小説と未来 -30ページ目

EmT.52 ヨーロッパ→日本

1999年12月18日は千葉で目が覚めた。17日中に実家まで帰るための電車がなかったので、友人Hの友人の家に泊めてもらったのだった。


 12月16日、シャルルドゴール空港の免税店で、ワインやお菓子のお土産を買い、フランを使いきり、夜遅い飛行機に乗り込んだ。

 飛行機が飛び立つ瞬間、僕は何を思っていたことだろうか?もう何も覚えていない。ただどこか自信に溢れた自分があった気がする。あの時の瞬間、何を考えていたかは覚えていなくても、強い自信を持っていたという心だけが僕の中には残っている。

 飛行機はシャルルドゴール空港を飛び去った。大韓航空だったので、フランス人に、韓国人が多くいた。僕らの隣は韓国人のおじさんで、マイコチュジャンチューブを持っていた。機内食でビビンバが出て、それに付けていた。僕らもこれがうまいと言われて、それを頂いた。確かにおいしかった。

 機内では長く眠っていた。

 機内ラジオを聴きながら眠っていた。久々にJAPANESE POPを聴いてた。やがてDragon AshのGrateful dayが流れてきた。それがその時の自分の気持ちと重なって、なんだかとても感動した。10数時間のフライトだから、1時間に1回くらいその曲が流れるのを聴きたくて、ヘッドフォンを付けた。

『悪そな奴はだいたい友達』ってそこは重ならないんだけど、、、。

 20歳になって、22歳、大学を卒業して、これから自分で生きてゆく。その為の第一歩を踏み出すために、ヨーロッパの旅があったのかもしれない。一歩踏み出す希望、その瞬間は僅かしか感じられず常に感じていられるわけではない。あの時、あの瞬間に飛び出したエネルギーはその後何度海外旅行に行っても得られるものじゃない。

 暗い気持ちで行き詰っているその時に旅に出る。そこにだけにしか感じられない希望がある。その瞬間、心から生きてきた喜びを感じられる。

 そんな力が僕の中に湧いていた。


 日本へ帰る。

 ソウルを経由し、夜遅い時間に、飛行機は成田空港に着いた。87日ぶりの日本の地はとても静かだった。

 成田空港から千葉中央へ。友人Hの友人が車で迎えに来てくれて、そのアパートに泊まった。土産話を散々して、その夜は過ぎた。


 翌日、実家へと帰る。

 電車に乗ってゆくと、当然の事だけど、電車に乗っているのはほとんど日本人だ。全員が日本人かもしれない。韓国人や中国人が数人混ざっているかもしれない。でも白人も黒人も見られない。ここは日本、日本人だらけの日本の国だ。ヨーロッパとは違う。なんだかふとその事が少し寂しく思えた。フランスから電車に乗ってゆけば、ドイツにもスペインにも、イギリスにも、ベルギーやオランダにも行けた。イタリアにスイスもある。でも、日本は電車に乗っては日本の中でしかない。だからなんだか日本が寂しく思えた。

 旅立つ前、いろいろな日本社会がとても大きく思えて恐かった。いろいろな事が恐く、僕は臆病だった。たくさんの人込みも嫌だったし、たくさんの人間関係も恐かった。

 でも旅から帰ってきた僕には、この日本がとても小さく思えた。日本人だらけの人込みも家にいるように恐さを感じない。日本人通しなら日本語通しで話が出来る。話し合える。僕はいろいろな事が恐くなくなった。自分自身が大きくなったわけでも、日本社会が小さくなったわけでもない。ただ僕が大きいと恐れていた日本社会が幻だっただけだ。そして自分が小さいと思っていた自分自身も幻だった。

 社会はそんなに大きくないし、僕はそんなに小さくない。実際社会は大きいかもしれないが、それまでに僕が思っていた社会の大きさはもっととてつもなく大きいものだった。だからとても小さく思えた。

