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営業人の基本 「お礼は3回」
当たり前のことをしても、世間では誰も褒めてはくれません。
しかし、その「当たり前」のことができないと必ず文句をいわれます。
だから私たち営業パーソンは「当たり前」の範囲を広く持ち、その「当たり前」のことをサラッとできるようにしておかなければなりません。
そうしなければ、いつも誰かに文句をいわれたり(直接いわれることはありませんが、陰で、デキないヤツだと噂されています)、知らぬ間に相手に不満を与えてしまうものです。
靴をそろえる、椅子を戻す、ドアは音をたてないで開け閉めする……など、「当たり前」は沢山ありますが、そんな中で分かりやすい「当たり前」の例でいうと「お礼」です。
例えば珈琲をご馳走になったりランチをご馳走されたりしたときのこと……。
いただくときに「ご馳走になります」とか、いただいた後に「ご馳走さまでした」というのは普通にできるはずです。ただ、その次の日に「昨日はご馳走さまでした」と電話またはメールでお礼をしていますか?
もしここまでやれていたなら、あなたは中の中です。
しかし、上の上、そうトップグループにいる営業パーソンは、この「当たり前」基準のハードルを少し高く掲げています。
ご馳走になった日のお礼を一回目とするなら、次の日のお礼は二回目です。
そしてトップグループの営業パーソンたちは奇跡の三回目を演出しています。
それは、一週間後……、一か月後……、半年後……!? など、とにかく次に会ったときに、「その節はご馳走さまでした」とか「あの時はありがとうございました」とお礼を述べます。
本当に半年後だったとしても本気でお礼を述べるんです。
もちろん相手は忘れたふりをします。
本当に忘れていることもあります。
しかし、お礼を述べられた途端、ふと思い出すんです。
そして「律儀な人だな……」とか「マメなヤツだな……」、「へー、大したもんだな……」と印象良く記憶にとどめてくれるものです。
更に本人ばかりか、周りの人たちへも「先日、〇〇さんと打ち合わせしたとき、お昼時だったにもかかわらず食事をしながら応対してくださったんです。しかも行きつけの美味しい定食屋さんまでご紹介していただいて……」と○○さんのことを他者にアピールしてあげるんです。
この行為は巡り巡って必ず○○さんの耳に届きます。
○○さんのことをすごい人だと紹介していましたよ、とか○○さんのことを褒めて歩いていましたよなどと。すると○○さんは、更に好印象を抱いてくれるようになります。
でも、もっとすごい効果は、〇〇さんのことを良くいって歩く行為そのものの評価にあります。
それは、人のことを外でよくいう人には好意と信頼と情報が集まるんです。
人を褒める人は褒められるという法則が働きます。褒める人の下には、自分も褒められたい、もしくは自分のことも周りに良くいってもらいたい、と多くの人々が集まってくるからです。
人の悪口ばかりいう人のそばに人は寄り付きませんよね。
いつ自分の悪口をいわれるか知れたもんじゃないですから恐ろしくて近寄れないんです。
お礼は三回……、といいましたが、もちろん四回でも五回でも構いません。
そして、周りの人たちにもどんどん、素晴らしい人、素敵な人、だといいふらして歩くんです。
ただ、お気をつけください。
「おごられた」ことを自慢してはダメです。それは愚の骨頂ですのでお気をつけあれ。
四つのイエスとノー
イエスとノーは四つあります。
① ノーだからノー
② ノーだけどイエス
③ イエスだけどノー
④ イエスだからイエス
ノーだけどイエス、というのは職場でよく耳にします。
上司から「飲みに行くぞ」とか「ちょっと付き合え」といわれ、
「えっ、またか……」と思いながらも「はい」という場面です。
これは「ノーだけどイエス」です。
イエスだけどノーというのは、やはりお客様のお宅で出会う光景です。
「何か飲む?」
「いいえ、結構です」
たとえ喉が渇いていても「ノー」といいます。
②と③は日本人にしか存在せず、これは遠慮や謙遜から生まれた文化です。
欧米では「ノーだからノー」と「イエスだからイエス」のふたつだけです。
