小説と未来 -32ページ目

EmT.42 フラメンコ on セビーリャ

1999年11月27日、セビーリャでフラメンコを観る。


 11月26日、友人Hと再会した日、セビーリャでフラメンコを観ることとしていた。ホテルで予約が出来たので、早めに予約しておいた。

 11月27日は友人Hとの再会で、長いモロッコ話を聞かされた。その話は後で、友人Hのモロッコ外伝として綴ろうかと思うので省略する。

 路地では小さな子が一人サッカーボールで遊んでいた。僕らはそのサッカーボールを奪い、少年を相手にして遊んだ。小さい子だけど、年齢にしてはなかなかうまい。僕らは久々にサッカーをして、楽しんだ。

 

 さて、やがて夜が来た。僕らはホテルのおばさんが予約してくれたフラメンコ場へと向かった。セビーリャのジプシー街を歩き、やがて小さな舞台のある劇場みたいところに入る。下北沢の小劇場みたいな感じだ。

 前日に予約した僕らだが、ステージ前のど真ん中の席を用意されていた。やがて劇場はいっぱいになり、開演した。

 小さな舞台の上で、椅子に座る男がギターを奏で出し、近くの男が歌を歌い始める。そして手拍子を始める。

「あーーーー、あいや、いや、あああ」みたいな調子だ。

 本場フラメンコの踊りは情熱が違う。心から燃え上がるような情熱の表現、迫力があり圧倒される。

 そして後ろで後ろで拍子を取るおじさんの動きが激しい。あの熱さ、なんだか意味はわからないがとても熱が伝わってくる。

 フラメンコはカルメンだったと思う。1章から4章まであり、1章は女性、2章は男性が歌いだす。男性の熱の入ったダンスにもたまらないものを感じる。3章、4章も女性だったかと思う。最後は劇に出演した皆が出てきて踊りだす。

 その迫力はすごい。でもそれより囃し立てて手拍子を取るおじさんの動きが激しい。むしろ僕はそっちにばっか目が行ってします。

 満員の観客もみんな盛り上がり、鳴り止まない拍手。

 それはそれはすばらしかった。

 本場のフラメンコはすばらしい。僕はたまらなく嬉しい気分になった。


1999年11月28日、僕と友人Hはセビーリャを離れる。それと同時にスペインも後にする。僕と友人Hはバスで一気にポルトガルまで移動することとなった。

 スペインは他のヨーロッパの国々と違い、列車のルートがない事が多い。だからバスの旅もある。僕はこの旅始まって以来の、長いバスに揺られた。セビーリャからポルトガルのリスボンは8時間くらい掛かった。途中1回くらいしか休みがなく、バスでの移動は電車と違い動きを制御されるので疲れる。

 疲れながらも僕らが乗ったバスは無事にリスボンに着いた。


さて、話はポルトガルのリスボンに続く。

EmT.41 ヘレス・デ・ラ・フロンテラ~セビーリャ

友人Hとの再会の約束をしたセビーリャまでやってきた。

11月25日、友人Hとの一週間ぶりの再会を果たすために、僕はセビーリャにあるホテルにやってきていた。ホテルに辿り着いたのは夕方だったが、友人Hはまだそこにはいなかった。僕は軽い夕寝でもしながら友人Hを待つこととした。


 前日はカディスを出て、ヘレス・デ・ラ・フロンテラを訪れていた。セビーリャから1時間程度の南に行ったところにある町で、カディスとセビーリャの間にある。それ程有名な町であるわけではないのだが、シェリー酒発祥の地として旅行客が立ち寄る事の多い町だ。いくつかのシェリー酒工場では工場見学ができるので、ワンクッションおいて訪れるツアー客も多い。

 僕は当然一人で訪れたわけで、シェリー酒の事なんてなんだかわからないので、工場見学も考えなかった。それでもティオ・ペペという名前だけは覚えた。


 ヘレス・デ・ラ・フロンテラでは、綺麗なホテルに泊まった。特に高いホテルというわけではなく、むしろ2000円程度でお手ごろな値段のホテルだったのだが、白壁で、綺麗に清掃してあるホテルだった。生活観のあるオステルか、ユースホステルばかりだったので、久々に清潔な場所に泊まれた気がする。

