今週は仕事のせいで疲れています。精神的にもちょっとしんどくて・・・ブログは止めておきます。
WBCは観ています。最近はほとんど野球も観なくなりましたが、久しぶりに野球を観ています。WBC、昔はメジャーの選手は出ていけないとかありましたが、近ごろはそうでもないんですね。
日本のメジャー選手が増えて、日本のスター選手が一同に会するというのは珍しいことになってしまった気がしますが、今回はそれが実現していますね。期待値はどうしても大きくなって、気応えがあると思っています(*^^*)。
今日は買い物のために新宿に。タワーレコードに行ったんですが、欲しい物は、売り切れとかで(汗)。渋谷のタワーレコードにあるらしいので、渋谷まで足を延ばしました。ちょっと遠いですが・・・人も多くて、あんまり行きたくはなかったんですけど。土日に都内に出るのは結構大変です。
しかし目的の物は、渋谷のタワーレコードでもすぐに見つからなくて、結局、店員さんに見つけてもらいました(;^ω^)。
同じフロアで、ジャズのミニコンサートをやっていたので、しばらく聴いていました。良い感じのコンサートでしたが、立ち聴きで疲れたので、諦めて帰ることに。
欲しかった物はといえば、ミーハーなんですが、カミーユ・トマのレコードです。何とかゲットできました。渋谷まで行く羽目になるとは思わなかったです。まあ、仕方ないですか・・・。
結構大変な日曜日の午後でした。
簡単な各論を書きます。いくらか過激な内容と思える部分もあるかもしれませんが、あくまで個人的意見ということで、お願いいたしますm(__)m。
<ウクライナ>
今回、この件は戦争そのものの道義性を問うのではなくて、マスコミの報道が本当に正しいのか、という疑義について書いています。
ウクライナ軍の優勢というのが、連日マスコミで報道されていますが、本当なんだろうか?という疑問ですね。小国が大国に勝つ場合、例えば技術水準が一世代(半世紀、最低でも四半世紀)は先行でもしていないと、中々難しいと思います。他は本当に核兵器にでも頼るぐらいですね。
チャーチルは、ナチスに対し、あと半年反撃が遅れていたら、連合国はどうなっていたか分からない、といいました。ナチスに負ける可能性があったことを示唆したわけです。例えば米国の2002年に発表されたステルス戦闘機は、多分にナチスのホルテン戦闘機の発想を拝借していると思われます。その時間の経過は50年以上前のものです。他にも当時のナチスの技術は米国に渡り、ロケットミサイルやジェット戦闘機などの開発に使われました。ナチの技術が30年とか、50年先行していたといわれる所以です。
↑、既に退役しましたが、米国のF117。
そうでもない限り、大概戦争は資源のある国が強いですね。ナチスがスターリングラードを押さえようとした理由の1つが、隣接するボルガ川の補給路を断つことでしたが、結局ボルガ川から大量のソヴィエト兵が運ばれてきて、第2次世界大戦における、ナチスの本格的な、初めての敗戦になったといわれています。戦死者については圧倒的にロシア軍の方が多かったにも関わらず、結局ロシアは圧倒的な国力で押し返していきます。
先日ロシアが予備役を動員しましたが、これは30万人程度で、本来はまだ150万人以上います。
前提として、もとから、NATO全体でも、ロシア軍に敵うかどうかは分からない、といわれていたのに、本当にウクライナ軍だけで、どうにかなるとはいえないと思いますけどね。局地的な戦闘では勝ったりするかもしれないのですが、勝ち負けを繰り返しながら、結局最終的に戦闘がどうなるか考えると、マスコミの報道は微妙ですよね。本当にドンバスを取り返したいなら、NATOと共に米国がある程度まで前線に出て、優位を獲得しないと無理だと考える方が普通な気がします。