 これは頭で理解できるものじゃない。経験し感じることで身体が覚える。

 時々今でも僕は小さくなり、いろいろな事が恐くなる時がある。でもそんな時はまたヨーロッパから帰ってきたあの時の感覚を思い出す。すると恐いものが小さく見えてくる。


 人それぞれ経験する事、感じる事は違うだろう。この間、友人Hとヨーロッパ旅行での話を久々にした。改めて話すと、彼が得た経験は『貧乏は嫌だ』という事だったらしい。そう思うと、少し金遣いが荒く思える点も、出世をしていく生活も頷ける。

 あの経験が僕らを自分らしい方向へと導いた。もし経験しなければ、今も僕らは僕らの進むべき未来に迷っていた事だろう。

 その後の人生が順風満帆だったかというと決してそんな事はない。僕らは何度も人生に打ち砕かれ、嫌になるたくさんの経験をしてきた。今だって、決して思い通りの人生を歩んでいるとは言えない。だけど僕らは確実に自分らしいやり方を身につけ、諦めることなく前へと歩んでいる。あの経験がなければ、こんな事はできなかったろうと思えるたくさんの事があるように思う。いや、絶対にたくさんある。


 僕らはあの日以来、自分らしい道を歩んで進んでいる。疲れたら休む時もある。でもしないという事で悪くなってゆくだけなら、僕らはする。時々無茶な事もできる。だって社会は小さなものだと僕らは知っているから。迷ったらまたあの日に立ち返る。そして次へと歩んでゆける。身体が覚えている。12年後の今でも変わりない。一生の中で一度得た大きな経験は僕らの力になっている事は間違いない。


 もう何も言う事はない。さあ、今も旅の続きだ。次の街へと出かけよう。次の街では何が待っているだろう。ウキウキドキドキワクワクしてくるだろう。今も僕らの旅は続いている。


おわり

EmT.51 パリ~シャルル・ド・ゴール空港

1999年12月16日、ヨーロッパ放浪旅行最後の日を迎えていた。


 話は12月13日に戻る。

 友人Hとは、ルーブル美術館の近くユースホステルで再会した。5日ぶりの再会、ここまで来ると、当然の再会で安堵感とかも特になかった。たとえはぐれても、数日後には帰りの飛行機で再会していただろう。

 そのユースは綺麗なユースホステルで、予約を入れていなかったら泊まる事の出来なかった人気の場所だった。今回の再会はそれも決めていたので、確実な再会ではあったわけだ。


 翌日12月14日は、ルーブル美術館に行った。

 友人Hはモネだのピカソだの、パリでの5日間、有り余った時間でいろいろな美術館に行っていたそうだ。ロンシャン競馬場に、新凱旋門、確かにパリに長く過ごしても飽きることはなかった。カルカッソンヌで出会った女の子も2週間パリのみの旅行をしたと言っていたのがパリにいるとそれも理解できる。

 ルーブル美術館はとても広い。適当な気持ちで2時間程度観て回れば良いだろうと考えていたが、その考えは甘かった。あまりに広くて、1/3も観て回れなかった。モナリザだけは観ておこうと、そこには行った。いろいろな絵に比べて、モナリザはとても小さな額縁に収められていた。パーティー会場か!というくらいの広い部屋に、たった一つモナリザの小さな絵が飾られている。その周りはたくさんの人だかり。僕らは10mくらい離れた場所から絵を観て、あああれがモナリザかと思って、ルーブル美術館を後にした。


 その日はモンテパルナスの方にあるユースに泊まった。綺麗じゃないユースホステルで、男女の隔てのないユースだった。だからといって何があったわけでもないが。

 12月15日、最後の日はホテルに泊まることにして、朝からホテルに移動した。

 そしてそこを拠点に出掛けた。もう大してやることもなかった。友人Hは最後まで靴に拘り、最後に革靴を買い、僕はジーンズに拘り、ビンテージもののリーバイスを買った。

 細かく言えばたくさんの出来事があっただろう。だけどもうその全てが満足で終っている。僕と友人Hの旅はすでに終結していた。だから最後の3日間の思い出は記憶としてはもうすでに大変薄いものとなっていた。