日本人の微笑みが理解できない、と彼らがいうのは①と④の文化しか存在しない単純表現で生きているからです。
私たち営業職は、この「イエスだけどノー」と「ノーだけどイエス」という、複雑表現を見抜かなければ、イエスなのにノーにしてしまうことになりかねません。
お客様に「イエスだけどノー」といわせてしまうのは、私たち営業職の努力不足です。八割が、この「イエスだけどノー」なのです。
そして、そういわせてしまうのはこちら側の技術不足と勉強不足に他なりません。
「なにか飲みませんか」と問い掛けるのではなく
「コーヒーを落とし過ぎてしまったのですが、一緒に飲んでいただけませんか」と誘えば、余程のコーヒー嫌いでない限り「それでは、せっかくなので……」とイエスに導くことができます。
このように、ほんの少し表現を変えるだけで、「遠慮」からお客様を開放することができます。例えば100万円のロレックスをいりませんか? と問えば、大概の人はいらないといいます。
ではタダだったらどうでしょう。(偽物とか詐欺とか余計な瑕疵がないとして)
ほぼ全員が「欲しい」というのではないでしょうか。
車好きの若者にメルセデス・ベンツの新車はいらないか、というとやはりいらないと答えます。
ではタダならどう? と問えば、やはり欲しいといいます。
では、このようにイエスだけどノーという顧客に、イエスだからイエスになっていただくには、どうすればそれを手に入れられるのかを納得してもらう必要があります。
それが先述のコーヒーの件のように「落とし過ぎてしまったのですが、一緒に飲んでいただけませんか」というひとことなんです。
ロレックスでもメルセデス・ベンツでも、一括で支払う必要がないことや、月々の支払額がどれくらいなのか、その金額が収入から支出できる許容範囲なのか、それらはいつ頃手に入るのか、それを身につけることでどれほどステイタスが向上するのか、はたまた人間関係がどう改善されるのかなど、見込み客が納得するような多くの事例を提示すればいいのです。
しかし、ほとんどの「売れない営業人」は、イエスだけどノーの「ノー」を消そうと応酬話法で対抗してしまいます。
イエスだけどノーの「イエス」に重点を置くのです。本当は欲しいのだから、どうすれば手に入れられるかを一緒に考えるんです。
相手を説得するのではなく、一緒に考え、納得してもらいさえすれば、ほぼ全員がイエスだからイエスとなるのです。
営業の資質と才能
広辞苑によると、【資質】は生まれつきの性質や才能。そして【才能】は訓練によって得られた能力、とこのように定義されている。つまり、どう考えるかが「資質」であり、どう行動するかが「才能」です。
昔、こう考えた人がいました。
「自分はきっと一流の営業パーソンになれる」
なんの根拠もなく、なんの裏付けもなく、このように考えられることこそ営業の資質です。
その人物は世界のホンダを築いた本田技研の創業者本田宗一郎。
本田宗一郎は、浜松の町工場時代に十数人の社員を前にしてミカン箱の上に立ち「ホンダは世界一のホンダになる」と演説しました。
そして、昭和27年(創業から6年)、ホンダは600万円の資本金しかない中で「日本の工作機械ではいいものが作れない」といって、当時の日本円で4億5千万円もする機械を、回りの大反対を押し切って輸入しました。
この投資に失敗すればホンダは倒産です。
しかし、大成功をおさめるのです。
反対を押し切れた自信となる根拠は何だったのか。
それは本田宗一郎の生きることへの資質と才能に他ならなかったのです。
(営業の意味 HS刊より)
どう考えるのか……。
これが営業の資質のひとつです。
どう動くか……。
これは才能です。
昔、靴の営業パーソンがアフリカへセールスミッションを持って飛びました。数日間、その担当者は市場をリサーチし、日本へ報告の電話をかけます。
「部長、ここはダメです。全員ハダシで、誰も靴なんか履いちゃいません」
「そうか、大きなマーケットだと思ったんだが……」
「とりあえず、もう2~3日調査してから日本へ戻ります」
結局、この会社はアフリカへの進出をあきらめました。
ときを同じくして別の会社の営業パーソンも、その地においてリサーチをしていました。
数日間の調査を終え、彼も東京へ報告の電話を入れます。