しかしNATOも米国もその気がないので、細々と、ウクライナ軍の戦いを存続させるために、兵器供与を続けているだけなのでは?ウクライナ軍が何時までもつか疑問を感じる方が常識的な気がしています。マスコミとか専門的な軍事関係者の国内の意見なんて、本当に信じてよいのか疑問ですね。
日露戦争のようなケースもありますが、今回はウクライナ同様、ロシアも民族問題がかかっているので、引かないと思います。
<LGBT>
最近はLGBT問題をやたらやっていますね。何でだろうとか思います。統一教会なんかは「家族」のあり方にうるさかったけど、彼らが叩かれ出したのち、日本国内で、表立って、この話が出てくるようになりました。
まあ「生産性がない」発言なども、自民党議員から、以前にあったといえばありましたが・・・。
美輪明宏さんが自身の体験を基にして、性的マイノリティーの話をしていらっしゃいます。同性愛を苦にして自殺する方の話など、やはり聞いていて辛いものがあります。彼らについては、本当に世間の偏見というものがあるのだと思います。こういう人たちの話を聞いたりして、問題解決を図るのは必要なことだと思います。
他方、現在起きているLGBT問題が、これらの問題の解決のためにあるかどうかは疑問があるところがあります。要は別の側面に進み過ぎなのでは?という懸念ですね。
それにしても、性の問題を扱うのは難しいですね。人間の性的嗜好は、直接その人間の本質に結びついており、社会性を超えてプライベートな嗜好性の対決となるため、直接的な意見が出やすくなります。故に性的嗜好性の違う人間を「気持ち悪い」という感情は、他者の嗜好性に同調しようとすれば、当然のように発生する感情でしょう。そしてこれは「少数派」のものに、より厳しく向く傾向はあるように思われます。
自分は同性愛嗜好性は持っていません。それ故ここに書く言葉は、偏見を免れませんので、それは初めに謝っておきます。
さて、どのような嗜好性持つ人間であれ、悪いことをしなければ人権は認められるべきだし、自由であるべきだと思います。それ故、人の上に立つような人間が、性的マイノリティーに対して、差別的な発言をするのは問題があります。
他方で今日みられるLGBTに対する解決法についてはどうでしょうか?ミスコンにトランスジェンダーが出場して優勝する。オリンピックにトランスジェンダーが出て活躍する。これらは悪いことでもない気もしますが、どうなのでしょうか?
↑、2022年、米国のミスコンでトランスジェンダーの、ブライアン・グェン氏が優勝。参加者の外は全員女性。110万円の奨学金を得たそうです。
女子選手の中にトランスジェンダーが加われば、体力差で男性のトランスジェンダーが有利になったりします。
また最近の海外のテレビドラマだと、割合普通に同性愛のカップルが登場したりします。また今年のグラミー賞では史上初めてトランスジェンダーのキム・ペトラスが受賞。
↑、右がキム・ペトラス。
こういう状況を簡単に「良い・悪い」で論じるのは難しいです。ただ欧米型のLGBT推進のやり方は、ちょっと問題があると思っています。
オリンピックにトランスジェンダーを出場させるならば、やはり別の枠を作るべきだと思います。他にもミスコンなどでも。タイなんかでは性転換者のみのミスコンなんかやっていたりします。
「差別」と「区別」は違います。やっぱり「区別」は必要だと思うんですよね。それがないと社会は混乱します。最近の論争は区別を差別といいだしている感じがあり、これでは混乱するばかりです。
「性」が違えば各自「差」が出ると思うんですよね。その「差」を原因にして「悪意」などを抱くのが差別だと思います。その「悪意」や、「社会的不合理」さえなければ、「区別」をはっきりさせること自体は、問題ないのでは?