 ホテルに泊った翌日、最後に僕らはピカソ美術館に行った。友人Hは2度目だったが、これがなかなかおもしろかった。ピカソというと左右非対称の顔の絵を思い出すが、意外と作風は年を重ねる毎に変わっている。若い頃は意外と普通の絵で、途中は美女と野獣的で、一部葉っぱに穴を開けた訳のわからない芸術があり、それであの左右非対称の顔や独特の絵が出てくる。

 その一連の流れはとてもおもしろいものに思えた。

 日本に帰ってから、僕はそういった抽象画が好きになった。そのピカソ美術館に行かなければそんな事もなかったかもしれない。


 1999年12月16日、パリの中心地からシャルル・ド・ゴール空港に向う。

 すでに夕暮れを過ぎていた。パリからの飛行機は夜発で、日本には夕方に着く予定、時差があるが20時間の長いフライトとなる。

 空港で、実家に帰るための電話を入れた。祖父は無事で、近々老人ホームに移ることが決まったそうだ。とりあえずは一安心だった。


 12月16日、僕は最後の日、日記にこう綴っていた。

「するという事には勇気がいる。するという事でいろいろな事が変わってしまう。でも、しないことでは何も変わらない。今がいいのならしない事もいいだろう。しないという事で悪くなるだけなら、するという事。もしした事で悪くなってしまってもしない事で徐々に悪くなっていくよりはいい。だからするんだ。もし少しずつ悪くなっていくのならすればいい。その事がとても大切だという事がわかった」


 旅に出た事で何が変わっただろう。きっとたくさんの事が変わったんだけど、何がどう変わったのかはわからない。自分の性格は急激に明るくなったわけでもないし、素晴らしい芸術的感性を会得したわけでもない。

 人は3ヶ月の旅程度では、そう大きくは変わらない。でも旅に出たきっかけは僕を前へ進ませる大きな第一歩となった。もし、何もしなければ、たくさんの不安も味わうこともなかったかもしれないが、たくさんの喜びに出会うこともなかっただろう。いつもの中にいればいつもしている事をすればいい。そこには不安もないし、大きな勇気も必要ない。でもいつもと違った場所に立たされたとき、何かをしないとどうにもならない状況に置かれる。その時、僕は行動に出た。誰かが助けてくれるのを待っている暇はない。野宿もしたくないし、行き先を間違えるのも嫌だ。だから僕はそうならない為の行動に出る。ぼったくられるのも嫌だし、騙し取られるのも困る。だから僕はそうならない為に戦わなくてはならない。

 ずっと日本の平和の中で育ってきた。だから僕は忘れていた。

 自分の身は自分で守らなくてはならない。

 僕らは時々その行為に過敏になりすぎていた部分もあったかもしれない。いざとなったら、大使館やなにやらに逃げ込むとかいう保護法方もあるのだから、大丈夫といえば大丈夫だ。だけどそればかりを頼りにしてはいけない。

 自分で生きてゆくという事、でも、たくさんの人が僕らの味方にもなってくれる。道を聞けば教えてくれるし、時々話しかけてくれる人もいる。いろいろな思惑もあるかもしれないが、僕らはそんないろいろに救われながら前へ進んできた。

 確実に僕らは生きてゆく為の術を拾得していた。それは普段の生活というわけではなく、いざとなっても生きていける方法だ。僕らはきっとたくましくなっただろう。それは目に見えない力だけど、その力は今もどこかに備わっている。


 パリ、シャルル・ド・ゴール空港で、僕らは確かに余裕を持って生きていた。不安はもうない。この先の未来も、過去の事も忘れ、充足していた。全てが終る。燃え尽きて、眠りつく時を待っていた。


