戦いは終わらない ~オセアニアスプリント界の伝説~ | ま、いっか。のブログ

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◆心臓病、骨折、出血・・・闘い続けたオセアニアスプリント界の「伝説」


「頑固でズル賢くて、喧嘩っ早いところもあったけど、レースではまるで”風”に乗るような走りをみせてくれるんだ・・・。今でも彼を愛してるよ。」

主戦騎手を務めきたG.ウィレッツは、後年、マニカトについて聞かれると、そう回想した。
 

「Austrasian Sprinting Legend(オセアニア・スプリント界の伝説)」と呼ばれ、数々の不滅の金字塔を打ち立てた名スプリンターが、わずか8歳という若さでこの世を去ってから20年・・・
多くのホースマンたちにとって、彼のような偉大な馬を世に送りだすことは宿命となり、超えなければならない一つの「ステータス」となった。
南半球史上最強と呼ばれたキングストンタウンをはじめ、サンライン、オクタゴナル、マイトアンドパワーなど、
”ミドルディスタンス(中距離)専門”で活躍する名馬がひしめくオセアニア競馬界において、スプリントを”専門”に走り続けた当馬の栄光と奇跡の生涯は、今も輝きを放ち続けている。

 

                       

現役時代に爆発的な瞬発力とダイナミックな走りでファンを魅了し、オセアニアを翔け抜けた名馬、マニカト。

生涯で挙げた重賞勝利数、なんと「25」うちの9つはGIレース勝利で、わずか2戦を除いて全てがスプリントレースだった

デビュー4戦で不可能といわれた2歳戦最高峰のブルーダイアモンドS(GI)とゴールデンスリッパーS(GI)の2冠制覇。
トラックレコードで連覇圧勝した1980年のジョージライダーS(GI)をはじめ、前人未到というべきウィリアムレイドS(GI)の5連覇、フューチュリティーS(GI)4勝など、輝かしい記録をいくつも残した。2~3年間が選手生命といわれる過酷なスプリント界で、6年間もの長きにわたってオセアニア・スプリントの頂点に君臨し続けた当馬の息長い活躍ぶりは、今日、「競馬史における最も”タフ”な名馬の1頭」と評される所以である。

1982年には、キングストンタウン以来となる史上2頭目の100万ドル獲得賞金馬となり、スプリンターとして異例の競馬殿堂入りまで果たしたマニカトの登場は、当時は裏舞台ともいえたスプリンターの地位を飛躍的に向上させるものだった。マニカトはオセアニア・スプリント界に多大なる貢献を与えたばかりでなく、現在世界最強といわれるオセアニア・スプリント競馬の原点を担った1頭というべきだろう。雄大な馬格、輝く黄金の馬体は、他馬を圧倒する印象さえあったが、なによりファンを惹きつけたのは、苦境に負けなかった不屈の根性と、精神力の強さだった。

 

不遇の幼少期を歩み、後年は度重なる骨折の後遺症や心臓病に苦しんで、その都度「引退」を囁かれてきたマニカト。
体のあらゆる箇所に爆弾を抱え、死ととなり合わせの毎日をおくりながらも苦難を乗り越えようとした彼の不屈の魂は、同じように厳しい境遇で生きる多くの人々にとって、
勇気と希望の象徴であった。

 

 

◆GIレース21勝!? 無敵の快進撃を続けた”スピード・スター


1976年、マニカトはオーストラリアで父MANIHI、母MARKATOのもとに生まれた。父母共にオーストラリア出身馬で、父は18戦して11勝を挙げた活躍馬。
それほどマイナーな血統というわけではなかったが、見た目に地味で貧相な印象を与える栗毛馬だった。しかも他の当歳馬と比べても体が非常に大きく、さらに大きな頭がひどく馬体に不釣合いに見えた。これが人の目には大層滑稽だったらしく、「よくもこんな醜い馬が生まれたものだ」と大笑いする者さえいた。

 