 特にやる事はなかったので、昼間の15時くらいから、レストランのオープンカフェでシェリー酒を飲んだ。広い石畳の広場には20席くらいのテーブルと椅子があったが、僕しか座っていなかった。

 独特のブランデー臭がするシェリー酒を一人飲んでいると、店の人とは関係ない小男が近づいてきた、小男は突然歌いだす。「あーーー、おいや」みたいな掛け声。前にロンダのバルのテレビで見たフラメンコで、拍子を取っていたおじちゃんと同じだ。

 小男は1m以内のめちゃめちゃ近いところで全力で歌いだす。もはや逃げ場もない。無視もできずに見ているしかない。そして5分後、手拍子と足踏みは終了した。

 一礼して、僕に何かを求める。

『わかったよ。やればいいだろう!』と心の中で苛立ちながら、「グラッシアス(ありがとう)」と言って、100ペセタを小男に渡した。

 小男も「グラーシアス」と言って、去っていった。


 そんな客もいない静かなヘレス・デ・ラ・フロンテラで半日を送った。

 翌日、セビーリャに向かう前もしばらくヘレス・デ・ラ・フロンテラにいた。カマラ・オスクーロと呼ばれる古い望遠鏡みたいなものを見た。何の事だかよくわからないかもしれないが、僕もよくわかっていなかった。とにかく古い建物の中に遠くを映す鏡みたいなものがあって、遠くの景色がそこに映るのだ。

 とりあえずそういうものだ。


 適当にヘレス・デ・ラ・フロンテラで時間を潰し、セビーリャに向かった。

 この辺りでは、パエーリャを食べた覚えがある。前日のカディスの昼食だったかもしれない。ドロッとした濃いパエーリャだったが、やっとパエーリャを食べられたな、と思ったことを覚えている。


 そして、セビーリャへやってきた。どこへ行ってもアンダルシアの石畳の街並みだ。セビーリャもまた似たような都市だ。コルドバとさして変わらない。

 とりあえず友人Hとの再会、それだけを考えていた。



 ホテル「ビエンベニード」で友人Hを待つ。半分寝ていた。「来ないかもしれないが、まあそれでもいいか」なんて事も思っていた。

 また生活観のあるホテルで、僕が寝ているのは1階の部屋だった。誰かがレセプションまで来ればわかりそうな部屋だ。

 うとうとしている夢見心地な中で、人の声が聞こえていた。フロントから聞こえてくる。

「アミーゴ・・・なんとか、かんとか」と言っている。

 アミーゴは挨拶の言葉ではない。友達の意味だ。僕はふとあいつが来たなと思った。僕は身を起こした。そして部屋を出て、フロントを覗く。やはり友人Hがいた。超にこやかな笑顔で、下手くそなスペイン語を伝えながら僕の事を尋ねている。

「おーい」

 呼びかけると、超笑顔でこっちを見ている。

「おおおおお」

 超嬉しそうな顔をしている。僕は彼にさぞかしいい出来事でもあったのだろうと思った。僕が祖父の事やあれやこれやと悩んでいた中、彼は楽しい旅行をしてきたのだろうと思った。

 でも事実はそうでもなかったと言う。いろいろな不安があって、スペインに戻ってきて、僕にあって安心したという。そんな事を思われたら少し嬉しいやら何やらと思う。実際に僕自身も友人Hに会えて、安心した気がした。一人の旅はどことなく少しさびしい気がしていた。


 僕らは久々に二人で同じ部屋に寝ることとなった。何となく安心して眠れる気がした。いつか一人なった時はその時の方が安心して眠れたものだが、ずっと一人でいて、久々に二人だとその方が安心して眠れる。人間の心とは、わがままで複雑なものだ。