エピローグへ続く。

EmT.50 ブリュッセル

1999年12月13日、オランダ~ベルギーの小旅行を終え、再びパリに戻ってきた。


 話はまず、12月11日に戻る。

 アムステルダムを出発して、列車でブリュッセルに向かった。

 ブリュッセルの駅に着くと、僕を待っていたのはマイクベルナルドみたいなドイツ人だった。そのスキンヘッドのごついドイツ人はなぜだか僕に道を聞いてきた。

「やあ、グランプラスに行きたいんだけど、知っている?」

 もちろん着たばかりの僕が知るわけもない。だから知らないと言うと、「そうだよな。でもそっちへ行くんだろう?よかったら一緒に行ってくれないか?」と言う。

 なんだかわからないが、きっと同じ旅人なんだろうと思い、「OK」と言った。


 とりあえずベルギーフランもなく一文無しだったので、銀行で下ろす事とした。銀行は駅のすぐ側にあり、僕はATMですぐにお金を下ろした。ベルナルドはそれを待っていた。

 銀行から出てくると、ベルナルドは急にこんな話を始めた。

「いやあ、僕はさっきまでアントワープにいたんだけど、街を歩いていたらお金を落としてしまってね。今は一文無しなんだよ」

「それは、大変付いてないね。すぐに警察へ行こう」と僕は返す。

「いや、警察は、今日閉まっていたんだ。よかったらお金を少し貸してくれないか?実は今日中にコペンハーゲンに行かないといけなくてね。実は困っていたんだ」

 どう考えても信じられるはずがない。面倒な奴に引っかかったものだと思った。しかもベルナルド。駅近くで人通りは多いのでいきなり強奪してくることはないだろうが、実に面倒だ。

 とりあえず僕はこう答える。

「僕も旅の終りでもうお金が残っていないんだよ。貸してあげるお金がないんだ」

「なんだ。僕を信用していないのかい?本当にお金を落としたんだ。今日中に何とかしないと大変なんだよ。カードを持っているのか?番号を教えてくれれば後でそこに振り込むから」

「いや、本当にお金がないんで」

「なんだよ!なんで貸さない!ドイツ人はみんないい奴だったろう!どうして信じない!」

 いきなり逆切れだ。

 ドイツ人は確かにいい人が多かったが、おまえは別だ、と言いたい。

「ダメなものは、ダメなんだ。警察へ行こう」と、とりあえず優しく言う。

「なんだよ!このケチ野郎!Fu○○ you!」

 この言葉は!外国人まじFu○○ you。何たる衝撃だろう。まじで言われると、心に響く。頭にくるというか、悲しい。心臓が痛い。衝撃的瞬間だった。

「そうだよ、ケチでいいよ」僕はもう投げやりだ。

「Fu○○野郎、グランプラスはあっちだ!好きに行け!」

 何だよ。グランプラスの場所知ってるんじゃんか。という落ちで、ベルナルドは無事に去っていった。


 しかししばらくブルーだった。Fu○○youが心の痛みとして残る。冬で寒いし、ブルーだからグランプラスを歩いても楽しくない。だからすぐに中心地から離れたユースホステルに地下鉄で移動した。


 ユースで待っていたのは、日本人っぽい若い男だった。

 僕の部屋と一緒で、荷物の置き場を気にして僕に謝ってくる。「ソーリー、アイムソーリー、アイキャントスピークイングリッシュ」と頭を下げる。やけに腰の低い男、しかも僕を見て、英語は喋れないと来た。

 だからとりあえず、「ホエアーアーユーフローム?」と尋ねる。

「サウスコリア」と若者は答えた。

『ああああ、なるほど』と思う。

 だけど、僕はそんな韓国人のⅠ君と仲良くなった。

 その日はユースで、ドイツ人とビリヤードをやったりして、一日が過ぎ去っていった。


 Ⅰ君とは、翌日12月12日、一日を共に行動した。

 Ⅰ君はキリスト教徒で、12月12日は日曜日だったので、ミサの日だった。僕はⅠ君とブリュッセルにある教会でミサに参加した。結婚式みたいに賛美歌を歌って、牧師の話を聞いて、最後にはパンの切れを食べる(僕はキリスト教徒でないので食べはしなかった。キリストの肉という事らしい)。

 もともとⅠ君は巡礼の旅に来たらしく、ベルギーやヨーロッパの国を回った後は、イスラエルの方に行くと言っていた。

 これがキリスト教か!?という経験をして、その後、昼飯に出掛けた。Ⅰ君はお金をあまり持っていなかったので、店に入ることを拒んだ。だから僕はⅠ君におごってあげた。チキンか何かを食べた。