非常に素人的な発想ですいませんが、個人的な見解を述べるならば、統計なんか取って、世のなかにどれぐらいトランスジェンダーなんかがいるかを調べて、新たに「第3の性」なり「第4の性」なんかというカテゴリーを作ったらどうかと思いますけどね。それを科学的な権威があるところが発表して、まず世間に認知させるとかの方が良いと思います。人間として、これらの人たちも、決しておかしなことではないという話です。そして差別してきた側の、反省が求められます。
確かにL(レズ)G(ゲイ)B(バイセクシャル)T(トランスジェンダー)というカテゴリー分けは簡単ではなく、とても複雑になる気もしますが、やる価値はあると考えています。
それでこの「新しい性」の概念を持つ人たちが、今ある社会との関わり合いを考察するために、1度シュミレーションするなり、実験的に進めるなりして問題点を洗ったらどうかと思いますけど。
今でも明らかに「女性」と「男性」という区別はあります。その「女性」のなかに「トランスジェンダー」が入って、体力差でトランスジェンダーがスポーツで優勝ともなれば、やはり「女性」たちは納得しないでしょう。こういうやり方をするから、話がおかしくなると思うんですけどね。
今のやり方は「急ぎすぎ」なんだと思います。結局TPOを考えて、状況ごとの判断がいるんじゃないんですか。
今ある欧米型のLGBT推進のあり方は、「差別」と「区別」をごっちゃにした拙速なやり方だと思います。だから、色々反感を持つ人も出てきているんだと思いますね。
LGBT問題を論じるなら、幾分いいにくいことも、いわなければならないはずで、それを差別だといいだすと、いわれた側は「逆差別」といいだすでしょう。いつもいいますが、まずは論議するべきなんですよね。急に誰が決めたか分からないルールを出してきて、これが正しいとやられても、簡単には通らないのではないでしょうか?
↑、レズビアンのナブラチロワ(元プロテニスプレイヤー)がトランスジェンダーが、女子テニスの大会に参加するのはおかしいといっています。やはりトランスジェンダーごとで枠組みを作った方が良いのでは?と思います。
<優生思想>
イェール大学の助教授、成田悠輔氏が高齢者の自殺を促すような発言をして、物議(特に海外で)を醸しています。
↑、高齢者は老害化する前に集団自決しろ、というような内容を語ったという話です。他の人たちも笑って聞いていたとか。しかもいっている本人は、まじめにいっているとかで、ちょっと空恐ろしい気がします。
年齢の高い低いにとどまらず、他者の生死を第3者が決める権利など本当にあるのでしょうか?仮に自分が死ななければならない立場になった場合、そうなった当人たちは、一体この問題の本質を、どう感じれば良いのでしょうか?「自分には死ねと・・・?」
成田悠輔氏に留まらず、最近テレビなどが持ち上げる、ホリエモン、ひろゆき氏、三浦瑠璃氏、古市憲寿氏などのコメンテーターは若者に人気という感じはしますが、その一方でかなり危ない印象も受けます。今まではいっていけないことだったのに、彼らはそれをあえていう、という感じです。そのおかげで人気を博しているのかもしれませんが。時には確かに、過激な発言も必要だと思いますが、それは本当に必要な発言なのか?