セビーリャでのときは翌日につづく。

EmT.40 カディス

1999年11月23日はカディスで過ごした。


 駅前のインフォメーションでホテルを探していると、見知らぬ老人が声を掛けてきた。

「ホテルを探してるのか?」と聞くので、「そうだ」と答えると、「付いてきなさい」と言う。

 怪しいと思うのが普通だが、なんだかその時はどうでもいい気分になっていたので、その老人について行った。

 駅からいくつかに別れる細い路地の一本を歩いていき、数分のところの3階建てのマンションに老人は入っていった。僕はそのままついて行った。

 中は中央が吹き抜けになっていて、周りに何部屋もの部屋があった。簡単な作りのコンクリート造りの建物だった。

 3階まで上ってゆき、老人は誰かを探していた。洗濯室におばさんがいて、おばさんはたくさんの洗濯物を洗っていた。そして老人は、僕が泊まりたいことを告げ、部屋は空いているか、と聞いていた。

 老人は鍵を預かり、僕を3階の端の部屋へと案内した。ベッドが二つある生活観のある部屋だった。老人は「いい部屋だろう?」と言った。

 まあ悪くはないので、「シー」と答えた。老人はすぐには去っていかず、手をもじもじさせていた。

 そういうことか。と思い、僕は老人に100ペセタを渡した。


 カディスは地中海に面する海辺の街だ。カディスに着くまではずっとビーチが広がっていて、夏になるとたくさんの海水浴客がここを訪れるのだろうと思った。11月末のビーチに人はおらず、ただだだっ広いビーチが永遠と続いていた。

 僕はビーチとは異なる街の堤防のある海辺でぼけっと過ごしていた。海には要塞が浮かんでいて、カディスの海岸から1本の長い要塞へ続くレンガで出来た橋が伸びている。そこは封鎖されていて渡ることは出来ないのだが、なんともスペインらしい光景に思えた。いつの時代か、きっとこの海辺で海上戦が行われいたのだろうと、そんな事を思い浮かべていた。

 ただぼけっと時を送っていると、日が暮れ始めた。冬も近づき、世のふけるのも早まってきたように思う。やがて要塞は明かりを灯し、輝きだした。綺麗な光景だった。海辺で要塞は、今は灯台の役割を果たしているようだった。

 日が暮れて、街を歩き、僕は人のいないバルに立ち寄った。リーガエスパニョーラのテレビ観戦ができる大きなテレビのあるスポーツバーだった。客は誰もいなかった。試合も有名じゃないチーム同士の対戦だった。霧の中の試合で、周りが真っ白でなんだかわからない試合だったが、2対2くらいの接線を演じていた。僕はその試合を見ながら、瓶ビールを飲み、しばらくそこにいた。

 試合が終る頃、そのバルを出た。どちらが買ったかは忘れてしまった。


 そしてホテルに帰って、そのまま生活観のある静かな部屋で眠った。

 街には観光客らしい人もいなかったし、とりわけ外国人の僕を気にするスペイン人もいなかった。僕はその街に住み着いた外国人の居候のようにカディスで一日を過ごした。

 何もない一日だったけど、やけに落ち着いた一日だった。やる事のない日曜日のような一日が過ぎていった。僕は自然とスペインの街の中に溶け込んでいた。


つづく

EmT.39 コルドバ

コルドバのユースホステルでは二人の日本人に出会った。1999年11月22日の事だった。


 前日にロンダを出た時はまだずっと、自分の世界の中にいた。コルドバに着いたのは夕方だったが、それまでの経緯は覚えていない。

 ホテルと対して値段の変わらないユースホステルに泊まろうと思ったのは、誰かに会いたかったせいかもしれない。

 僕はコルドバの駅から街の中心にあるユースホステルを目指して歩いていた。途中道を聞いたが、なんだか道を間違って、古い土壁の街並みが続く居住地に入り込んでしまった。

 確か、「デレーチャ」と言っていたな?いや、「デレーチョ」だったな?久々に聞き間違えた。「デレーチャ」は右で、「デレーチョ」はまっすぐだ。旅の集中力は途切れていた。僕は思い直して、右に曲がった所の方へ戻り、左へ曲がった。すると町は石畳の狭い路地が続く古風な街並みへと変わった。

 その道を歩いてゆくと、やがてユースホステルに辿り着いた。


 ユースのレセプションで受付を済ます。受付もすっかり慣れて、英語で対応する。部屋の鍵を渡されなかったので、「鍵はあるのか?」と聞くと、「ドミトリー部屋には別の人がいるから彼が持っている」と言う。

