係の口利き疑惑で、ニューヨーク州から起訴されました。大統領経験者が起訴されるのは史上初めてだといいます。しかし、トランプ氏は不倫関係自体否定しています。

 

フロリダ州のデサンティス知事は、トランプ氏の身柄引き渡しを拒否しているといいます。片や、来週には正式に逮捕されるために、トランプ氏自身がマンハッタンに出向くという記事も出ています。どちらの話が本当なのでしょうか?

 

数年前からトランプ氏の逮捕があるという話は出ていました。特にQアノンと呼ばれるトランプ支持者たちには、「トランプ逮捕」が次の大きな出来事の布石になるという話が関係者から出ており、それが出回っていました。確かに今回起訴が起きて、話が現実味を帯びてきたようにも見えます。

 

これはおまけで書くんですが・・・米国においては、現職大統領は起訴できないという話。Q信者はまだトランプが大統領だといっています。これは複雑な話ですよね。全く常識的じゃない話です。この件で、つまり起訴されて、トランプが大統領だったという話が初めてはっきりする・・・ということらしいです(とりあえず、そういう話もある、ということで・・・)。

 

そういう変わった話を除けば、常識的に考えて、トランプ氏の起訴は来年の大統領選への、政治的な駆け引きだと思います。起訴されても大統領選には立候補できるらしいので、D・トランプ氏のイメージダウンを狙ったものかもしれません。

 

それでも起訴が明確になれば、米国の2極化はより激しくなるものと考えられます。今のこの状況だと、第2の南北戦争のような感じが出てきていると思います。

 

 

 

親米であったサウジアラビアが、原油の買取りを人民元でできるように模索しているという話が出てきました。

 

原油は「ペトロダラー」とか「オイルマネー」といって、原則「米国ドル」でしか買えないというルールがあり、これが「金」に変わって米国ドルを下支えしてきました。このペトロダラーシステムは、本来何か決まりがあるわけでもないのですが、米国の意向でそうなってきました。

 

日本のように「原油」が欲しい国は原油が米国ドルでしか買えないとなると、「米国ドル」を得るために米国にモノを売るしかありません。米国は紙幣を刷ってそれを買い取ります。すると今度は、原油の欲しい国は、先のモノを売って得た米国ドルで、産油国から原油を買い取ります。

 

これを繰り返せば、産油国に米国ドルが貯まりだします。そうなってくると米国は産油国の為政者を守るために軍隊を派遣し、その見返りに産油国に米国債を買わせます。これによって、「米国ドル」はふたたび米国に帰ってきます。

 

このように世界中で必要とされる「原油」と引き換えに、国々は米国ドルにコミットせざるを得ず、基軸通貨としての役割を果たしていきます。これは重要な米国の世界覇権の要素でした。それを親米だったサウジアラビアが崩そうといってきています。これはかなり驚きの事実でしょう。

 

現在は米国ドル以外ではユーロでも原油を買えるといいますが、昔は米ドル以外では不可能でした。しかも、このシステムに歯向かうことは、かつては非常に危険だといわれてきました。

 

そして以前、これに反旗を翻した人間の1人が、旧イラクの、サダム・フセインだといわれています

 

サダムは、当時まだ不可能だったユーロでも、原油の取引をできるようにしました。これが国際金融の逆鱗に触れたといいます。こういうことが恒常化してしまうのを恐れたのでしょう。ユーロで良いのなら、円だって良い、という国だって出てきてもおかしくありません。

 

そして、その直後に起こったのが「イラク戦争」です。

 

ロシアとウクライナ |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、この中でも書きましたが、「大量破壊兵器」があるといってイラクを攻撃した理由が、実は、この「ペトロダラーシステムに歯向かった」からだ、というのが大方の見方です。

 

上の記事の中でも書いていますが、リビアのカダフィ大佐も同様に、欧米の経済政策圏からの独立を図っていました。またこの「ペトロダラーシステム」に限らず、「ヨーロッパ由来の中央銀行制度」のない国は、NATOや国連軍という存在によって攻撃されたり、脅されたりします。リビアやシリア、北朝鮮などです。キューバ、アフガニスタン、イラン、スーダン、パキスタンなども以前は中央銀行がありませんでした。こうしてみると戦場になったり、米国が敵視政策を取っている、あるいは、取っていた国々が多いことが分かります。

 

そして、現状のロシアはまさに「米国覇権」から、距離を置いた経済システムを模索している最中だと思います。ロシアを含む、ブリックスが、新たな経済圏を作る可能性を語る人も多いです。

 

結局、「民主主義国家ではない」という理由でこうした国々をNATOは攻撃しますが、実はその裏側は「米国覇権」を支える金融システムを拒否している国々を許さないため、ということになります。

 

これらのことが事実であるというのなら、NATO自体がかなり危ない組織であるということになります。

 