 それからグランプラスの広場に出掛けた。広場はクリスマスまで、クリスマスのためのリーフやら食料やらを売る露天でいっぱいになっていた。そこで飲んだホットワインはおいしかった。

 最後に小便小僧の前で、Ⅰ君と一緒に記念撮影をしてからユースに戻った。二人の旅行は楽しい。

 ユースに帰ると、また別の韓国人が二人いた。その二人はビジネスで、30代くらいだった。Ⅰ君のように腰が低いわけでもなく、腰が低いのは韓国人の特徴ではなくⅠ君の性格なんだという事を理解した。

 そしてそのⅠ君にコリアンラーメンをご馳走になった。例のあの辛い奴だ。麺を食べて、最後にご飯を入れて雑炊にする。これが韓国風の食べ方だそうだ。ご飯を白米で食べていたら、そうじゃないと言われ、辛いラーメンの中に入れられてしまった。それはそれでうまいが、辛さを和らげるご飯が欲しい。それが日本人の食べ方って感じだろう。


 そんなわけで、ブリュッセルに着いたときのベルナルドも忘れ、楽しいブリュッセルの時間が過ごせた。

 12月13日朝、ユースホステルを出て、駅へ向かう。Ⅰ君と二人の韓国人も一緒だった。地下鉄で共に駅まで言った。「別れの言葉は韓国語で何だ?」とⅠ君に聞くと、「韓国では、別れも何も挨拶はアンニョンだ」と教えられた。それで、「アンニョン」と言って、韓国人と別れた。

 あれから12年、Ⅰ君は今はどうしているだろう?当時彼女がいたからきっと結婚して、いいお父さんになっているんだろう、と想像する。


 そして列車に乗ってブリュッセルを離れる。パリから来たときとは違うルートを使おうとして、普通列車で移動した。モンスという駅まで移動すると、その先は11時から16時まで列車がないという。

 とんでもないルートだったので諦めた。その街にあるレストランで、ベルギー料理のクロケット(ベルギーのコロッケ)を頂いてから、結局タリス(新幹線)に乗って、パリへと向かった。タリスに乗らないつもりだったので、特急代で帰りは珈琲も飲めないほど金がなくなってしまった。

 なんとか残っているお金で、タリスの車内販売で、ベルギーワッフルを買おうとした。しかしお金を払おうと思ったところで数円くらい足りない。僕が困った顔をすると、売店のおじさんは「いや、これでいいよ」と言って、ワッフルを渡してくれた。日本ならこうはいかないだろう。ベルギー人のゆとりを感じる。


 12月13日、夕方、パリのノール駅へと戻りつく。

 僕の最後の小旅行は終った。後は日本に帰るだけだ。この旅で、僕は少しは成長できただろうか?考えてみるとヨーロッパにいても異国の人と共に行動する時間はブリュッセルまでなかった。韓国人とは言え、異国の人と共に行動する時間を過ごせたことは僕にとって大きな成長があったためだろう。

 きっと僕は成長している。どこかにやり残した気持ちはあるが、この時の僕は最後の旅行に十分満足していた。しかし本当の満足に至らなかったため、この数年後、僕はメキシコ一人旅に出ることになる。その話をする予定はないが、この旅が僕の未来を、ある方向へと進めた事は確かだろう。

 ヨーロッパ旅行、残りはパリの3日間となる。


つづく

EmT.49 アムステルダム

1999年12月10日、アムステルダムに満足して心地よい眠りに就いた。


 12月8日、パリのガールドノールを出発する。2ヶ月半前、イギリスから辿り着いた場所に懐かしさを感じながら、僕は最後の旅に出掛けた。


 TGVのタリスに乗って、アムステルダムに着いたのは夕方4時だった。そこからアムスの路面電車トラムに乗って、ユースホステルに向かった。

 新しくて綺麗なユースに着いた。日本人の女性がいたが、何となく話しかける気にならなかった。旅人と旅行者の違いを感じたせいか、なんとなく違い種類に感じられたのだと思う。