 部屋に行くと、部屋は2段ベッドが2つある部屋だった。その時は、どうやら日本人らしい男が寝ているな、という感じであったが、後に訪れた時は起きていた。

 もしゃもしゃ喋る感じの男で、髭ももしゃもしゃ生やしていた。

 彼の話では、彼は北欧から南アフリカまでを目指しているそうだ。北欧ではオーロラが綺麗だったと言う。すでに1ヶ月以上は旅していると言っていた。しかし僕と友人Hのダラダラ旅行に比べたらだいぶハイペースだ。

 そんなもしゃもしゃ君だが、観光等はあまり興味がないようで、力を蓄えてかなんなのか、彼はほとんど寝ていたという記憶しかない。


 翌日、僕は一人でコルドバ観光をした。

 コルドバのシンボルはメスキータというイスラム様式の寺院だ。中はたくさんの太い柱が天井を支えていて、それ以外はただ広い空間が広がっている。独特の褐色の大理石で出来ていた建物だった。

 とりあえずメスキータは観ておいて、後は川沿いからコルドバの街並みを写真に収めた。時間があったので、かなり構図を決めて一枚の写真を撮った。天気もよかったのでなかなかいい仕上がりとなった。

 後は街をふらふらしていた。石畳の路地が続く綺麗な街だったが、工事のシーズンなのか、やたらと工事ばっかりしていて、ちょっと雰囲気が残念なところもあった。

 ロンダにいた時より、気候も回復したのか、暖かく、僕の心もそんなおかげで少し和らいだ。

『今は旅をするしかない。この旅を完結させよう』

 そんな事を思っていた。


 昼過ぎにユースホステルに戻ると、レセプションで一人の男が受付と話が通じずに戸惑っていた。どうやら日本人らしい。僕はしばらく見ていたが、自分の部屋の鍵が欲しいので、早く話を終らせるために通訳に入った。

 しかし人の良さそうな若い彼はまるで英語が聞き取れていない。イギリスの時の自分を思えばあまりあれやこれやとは言えないが、これでよく一人でヨーロッパまで来たな、と思う。逆に感心する。

 朝食のいる、いらない、とかシーツの場所とか、食堂の場所とか、受付の説明を通訳して、人の良さそうな彼はやっと受付を終える。

「ところで鍵は?」と僕は聞く。

「誰かが持っている!ってさっき言ったでしょ!」

 その言葉は聞き逃してようだが、通じない会話にイライラしていたレセプションのおばちゃんのとばっちりを受けることとなった気がする。

 部屋に戻ると、もしゃもしゃの男がいた。僕らは3人で旅の話をした。人の良さそうな彼はマドリードに着いて、そこから来たばかりらしい。2週間だか3週間の短いスペイン旅行だと言っていた。だから僕らのような長い旅をする人を尊敬するかのような態度を見せた。


 とりあえず僕ら3人は同じ部屋となったので、その日は一緒に飯を食べに行くこととした。レストランの食事だった。もしゃもしゃ君はあまり金を使いたくないようであったが、だいたいは2週間旅行のビギナー君が料理を頼んで、その分は彼が持ってくれた。

 なんだかいろいろな豚肉だかハムだかの料理を食べた気がする。特別うまいというわけではなかったが、この旅の中ではかなり「スペイン料理!」という感じのしっかりした料理だった。

 何を話したかはあまり覚えていないが、多分どこへ行って、どこがどうだったという話をビギナー君にしていたのだろう。僕ともしゃもしゃ君が互いにしてきた旅を語り、ビギナー君が来ているという構図だった。


 そんなこんなで僕は内にあった暗い気持ちを忘れることができた。

 二人に祖父の話はしなかったし、そんな重い話を旅行中の二人にしても仕方がない事はわかっていた。


『旅を続けよう』

 自分のしてきた旅を誰かに話したせいか、きっと自分がしてきた2ヶ月近くの旅がいかに深く大きなものになっていたか、そしてこの先の残された旅がいかに重要か、自分自身が気づいたせいかもしれない。

