杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -27ページ目

1950年代のニューヨークで、

大規模な再開発を阻止した女性の活躍を描いた

「建築ドキュメンタリー」。

 

第二次大戦後、

大型開発をともなう都市計画が

世界各地で広がっていった。

 

「それらは住民たちの生活や

 社会的な繋がりを破壊していった。

 巨大団地は人々の生活に適さないと判明し、

 数十年後にはそれらの全てが取り壊され、

 高速道路は都市の荒廃の原因になることが分かり、

 各地で建設中止が相次ぐこととなる」

 (映画パンフレットより)

 

この映画では、

開発を強引に進めようとするブローカー、

ロバート・モーゼスと、

それを阻止し、都市の生命を守ろうとする

ジェイン・ジェイコブズとの戦い、

として描かれている。

 

この映画が問いかける大きなテーマは、

「主権はどこにあるのか」

ということだと僕は思う。

 

まさに映画のパンフレットにある、

「都市は誰がつくり、誰のためにあるのか?」

ということである。

 

「モーゼスの巨大開発が

 必ずしも悪いわけではない」

という人もいる。

 

けれど、

そこに暮らす人々が望まない「開発」とは、

一体何なのだろうか。

 

「住民は自分たちのことだけ考えて、

 国全体を考えることをしない」

 

という人もいるけれど、では、

水俣事件の教訓をどう考えるのだろうか。

 

国家は人間を「人口=数字」としてしか捉えられない。

そこに暮らす一人ひとりの生活のかけがえのなさを、

国家はどうしたって認識することはできない。

 

そのことひとつとっても、

主権は「国家」ではなく

「国民」になければならない。

 

地域のことは、

そこで生きる地域の人々が主体となって考え、

決定していかなければならない。

 

開発の是非以前に、

その地域の「主権」が蹂躙されること自体に、

極めて重大な問題があるのである。

 

そしてこの「主権の蹂躙」は、

いまでも私たちの目の前で起こり続けている。

 

ジェイコブズは、

自分が英雄視されることを嫌い、

自伝の出版などをことごとく断っていたらしい。

 

それは、ジェイコブズが英雄視されることで、

地域の人たちが自分たちで考え、決めることをやめ、

ジェイコブズに依存することを怖れたからではないか。

そうなってしまったら、

事態は何も変わらないのである。

 

この映画は、私たちが生きる地域の問題であり、

私たちにつながる歴史の問題でもある。

 

そこに目を向け、

よりよい方向に変えてゆく力を

私たちは持っているのだということを、

この映画は訴えかけてくる。

 

 

 

 

 

 

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「そう思ったら、そうする」

 

これはある時に思いついて、

できるだけ実践しようと思ってきた言葉だ。

 

「そう思ったら、そうする」

だなんて、あたりまえのことじゃないか、

と思われるかもしれないけれど、

なかなかどうして、

これが実践できないのである。

 

電車でお年寄りに

席をゆずることひとつをとっても、

やっぱりちょっと勇気がいる。

 

寝る前にお菓子を食べちゃダメだ!

とわかっているのに、

ついつい食べてしまう。

 

「そう思ったら、そうする」

ということが完璧にできたなら、

どれだけ有意義な日々を送れるだろうか。

 

けれどもつい最近、

「そう思ったら、そうする」

という言葉自体に、

その実践をむずかしくする

要因があることに気づいた。

 

本当は、

「そう感じたら、そうする」

と言わなければならなかったのだ。

 

「思う」というのは能動的な行為で、

「意志」に近いところがある。

 

しかし僕のように意志の弱い人間には

「意志」を実践することは大変なことなのだ。

 

だから、「思う」前の、

「感じた」段階でやってしまうのだ。

 

「思う」は能動的だが、

「感じる」は受動的だ。

 

逆説的に聞こえるかもしれないが、

「感じる」という受動性からのほうが、

スムーズに「実践」に移行できる気がする。

 

「感じる」→「思う」→「実践する」

 

だと、「思う」のところで煩悩に負けるのだ。

 

だから煩悩が沸く前にそれをやる。

 

「感じる」→「実践する」

 