「最高の市場です。ここでは誰も靴を履いていません。裸足という文化なのです。考え方次第では全員がお客様となる可能性を秘めています」
そしてこう続けた、
「靴の素晴らしさと安全性を僕はみんなに説いて廻ります」
ふたりの営業パーソンは、同じ時に同じ場所に立っていました。
そして同じ景色を見ていました。
しかし、根本的な考え方(資質)が違っていました。
ひとりはダメだと感じ、もうひとりはいけると感じた。
この考え方(資質)の違いの原点はなんでしょう。(営業の魔法 ビーコミュニケーションズ刊より)
それは、資質を才能へ変化させる過程で経験した様々な事象をどのように記憶したかということの違いです。
困難に出会ったとき、もう駄目だ、自分には無理だ、と記憶にインプットしていくのか、オッ面白いぞ、やりがいがありそうだ、という記憶にインプットするかの違いです。
成果をあげている営業パーソンは、常に、嬉しいことも困難なことも「楽しもう」という習慣ができています。このように「楽しもう」というのは資質ではなく才能です。訓練によってポジティブに行動できるように習慣化したんです。
誰もが売れる営業パーソンでありたいと願います。しかし、誰もがそうはなりません。
その理由は、せっかくの資質を才能に変える前向きな努力を怠っているだけです。
資質が才能に開花する瞬間は営業活動において辛いときやしんどいときなんです。
でも、ほとんどの人がそのタイミングのときグチったり他人のせいにして逃げてしまいます。営業というものはダメなときこそ運が溜まるものなんです。
営業の目的と手段
こんにちは、営業プロデューサーの中村信仁(なかむら しんじ)です。
マネジメントの父といわれるピーター・F・ドラッカー(以下、ドラッカー教授)は、
「目的と手段をはき違えてはいけない」といっています。消費者が商品を購入したりサービスを受けることは、消費者の手段であって目的ではないと。
例えば、自宅から20キロ先の病院へ薬を処方してもらいに行くとき、
路線バスで向かう方法とタクシーで向かう方法、または家族に送迎してもらう方法、免許と車があるのなら自分で運転していくなど、色々な手段が考えられます。
このとき、バス会社は自分たちが運行する路線バスを使ってもらいたいだろうし、
タクシー会社は自分たちの営業車を利用してもらいたいものです。
しかし、この人の目的は「薬を処方してもらう」ことであって、
バスに乗ることでもタクシーに乗ることでもありません。
どの交通機関や方法を選ぶかは、あくまでも目的を達成するための手段です。
そして、そのような手段は無数にあり、私たち事業者は、
いつも顧客が選ぶ「手段」のひとつに過ぎない、とドラッカー教授はいっています。
このように、消費者は何らかの問題を解決する必要に迫られたとき、
その手段を模索しています。
ですから私たちは選ばれる事業者であるかどうかということが重要になります。
しかし、この目的と手段を事業者は時々間違えることがあります。
代表的な間違いは、「企業は利益を上げることが目的である」という考えです。
ドラッカー教授は「企業の目的は顧客の創造だ」といっています。
そして「売上げや利益は成果を上げるための道具(手段のひとつ)だ」と。
つまり利益を上げることは目的ではなく手段のひとつなのです。
顧客の創造とは、私たちは顧客のどんな問題を解決しているのかということです。
問題を解決できない組織に顧客を生み出すことはできません。
それが私たち組織の存在理由です。
その目的を解決することで利益が発生します。
利益は顧客満足の尺度ですから、
私たちの仕事ぶりを顧客が評価した証拠でもあります。
そこで、顧客は何をもって満足するかですが、顧客は「変化」することで満足します。例えば別々の二人の顧客が食堂で食事をしました。
ひとりは空腹の顧客、もうひとりは食通の美食家でした。
たまたま二人は生姜焼き定食たのみました。
ボリューム満点の生姜焼き定食に空腹の顧客は大満足でしたが、
美食家の顧客は味の単純さに不満が残りました。
同じ食堂、同じメニュー、しかし顧客の変化は「満足」と「不満足」に分かれたのです。
この食堂の目的が売上げにあったなら、二人の変化はどうでもいいのです。