 僕はそんな事に気づき、気持ちを切り替えていた。


つづく

EmT.38 ロンダ

1999年11月20日、ロンダの夜はひどく冷え込んでいた。


 この頃の僕は酷くブルーで仕方なかった。きっといろいろな理由があるのだろうが、悪い時には悪い事が重なる。

 カサレスを出る日の朝に、僕は酷く悪い夢を見た。それはまだ当時元気だった祖父の夢だった。座椅子に寄りかかっていた祖父は、座椅子が急に後ろに倒れ、後ろの窓の外の庭まで落ち、コンクリートに強く頭をぶつけるという夢だった。祖父は酷く痛がり、苦しんでいた。でも家族は何もできずにただ祖父を見ていることしかできないという夢だった。


 きっといろいろな心の弱さ、風邪を引いていた事などもあって悪い夢を見たのだろうと、その時の僕は思った。



 だからロンダではその夢も忘れ、なるべく観光を楽しもうと思った。

 ロンダの街並みはイスラム圏というよりはどちらかというとヨーロッパ的な町並みだった事を覚えている。壊れたレンガの城壁等があった事を覚えている。

 ロンダでは、家族で経営しているペンションに泊まった。娘さんがレセプションをしていて、恥ずかしそうに慣れない英語で僕に話しかけてくれた。そんな事に僕は少しだけ心安らいだ。


 それでも夜になると、嫌な夢を思い出す。一人になった不安もあるのか、いろいろな事が落ち着かない。不安や恐れが強く、よく眠れない。前に一人になった時は、むしろゆったりと心地よく眠れたのだが、なぜだか今度はその反対の状況になっている。


 ロンダでの二日目は街を散策した。

 街には大きな闘牛場があって、開催はしていなかったが、見学で闘牛場内を観ることができた。一緒に闘牛博物館も併設されていて、赤いマントやサーベルなどが飾られていた。

 相変わらず僕は観光を楽しむ事が出来ず、一昨日の夢が頭から離れなかった。

 だから僕は実家に電話を掛ける事とした。当時は国際電話もかなり高かったので、それ程何度も掛けられない。イギリスで一度掛け、ヴェネチアで一度掛けた。これで三度目の実家への電話だった。


 電話に出たのは父親だった。

「ああ、俺、今、スペインにいる。こっちは元気だよ」と、僕は父親に言う。「そっちは元気?」と尋ねる。

「ああ、それなんだけど、実はじいさんがさあ・・・」

 それは祖父が脳卒中に合い、救急車で運ばれたという内容の話だった。

「いや急にどうなるって事はないんだけど」父親は続けた。「まあ、もう一回あったら、とかなると、な。今の所、安定してるから、大丈夫だけどな。こっち帰ってくるのは、後1ヶ月くらいか?」

「うん、12月17日に帰るけど、すぐに帰ったほうがいいかな?」

「いやあ、大丈夫だと思うけど。まあまた電話してくれ」

 父親は僕にそう告げた。夢は、虫の知らせだったのか、現実でも、祖父は頭を痛めていた。

 当時はネットも今のように普及していなかったので、連絡の手段は少なかった。ネットカフェとかもあったのかもしれないが、その頃の僕はその手段も知らず、高い国際電話での連絡手段しか知らない。だから祖父の状況を密に知る術はなかった。

『僕は旅を続けるべきだろうか?』

 そんな不安定な気持ちでロンダの街を歩いていた。その後、何を見たかさえ、僕には記憶がない。


 夜、ロンダのバルにいた。

 壁掛けテレビでは、フラメンコが映されていた。情熱のダンスを踊る女性を見ていた客のおじさんが感極まって、「オーレ」と叫び出す。そして手拍子を始める。ふとそんな光景に、僕は現実に戻された。どうしていいかわからないが、僕はスペインを旅していた。僕はスペインという国にいるんだ、と思った。

『この旅は、自分の人生を変える為の、僕にとっては、とても大切な旅。その為にここに来たんだ』


 ロンダの夜は冷えていた。店員の女の子が、「ムーチャスフリオ(超寒い)!」と気持ちをあらわにする。僕は気持ちを心の内に押し静め、ゆっくりとワインを飲んでいた。

 心も身体も凍えるロンダでの時間、1999年11月、スペインは大寒波に覆われていた。僕は何もかもがボロボロになってゆくのを感じていた。

 あの日あの時を思い出すと、今も僕は不思議な不安に襲われる。とても恐く、不穏な時間だった。


つづく