僕はもともとプレッシャーに弱い人間なので、
会社に行く前や、大事な集まりの前は、
ゆううつな気持ちになることが多かった。
特に僕は学生時代から
日雇いのバイトなど短期の仕事をよくしていたので、
「今日が初めて」という機会がよくあったのだ。
そのゆううつさは仕事だけに限らず、
遊びのイベントなども例外ではなかった。
「現場はどんな雰囲気なんだろう。
こういうことがあったらどうしよう。
どんな人がいるんだろう。
うまくやれるだろうか……」等々。
しかしそういう経験を重ねるにつれて、
実はそんな心配が「ほとんど意味がない」
ということに気づくようになる。
いくら心配しようが、
うまくいくときはうまくいくし、
うまくいかないときはうまくいかない。
むしろ心配せずに気楽に行ったほうが気分もいいし、
その場に柔軟に対応できる気がしてきたのである。
それからは、自分自身に対して
変な「あきらめ」の心境を抱くようになり、
こう思うようになった。
「自分の体をその場所に運ぶだけでいい」
仕事だろうがなんだろうが、
体をそこに運んでしまえば、
もうその時点で「僕の仕事は終了」。
後のことは、その時の自分に、
その時のなりゆきにおまかせするのだ。
そうするようになってから、
ずいぶん気分が楽チンになった。
その時のなりゆきによっては、
すぐに帰ってきたってかまわないのだ(笑)。
とはいえ実際そうなることはほとんどなくて、
自然とその場で求められることに対して、
体が動くままに応じてゆくことになる。
行く前は頭でいろいろ考えるけれども、
その場に身を置けば、頭ではなく
体の方でその状況に対応するようになる。
もちろん、
「そうすれば万事うまくいく」わけではなく(笑)、
うまくいかないことだってたくさんある。
けれどもそれは、
あらかじめ心配する、
しないとは関係がない。
その場で起こることには、
その場の自分が対応すればいいのであって、
今の自分にはある意味で「関係がない」。
当日に自分がプレゼンしなければいけないのに、
その準備を全くしてない!
とかはさすがに厳しいだろうけど(笑)、
そういうのも最低限でいい気がする。
むしろあらかじめ準備して固定するより、
現場の空気を感じた上で柔軟に対応する方が、
結果オーライになることが多いのではないか。
要するに、人間はその「場」にいることで、
その「場」に応じて変化するというわけだ。
だから、これはあくまで僕の場合だけれども、
自分でどんな努力するよりも、
「どういう場に身を置くか」ということの方が
はるかに大事な気がするのである。
ものすごく微妙な例えをするならば(笑)、
自転車で目的地へ急いでいるとする。
その時に、同じだけ急いだとしても、
歩道を走るか、車道を走るかによって、
速度は全然変わるのである。
もちろん車道を走る方がはるかに速くなるのだ
(というか、道路交通法的には自転車は車両なので、
基本的には車道を走らなければならないそうです)。
実感としてはどちらも同じように急いでいても、
身を置く場所によって速度は全然変わる。
……うーん、やっぱり例としては微妙だけど(笑)、
要するに「人間は環境の生き物」なのである。
逆に言えば、自分がいるべき場にいると思えば、
もうほとんど「それだけでいい」のではないか。
努力するとすれば、
そういう場に自分の身を置くためであり、
ひとたびそこに身を置けたなら、
「その場所をいかに楽しむか」、
「その場所をいかに快適にするか」、
ということの方が大事なのかもしれない。
自分自身をゲストだと思って、
「まあまあ、気楽になさってください」
と居心地をよくしてあげる。
もしもその場所が自分がいるべき場所ならば、
なにはともあれ「そこにいる」ことが全てで、
物語は続いていくのだと思う。
……いや、全くわからないけれども(笑)。
ポール・マッカートニーが
「音楽」という居場所から早々に離れていたら、
ビートルズの伝説は始まらなかった。
僕は全然知らないけれど、
別の道を模索したことだって
全くなかったわけではないと思うのだ。
そんなことを言いながら、
僕はそういう「場」に居続けられないタイプである。
でもそれも含めてご縁だと思うので、
それはもう、それでいいのだ。
逆に「それでも平気で生きていく道」
というのを、これからを生きる人たちに
示せるいい機会なのだろう。
後の人がちょっとでも勇気を持って生きられるように、
「先に模索しときやす!」という感じだろうか。
「そういうのもアリなんすね!」
と言ってもらえるように。
人生にはやっぱり「季節」というものがあって、
いい時もあれば、うまくいかないこともある。
でも、それがずっと続くことはない。絶対に。
下記の『疾走しない思想』にも書いたけれど、
寒暖差の大きい地域の米や野菜がおいしくなるように、
苦楽差の大きい経験をした人間はより成熟する。
その意味で幸福は目的ではなく、
人間的成熟のためのプロセスにすぎない。