「その4」では砲座に関する疑問を考察していきますが、この疑問については史料の砲台平面図を見れば瞬時に解決するのでしょうけれど、まぁ見ていないのでああだこうだと考察するわけで(^^; そもそも史料に平面図があるかどうかは未確認ですので分かりません。

 

矢筈山堡塁に配備された火砲は九糎加農砲4門と十五糎臼砲4門で、写真で示すとこんなヤツです。右は12㎝加農砲ですが、9㎝も形状は同じです。

 

 

1.4つの砲座の用途は何か?

 

矢筈山堡塁には砲座が4つ残っています。

 

いずれの砲座も胸墻に半円凸部が2か所設けられていますので、1砲座に2門の火砲が置かれたことが分かります。

異なる点としては、砲座BとCの床面はコンクリート敷きで砲床跡が残っていますが砲座AとDには確認できません。ただ、AとDにはキャンプ場の椅子やベンチが設けられていますので、当時は同じだったかもしれません。
いずれにせよ胸墻の形状は加農砲の砲座でよく見られますので、矢筈山の4つの砲座も加農砲を配備した砲座だと推測しています。

 

ですが1つ疑問が生じます。配備されたのは九糎加農砲が4門でしたので、加農砲座が4つあると合計8門となってしまい数が合いません。

十五糎臼砲も4門配備なので4砲座のうち2つを臼砲砲座とすれば数は合いますが、臼砲砲座の胸墻に半円凸部があるのは見たことがありません。

 

臼砲砲座はこんなのです。(下関要塞高蔵山堡塁の十五糎臼砲砲座)

 

と言うことで、4つの砲座はすべて加農砲の物だと推測するわけですが、ここで砲座の位置を見取図で確認します。

 

南東にコンクリート敷と砲床が残る砲座BとC、東に砲座A、南西に砲座Dが配置されていますが、史料を見ると射撃の首線は南東側でしたので、通常配備は砲座BとCで、状況に応じて砲座AやDに加農砲を移動して射撃するようになっていたと思われます。

 

堡塁は海上射撃を行う砲台と違って陸戦防御の拠点ですので、複数の方向に対応する必要がありました。矢筈山は3方向となりますが与えられた任務の「周防灘に上陸して攻めてくる敵に対し、砂利山(ざりやま)~恒見(つねみ)一帯を射撃して域内の兵器修理所や火薬庫を守るとともに、大里(だいり)の低地に敵を侵入させないこと」を踏まえると頷けます。

 

地図で表すとこんな感じ。任務に書かれた地名の方向に砲座が配置されているのが分かります。

 

南東側の景色。現在の新門司から恒見町の辺り。

 

南西側の大里低地。現在の門司駅辺り。

 

2.臼砲砲座はどこにあったのか?

 

4つの砲座すべてを加農砲座とすると、では臼砲砲座はどこよ?となります(^^;

「その3」の記事では(d)と(e)の石垣で囲われた空間を臼砲砲座(仮)としました。これで正解でいいんじゃね?ってところですが、「その1」「その2」で書いた怪しい場所も砲座に仕立て上げるとこんな感じになります。

妄想するのは自由...笑

 

3.砲床の方形と弓形の窪みについて

 

砲座BとCには火砲据付の砲床に方形と弓形の窪みが残っています。

 

砲座B左砲側の窪み。

 

見下ろした写真に線を引いてみました。

 

砲座Cの窪みの方が形が分かりますね。

 

さて、この砲床の窪みはどのように使われたのでしょうか?

 

昔の大砲は砲弾を発射するとその反動で砲ごと後ろに下がってしまい、次撃つ時にまた元の位置に戻してやらないといけませんでした。

 

後退するのがよく分かる参考動画

 

下がった火砲を元の位置に戻す手間はもとより照準もずれてしまいますので、この解決策として、砲身のみ後退(後座)させることで反動を軽減する駐退機が発明され、後退した砲身を元に戻す復座機と一体化した駐退復座機が、砲身下部の揺架に搭載されるようになり、その後このスタイルが一般的となります。

 

砲身が下がって戻るのがよく分かる参考動画

 

駐退復座機搭載の四一式山砲。(遊就館展示品より)

 

日本では日露戦争(明治37-38年、1904-05年)以後の野砲や山砲で取り入れられていきますが、九糎加農砲や十二糎加農砲はそれ以前に開発された火砲で駐退復座機が搭載されていません。そこで、後退を防ぐために据付部分の砲床に工夫が施されたようです。