なんだかけっきょく

『考えない論』に戻ってきたわけだ(笑)。

 

もちろんこれは一概には言えないけれど、

ときどき自分の行為の主導権を

思考から身体のほうへ移してやると、

いろんなことがシンプルになっていく気がする。

 

 

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『疾走しない思想』の無料キャンペーン、

いよいよ本日19日が最終日となります。

 

けれどもこのキャンペーンの締め切り、

Amazonでは米国時間の設定になっていて、

おそらく実際は20日の17時くらいまでは

大丈夫だと思われます。

 

けれども時差がどれくらいなのか

確証はございませんので(笑)、

もし読んでみようかと思われている方は、

19日中にご購入いただけたらと思います。

 

先日も読者からうれしい感想をいただきました。

 

「一気読みしちゃいました!面白かったです。

 色々行き詰まっている時は杉原さんの本がしみます」

(30代女性)

 

むしろこの感想が僕の胸にしみました(笑)。

 

一人でも多くの方に

読んでいただけるとうれしいです。

 

 

 

 

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いま北京大学で医者になる勉強をしている、

僕の友人の浅井さん。

 

もともと理系でもなく、

中国語もわからないままに、

北京大学の医学部に飛び込み、

成績優秀者に名を連ねる天才。

しかも30歳を過ぎてから、です。

 

その彼が、きのうの僕のブログ

「手段としての幸福」について、

ものすごく深読みしてくれました!

 

やはり文章というのは

書き手と読み手の協同作業ですね。

 

僕の想像をはるかに超える深さです。

なんかいいこと書いた気にさせてくれます!(笑)

 

よければ読んでみてください。

 

そして浅井さんのブログに読者登録しておけば、

浅井さんの北京大学医学部での奮戦記を

読むことができますよー!

 

浅井さん、ありがとうございますー!

 


 

 

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僕はもともとプレッシャーに弱い人間なので、

会社に行く前や、大事な集まりの前は、

ゆううつな気持ちになることが多かった。

 

特に僕は学生時代から

日雇いのバイトなど短期の仕事をよくしていたので、

「今日が初めて」という機会がよくあったのだ。

 

そのゆううつさは仕事だけに限らず、

遊びのイベントなども例外ではなかった。

 

「現場はどんな雰囲気なんだろう。

 こういうことがあったらどうしよう。

 どんな人がいるんだろう。

 うまくやれるだろうか……」等々。

 

しかしそういう経験を重ねるにつれて、

実はそんな心配が「ほとんど意味がない」

ということに気づくようになる。

 

いくら心配しようが、

うまくいくときはうまくいくし、

うまくいかないときはうまくいかない。

 

むしろ心配せずに気楽に行ったほうが気分もいいし、

その場に柔軟に対応できる気がしてきたのである。

 

それからは、自分自身に対して

変な「あきらめ」の心境を抱くようになり、

こう思うようになった。

 

「自分の体をその場所に運ぶだけでいい」

 

仕事だろうがなんだろうが、

体をそこに運んでしまえば、

もうその時点で「僕の仕事は終了」。

 

後のことは、その時の自分に、

その時のなりゆきにおまかせするのだ。

 

そうするようになってから、

ずいぶん気分が楽チンになった。

 

その時のなりゆきによっては、

すぐに帰ってきたってかまわないのだ(笑)。

 

とはいえ実際そうなることはほとんどなくて、

自然とその場で求められることに対して、

体が動くままに応じてゆくことになる。

 

行く前は頭でいろいろ考えるけれども、

その場に身を置けば、頭ではなく

体の方でその状況に対応するようになる。

 

もちろん、

「そうすれば万事うまくいく」わけではなく(笑)、

うまくいかないことだってたくさんある。

 

けれどもそれは、

あらかじめ心配する、

しないとは関係がない。

 

その場で起こることには、

その場の自分が対応すればいいのであって、

今の自分にはある意味で「関係がない」。

 

当日に自分がプレゼンしなければいけないのに、

その準備を全くしてない!