南オーストラリア・イヤーリング(1歳馬売り)セールに出された時も、大きすぎるマニカトの頭の不恰好さは周囲の笑いを誘うだけで、買い手がつかないまま彼は1頭だけ売れ残ってしたのである。困り果てた生産者が、当馬の売価をタダ同然の価格まで下げ続けるとようやく買い手が現れたが、その時のマニカトの売却価格は、わずか$3500(約15万円、AUS$)だった。

 

周囲からもほとんど期待されることもなく育った当馬は、2歳になりボン・ホイステッド厩舎に入厩してからも、当馬の激しい気性を嫌うものは多く、周囲からも敬遠された孤立の存在だった。マニカトは苦労した幼少時の環境の影響もあってなのか、いたく人間不信なところがあり、日々の調教は困難を極めた。そのため、無理やり”去勢”という強行手段も施されたが、手術後もマニカトの難しい性格はほとんど改善されなかったという。(おそらく彼は手術などでは直らないような、精神面の奥深いところにまで傷を負っていたのだろう)

しかし、厩舎によく来ていた騎手のG・ウィレッツだけは、マニカトが調教で時折見せた素晴らしい素質を見抜かさなかった。ウィレッツは自分に敵対心さえ寄せるマニカトをこよなく愛し、もはや「廃用」寸前になっていた当馬について必死に調教師を説得し続けたのである。

のちにマニカトの生涯29勝のうち、実に25勝に按上したウィレッツとのコンビはこうして始まっていくのである。


                       

1977年、新馬戦を6馬身差で勝ったマニカトは、デビューわずか4戦目にしてオセアニア2歳戦の最高峰レースに挑むと、ブルーダイアモンドS(GI)とゴールデンスリッパーS(GI)を2つとも制し、なんとオセアニア競馬史上初の2冠制覇を達成。予想だにしない馬の快走に、周囲は度肝を抜かれてしまった。なにしろ、ゴールデンスリッパーS(GI)といえば、言わずと知れた2歳戦の世界最高賞金レース。毎年様々な地域からトップホースたちが集うことは勿論、レースは牡馬・牝馬の混在戦という厳しいものだ。
 

ブルーダイアモンドS(GI)も2歳馬最強決定戦の一つで、両者はメルボルンとシドニーを跨いで同時期に開催されること、地理的な差やトラックの差も大きくて、この2冠を制することは不可能に近いとされていたのである。驚くのは、マニカトがこの定石を破っただけでなく、2つのレースの間にさらに1レースを消化する(!)というとんでもない離れ業まで見せたという点である。とにかくタフさが尋常ではなかった。
 

マニカト以外にブルーダイアモンドS(GI)とゴールデンスリッパーS(GI)の2冠を達成した馬は3頭しかいないうえ、いずれもマニカトのように両者を中14日間などというハードスケジュールで成功した馬は1頭もいない。なお、この勝利は当時マニカトを管理していたボン・ホイステッド厩舎にとっても、40年以上という長いキャリアの中において初めてGIレース勝利を達成した瞬間であった。2冠馬となったマニカトはこの後、デリーナ・ハンデキャップ戦や強豪があつまる1800m戦フューチュリティS(GI)でも圧勝を飾り、たった6戦というキャリアでGIレース3勝も挙げる活躍を見せたのだ。
 

翌年、3歳になったマニカトの快進撃は止まらない。

マニカトは、名だたる強豪を集めて行われた1350m戦のロズマン(GI)をレース史上最高記録となる負担重量で楽勝すると、続くジョージライダーS(GI)もレースレコードでの圧勝ぶりを披露。さらにオアーS(GII、1400m)、ウィリアムレイドS(GII、1200m)、フューチュリティーS(GI、1400m)に勝利を収めると、マニカトの勢いはとどまる所を知らないのか、次のフレミントン競馬場で行われたマルボロカップ(1200m、GII)、1600m戦のコーフィールド・ギネス(GI)でも無敵の強さを発揮した。マニカトはこの年だけでもスプリント戦の重賞を7勝、合計8勝を挙げる大活躍を見せ、はやくもオセアニアの歴史的名スプリンターであったVain(1969)以来の”スピード・スター”の誕生だ、と紙面を賑わした。