 

これらを前提として、方形の窪みには車輪を入れて後方に下がるのを防止し、弓形の窪みには後方の脚(架尾)を置いて、右に左に動かして撃つ方向を変えていたと推測しましたが、これだけでは不十分...と言うか間違っていたことが、舞鶴要塞建部山堡塁に残る砲床を見て気づきました。

 

建部山の十二糎加農砲の窪み。

 

方形の窪みに数多くのボルトと木板(矢印)が確認できます。

 

これを見て、窪みに車輪を入れていたのではなく木製の砲床を設け、その上に車輪止めとなる金具を付けていたのではないかと考えました。そこで調べてみたところ、佐山二郎氏の書籍「日本の大砲」および「要塞砲」に、これが正解だろうと言うことが書かれていました。(ってかよく読んでりゃもっと早くに気づいてただろって汗

 

まとめると、「砲床に設置した垂直軸と加農砲の砲架を駐退管で連結させることにより、発射すると駐退管を引きながら後座し、車輪が駐退楔に乗り上げて複座する」と言うことらしいです。

 

イラストで描くとこんな感じでOK?

 

つまり...撃つと反動で下がろうとするけど、砲床と加農砲を繋いでいるため反動は軽減され、車輪止めで押し戻されるのでほぼ固定ってことですよね。まぁこれが方形の窪み部分の用途の正解ってことで。(たぶん)

 

それでは弓形の窪みはどうなのでしょう?

こちらも板張りされていたかもしれませんが、確かではないのでイラストには描きませんでした。加農砲の尻尾を置いていたのは間違いないと思いますが、どのように置いていたのでしょうね。九糎や十二糎加農砲には地面に食い込ませて固定する駐鋤(スペード)は付いてなかったようなので、楔でも打っていたのかな...。

いずれにせよ、方向を変えて射撃するためにはこの弓形の窪みは必要だったものと思われます。

 

ちなみに駐鋤は矢印の部分。(ムンスター戦車博物館展示品より)

 

 

ついでなので、矢筈山と同じ方形と弓形の窪みが残る砲台を挙げておきます。あくまで自分で確認した物だけですが、写真では分かり難い物が多いです。掘って掃除したら分かるんですけどね(^^;

 

◎九糎加農砲

 

由良要塞伊張山堡塁(6門)

 

由良要塞赤松山堡塁(6門)

 

函館要塞立待堡塁(4門)

 

広島湾要塞早瀬第二堡塁(6門)

 

対馬要塞上見坂堡塁(4門)

 

東京湾要塞腰越堡塁(4門)・・・コレ草枯れたら見えるのかな?笑 ないかも...

 

◎十二糎加農砲

 

対馬要塞根緒堡塁(2門)

 

舞鶴要塞建部山堡塁(4門)…先ほど載せたので省略

舞鶴要塞吉坂堡塁(6門)…確認できず

佐世保要塞前岳堡塁(6門)…確認できず

下関要塞高蔵山堡塁(6門)…確認できず

対馬要塞温江砲台(4門)…確認できず

 

 

以上で砲座の考察はお終いとなりますが最後に一つ。他の砲台では必ずと言っていいほど見かける物が矢筈山堡塁にはありません。それは、、、。

 

なんと即用弾丸置場が1つもない!(゚Д゚;)

 

この凹みのことです。

 

即用弾丸置場は、砲弾を弾薬庫から引き出していつでも弾を込められるように置いておく弾室で、砲座内や横に設置されていることが多いです。

 

矢筈山と似た作りの下関要塞高蔵山堡塁には砲座内に10個設けられています。

 

矢筈山の砲座の胸墻/横墻は壊されている部分が多いのでその箇所にあったのかもしれないけど、それにしても一つも残っていないとは、、、ホント不思議。

 

中には、どんだけあるねん!?ってツッコミたくなる堡塁もあるのにね(笑)

 

以上、長々と考察した「その4」はこれにてお終い。次回で矢筈山は最後となります。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「日本の大砲」(竹内昭/佐山二郎共著、出版協同社)

「日本陸軍の火砲 要塞砲」(佐山二郎著、光人社NF文庫)

「廃止予定堡塁補助建設物除籍の件」(Ref No.C03011691600 アジア歴史資料センター)

「工兵第3方面 矢筈山堡塁被覆壁変移の件」(Ref No.C03023066900 アジア歴史資料センター)