1950年代のニューヨークで、
大規模な再開発を阻止した女性の活躍を描いた
「建築ドキュメンタリー」。
第二次大戦後、
大型開発をともなう都市計画が
世界各地で広がっていった。
「それらは住民たちの生活や
社会的な繋がりを破壊していった。
巨大団地は人々の生活に適さないと判明し、
数十年後にはそれらの全てが取り壊され、
高速道路は都市の荒廃の原因になることが分かり、
各地で建設中止が相次ぐこととなる」
(映画パンフレットより)
この映画では、
開発を強引に進めようとするブローカー、
ロバート・モーゼスと、
それを阻止し、都市の生命を守ろうとする
ジェイン・ジェイコブズとの戦い、
として描かれている。
この映画が問いかける大きなテーマは、
「主権はどこにあるのか」
ということだと僕は思う。
まさに映画のパンフレットにある、
「都市は誰がつくり、誰のためにあるのか?」
ということである。
「モーゼスの巨大開発が
必ずしも悪いわけではない」
という人もいる。
けれど、
そこに暮らす人々が望まない「開発」とは、
一体何なのだろうか。
「住民は自分たちのことだけ考えて、
国全体を考えることをしない」
という人もいるけれど、では、
水俣事件の教訓をどう考えるのだろうか。
国家は人間を「人口=数字」としてしか捉えられない。
そこに暮らす一人ひとりの生活のかけがえのなさを、
国家はどうしたって認識することはできない。
そのことひとつとっても、
主権は「国家」ではなく
「国民」になければならない。
地域のことは、
そこで生きる地域の人々が主体となって考え、
決定していかなければならない。
開発の是非以前に、
その地域の「主権」が蹂躙されること自体に、
極めて重大な問題があるのである。
そしてこの「主権の蹂躙」は、
いまでも私たちの目の前で起こり続けている。
ジェイコブズは、
自分が英雄視されることを嫌い、
自伝の出版などをことごとく断っていたらしい。
それは、ジェイコブズが英雄視されることで、
地域の人たちが自分たちで考え、決めることをやめ、
ジェイコブズに依存することを怖れたからではないか。
そうなってしまったら、
事態は何も変わらないのである。
この映画は、私たちが生きる地域の問題であり、
私たちにつながる歴史の問題でもある。
そこに目を向け、
よりよい方向に変えてゆく力を
私たちは持っているのだということを、
この映画は訴えかけてくる。
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