とかはさすがに厳しいだろうけど(笑)、

そういうのも最低限でいい気がする。

 

むしろあらかじめ準備して固定するより、

現場の空気を感じた上で柔軟に対応する方が、

結果オーライになることが多いのではないか。

 

要するに、人間はその「場」にいることで、

その「場」に応じて変化するというわけだ。

 

だから、これはあくまで僕の場合だけれども、

自分でどんな努力するよりも、

「どういう場に身を置くか」ということの方が

はるかに大事な気がするのである。

 

ものすごく微妙な例えをするならば(笑)、

自転車で目的地へ急いでいるとする。

 

その時に、同じだけ急いだとしても、

歩道を走るか、車道を走るかによって、

速度は全然変わるのである。

 

もちろん車道を走る方がはるかに速くなるのだ

(というか、道路交通法的には自転車は車両なので、

 基本的には車道を走らなければならないそうです)。

 

実感としてはどちらも同じように急いでいても、

身を置く場所によって速度は全然変わる。

 

……うーん、やっぱり例としては微妙だけど(笑)、

要するに「人間は環境の生き物」なのである。

 

逆に言えば、自分がいるべき場にいると思えば、

もうほとんど「それだけでいい」のではないか。

 

努力するとすれば、

そういう場に自分の身を置くためであり、

ひとたびそこに身を置けたなら、

「その場所をいかに楽しむか」、

「その場所をいかに快適にするか」、

ということの方が大事なのかもしれない。

 

自分自身をゲストだと思って、

「まあまあ、気楽になさってください」

と居心地をよくしてあげる。

 

もしもその場所が自分がいるべき場所ならば、

なにはともあれ「そこにいる」ことが全てで、

物語は続いていくのだと思う。

……いや、全くわからないけれども(笑)。

 

ポール・マッカートニーが

「音楽」という居場所から早々に離れていたら、

ビートルズの伝説は始まらなかった。

 

僕は全然知らないけれど、

別の道を模索したことだって

全くなかったわけではないと思うのだ。

 

そんなことを言いながら、

僕はそういう「場」に居続けられないタイプである。

 

でもそれも含めてご縁だと思うので、

それはもう、それでいいのだ。

 

逆に「それでも平気で生きていく道」

というのを、これからを生きる人たちに

示せるいい機会なのだろう。

 

後の人がちょっとでも勇気を持って生きられるように、

「先に模索しときやす!」という感じだろうか。

「そういうのもアリなんすね!」

と言ってもらえるように。

 

人生にはやっぱり「季節」というものがあって、

いい時もあれば、うまくいかないこともある。

でも、それがずっと続くことはない。絶対に。

 

下記の『疾走しない思想』にも書いたけれど、

寒暖差の大きい地域の米や野菜がおいしくなるように、

苦楽差の大きい経験をした人間はより成熟する。

 

その意味で幸福は目的ではなく、

人間的成熟のためのプロセスにすぎない。

 

 

 

 

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ただいま絶賛無料キャンペーン中の拙著、

『疾走しない思想「人間は、弱い生き物なのだ」と仮定する。』。

 

 

 

 

おかげさまで、

Amazonの無料ランキング、

「倫理学・道徳」「自己啓発」という

2つのカテゴリーで1位になりました!

 

 

 

 

購入していただいたみなさま、

ありがとうございました!

 

あくまで「無料ランキング」ですが(笑)、

多くの方々に読んでもらえているということですので、

やっぱりうれしいものです。

 

無料キャンペーンは

19日までやっておりますので、

まだの方は、ぜひこの機会に

お読みいただければと思います。

 

『疾走しない思想』が、

このままランキングから

「失踪しない」ように……(笑)。

 

 

 

 

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タイトルがなかなか決まらなかった

電子書籍の新刊でしたが、

最終的に『疾走しない思想』に決まり、

無事出版の運びとなりました!

 

コメントいただいたみなさま、

ありがとうございました!

 

本書は、これまでブログに書いてきた

エッセイを編集したものであると同時に、

ウダウダと右往左往する「疾走しない思想」によって、
「人間の弱さ」を肯定しようとする試みでもあります。

 

ちょっと自信を失った時や、

元気がなくなった時などに、

手にとっていただけたらうれしいです。

 

「人間は煩悩があるから人間であり、
 弱さとはほとんど人間の定義の一部である」
(本書より抜粋)。

 

そして、いつも僕の本を購入いただいている

みなさまへの感謝の気持ちを込めて、

4月19日まで無料キャンペーンを行っております!

