前回に引き続き今回も2年前の記事を書き直していきます。

 

矢筈山堡塁は北九州門司区大里に聳える矢筈山(標高266m)の山頂部に築城されました。現在は北九州市のキャンプ場になっていますが、当時の遺構を取り入れた造りとなっていますので、破壊の多い下関要塞砲台群の中では非常に良好な状態であり見応えがあります。

 

堡塁の簡単な履歴です。

◆起工:明治28年(1895年)8月21日

◆竣工:明治31年(1898年)3月31日

◆備砲:9㎝加農砲 4門、15cm臼砲 4門、機関砲 2門

◆設置標高:258.6m

◆除籍までの経過:大正2年/廃止予定→昭和7年(1932年)3月・全部除籍

※下関要塞の概略はこちら→→→

※過去記事:2020年6月

 

この堡塁は企救半島における陸正面防御を担うべく、周防灘から侵入する敵上陸兵への対抗拠点として設置されました。具体的な任務としては、砂利山(ざりやま)~恒見間一帯を射撃して域内の兵器修理所や火薬庫を守るとともに、大里(だいり)の低地に敵を侵入させないことでした。

 

今書いたことを地図で表すとこんな感じです。

 

それでは現地に向かいます。

キャンプ場とは言っても普段は車で乗り入れることはできませんので、小森江貯水池の駐車場に車を止め歩いて山道を登ります。

 

駐車場から出るとすぐ、山の斜面に陸軍境界標石が現れて高まります(・∀・)

 

車は通れませんが徒歩なら入れます。

 

元軍道を利用しているので幅広で緩やかです。

 

この道と隣の風師山(かざしやま)に向かう登山道の分岐点辺りに、下関要塞第一地帯標が立っています。

 

明治32年(1899年)制定の『要塞地帯法』によって区域分けされた要塞地帯には、区域を示すためにこのような標石が埋設されていました。この第七號は矢筈山堡塁を囲んでいた7本の地帯標の内の1本だと思われます。

 

キャンプ場の入口(堡塁入口)に到着。駐車場から歩いて20分程度です。

 

これから中に入っていきますが、過去6回の訪問で撮影した写真を掲載しますので、季節や天候が異なる写真が混ざり合います。冬枯れして草木の少ない曇天の日に撮影するのが一番良いのですが、そう上手くはいきませんからね。

 

見取図を描きましたので掲載します。左上の赤矢印を歩いてきました。

 

堡塁内部は塁道が入り組んでいて複雑な配置になっています。青線の構造物が当時の遺構でよく残っている方だと思いますが、キャンプ場造成時に地形が変えられた所もあるように感じます。

なお地下施設の上を通る遊歩道は分かり難くなるため描いていません。

 

入口手前に煉瓦積みの瓦礫がありますが、これは門柱だと思われます。

 

排水溝は今でも使われているようです。

 

入って右手に堡塁跡を示す石碑があります。北九州市側の砲台/堡塁跡地にはもれなく置かれていますが、下関市側にはありません。

 

入場して振り返って見ています。左側が来た道、右側が山頂(営庭)への道です。

 

右の建物は便所ですが、左手に高い石垣で囲われた凹部があります。

 

写真では伝わりませんが、目の前にすると圧倒されるくらいの高さがあります。なお今では整地されていますが、おそらくココに井戸や濾過槽と言った砲台に付きものの貯水所があったと思われます。

 

貯水所の近くに石垣で囲われた凹部がもう一つあります。見取図では(a)です。

同じくらいの広さですが、石垣の高さは貯水所の半分程度です。

 

矢筈山堡塁には砲台守が寝泊まりする監守衛舎が置かれていましたが、5m×10mの監守衛舎の建物がすっぽり収まる感じですのでこの凹部に置かれていたか、もしくは便所の立っている場所かのどちらかでしょう。

 

では奥に入っていきます。左の山側は石垣が組まれていますが、右の谷側は掘ったまんまです。

 

広場手前の谷側に階段があるので上がってみます。

 

上がった所は石積みが施されています。階段は後付けかな。奥は展望所です。

 

階段を上がると見取図で(c)の場所となりますが、谷側に怪しいコンクリートが残っています。

用途は分かりませんが床面がコンクリートだったのかな。当時物か戦後物かも不明ですが、この辺りも展望台建設で地形が削られているように感じるので何か置かれていたのかもしれません。

 

再び階段を下りて塁道に戻り、堡塁の中央広場に入っていきます。

 

広場の入口にまたまた石垣の凹部があります。見取図では(b)です。

建物が立っていて分かり難いですが、先ほど見た2つの凹部よりは小さいです。堡塁の中央広場に面しているので、ここも貯水所だったのかも。それか厠とか。

 

広場には管理棟や炊事場と言った施設が設けられていますが、当時は砲具庫や炸薬填実所が置かれていたのではないかと思われます。

なお、左にはトンネル、奥には棲息掩蔽部があります。

 

まずはトンネルに入って、その後は右回りで堡塁内を歩いていきます。

 

これにて「その1」はお終いです。続きは明日。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「廃止予定堡塁補助建設物除籍の件」(Ref No.C03011691600 アジア歴史資料センター)

「工兵第3方面 矢筈山堡塁被覆壁変移の件」(Ref No.C03023066900 アジア歴史資料センター)