私の名馬 | ま、いっか。のブログ

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マキノプリテンダー

1993.4.14 - 1996.4.14(JPN)  

  牡・栗毛・茨城県産 (1993-1996) 

父:アンズプリテンダー  

母:ミネノカゼ(ラデイガ)

 

 

元気かい?

 

今日は4月14日。

君の誕生日であり、そして命日だ。

だから、きっと届くと思って書き込むよ。
 

中山のレース、たぶん全部観に行ったかな。
パドックではいつもヤル気なさそうにしてたのに、でも応援してるといつも来てくれてね。

嬉しかったなぁ、ありがと。
 

 

忘れてないよ。

トレードマークの、あのメンコ。

”セクレタリアト”という、僕が好きな外国の名馬と同じの柄で、毛色までソックリだったんだ。

 

僕らの期待とは裏腹に、レース前のパドックはいつものんびりと歩いてて、ちょっぴり頼りなかったけど、その時ばかりは何だか本当にヒーローに変身したようだった。ちょっと小さめの”セクレタリアト”だったけど(笑)。でも、どんなに負けていても手を抜かずに最後まで一生懸命になって走る姿は、本当にカッコ良かった。

 

…出来ることなら、君にもっと長い時間が与えられて。

そして透き通るような優しい瞳をしていた君にそっくりな子供を、少し愚痴を言いながら応援してあげたかったけど。

でも、しょうがないよね。

 

 

向こう場面で走れなくなった姿を見た時、僕の頭の中は真っ白になった。

 

今でもそこからの記憶があまりないんだ。

ただ、馬場に飛び込んで駆け寄りたかった気持ちだけが強く残っている。

地面にうずくまる騎手を心配そうに、側から離れようとなかった君に、せめて「心配だよね」と言って抱きしめたかった。

 

競馬場では頑張って堪えてたんだけど。帰りの駅のホームで、ポケットの中に残っていた応援馬券を見たら、なんだか急に寂しくなって、一人で泣いてしまったよ。

 


何年が過ぎようとも、あの時感じたことは忘れない。


 

  
 

                 

今年もまた、桜の咲く季節がやってきました。

あの頃と変わらない、満開の見事な桜だったよ。

あっ、そうそう。

つい先日、君を育ててくれた大学関係者の方から、当時みんなで作ったという墓石の写真を頂きました。とっても大きくて、立派な墓石だったよ。

「みんなに愛されていたんだな」そう思うと・・・なんだかとてもうれしくなりました。君がこんなにも素晴らしい人々の深い愛情に恵まれ、そして幸せだったかもしれないと思えることが、何よりもうれしいことなんだ。

君が駆け抜けた渾身の生涯を、僕は忘れない。
ありがとう、マキノプリテンダー。

 

今も、そしてこれからも

あなたは私の名馬です。

 

2004 . 4 . 14 

 

 

上は、私が20年前に寄稿したものです。

 

彼が逝ってから今日で28年。

同期の馬たちも、ほとんどが亡くなくなりました。

 

20歳だった当時、この出来事が余りに辛すぎて

「大事な存在を失った後のこの気持ちは、ほんとに長い時間の中で解決してくれるのだろうか」

と、そこに少しの救いをもとめていた自分がいました。

 

でも、28年が経って答えがわかりました。

辛い気持ちも悲しい気持ちも、けっしてなくなることはない。

角度を変えながらでも、向きあっていくしかないんですよね。

そういった感情も含めて彼に対する愛情であり、彼の生きた証だから。

それを完全に捨て去ることは、僕には出来なかった。

 

昔、「人間の中で一番役に立たない機能は”後悔すること”だ」って言った人がいて、

たしかにそうだな、と思って聞いていたことがある。

でも、後悔や反省が次の目的に向かうパワーの糧や源につながることは多いだろう。

 

哀しみとは、痛みを伴う生きた記憶だ。

トゲだらけで最初は痛みが強いけど、長い年月のうちに丸みを帯びて痛みは減ってくる。

でもその実体はなくなることはない。

 

こんな記憶が、一体の何の役に立つんだろう。

今もわからない。

でも”後悔”と同様、なにか意味があるんだろう、きっと。

そして、それがわかる日はくるのだろうか…。

 

 

ああ、今年も綺麗なサクラが咲いている。

いつもノラリクラリ、うつむいてヤル気の無さそうにパドックを歩いていた小さな栗毛の姿が、目を閉じる度に蘇ってくるようで懐かしい。

 

(2024.4.14 追寄稿)

 

 

★マキノプリテンダー    

 茨城県、東京大学農学部付属牧場生産馬。

 父:アンズプリテンダー、母:ミネノカゼ(ラデイガ)。

 1993年4月14日生まれ。           

 

競走馬としては珍しく、国立東京大学付属牧場の出身馬。

わずか1頭の種牡馬と数頭の繁殖馬からなる小さな牧場で幼少時を過ごす。市場売却価格も250万という、母ミネツバキが当馬を生んだ直後に行方不明となっており、また1歳時のセリ市での安値だったが、学生たちや教授、スタッフの深い愛情で育てられた。

 

体重は420kg前後しかない小さな馬で、2歳時は着外ばかりの凡走を繰り返したが、その後騎手の乗り変わりや、出走レースの距離が伸びたことも手伝って3歳線から徐々に実力を発揮。

中でも、皐月賞の前哨戦となる若葉ステークスでは、ミナモトマリノス、ロイヤルタッチを含めた強豪たちの3着に入線して周囲を驚かせた。


皐月賞の抽選枠を引き当て、付属牧場出身馬として初の大舞台への出走が決まった時、歓喜に沸く関係者の中で誰よりも喜んだのは、いうまでもない毎日彼を世話をしていた学生たちだった。

 

18頭中の8番人気。

1996年4月14日、皐月賞当日。


牧場で牛や馬の世話をする一部の留守番部隊を残し、多くの現役学生や卒業生で結成された応援団が中山競馬場にかけつけて、大きな歓声と声援で愛馬に夢を託した。

だが、勢いよく出たスタート直後の2コーナー過ぎ、悪夢が襲った。

教授たちやスタッフ、そして愛する学生たちの目の前で故障して落馬・・・。

右中手骨開放骨折で、予後不良。

事故発生直後、一人の小さな中年男性が柵を乗り越えまだレースが続く中山競馬場の芝生内を横切って現場に走っていく姿が今でも忘れられない。