 夜になって、アムステルダムの街に出た。どこかでオランダビールでも飲もうと思ったが、なんとなくスペインのバルのようにすっと入る気になれないので、結局ケバブを食べて、ユースに戻った。ちなみにこの頃僕はケバブを知らなかったので、なかなかうまいオランダのジャンクフードかと思っていた。

 まあいろいろ勘違いはある。


 翌日、僕はアムステルダムの街をトラムに乗って散策した。トラムの回数券を買っていたので、出来る限りつかってやろうと考えていた。

 アムステルダムは運河の街であちこちに運河があり、水の都と行ってもおかしくない。ヴェネチアとは違い、現代的な水の都、僕はこっちの方が好きだと感じる。

 デパートに入っていろいろ見ている中で、絵葉書に目が留まった。芸術的な感じやエロティックな感じが混じっていてなんとも刺激的だ。日本なら発禁になりそうな、もしくはモザイクでも掛かってしまいそうな絵や写真もどうどうと売られている。自由な感じでグッドだ。僕は気に入った絵葉書をいくつか買った。ちゃんと日本に堂々と持ち込める絵葉書だ。

 さらに街を歩く。日本では裏ビデオも、オランダの路地で堂々と?売られているし、ちょっと狭い路地だがマリファナ喫茶もあった。しかもよく日本人が来るのか、日本語で「マリファナ」と書かれていた。

 自由の国オランダを感じる。規制は自分のモラルで行うものという事だろう。一方では「薬物排除しよう!」みたいなポスターが貼られているのも見る。主張も自由だ。

 街はトラムに、運河に、自転車専用道(オランダは信号のある自転車専用道があり、僕は気にしなかったら一度自転車に引かれそうになった)がある。なんとも綺麗に造られた街で僕はとても気に入った。


 そんなオランダを歩いて、楽しい気分でいた。その日は土産を買おうと、お土産屋に寄った。どこも似た感じだったので、なんとなくここでいいかと思うところで土産を選んだ。

 しかしそれが失敗だった。土産屋には値段のあるものとないものがあったが、まあいいかと気にせず選んだ。レジに持っていくと、値札の付いているものはその値段で打つが、ないものはなんだか高く感じる。

「それは合っているのか?」と僕が尋ねると、アラブ系の口髭男は再びレジをたたき出した。

 すると、むしろ高くなっている。

「これが正しい」

『ふざけるな!』と言えばいいのだが、気の弱い僕はそのまま払ってしまった。

 なんだかすっきりしないまま、たくさんのお土産を持って、僕はユースに戻った。『まあ、ばか高いわけじゃない。そんな事を気にするな』と自分に言い聞かせる。

 しかし眠れない。『結局僕は、ダメだな』と悔いた。


 12月10日朝、僕は朝早く、街へと出た。その日はアムステルダム周辺の町へ行くつもりだった。しかし僕の心はすっきりしない。重く嫌な気分、アムステルダムの街を歩き、トラムには乗らずに駅へ向かう。途中に昨日のお土産屋がある。

 僕は決めた。だめもとでもいい。気分を変えたい。


 昨日の土産屋を訪れる。だめもとだったが、高かったものについて話をする。

「昨日のあれは高かった。あんなにはしないはずだ。返すから、金を戻してくれ」

 土産屋のアラブ人は僕の事を覚えていたがそれには応じない。

「代わりにこれと交換する」と言って、少し良さそうなTシャツを持ってくる。僕が買った帽子と取り替えようとする。僕はそのTシャツは要らないので、「じゃあ、選ばせてくれ」と言ってみる。

「わかった」と彼は言う。

 だから僕は良さそうなTシャツを選んで、それと交換した。さらにトランプが3倍くらい高かったので、その事を言う。

「わかったよ。好きにしろ」と言うので、良さそうなTシャツを選ぶと、「それは勘弁してくれ」と言われたので、折り畳み傘で勘弁してあげた。雨も降りそうだったので。

 もう一人いたアラブ人はなんだか頭を抱えていたように見えた。僕はなんだかすっきりした。昔ならあきらめてしなかった。旅の初めなら間違えなくあきらめていただろう。

 僕は失敗を取り返せるかチャレンジしていた。失敗はしたけれど、僕はやり直すことが出来ていた。


 そして気分も良くなり、小旅行に出た。

 デンヘルダーという町に行く。そこは陸より海が高い。オランダの大堤防は海水の浸入を防いでいる。それを見たくて行った町だ。確かにそれしかなかったが、でっかい堤防に囲まれて、海の方が高いのを見ることができて満足した。