しかし、食堂の目的(存在理由)は顧客の創造ですから「満足」してくれない顧客をフォローする必要があります。そのためにボリュームばかりではなく味の研究が必要となり、研究にはコストが掛かります。
つまり成果を上げるには利益という手段が必要となるのです。
お分かりいただけましたか。
目的と手段を間違うと仕事そのもののやり方も変われば、在り方も変化してしまいます。
私たちは顧客の問題を解決するために必要なコストを利益としてプールします。
しかし、それは手段だということ。
また問題を解決するために人的スキルを高める必要があります。
その研修コストを捻出するにも利益は必要です。
そして、問題を解決するための手段として、顧客はわたしたちを選んでくださるかどうかが最も大切なことなのです。
営業の目的は売上げをあげることではなく、顧客の問題解決をすること。
そのための手段として私たちは日々売上げをあげ続けなければならないのです。
大阪都構想 頓挫におもう
大阪市の橋下徹市長が進めた「大阪都構想」が反対多数で断念することになりました。
「この無駄をなくすために大阪都構想を実現する。そのために政治家になった。府知事を辞め大阪市長になる」
草食男子が日本を正す
いい車に乗っている人を羨ましいと思った。いい家に住む人を羨ましいと思った。いい時計や、いい鞄、いいスーツを着ている人を羨んだ。だから自分もそうすれば人から羨ましがられると思った。とてもくだらない見栄を張っていたのだ。
これは完全にアメリカ型資本経済の洗脳に他ならない。つまり物欲の権化と化していた。モノでしか価値観の優劣をつけられない。
そんな中、最近は「草食男子」なるモノが現れ、一切物欲を持たないことが特徴だという。車もいらない、家もいらない、豪勢な暮らしなんて興味ない……等々。
まさに、かつての日本人本来の価値観に戻りつつあるのではと思う。精神性の高さこそ価値観の優劣なのだという日本思想。そう考えると「草食男子」を嘆くどころか、喝采を送りたい気分の夜である。
中村信仁
最高の講話者たちと感動の三時間
チャンスは変わらぬ準備を続けるものに訪れる。
親は死して尚なにかをおしえる。
荒野の古本屋
兵庫県伊丹市にブックランドフレンズ という素敵な本屋さんがある。JR伊丹駅を降りて1~2分の場所。
そこの店主は通称「こんぶ」といい、お客さんから親しみをこめて「こんぶさん」と呼ばれている。
その本屋さんで昨日、晶文社刊の「荒野の古本屋」というエッセイにかなり近い私小説を買った。
梅田に宿をとり、今朝は曇り空の大阪で朝を迎え、ホテル横のスターバックスでドリップ珈琲を飲みながら「荒野の古本屋」をパラパラめくっていた。
その書中に東京の電車のことが書かれていて、新宿駅の手前で中央線や埼京線が山手線と並走する瞬間があるというくだりがあった。
そこから文書は発展し、詩人萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)の随筆「汽車の中で」へ向かった。
その随筆にはこう書かれているらしい。(らしい~というのは私自身は読んでいないからだが……)要約して書く。「同じ速度で並走する列車に乗っている時、ふと、タラップから隣の電車に乗り移りたくなる。だが、その誘惑の衝動を感ずるとき、実はぞっとする。なぜなら片足を移した瞬間、並走するどちらかの列車が速度を変えたらどうなるのか。人間の運命とチャンスについて、つねに同じことを考えて戦慄する」と。
この「荒野の古本屋」著者は森岡督行(もりおか よしゆき)40才の作。(現在41才)その著者が百年以上前に生まれた詩人に言及する凄さに感動した。真の読書家とはこういう人間なのだと。著者自身が原著の中で云っている「読書と散歩が趣味」と。
そして、その百年前の詩人の随筆の思考にも打たれた。最後の一行にある、「人間の運命とチャンスについて、つねに同じことを考えて戦慄する」との思考。
まさに運命における両足で立つまでの不安定さをここまで上手に表現した文書を私は読んだことがなかったからだ。
そして最後に、ブックランドフレンズ の選書の上手さに感動した。なかなかこんな本を置いている本屋はない。フレンズではこの本を平積みにしているのだ。
中村信仁