 

電子書籍を読んだことがない方も、

ぜひこの機会に試していただけたらと思います。

 

 

 

 

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もうすぐ次の本を

出版しようと思っているのだが、

タイトルでめちゃくちゃ悩んでいる。

 

ちなみに内容は、

これまでに書いてきたブログの中から

ちょっと哲学寄りのものを集めた、

「ソフト哲学エッセイ集」のようなもの。

 

もともとコピーライターをやっていたわりには、

こういうキャッチフレーズ的なものが苦手だ。

 

今いくつか考えたのは、次のようなもの。

 

『ゆるい哲学』

『疾走しない思想』

『その哲学に用がある』

『愚者の哲学ノート』

『人間は、弱い生き物なのだ、と仮定する』

『人間はそれぞれの愚かさを生きるしかない』

『人生はいつでも順調だ』

 

うーん……わからん(笑)。

 

もし「コレがいいんちゃうん」とか、

「こんなんどう?」というのがあれば

教えていただければ幸いですー!

 

ちなみに今のところ

電子書籍で出版したのは下記の2冊。

 

今までピンク系の色できたので、

今度はちょっと違う色でいきたいと思います。

 

 

 

 

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よくわからない夢を見た。

 

だが起きてからはっきり自覚したのは、

自分自身への失望感であった。

 

夢なので細かい状況はよくわからなかったが、

とにかく仲間たちと一緒に、

長渕剛の「乾杯」を聴いていた。

 

そこで僕はおもむろに提案する。

 

「『乾杯』にかけて、

 『参拝』っていう曲を作りませんか?」

 

……おいおい、ベタすぎだろ!

というセンスのない提案だが、

なぜか仲間たちからは喝采を持って

この提案が受け入れられることに。

 

この【ベタな提案】が失望ポイントその1。

 

さっそくそれぞれ

作詞に取りかかることになるのだが、

全くやり方がわからないというメンバーに、

僕が作詞のやり方を教えているのだが、

やたらと手取り足取り細かく指導しているのだ。

 

目を覚ました瞬間、

 

「もっと自由にやらしてやれよ!」

 

と自分自身に突っ込んだ。

 

この【過剰な指導】が失望ポイントその2。

 

結局夢はここで終わったのだが、

夢の中の自分への「失望」から

一日を始めることになった。

 

でも、夢でよかった。

 

今度は「参拝」よりももっと

センスのあるタイトルを考えたいし、

作詞の指導はもっとフリーダムな感じで

やるようにしたい思った。

 

でも、「参拝」の歌詞の完成版は

ちょっと見てみたかった。

 

♪参拝〜いま〜君は人生の〜

 大きな〜大きな〜鳥居に〜立ち〜

 

みたいな感じだろうか。

 

…………けっこういいやん!

 

 

 

 

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いま、藤子不二雄の

『まんが道』を初めて読んでいる。

 

この漫画は初版が昭和62年で、

僕が中学、高校の頃にも、

周囲の漫画好きの間では

「熱い!!!」

と話題になっていた。

 

その時からずっと気になりながらも、

手に取ることなくここまできた。

 

ところがひょんなことから、

齢四十にして『まんが道』読むことになった。

 

僕が連載を担当させていただいている

地域づくり情報誌『かがり日』の対談がある。

 

その次回のお相手である

駄菓子屋店主・デザイナーの中村さんが、

「全国民必読の漫画ですので(笑)」

といって僕に貸してくれたのだ。

 

中央公論社から出ている

『愛蔵版 まんが道』全四巻。

 

読む前からすでに予感はあったが、

これはヤバイです。

 

心が完全に「青春時代」に戻ってしまう。

 

そしてその青春時代は、

実は今も続いているのだ!

ということを思い出させてくれるのだ。

 

特に人生の岐路に立っている人は、

今すぐ読んだほうがいい。

 

ただ愛蔵版はものすごく分厚いので

持ち歩くのは大変だ(笑)。

 

 

 

 

 

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