 それからオランダ風車があるハーレムという町に寄った。春ならチューリップに風車というオランダらしい風景の見られる町だが、冬だったのでチューリップ畑は土色をしていた。遠くに風車を見ると、「ああオランダに来たな」という気になったので、それだけで帰る事とした。

 そこでは一人の少女が僕に何かを話しかけてきた。なんだか顔色が悪い。僕はふと思った。きっと薬物を売っているんじゃないだろうか?と。ドラッグの規制、確かに何からかにまで自由では、まだ理性の低い若い子は守れない。やはり最低限の法は必要なのだろうと感じる。その子が何をやっていたかはわからないが、そんな事をふと感じて、僕は再び少し嫌な気分になった。


 それでもアムステルダムに帰ってきた時には忘れてしまった。綺麗なアムスの街並を見ていると心地よい気分になってくる。

 ユースまで戻った。初日から忘れていたので、ユースのカフェテリアでオランダのハイネケンの生ビールを飲んだ。確かに向こうのビールは冷えていないが、泡がもこもこしていてなかなかおいしかった。

 それで満足。僕はきっと旅の中で変わったのだろう。

 失敗したらやり直せばいい。たったそれだけの事だけど、それだけの事が出来るようになった事が僕にとってはとても大きな経験となった。

 人は変われる。僕はそう思う。


ベルギーへ、つづく

EmT.48 友人Hのモロッコ外伝

1999年12月8日、僕はオランダにいたが、オランダに来たのは友人Hのモロッコ話を聞いた為でもある。彼の一人冒険記は、その間スペインのアンダルシアでダラダラと過ごしていた僕の心を刺激した。

 というわけで、話は1999年11月17日まで戻り、17日から25日までの「友人Hのモロッコ旅行」について、少しだけ触れてみたいと思う。


 友人Hの話だからあまり多くは覚えていない。自分の記憶さえ定かではないのだから、他人の旅の記憶まで覚えているわけがなくて当り前かもしれないが、それでもその話はセビーリャでの再会後、何度も聞いた話だから深い記憶として刻まれた。

 しかしその記憶もだいぶ薄れた。覚えている限りの話をしよう。


 モロッコには、スペインのアルへシラスという町からフェリーで30分ほどで渡れる。特に観光ビザで入れるので、パスポートを差し出せばすんなり入れたと言う。

 初日はまだアルヘシラスだった。友人Hは浮浪者のようなおじさんに会ったという。そのおじさんは金はたんまりと持っているのだが、わざと金のなさそうな身なりをして、世界中を放浪しているそうだ。本当かどうかは知らないが友人Hはそう言っていた。

 そしてその放浪おじさんに無料の食堂を紹介された。付いていくとそこは浮浪者のための配給施設だった。まあ無料だが、、、、ですね。飯はまずくはなかったらしい。

 そんな一日目の出会いの話から、友人Hの話は始まった。


 モロッコに渡り、最初に出会ったのは子供達だった。どんな子供達かといえば、「マネープリーズ」というような極貧の子供達だ。インドを旅した人がそんな話をしていたが、モロッコも同じようだ。貧しい人間が多い国だと言う。またマリファナを吸う人間も多く、昼間から路上の脇でラリっているダメな人間もたくさん見たとの事を聞いた。モロッコはインドのような国という印象が出来た。

 そんな貧乏小僧を振り切り、やってきたのはタンジェという町。地中海沿いの町だが、やはりヨーロッパとは違う独特の雰囲気を感じたそうだ。イメージは殺風景という感じだろうか?きっとそんな感じだろう。同じ白い家の集落でも何かが違うらしい。