 


        
         ヴェイン(Vain 1965-1991) 

 通算14戦12勝[2着2回]、オーストラリア競馬殿堂馬。
 1969年のフューチュリティS(GI)10馬身差、ジョージアダムスH(1600m)を12馬身差という記録的な大差で圧勝し、世界最速スプリンターの名を欲しいままにした名馬。マニカトが登場するまでは、オセアニア競馬史上に誕生したスプリンターの中でも最高傑作といわれる馬だった。
スプリント戦でレコードを連発し、大差をつけて勝つというVainの恐るべきスピード、そして手のつけようがない無類の強さ。その傍若無人のレースぶりは、当時の人々に今後このVainを超える馬は2度として現れないだろう、といわせしめた。現在でもマニカトと双璧をなすオセアニア競馬の伝説の名スプリンターで、種牡馬としても素晴らしい実績を残した。

 

・・・2年間という長期にわたり、信じられない快進撃をみせるマニカト。もう尋常の領域ではないが、彼が日本の数倍もある広大なオーストラリアの大地を舞台に、東西南北問わず長距離遠征を繰り返して、なんと5つもの競馬場をはしご回しに挑戦し続けたことを知ると、言葉を失ってしまう。
        
1980年(マニカト4歳)には、シドニーに遠征して今度は連覇がかかったジョージライダーS(GI)で圧勝劇で強豪馬を撃砕。前年に自らが作ったレースレコードを塗り替えてローズヒル競馬場のトラック・レコードを樹立する強さを見せた。さらにマニカトはムーンバレーに戻る強行スケジュールの中、まったく疲れを見せずウィリアム・レイドS(GII)を軽々と2連覇し、一流馬が顔を揃えたフューチュリティーS(GI)でも混戦を制して2連覇を果たした。もはや、オセアニアにはこの究極のタフさと強さを兼ねた怪物を前に対抗できる馬はいなかったのである。

 

マニカトはこの年、上記以外でも混戦となったオアーS(GII)2連覇や、ムーンバレーのフリーウェイS(GII、1200m)までを勝利鞍におさめ、まさに記録づくめのビクトリーロードであった。
                       

2歳のデビュー以来、一度も休むことなく戦い続けるマニカト。連戦の激しい戦い、そして長距離遠征の繰り返しは確実に彼の体を圧迫していた・・・。
1981年、マニカトはとうとうレース中に痛めた脚に無理がかかり、
靭帯損傷重度の骨折発症。症状のひどさに一時は再起不能とまでいわれたが、なんとか最悪の事態だけは免れた。だが、著しく疲労困憊していたマニカトは
「心臓発作」の兆候も見せ始めるようになっており、不安定な体調を慢性的に抱えるようになっていた。もともとあまり心臓が強い馬ではなかったらしいのだが、スプリント戦のような過酷なレース中に心臓発作が起これば・・・まず命はない。果たして競走馬として十分に活躍した当馬に、さらに危険なリスクを負わせてまでレースをさせる必要があるのだろうか。関係者たちはマニカトの「引退」という進退も考慮せざる終えなかった・・・。
       

◆なぜ、走り続けるのか

 

かの米国3冠馬のアファームドはよく、「天性の素質ではなく、精神力で走る馬である」といわれた。
 

マニカトの最大の武器。
それは天性に備わったスピードはなく、類まれなる
「ファイト精神(スピリッツ)」であった。主戦騎手だったG・ウィレッツを含め、今も彼を愛し続けるファンの中には、この類まれなるファイト・スピリットに魅せられた人も少なくない。

もしかしたら、ここまで話してきた内容から勘違いされてる方も多いと思うが、彼にはいやゆる「名馬」にありがちな、レコードを連発して勝つような桁違いの強さというものもなかった。むしろレースは予想に反していつも際どいものが多く、苦戦し他馬と接戦となることが殆どだった。ただ、出遅れて勝機を失い、悪化していた心臓病に苦しめられることもあっても、ゴール前必死の形相で走り続ける彼の姿には、他の馬にない何かが・・・たしかにあった。

