すっかりライフワークとなっている下関要塞地帯標の探索ですが、これまで40本以上の標石を見つけているものの詳細な記録を付けていませんでしたので、今後はブログにて纏めることにしました。

各地の地帯標の記録は次回以降書いていきますが、まずは要塞地帯法の成立と変遷を簡単に説明します。(簡単と言っても文章はすごく長いです^^;

 

なお、「しものせき」の昔の表記は「下ノ關」もしくは「下關」でしたが、ここでは現代表記の「下関」で統一して書いていきます。また、当時の表現や言葉遣いが小難しい時は適当に現代風にてアレンジします。

 

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陸軍による海岸防御事業は、明治13年(1880)の東京湾要塞観音崎第二砲台の建設からスタートしました。明治20年(1887)には対馬要塞と下関要塞、明治22年(1889)には由良要塞が着工されましたが、日清戦争中の明治28年(1895)3月に公布された『要塞司令部条例』おいて、「永久ノ防御工事ヲ以テ守備スル地ヲ要塞ト称シ各要塞ニハ其地名ヲ冠シ某要塞ト称ス」と、初めて「要塞」が定義されました。

 

3年後の明治31年(1898)7月、『要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件』が公布され、要塞における防御営造物(既設・未設とも)の周囲より外方5,750間(約10,450m)以内において、水陸の形状を測量、模写、撮影、筆記をしようとする者は要塞司令官の許可が必要となりました。

ここで初めて要塞の区域が示されたわけですが、そのラインを国民に示す方法として、区割線に沿って約250間(約450m)毎に区域標識並びに標札を植設することになりました。

なお下関要塞においては、明治32年(1899)3月に植設実施の伺いが出ていますが、この伺いに基づいて設置されたのが下記の標石だと推測されます。

 

明治32年(1899)5月1日の日付が入った「要塞地区域標」です。(中間市に現存)

 

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『要塞近傍なんちゃら』では、要塞の区域はすべてを内包する一括りだけでしたが、これをさらに細かく区分けするとともに、域内における禁止・制限事項や罰則の明文化を図ったのが、明治32年(1899)7月15日に公布された『要塞地帯法』でした。

この法律では、要塞の区域を「要塞地帯」と定義して3つの区に分けることが決められましたが、簡潔に書くと以下の通りです。

 

1.要塞地帯とは、国防のために建設した防御営造物の周囲の区域

2.防御営造物とは、砲台・堡塁・電気灯・弾薬庫・框舎・水雷衛所(海軍)

3.要塞地帯の範囲は、防御営造物の各突出部を連結する線を基線とした一定の距離以内で定める

4.要塞地帯は陸地・海面を問わず3区に分ける

------第一区 基線より250間(約450m)以内、及び基線と防御営造物間の区域

------第二区 基線より750間(約1,360m)以内

------第三区 基線より2,250間(約4,090m)以内

------第7条第2項区域 第三区の境界線より外方3,500間(約6,360m)以内

 

最後の第7条第2項区域は要塞地帯外と言うわけではなくココにも制限事項がありますので、つまり第7条第2項区域を含んだ5,750間(約10,450m)が要塞地帯となります。『要塞近傍なんちゃら』で決められた距離と同じですね。

 

次に禁止及び制限事項ですが、要塞地帯全域(5,750間)において、要塞司令官の許可なしに水陸の形状を測量、撮影、模写、録取してはいけないと決められました。また、建物の築造や増改築、漁獲、採藻及び艦船の繋泊なども区域毎に許可制となりましたが、第一区においては不燃物質(煉瓦や石等)の家屋や倉庫の新設は禁止されました。

 

罰則については、例えば許可なく撮影したりスケッチしたりしてパクられたら、11日以上1年以下の重禁固または2円以上50円以下の罰金でしたが、取締りは憲兵が行いました。呉ですずさんが戦艦大和をスケッチして憲兵にしょっ引かれたアレですねw

 

注意を促す憲兵の看板が掲げられた写真です。なお戦後なので進駐軍の看板も設けられています。(「写真アルバム 下関の昭和」より引用)

 

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さて、要塞地帯法が制定された1か月後の8月11日、施行規則の発布と合わせて各地の要塞地帯の概見草図が告示されました。

 

官報に掲載された下関要塞地帯の図です。

(官報 1899年08月11日 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用)

実線内が1区から3区、実線の外から点線内が第7条第2項区域となります。アバウトな感じですが、細かく告示してしまうと砲台などの防御営造物の位置がバレバレになってしまいますからね。

以後、地帯の境界が改正されるたびにこのスタイルの図が告示されるのですが、これでは国民が自分が要塞地帯の何区に住んでいるのかも分かかりません。そこで、国民に示すために現地の各区毎に標識および標札が境界線の外方に向けて設置されることになりました。

 

『要塞地帯法実施内規』では標識について以下の通り説明されています。

 

「各区及区域ヲ標示スル標石、標木ハ区割線ノ外面ニ向ケテ之ヲ植立ス其ノ表記左ノ如シ」

 