しかしサウジアラビアが表立って、人民元を基軸通貨にするといっているのは、従来の国際金融がいかに弱体化しているのか、という証左なのだと思います。

 

 

日本は良くない状況になってきているんですね。凋落するドルに引きずられていく可能性が非常に高いんですね。片や、ブリックス側ですが、中国辺りも危ないと思います。もうちょっとこういう話を地上波でやらないですかね。某池上氏の番組とかじゃあねえ・・・。経済や銀行のシステムの話をするだけでも一般人にはかなり違うと思うんですけどね。・・・危機意識がなさすぎなんですよね。

 

無駄に焦っても仕方ないんですけど、今後も元気に生きていくには、どうするか?という話を考えなくてはなりません。

 

珍しく時間があるので、ブログを書きます。しかし、今週末はブログを休むかもです。

 

さて、岸田総理がウクライナを電撃訪問したとかで話題になっている「必勝しゃもじ」。岸田さんからゼレンスキー大統領に渡されたらしい。曰く。

 

「このしゃもじには飯を取る、すなわち敵を召し取るという意味が込められており、日露戦争にも由来するものであると言われている。ウクライナに対して、ロシアという敵を召し取る、という強いメッセージを込めている。」

 

ウクライナがロシアに勝つということを願って、ということらしいです。衆議院で、この「しゃもじ」が下らないか、そうでないか、という議論になったそうです。外野では学者なんかも巻き込んだりして。・・・大人のやる議論でしょうかね(;^ω^)。

 

なんか保守とかいわれている方々からは、岸田さんの評価も回復したりして。この手の保守は最近は「ビジネス保守」なんていわれるようになってきてるみたいですけど。やってる方は当然、自分たちが本物の保守だと思っているとは思います。

 

「陰謀論」という言葉がありますが、この「陰謀論」を組み込まないか組み込むかで、物事の見え方が180度変わる時がありますよね。

 

ロシアとウクライナの戦争についてもそうで、個人的には、こんなにウクライナに肩入れする必要はないと思いますけどね。ウクライナの方々は本当に気の毒だと思います。問題はゼレンスキーら政治家にあったと思いますけどね。しかし、「陰謀論」を組み込まない人にとって見ると、今の世の中は最悪の独裁国家「ロシア」がウクライナで暴れまわっている。そして、そのロシアと手を組みつつある独裁国家「中国」。そして1つ間違えば「中国」に乗っ取られかねない、隣国の「日本」は大ピンチ、という見え方なんでしょう。

 

 

・・・めっちゃ煽られているわけ。ワイのワイのでみんなカッカしている。俺たちと違うことをいうと「噛みついちゃうぞ」、みたいな・・・。確かに、一部は真実だと思いますが、全体としてみるとね、色々とおかしいし、違うんじゃないのとは感じるけどなあ・・・。

 

「陰謀論」という言葉が難しいですね。少しでもロシアに肩入れするようなことを書くと「陰謀論」とかいわれたりします。しかし実際は、「陰謀論」でもなくて単純に時系列に沿って、この問題については、ウクライナ東方で何が起きていたかを見ていく、ということにすぎないんですけどね。「陰謀論」でも何でもないわけ。「陰謀論」のレッテル張りをしたい人は、ウクライナの東方の出来事の客観的精査を絶対にやらない。やっていることは、人数が多い方に属するか、そうでないか、という議論でしかなくて、ほとんどポジション・トークになっているだけです。

 

だから、自分には、そういう人たちは自分が「おかしい人」と見られないように、ポジション・トークに徹しているように見えるわけ。

 

とはいえ、当人たちはそういう意識もないんでしょうけど。

 

問題は学者とか政治家とかがこうなってしまう場合でしょうね。政治家や学者は「陰謀論」やっているといわれると、職を失ったりするかもしれないですからね。ほとんどの場合、「陰謀論」の意見は、初めから除外された意見として扱っていますね。逆に政治家でそういうことをいう人も、何だか叩かれやすい人ばっかりでね。結局「常識人」という方々の、ガス抜き役をやっている人にしか見えない場合が多いですね。

 

岸田さんは、ロシアによる虐殺があったという、ブチャにも行ったそうですが、ブチャもの件も未だにはっきりしないですね。BBCとかNYTのいうことを鵜呑みにすべきかどうかもね、難しいところです。

 

 

↑、学者がこれで良いのかは疑問ですけどね。BBC辺りも前後関係調べればわかりますけど、普通に嘘の記事を書いています。だからまずBBCの記事に妥当性があるかどうか?・・・ということから考えて、それでもこの記事はどうしても信用に足る、と思えばこれぐらい強い意見もいえるんでしょうけど。確かにご本人は「厳しい報道」と書いているからには、何等かの確信でもあるんでしょう。しかし、ちょっと自分には疑問ですけどね。特に双方認知戦をやっている最中ではね。確信をどうやって得ているのか、知りたいところです。

 