6年間にわたる47戦において着外はわずか4回。決してあきらめることのない「勝利への執念」。過酷な幼少時代の記憶から、人間不信となり、人と向かいあうことが出来なくなっていたマニカト。誰よりも早くファンの待つゴールへ駆け抜けようとしたその姿を見ると、本当は人間不信の馬などではなく、愛されること知りたかっただけなのかもしれない・・・

 

                       

それは、靭帯損傷と重度の骨折を発症し休養に入ってから1年も経たたないうちのことだった。持ち前の気力でこれを克服し、奇跡的な回復力を見せたマニカトは、ふたたび彼の故郷ムーンバレー競馬場へ帰ってきたのだ。それだけではない。すでに5歳になっていたマニカトは、長期休養明けというハンデを負ったにも関わらず、なんと強敵を揃えたウィリアム・レイドS(GII)で劇的に3年連続同一レース勝利の大記録を打ちたて、復活を願った多くファンの声援に応えたのだ。

確実に残っていた骨折の後遺症。悪化し続け、圧迫する心臓の苦しさ・・・。
だがそんな苦しみさえ跳ね除け、マニカトはムーンバレー競馬場で次のオアーS(GII)で3連覇を果たすと、その年の最強馬が顔を揃えたフューチュリティーS(GI)でも信じられない3連覇記録を達成し、休養明けから無傷の3連勝を飾ったのである。6歳になるころには、やはり度重なる骨折から慢性的な脚部不安からマニカトは敗戦を繰り返すようになった。少し前からレース中に
鼻出血までするようになり、いつ起こるか分からない心臓発作と胸の痛みは彼を苦しめ続けた(鼻呼吸しか出来ない馬にとって鼻腔を塞ぐ「鼻血」は死活問題だ。一瞬で呼吸困難に陥る「鼻出血」は、「心臓発作」を引き起こして死亡する危険性さえあり、それが極端に酸素不足状態のレース中となればなおさらである)。

 

持病に苦しみながらも遠くシドニーにまで遠征すると、重いハンデ戦となったキャンターバリーS(GII、1200m)、大接戦となったフリーウェイS(GII、1200m)等々を制し、史上初のウィリアム・レイドS(GII)4連覇まで遂げて不屈の闘志を見せた。そして35戦目のモアS(GII)で勝利を挙げたマニカトは、ついにキングストンタウンに次ぐ史上2頭目の100万ドル獲得賞金ホースに輝いたのである。

 

実はこれには面白いエピソードが残っている。

1982年にキングストンタウンがオセアニア史上初の100万ドル獲得賞金ホースに輝いたが、マニカトはキングストンタウンがレースに勝った当日、全く同じ競馬場の同じコースで行われてたCaulfield Gns(G1)で圧勝し、キングストンタウン同様、100万ドルの獲得賞金を超えていたのである。しかし・・・キングストンタウンのレースはマニカトのレースよりも1時間早く行われていた為、”わずか1時間”の差でマニカトは史上初の栄光を取り逃がすことになった、というのである。中長距離の大レースなど高額賞金レースを制することでミリオネアとなったキングストンタウンも凄いが、さらにハードルの厳しく、当時はそれほど高額でなかった短距離戦という裏舞台で達成されたマニカトの偉業は驚くべきものがある。


マニカトは翌年、7歳にして古馬スプリント戦の最高峰、ウィリアム・レイドS(現GI)で空前絶後の5連覇を達成。続くフリーウェイS(GII)、メムシーステークス(GIII)も勝つと、前年度賞金王となった記念すべきモアーS(GII)では圧勝で2連覇を決めた。最後は3連覇が途絶えていたGIレースのフューチュリティS(GI)を勝ち、同レース通算4勝という前代未聞の新記録を打ち立てて6年間という長い現役生活に終止符を打った。