◎前面・・・S.M. 1st(2nd)(3rd) Z   〇〇要塞第〇地帯標

◎後面・・・陸軍省

◎右面・・・第〇號

◎左面・・・年月日

 

こちらが現物の標石です。「下関要塞第一地帯標」です。

 

標石の4つの面を並べています。左から前面、裏面、右面、左面です。

 

①前面:要塞名と区分け

これは下関要塞の標石ですが、別の要塞であれば東京湾、由良、対馬…と言った具合に名前が変わります。また、第一は第一区、第二は第二区、第三は第三区を現しています。

頭に付いている英数字ですが、“S.M.”は要塞地帯の略字で、“1st Z”は第一区です。同様に“2nd Z”は第二区“3rd Z”は第三区となります。

 

②右面:通し番号

第〇号の〇には一、二、三...と漢数字が入りますが、これは標石の通し番号です。

第一区は1つの防御営造物に対して地帯を形成しますが、これを囲む標石は第一号から始まりますので、他所の第一区地帯と同じ通し番号が存在します。対して第二区や第三区は地帯全域の標石を第一号からカウントしていくので、番号が重なることはありません。

 

要塞地帯図で例を示すとこんな感じです。(「よしみ史」付録下関要塞地帯図より引用・抜粋)

 

高蔵山堡塁の第一区は、第1号から第5号までの5本で囲われています。対してお隣りの妙見山頂框舎予定地は8本ですが、1~5号は被りますのでまったく同じ標石が存在することになります。

第一区の外周に当たる第二区の標石は番号が被りませんので、ここでは67~81番までカウントが続いていると言うわけです。

 

③左面:年月日

年月日については各要塞で異なりますが、明治期の下関要塞標石は、すべて明治三十二年九月一日の年月日となっています。(要塞地帯法制定以前は明治32年5月1日)

なお、昭和期には要塞地帯の線引きが変わりましたので、年月日の異なる標石が複数存在します。

 

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1区から3区までの標石は以上ですが、第7条第2項区域の表記は前面に「下関要塞区域標」と刻まれています。なおその他3面は同じ表記です。

 

現物はこんな感じです。

 

明治31年の『要塞近傍なんちゃら』の時は「要塞地区域標」でしたが、こちらは下関の冠名が付いています。いずれにせよ区外の境界線は『要塞地帯法』の取り決めでも同じ位置にありますので、以前の標石も引き続き使われたでしょうね。

 

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ところで、ここまで“標石”と書いていますが、『要塞地帯法実施内規』には「標示スル標石、標木ハ…」と記されています。つまり標識は石製だけではなく木製もあったと言うことです。標石と標木がどのような割合で存在したか分かりませんが、これまで確認した標識はすべて石造りの物です。木製が現存しているのも聞いたことがありません。もし見つけたら大発見ですよね(・∀・)

 

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さて、標石・標木と合わせて植立されたのが標札です。『要塞地帯法実施内規』では第7条第2項区域の境界線上に以下のような標札が設けられました。

 

要塞地帯法実施内規中正誤の件(Ref No.C06083402500)~アジア歴史資料センターより引用

なおこの表記以外にも、海面に関わる場所の標札(第二雛形)や駅や埠頭など人が多く集まる場所の標札(第三雛形)は文言を変えて植立されました。

 

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以上のように要塞は『要塞地帯法』の法制下におかれることになりました。明治期の要塞建設は明治30年後半にすべての事業が終了しましたが、大正期に入ると要塞地帯の線引きが大きく見直されることになり、既存の堡塁砲台の廃止とともに新規の砲台建設が進められました。

この状況に合わせて『要塞地帯法』も改正されることになるのですが、大正15年(1926)5月に『要塞地帯法実施内規』も改正されました。ポイントを2点だけ挙げます。

 

①対象となる防御営造物:堡塁砲台(観測所を含む)、框舎、電燈所、弾薬庫

②標識および標札の表記内容変更

 

②についてですが、標識においては『要塞地帯法』に規定する字句通りに改めることになりました。つまり、これまで「第〇地帯標」としていたのを、“区”を挿入して「第〇区地帯標」と表記するとなったわけです。(〇には一、二、三が入ります)

また上方に表記する符号も「S.M.」から「F.Z.」に変更されることになりました。「F.Z.」は“fortified zone”(要塞地帯)の略です。

さらに年月日は建設年月に改めることになりましたが、昭和期の下関要塞地帯標を見ると、実際は日付まで刻まれています。

 

現物の標石で変更点を示します。

 

この標石では現代表記の“関”となっていますが、他の標石を見ると”關”も引き続き使われています。

その他の明治期と昭和期の相違点は、明治期の標石の頭頂部は平らでしたが昭和期のそれは頭頂部が三角になっているのが特徴です。

また明治期は右面に第〇号、左面に年月日の記載で統一されていましたが、昭和期は逆に記載されている標石が多いです。

 

左面に通し番号が彫られている昭和期の標石。

 

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次に標札の文言も改められることになりましたが、第7条第2項区域に植立する標札の雛形は以下の通りです。

 