 友人Hはすぐに子供達に囲まれてしまうので、一人のガイドを雇った。一人雇うとそのガイドの少年少女が近づくものを追い払ってくれるようだ。

 そして彼は数日間をタンジェで過ごした。


 安っぽい物騒なホテルに泊まったそうだが、どこも同じ感じだったそうだ。

 毎日同じ食堂に行って、毎日同じバーに行く。友人Hも僕と比べてさほど大冒険旅行をしていたわけではないのだが、その雰囲気一つ一つがヨーロッパとは違い新鮮だった事を熱く語っていた。

 食堂ではアブドゥーが二人いて、店主はウエイターのアブドゥーを呼んだり、厨房のアブドゥーを呼んだりするのだが、どちらのアブドゥーも間違えずに返事する。そんな食堂に通い、いろいろと仲良くなったという話をしていた。バーだかなんだかでは、女の子を紹介され、紹介した男がその女の子との結婚を勧めた、みたいな話をした。アラビア美人だったらしいが、さすがにそれは断ったそうだ。

 モロッコではお金のある日本人がもてるのだろう。


 ある日の話、友人Hはいつものように夕飯を食べて、ホテルに帰ると、誰かにつけられた。最初は気にしないようにしていたが、ホテルに戻っておとなしくしていると、つけてきた何者かはドアをノックしてきた。ホテルの従業員でもなさそうだし、彼を訪れる人物がいるはずもない。そう思った彼は無視をしていたが、ノックはやまない。きっと開けた瞬間に殴りつけられ、物を盗まれると思った彼は、ドイツで買ったナイフをバックから取り出した。

 そしてナイフの刃を出して、いつでも切りつけられる準備をして、ドアの内鍵を外した。かなりドキドキ、びくびくだった。ドアノブを開く。そしてナイフの刃を向ける。

 そこに立っていたのはレストランの店員だった。

「あの、食事代を」と言われた。

 友人Hは飯を食った後、そのまま金を払わずに帰ってきてしまったそうだ。すでになじみで泊まっているホテルを知っていた店員が彼の部屋までやってきたのだという事に、そこで彼は気づいた。

 僕も時々思っていたが彼の物忘れは時々困らされる。まさかモロッコ人まで困らせているとは思わなかったが。


 数日後、友人Hは内陸の街、フェズへと移動した。

 フェズは内陸の町で、彼はせっかくだから砂漠を目指そうと思い、まずはそこまで行った。フェズにはメディナと呼ばれる狭い路地が迷路のように入り組んだ場所がある。そこに迷い込んだら土地を知らない人間では二度と出てこられない。と友人Hはガイドに雇った少年に言われたそうだ。

 だから路地には奥まで入り込まなかったそうだが、彼はその路地にぞくぞくと恐れを感じたようだ。その話も僕の心には強く残っている。

 アフリカの移動はバス。しかもヨーロッパのように道が良くないようで、散々疲れたことを言っていた。後でけつが痛いと言っていたのもこのせいだったのかもしれない。

 砂漠は岩砂漠だった。いわゆるあの砂の砂漠でなく、まださらさらにならない風化した岩の大地だ。それはそれで何もない風景を感じることができたのだろう。砂の砂漠はかなり南の方まで行かないとならないらしく、それはあきらめて、彼は戻ってきた。


 それから、カサブランカには行ったと言っていただろうか?それ以外の事はあまり覚えがない。

 そんな風にして友人Hはモロッコで1週間程度を過ごした。彼の彼らしい旅行に思う。確かにヨーロッパに比べたらカルチャーショックが大きそうだ。友人Hが感じたその全ては一緒に旅行していた期間ではなかったようなエネルギッシュな話だった。

 僕はそんな話を聞いて、このままでいいのかと思った。自分も何かを感じなくてはいけない。そんな思いに強く駆られた。モロッコには行かないけれど、僕は僕なりにどこかへ行きたいと思った。そして選んだ結果、オランダとなった。結局はヨーロッパだけど、最後の一人旅、僕ももう少し何かを得て成長するにはそこしかないと思った。


 11月25日、モロッコから帰ってきた友人Hと僕はセビーリャで無事再会した。そして12月8日、今度は一人パリを離れ、オランダへと一人旅に出たのだった。


つづく。