                       
 
マニカトはスプリンターとしては
異例ともいえる25勝もの重賞勝利数を挙げ、9つものGIレースに勝利GIレース9勝うち、実に8勝までがスプリント戦のGIレースだった(最後の一つは1800m戦)。勝利鞍の中には、5連覇を成し遂げたウィリアムレイドSを含め、後にGIレースへ昇格したレースが12個(全てスプリントレース)にも及んでおり彼が残した足跡がいかに計り知れないものだったかを物語っていた。
 

もしかしたらマニカトは、名馬ジョン・ヘンリー(米)の世界記録を抜き、史上最多の「GIレース勝利数 :通算21勝」という究極のタイトルに最も近づいた競走馬なのかもしれない。当馬のオセアニアでの伝説的な存在は後世に多大なる影響を与えた。ミスターティズやスキラッチ、ベルエスプリッツなど多くの
名スプリンターたちを生み、いまやオセアニア地域は名スプリンターの宝庫として世界に名を馳せており、短距離戦のレベルはアメリカを超えて実力世界一である。


◆ Gone、for the Wind 


                   


 

1984年2月、6年間にもわたる長い競争馬生活を終え、ようやく悠々自適な第2の馬生を歩み始めていた矢先のことだった。マニカトは、原因不明の伝染病にかかり、激しい痛みと高熱に苦しんでいた。権威ある医師団のチームが組まれ、すぐに彼を救命する処置が試みられたものの、伝染病の一種と思われるこの病気は、マニカトの脚を壊死させ、凄まじい速さで彼の体をむしばんでいく。医師団と関係者たちの必死の看護にも関わらず、最後は体の免疫機能をほとんど失うまでに衰弱し、どうにも手の施しようがない状態だった。自立歩行出来なくなり、呼吸困難に苦しむマニカト。見かねた医師が最後の注射を打とうとした時、マニカトは小さな声で、一度だけ嘶いたという。
 

現役時代、さまざまな困難を乗り越え、不死鳥のように蘇ってきた名スプリンターは、2度と目を覚ますことはなかった。
享年、8歳。

あまりに突然の死に彼を愛した人たちは大変悲しみ、そしてこれだけの名馬でありながら年度代表馬のタイトルなど彼の功績を称える栄誉も表彰も殆ど無いことをそれ以上に悔やんだ。不遇に思った当時の関係者たちは、彼の遺体をムーンバレー競馬場に運び、7歳時にウイリアムレイドS(GI)5連覇を成し遂げた
栄光のゴールポストのすぐ側に埋葬し、20世紀が生んだ偉大なスプリンターの死を悼み、栄誉を称えた。さらに競馬場の正門前には「Manikato Garden(マニカト・ガーデン)」と名付けた庭園を設け、彼が一年中美しい花に囲まれて喜べるように、と庭園の真ん中に大きなモニュメントまで飾ったである。ムーンバレー競馬場の運営委員会も、ムーンバレーを愛したこの功労者への栄誉と敬意と表するため、1990年にはウイリアムレイドS(1200m)を”マニカトS(Manikato Stks)”と改名し、レースのグレードもGroup1(GIの意)に昇格させた。

数年後、マニカトが残した功績は競馬委員会でも検討され、オセアニア競馬界に与えた偉大なる貢献馬として最も栄誉あるオーストラリア競馬殿堂馬として表彰された。スプリンターとしてはVainに次ぐ史上2頭目の快挙だった。

                                 



今から20年前。

オセアニアを駆け抜けた1頭の名馬は、

その後多くの馬の「ステータス」となった。
 

どんな困難にも立ち向かい、弱音も吐かず、
ただ他の誰よりも早く駆け抜けようとしたスプリンター、マニカト。
 
忽然と現れ、

そして風と共に去っていったその短い生涯は、

まるで最後まで「スプリンター」としてのプライドを守り通した、

王者のようであった。 
 

( 2003.8.28 )