要塞地帯法実施内規改正の件(Ref No.C02031289600)~アジア歴史資料センターより引用

ちなみに“航空”の文字は大正4年(1915)に加えられました。

 

さらに、地帯内の乗船上陸地または列車内より望見できる地点に植立する標札も文言が改められましたが、なんと当時の木製の標札が現存しています(・∀・)

 

 

宗像市教育委員会が所蔵していますが、元々は筑前大島内に掲げられていたようです。いや~現存していることが驚きですね。

 

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さて、大正から昭和期にかけて、日本国内では津軽要塞(函館要塞を編入)、壱岐要塞、豊予要塞が新設され、既存の要塞も地帯の拡大化が図られましたが、下関要塞においては以下のように要塞地帯が広がりました。

 

昭和10年(1935)2月16日

(官報 1935年02月16日 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用)

 

島嶼部に砲台を建設することが決まったので島を内包する形で要塞地帯が形成されています。

 

昭和10年(1935)10月12日

(官報 1935年10月12日 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用)

筑前大島の砲台建設に伴い延伸。

 

 

昭和12年(1937)10月19日

(官報 1937年10月19日 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用)

 

むちゃくちゃ広くなっていますね(^^;

沖ノ島や角島の砲台建設によって拡大しました。現在の下関市北西岸部と北九州市を中心とする北部九州一帯となります。

 

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昭和15年(1940)4月に『要塞地帯法』が改正されました。大きな変更点は、要塞地帯の距離の表記が尺貫法での“間”からメートル法での“メートル”に置き換えられるとともに各区域が延伸したことです。

 

第一区 基線より1,000メートル以内、及び基線と防御営造物間の区域

第二区 基線より5,000メートル以内

第三区 基線より15,000メートル以内

※従来の第7条第2項区域は第三区に内包

 

これまでの距離と対比してみたのがこちら。

第一区:250間(約450m)以内 → 1,000m以内(約550m延伸)

第二区:750間(約1,360m)以内 → 5,000m以内(約3,640m延伸)

第三区:2,250間(約4,090m)以内 → 15,000m以内(約10,910m延伸)

第7条第2項区域:第三区の外方3,500間(約6,360m)以内 → 第二/三区に内包

 

つまり、従来の第二区の550mの区域が第一区となり、従来の第三区はすべて第二区に取り込まれることになりました。さらに、第7条第2項区域は第二区及び第三区に飲み込まれる形で区域の取り決めは無くなりましたが、具体的には910mが第二区に、5,450mが第三区となり、新たに8,640mが第三区として拡大しました。

 

この改正の施行は12月からでしたが、合わせて施行規則も改正され、要塞地帯における制限がより細かく且つ厳しく決められたのち、昭和16年(1941)12月8日の大東亜戦争開戦を迎えました。

 

昭和15年(1940)12月2日

(官報 1940年12月2日 - 国立国会図書館デジタルコレクションより引用)

 

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以上、長々と書いてきた説明がやっと終わりました( ´Д`)=3 フゥ

書き洩らしや間違いがあるかもしれませんが、その辺はご容赦を。

 

最後に、要塞地帯標探しについて簡単に。

明治期の地帯標を探すにあたっては、明治43年発行の「下関要塞地帯図」を参考にしています。これには植立された標石の位置が地図上に記されているのですが、記載はアバウトですので、古地図と現代の地図を照らし合わせた上で植立場所を推測して実地探索を行っています。

ですが設置されて120年以上が経過しており、戦後の再開発で大きく地形が変わっていますので、市街地・住宅地に残っているのは稀なケースとなります。よって山に入っての探索となるわけですが、山と言っても住宅化が進む麓よりは、中腹~山頂にかけての第一区地帯を重点的に探しています。人の手が入らない場所には残っている可能性が当然高くなりますからね。

ただ、当時は登山道・生活道沿いに植立されていたとしても、現在では道が消えて人が立ち入らない場所となっていることも多いので、藪漕ぎ・急登・直登とハードな登山を強いられます。長年登山を趣味としていますので慣れたものではありますが、もはやこの探索のために日頃の登山で鍛錬しているのではないかと思うこともしばしばです笑^^;

 

現在確認している地帯標・区域標は43本です。

 

明治32年5月1日 区域標:1本

明治32年9月1日 第一区:25本

明治32年9月1日 第二区:3本

明治32年9月1日 第三区:2本

明治32年9月1日 区域標:1本

昭和10年2月16日 第一区:2本

昭和10年2月16日 第二区:3本

昭和10年2月16日 第二区:1本

昭和10年10月12日 第一区:1本

昭和12年10月19日 第二区:3本

昭和12年10月19日 区域標:1本

 

いずれにせよ、好きな登山を楽しみつつ探索ができるのは良いことです。宝探しをしているようなもんですからね(^^)

これからも1本でも多く見つけることができるように山を登っていきます。

 

以上、要塞地帯法と下関要塞地帯標の探索でした。

各地の地帯標の詳細は次回から取り上げます。

 

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[参考資料]

「要塞区域標設置の件」(Ref No.C07050855800、アジア歴史資料センター)