若者が回転寿司で、他人の寿司を舐めてみたりする行為は、これらと同様に、一種の炎上商法にも見え、目立ちたいとかという感情の発露にも見えます。
↑、古い記事なんですが、日本の指揮者、朝比奈隆氏が語っていた教育の問題です。要は中学、高校と子供と大人の分岐点なんですが、この時期の扱い方を現代は間違っているのではないかという問いです。
↑、道徳や倫理は、本質的に、他人から押し付けられてしまうと、自主性が無くなります。これは本来ルールや法律で決めない方が良い案件です。
上で引用した、指揮者、朝比奈隆のいうところを再び掲載してみます。
「朝比奈
・・・(中略)・・・僕は今の教育制度を難しくしている原因は、戦後の新しい教育制度だと思います。それは、アメリカの行ったことにも責任の一端がある。つまり、中学校というものを小学校の上にくっつけてしまったことです。旧制の中学校は管轄も府県単位でしたから、今の高校と同じだったんですね。でも新しい教育制度は、今でいえば高校にあたる旧制の中学校のうち、最初の三年を義務教育へくっつけてしまった。小学校のあとを義務教育にしたこと、そこに問題がある。・・・(中略)・・・教育するほうの立場からすると、やりにくい部分がかなりあるんではないでしょうか。高校は義務教育じゃありませんから、試験を行って選別できます。・・・(中略)・・・とにかく、今の新制中学というものに無理があると思いますね。これはアメリカの占領政策なんでしょうけど。
宇野
いわゆる六三制ですね。アメリカはどういう考えだったんでしょうか。
朝比奈
日本の明治以来の教育制度をいっぺん解体したかったのでしょう。そこに日本という国の、国力の根本があるわけですからね。
・・・(中略)・・・幼年が少年になって大人になるちょうど過渡期が、こっちに付いているのか、あっちに付いているのかわからないのがよくない。」
個人的には回転寿司の若者の問題や、優生思想の問題などは、基本的に「大人になり切れない若者の問題」だと認識しています。
子供が大人になり切れない理由、つまり現実世界で、何かをしなくて過ごせる期間が延びてしまい、無駄に時間を持て余してしまうところにあるのかもしれません。
明治時代に大学に行くような人は、余程勉強ができる人でしたが、今日では必ずしもそうとも限りません。そのような中で、「現実社会」が本来教師となるはずの、「倫理」や「道徳」を学ぶタイミングを逸してしまうというのが、今日の若者に多く見られる現象ではないでしょうか?(自分もそう偉そうにいえるような人間ではありませんが。)
そして、そのような若者がそのまま今の自分に何の疑問もなく成長した姿が、上にあげたテレビコメンテーターたちの姿のように思えます(あくまで、個人的な憶測です、間違っていたらスミマセン(;^ω^))。
極端ないい分かもしれませんけど、申し訳ないですが、高齢者の集団自殺をほのめかすのは、やはり「犯罪者」側の心理であって、実際に生きている方々の心理を知らないから出てくる発想だと思います。いわゆる「ルフィ」たちと、何がそんなに違うのか?
有名な小説がありますよね。
ロシアの小説家、ドストエフスキーの「罪と罰」こそはこういった「優生思想」に対する全き対義語であって、人間がどんな理由にしろ、他者を殺すことを計画するのは「恐ろしいこと」だという認識を持つべき案件だと、教える内容のものです。
そして他者をどんな形であれ、貶めたり、殺そうとしたりする行為のもとになっているのは、この場合「目立ちたい」とか、時には「ずるをしたい(他人より優位にたちたい)」という感情が後押ししている可能性があるということです。自意識過剰な人間はあえて過激なことをしたがりますが、これは幼い人間のありようです。そこにあるのは正に「愛の欠如」そのものです。
そしてこのような人間が、そのまま成長すれば「知恵のある獣」になるのだと、ドストエフスキーは警告していました。
フョードル・ドストエフスキー6 | ヒマジンノ国 (ameblo.jp)
↑、ドストエフスキーの記事のまとめの部分です。
「優生思想」のような発想を表だってするようなこと自体、社会問題なんだと思いますが、政治家などほぼ無関心です。
