矢筈山堡塁は、北九州門司区小森江の矢筈山(標高266m)に明治31年(1898)に築城されました。大正期に入ると要塞整理議論において早々に廃止が決まり、昭和7年(1932)に防御営造物から除籍されましたが、遺構は北九州市のキャンプ場に取り込まれて保存されていますので、破壊の多い下関要塞砲台群の中では非常に良好な状態で残っています。

 

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(矢筈山堡塁のレポートと要塞地帯標の概略)

下関要塞探訪110 ~矢筈山堡塁 その1(入場) -書換--

下関要塞探訪111 ~矢筈山堡塁 その2(隧道/砲座) -書換-

下関要塞探訪112 ~矢筈山堡塁 その3(砲座) -書換

下関要塞探訪113 ~矢筈山堡塁 その4(砲座の考察) -書換-

下関要塞探訪114 ~矢筈山堡塁 その5(掩蔽部) -書換-

要塞地帯標と下関要塞地帯標の探索

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明治43年(1910)の要塞地帯図から矢筈山堡塁を囲む第一区地帯を抜粋します。

 

矢筈山堡塁の第一区地帯は7本の標石で囲われています。なお北側には前回レポートした風師山框舎の第一区地帯があります。

 

続いて古地図で要塞地帯を示します。

(時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」より作成)

 

標石7本のうち確認したのは1本だけです。標石には”第七号”と刻まれていますが、植設されている位置に疑問があります。

と言うのも、要塞地帯図では北側を第1号として時計回りに番号が記されており、第7号は北西の位置に書かれていますが、現存する第7号は北東の第2号の位置に植設されているからです(・_・;)アレ?

 

では考えられる理由を列挙します。

 

①要塞地帯図の記載ミス

第一区の標石は時計回りの配置が多く逆時計回りは少ないのですが、実は要塞地帯図の記載が間違いで逆時計回りの植設配置だったのなら、第7号の位置は正しいことになります。

 

②明治43年の要塞地帯図以降に第一区の区域が変更された

要塞地帯図は明治43年(1910)に書かれていますが、昭和10年代には要塞地帯の区分けが大きく変わっていますので、この場所も変更に伴い標石が移設されたとも考えられます。ただ矢筈山堡塁は昭和7年に防御営造物から除籍されており、その後は第一区地帯から外れたと思われますので、おそらくこの理由はないかなと。

 

③戦後に移設された

要塞地帯図記載の第7号の位置は戦後に公園化されましたので、その際に標石を登山道沿いの現在の位置に移設された可能性があります。でもわざわざそんなことをするのか疑問に残るところです。

 

どれも決め手に欠けますので、とどのつまりよく分からないと言うことで(^^;

あと1本でも見つかれば分かるかもしれないんだけどなぁ。

 

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では標石を見に行きます。

 

小森江貯水池です。大正12年に建てられた取水塔が残っています。

 

上は3月、これは10月なので色合いが違います。

 

取水塔周辺は小森江こどものもり公園として整備されています。本来はこの公園内に第7号標石が植設されていたのではないかと思われます。

 

イノシシさんやサルさんを見ながら矢筈山への登山道を歩きます。

 

歩くことは大切です。

 

標石は分岐から風師山登山道に入ってすぐの所にあります。

 

こちらが“第七号標石”です。

 

文字は白塗料でなぞられていますが、当時の色がそのまま残っていると考えるにはあまりにもはっきりし過ぎてる感がありますので、後世に白色で塗られたのではないかと思われます。

 

表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”です。

 

右面の“第七号”

 

左面の“明治三十二年九月一日”と裏面の“陸軍省”

 

すぐ横に陸軍の境界標石が立っています。

 

ちなみに、分岐から風師山登山道に入るとこんな感じで現れます。

 

それでは矢筈山堡塁から門司の大里地区を見下ろしてお別れとします。

 

以上、矢筈山堡塁の第一区要塞地帯でした。