国を愛する「愛国心」とか、人道的な行為に反する「正義心」なんてのは、マスコミや扇動家に狙われやすいですから、客観的になることが難しいと思います。ここを刺激されると、人は一種の興奮状態になります。

 

また、世間の権威とかブランドは強いですからね。ただ「真実が何か」という1点に関しては、権威やラブランドが、役に立たないケースは決して少なくないですね。

 

ここで疑義を挟んで、矢玉に挙げられている人も、必ずしも「反ウクライナ」で書いているわけでもないんですけどね。要は「ブチャの件」ももう少し調べた方が良いんじゃないのか、ということなんですが、すぐに「反ウクライナ」といわれるわけです。

 

現状ではロシアがおこなったか、ウクライナがおこなったか、いい切るのは難しい、というのが事実じゃないかと思いますけどね。だから結局、自分もこれはポジション・トークに見えるわけです。いわゆる常識的な学者としてはこれが正解なんでしょうけどね。一応アカデミックな意見というわけなんでしょう。

 

個人的にはそんなにガチガチにならなくても、とか思うんですが。

 

しかし、まあ・・・自分もそんなに正確に物事を見ているかといわれれば、微妙なところもありますので、これぐらいにしますが・・・。

 

とにかく、世の中狂っているな、と思っているのが今の自分の正直な心境です。

 

事実はいずれ分かると思うので、もうちょっと様子見でしょうね。

 

ドイツ銀行が危ないという話が出ていますが、どうなんでしょうか?2015年、2019年にも破綻するなどという話は出ていました。2019年当時はドイツ銀行が抱える金融派生商品が5000兆円とか、7500兆円とかいわれていました。現在どれぐらいになっているかは不明です。

 

しかし当時は、破綻すればこれらが飛ぶので、金融市場は崩壊するという話でした。

 

ギリシアのデフォルトが40兆円、リーマンショックが65兆円とかいわれていますから、破綻すれば破格の額です。日本の借金が1100兆円。5000兆円とか、7500兆円がいかに異常かという話です。

 

米国においては、先のシリコンバレー銀行などの倒産は銀行自体は救済しませんが、預金者は救済するといいます。しかしここに税金は投入しないということで、結局新しくお金を刷るということのようです。

 

シリコンバレー銀行に次いで、危なくなった、クレディ・スイスもスイス国民銀行から7兆円借り入れるとか。これも多分お金を刷るんでしょう。

 

 

次いで各国の中央銀行が資金供給を増やすというので、これも多分お金を刷るんだと思います。

 

これによって、急激な世界的金融破綻は回避されましたが、銀行を救済するためにどんどんお金を刷るという悪循環に陥っていきます。要は破綻する銀行を延命しても、結局インフレになって、経済が行き詰まるのを先送りしているだけということになります。

 

米国でもまだ危険な銀行は多いといいます。しかし全ての銀行を救済はしないとの発表もありました。

 

 

本当は破綻する銀行は救わない方が良いらしいですけどね。預金者もですけど。救えば救うほど、世の中のに「紙幣」が溢れていき、やがて「紙幣」が紙切れ同然となります。でも今の世の中、お金を刷るのはタダなので、どんどん刷ります。

 

例えばこれが金本位制なら、「金」の量に限界があるので、あんまり「紙幣」を刷れば、「金」が足りなくなります。

 

20世紀の世界恐慌時は、当時の金本位制(ブレトンウッズ制)が起こした、みたいないい方ですが本当なんでしょうかね。金本位制の時代に金融不安になれば、みんな「紙幣」を「金」にしようとします。それで「金」が足りないので、どんどん銀行がつぶれます。

 

大体、金本位制の中で「金」がある以上に無理やり紙幣を刷っていけば、どうやったて問題が起きますよね。実際に「金」が世の中に出回る量が、「紙幣」の量のリミッターになるわけですから。

 

じゃあといって、金本位制を無くして、勝手にじゃんじゃん「紙幣」を刷れば今度はまた「銀行」を潰せなくなって、インフレになる。これが現状なんでしょう?

 

銀行の力が大きくなりすぎて、1行潰すだけで恐慌になりかねない。関係者は怖くてそんなことができないわけです。

 

 

↑、エミンさん、この方の国際政治の話はあまり信用してませんが、今後インフレになっていくという話はありうると思います。

 

完全に「銀行」のシステムの問題で、何でもお金で解決させる世の中を作ろうとして失敗なのが現状なんだと思いますけどね。必要以上に世の中「お金」まみれになります。

 

今あるシステムは、大量に発行した「紙幣」をたくさん集めたものが「勝者」になる世の中を創りだした制度でしたが、それももう危ないということですね。現状を繰り返していけば、銀行が危ない状況が続くので、ハイパーインフレになって、経済が死ぬ、ということになる可能性を示唆しています。

 

ということで、今後は紙幣の価値がどんどん落ちていくというのが真実なのではないでしょうか?「マネー」より「現物資産」ということになっていきそうです。