また、このようなコメンテーターたちの意見は各論では同意できる内容だったりしますが、総論では物事を解体していくというところも問題です。自分にいわせれば「嘘」と「真実」を織り交ぜて喋っているだけで、全体の利益を考えて喋っているかは疑問があります。
朝比奈隆やドストエフスキーにしろ、先人たちは多くを見抜いていたと思うのですが、結局何ら生かし切れていないというのが、現代の悲劇です。
3月にネトレプコが来日するそうです。チケットはすでに売り切れ。トリフォノフの演奏会もいけませんでしたが、ネトレプコもチケットが取れず。
腹いせにトリフォノフのアルバムを聴きます。
ロシアのピアニスト、ダリール・トリフォノフによる、ロシアン・アルバムの「シルバー・エイジ」。第1次世界大戦からソヴィエト時代にかけて、世界的にロシアが、音楽において、最も前衛的であった時代をシルバー・エイジと名付け、その代表的作曲家である、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)、アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)、セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1951)のピアノ曲を集めています。
要はロマン派の影響を排した後の音楽世界を、集約している所にこのアルバムの魅力があるわけで、無調音楽のように聴いていてつらくない、モダニズムの世界を堪能できます。こういう選曲は面白いです(最近の国際情勢のせいでロシア音楽の文句をいう方も多いですが、個人的には全く下らない意見だと思うので、一蹴させていただきます)。
4839643-4839645。
(スタンパー、びりびりに破れているように見えますが、こういうデザインです。)
結構な名盤だと思うんですが、日本ではほとんど話題にもならず。グローバル評価の方が高いと思います。CDだと2枚組、自分はLPで4枚組。
ドイツ式ワーグナーの音楽が主流であった、後期ロマン派に止めをさしたのが、ロシアのストラヴィンスキーといわれています。ワーグナー主義の末裔であるR・シュトラウスから、真の大作曲家として、時代のバトンを受け取ったのが、ストラヴィンスキーで、片足をアヴァンギャルドな世界に突っこんだ、20世紀のモダニズムの代表格です。
ここに収められているのは「火の鳥」や「ペトルーシュカ」など。トリフォノフは、彼一流の技術的な冴えで見事に弾き切っていきます。
スクリャービンはストラヴィンスキーとほぼ同時代の作曲ですが、もっぱらラフマニノフと比較される作曲家です。彼もラフマニノフ同様ピアノ音楽を得意とし、民族的というよりは、一種の神秘思想をかたどった独特な音楽を書きました。それだけに独創性があります。しかし、ラフマニノフは大衆受けをしますが、スクリャービンは思想的に難解というところ。去年はスクリャービン生誕150年でスクリャービン・イヤーでしたが、ほぼ世間は無視。彼は主にピアノ作品の作曲家でした。演奏の大家ではホロヴィッツが良く演奏しています。最近ではこのトリフォノフでしょうかね。聴けば良い曲が多いと思うこともあろうかと思います。
このアルバムに収められているのは、彼の唯一の「ピアノ協奏曲」。これは聴きやすい美しいコンチェルトだと思います。ショパンのものに近いともいわれます。個人的にはラフマニノフのコンチェルトよりもずっと美しいと思いますね。少しとりとめのなさはありますが、好きな曲です。
セルゲイ・プロコフィエフはピアノ・ソナタ8番と、ピアノ協奏曲2番を収録。ソナタは戦時中に書かれた、戦争ソナタの1曲で、プロコフィエフらしい鋼のような音色、無機質な質感が、静かに異様な雰囲気を作り出す曲です。戦争中の不気味な雰囲気を表現していると思われます。
ピアノ協奏曲2番はプロコフィエフの若書きの作品で、ロマン派の語法を避けた、シニカルで金属質の音色を基調としつつも、アヴァンギャルドになりすぎる手前で旋律を寸止めし、総合的に見ると、何かロマン派の音楽を聴いたような雰囲気になる、不思議な曲。諧謔性や皮肉な感触などが盛り込まれますが、第1楽章などはオーケストラがまるでマーラのような迫力も見せます。ロマン派の曲ではないのですが、結局背後にロマン派の影を宿している曲で、プロコフィエフ独特の特性が垣間見れます。
Yuja Wang plays Prokofiev : Piano Concerto No. 2 in G minor, Opus 16 - YouTube
↑、ユジャ・ワンによるプロコフィエフのコンチェルト2番。
トリフォノフによる、このアルバムは面白いと思います(*^^*)。
ヒラリー・ハーンによるプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲1番。45回転盤のレコード。
4839849-4839850。
プロコフィエフの曲の中でも、このヴァイオリン協奏曲は深みのある名曲だと思います。冒頭の懐かしいメロディに始まり、甘すぎない構成の名曲です。
ヒラリー・ハーンは昔よりも演奏の味が濃くなった気がします。曲によっては、ちょっとくどいと思う時もありますが、プロコフィエフでは曲調のせいもあって割とすっきりと聴こえます。音色にそれなりの深みを感じさせるので、中々に美しいです。
クラシック音楽は収録時間が長いので、アナログ・レコードは圧倒的に33回転盤(1分間に33回転する)が多いです。収録時間の少ない、45回転盤は数が少ないです。ただ、45回転するということは、要は同じ長さの音楽であれば回転が速い方が、レコードの溝を長く利用できるわけで、音質が向上するという長所があります。
33回転を聴いていると時折、レコード特有のザラザラ感が気になることがありますが、45回転盤はそれが無くなります。
それでも本物のコンサートに行った後はどんなレコードでも聴く気を無くすときは結構ありますがね。45回転の方が実演に近い感じですね。
プロコフィエフのVコン | ヒマジンノ国 (ameblo.jp)
↑、おまけで、プロコのVコンについての過去記事です。
トリフォノフが来日しているというので、行きたかったのですが、結局スケジュールの都合で諦めました(泣)。ということで、いつもの東京芸術劇場の土日のマチネに行ってきました。
2月11日、日本人とドイツ人の両親を持つ、ドイツの指揮者エリアス・グランディと、ソプラノ、アンナ・ルチア・リヒターによるコンサートでした。
前半がモーツアルトのオペラ3曲からそれぞれ前奏曲とアリア。後半はブラームスの1番でした。
今日も知らない演奏家ばかりです。
グランディは年齢が不明ですが、かなり若いと思います。ブラームスの1番は現代風にあっさりやるのかと勝手に思っていましたが、そうではなく、冒頭から遅めのテンポで、丁寧な演奏。かなり濃厚な味わいを出し始めて、驚きました。
名演だったと思います。どの旋律も余韻を残して、聴き手に深い印象を感じさせました。厚い弦の合奏を伴う、第1楽章の迫力も実演ならではで、北ドイツの自然風景を基にした、ブラームスの厳しくも濃い感情の、柔軟な流れなど、心に染みるものがありました。
フィナーレのみ恣意的にテンポを動かして、特に終わり際のブラームスらしい、堂々とした男気を、迫力あるソリッドなものに仕上げていました。終始、現代的な柔軟性と華やかさを失なわない、ブラームスを堪能させました。
前半はアンナ・ルチア・リヒターの独壇場で、白人女性らしいがっしりとした骨格に、ブロンドの髪を結いあげて、胸元と背中の開いた真赤なドレス姿で登場。ちょっと歌劇場っぽい雰囲気を出します。パンフレットには「透明感ある歌声」とありますが、実際に歌ってみると、割と濃いめの声質で、モーツアルトのオペラの役柄(ここではツェルニーナやケルビーノ)っぽくないと感じたりしました(メゾで歌っていたからかな)。
ただ徐々に独特の声の感触に慣れると、かなり美しい歌声だと思うようになり、華やかな印象が素晴らしかったです。楽しい前半でした。聴衆の温かい拍手もありましたね。
マチネとしてはかなり充実した感じがして、満足したコンサートでした。
【完全版】2023.2.2福島雅典教授、厚労省に対する訴訟記者会見 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
コロナワクチン接種者の情報開示を求めて、京大の福島名誉教授らを中心とした人たちが厚労省に対して裁判を起こすようです。
記者会見で福島先生がおっしゃっているように、医療の現場ではすでに異常なことが起こっているということ。それが世界共通の認識になりつつあるということ。コロナワクチン後遺症と思われるものが、判を押したように、似たような症状を呈するということなどを、非常にはっきりと述べておられます。
原爆の被爆者手帳を作ったように、コロナワクチン後遺症の手帳を作れ、といい、その治療法の確立が急務だとおっしゃってます。国民8割の健康被害になる案件です。
記者会見を見ると分かりますが、非常に説得力がある会見だと思います。
これらのことが事実なら推奨してきた政治家や医者などは、過激ないい方をすれば「ブタ箱」入りになってもおかしくない、可能性が出てきたように思います。
テレビなどに出てくる医師は、ほとんど製薬会社などから献金を受けている方々ばかりです。これでは製薬会社に批判などはできないと思います。
異常事態だと思いますね。
1月29日、シンガポールの指揮者カーチュン・ウォン、ピアニスト小菅優で、オール・ラフマニノフ・プログラムを聴きに行ってきました。
しかし体調が万全でなく、せき込んだりして周りの人に迷惑をかけていしまい、何だか落ち込み気味です(>_<)。去年にチケットを取っていたので、こんな状況でコンサートに行くとはつゆも思わず・・・。
演奏も聴けたり聴けなかったりで・・・。一番良いところ、一切の物音を立てられなさそうなところで、せき込むのを我慢して、顔を伏せて震えてしまったりで散々でした。ちょっとコロナ後遺症っぽいというか・・・。
ラフマニノフは好きではないんですが、今日の演目の交響曲2番は中々名曲だと思うので、それが目当てでした。前半はピアノ協奏曲3番。ラフマニノフは4曲のピアノ協奏曲が有名ですが、自分はあまり好きではないです。泥臭くて、もうちょっと整然としていてほしい気が、個人的にはします。ただまあ、今では基礎演奏曲目となっているので、文句をいっても仕方ないですが。それに比べると、交響曲2番はラフマニノフとしては華やかだし、いっていることも理路整然としています。
演奏はまあまあでした。カーチェン・ウォンは非常に若い指揮者で、指揮台で跳ねてました。
しかし、自分の体調のせいで、何だか心残りなコンサートになってしまいました。反省中です。今日はもう寝ます(;^ω^)。
コロナから回復しました。9割がた回復という感じです。
倦怠感と喉の痛みが中々ひきませんでした。そろそろそれも終わりそうです。
クリスチャン・ツィメルマンの弾く、カロル・シマノフスキ(1882-1932、ポーランドの作曲家)のアルバムを聴いています(CD)。割と聴けるな、と思って聴いています。演奏がどうの、ということよりも、作品そのものについての意見です。
ロマン派と印象派に近い音楽ですが、やや精神の不安定さを感じさせる、不協和音が良く顔を出します。その分ロマン派に比べれば現代的に聴こえます。知性的な音楽という側面が見えます。
しかし、良く聴かれる音楽にはなりにくいでしょうね。特徴が弱く、一体どんな人間の感性に嵌まるのか?ラヴェルやショパンの二番煎じといわれそうです。
独特の繊細な美しさはあると思います。
既に7日ですが、明けましておめでとうございます。
今年1枚目はボスコフスキーの「ウィーン・カーニバル」からヨハン・シュトラウスとヨーゼフ・シュトラウスのワルツとポルカを聴きました。しっとりした雰囲気よりも、溌溂とした躍動感がある選曲と演奏です。デッカのオリジナル・レコードです。
SXL2163。
ワルツも聴くようになったのは、レコードで聴くようにしてからですね。CDだと味わいがなくて、昔から何が面白いかさっぱりでした。
↑、ウィリー・ボスコフスキー(1909-1991)、クレメンス・クラウスの跡を継いで、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを振った指揮者として有名です(本来はヴァイオリニストで、ウィーン・フィルのコンマスでした)。ニューイヤー・コンサートが国際化したのもこの人物のおかげでしょう。生粋のオーストリア人ということで、演奏もウィーン風といわれましたけど。ただ先人たちの演奏と比べると近代化してるような感じはしますね。
今年のお正月は、コロナ過でしばらく帰ってなかった実家に帰りました。自分はワクチンを打ってなかったので、中々帰らせてもらえませんでした(汗)。
3年ぶりの帰省だったようです。今年は珍しいぐらい家族全員そろって、ゆっくりしたお正月でした。
今年もよろしくお願いします。