EmT.47 パリ カルチェ・ラタン~オペラ・ガルニエ
1999年12月7日、僕らはパリで買い物を楽しんで、満足のいく一夜を迎えていた。
12月5日、マドリードからの夜行に乗って、スペイン・フランス国境の駅、ヘンダヤに辿り着いていた。静かな寒い朝を迎えていた。
駅で会った日本人はビジネスでスペインへやってきたと言う。ラフな格好なのでどんなビジネスかと尋ねたら、Tシャツの商売をしていると言う。スペインにおしゃれなプリントのTシャツを買い付けに来たのだと言う。
「なるほど」と、僕は理解する。
そんな事もありつつ、国境を過ぎ、フランスからはTGVで一気にパリへ向かう。途中停車駅はボルドーのみの直行便だった。前日の夜は狭い席で眠れなかったので、TGVの倒れる座席ではぐっすりさせてもらった。
パリに着いたのは、夕暮れ時だった。パリのモンパルナスからリュクサンブールに歩いていると日はすっかり沈んでしまった。
僕らはソロボンヌ大学近くのホテルに一泊する事にした。久々のベッドはふかふかで心地よかった。
夜、一人歩いていたら迷子になった。ちょうど歩いていた二人組みの女の子に英語でソロボンヌ大学はどこだ?と聞くと、笑顔で教えてくれた。「道をずっと行くとGAPがある」と言って、最後に日本語で、「ひだり」と言われた。日本語が出てきたので、びっくりした。フランスには親日家が多いと聞くが、可愛らしい女の子に言われると嬉しいものだ。僕は笑顔で、「左ね。メルシーブークー」と言って、ホテルの方向に帰った。
翌日12月6日はゆっくりとした朝から始まり、ホテルからカルチェ・ラタン付近のユースホステルへ移動した。
ホステルに荷物を置くと、僕らはセーヌ川沿いをエッフェル塔目指して歩いた。ずっとダラダラ歩いて、途中で遠くにエッフェル塔が見えると、行かなくてもいいか、という意見で一致し、また別の場所へと歩いていった。
僕らは長い旅の話をしながらただひたすら歩いていた。確かムーランルージュの方へ行って、やがてシャンゼリーゼ通りに出た。途中、カフェに寄ったりしながら長々歩いていたら日が暮れた。
最後はカルチェ・ラタンのレストランに寄って、山盛りのムール貝を頂いた。おしゃれでお高いフレンチのイメージと違う庶民派のフレンチだった。日本にはなぜ庶民的なフレンチがないのか、それを残念に思う。
ユースに一泊して、12月7日、僕らは買い物をする事とした。当時は1ユーロ105円くらいだったし、ユーロ対フラン等みたい部分もあって、円はかなりお得で、僕らが予想していたよりも多くの残高となっていた。
だから僕らはその余剰金で好きなものを買うこととした。冬のフランスはとても寒かった。だから僕はコートを買うこととした。
昨日歩いたポンピドゥーセンターの辺りに来て、それからシャトレーの駅に着いた。駅ビルにはいくつかの店があり、そこに僕の欲しかった黒いコートがあった。黒いセミロングのコートで、スペイン人の若いお父さんが着ていたのを見て、マドリードの頃から欲しいなあと思っていたものだった。ファッションにも特に興味はなかったが、パリに来て、その趣味も少し広がった気がする。それでもパリの人は日本人が思うほどおしゃれなわけではない。みんな結構古着のジーンズとかで、東京の渋谷を歩く女の子のような格好をしている子はいない。どちらかといえばマドリードの方が黒いミニスカートだった。だからパリに来て電車に一人乗っていた日本人の女の子が赤い派手な服を身にまとっていて一人浮いていた。近くでフランス人のお兄さん達がそれを見て笑っていた。フランスではシンプルに、自分なりにおしゃれをするという事らしい。
だから僕はコートを買ったが、友人Hはオペラガルニエのデパートで高めの服を買おうとしたのだが、父親のプレゼントか?と聞かれた。自分のものだと友人Hが答えると、それはまだ君の年齢には似合わないと言われてしまった。日本ではブランドのバッグを持ち歩く若い日本人の子がたくさんいるが、たいていのものはフランスではおば様が持つようなアイテムであって、若者は若者向けの安めの服屋でおしゃれをする。
その後、友人Hが何を買ったかは忘れてしまったが、僕はさらにフランスのユニクロみたいなお店で、マフラーとセーターを買った。これで冬装備は十分となった。
オペラガルニエから東へと歩いてゆくと、日本人街に出た。通りにはすし屋だのなんだのがあって、なんだか落ち着ける雰囲気だった。歩いていると、日本人のマダムが僕らに話しかけてきた。
「あなたたち留学生?この辺りに住んでいるの?」みたいな事を聞いてきた。
「いいえ、旅行者です」と答える。
「そう?そうは見えないわね」と言われる。
僕らは3ヶ月の長旅である事を答えると、少し納得したようだった。僕らはすっかりヨーロッパになじんでしまっていて、他人目にもそう見えるようになってしまっていたようだ。
そのマダムが何のようで話しかけてきたかは忘れてしまったが、この近くで宝石店か何かを営んでいた人だった。「よかったら後で寄っていって」みたいな事を言っていた気がする。多分場違いだったので寄らなかったと思う。そして僕らはうどん屋でうどんとおにぎりを食べた。2ヶ月ぶりの日本食だった。米は恋しくなった時によく中華で食べていたが、油のないお米は久々、やはり僕は日本人だな!と思った。米が一番合うのだ。
そんな風にして一日は過ぎていった。
僕らがユースに戻ると、僕らの部屋に知らない靴が置いてあった。30cm以上はあるでかい靴だった。そして友人Hのベッドの袖机に「はーい、僕アンドレ、よろしくね」みたいな英語の文が残されていた。
アンドレ、どんなでっかい奴が現れるんだろう。と僕らは恐れたが、その日、アンドレは現れなかった。
僕は翌日、パリを旅立つ。僕には最後の旅、オランダ旅行が残されていた。友人Hはいろいろとお疲れで、もうやる気もなかった。パリについての3日間も主にモロッコ話ばかりを聞かされた気がする。だから僕はオランダへ行かないわけにはいかない。なんだかわからないけれどこのまま終るわけにはいけないのだ。友人Hに語れるような物語を、僕も僕で作って帰らなくてはならない。そんな気持ちにさせられて、僕はオランダ・ベルギーの小旅行をする事となる。
アンドレには会うことなく、僕はオランダへと旅立った。
つづく。
EmT.46 マドリード
1999年12月4日、マドリードを出て、国境の町ヘンダヤ行きの列車に揺られていた。6人座席に腰掛け、背もたれを倒すことも、わずかに動くことも、出来ない列車で、とても眠れる状態ではなかった。
本来なら、12月3日の朝、リスボンを出た夜行列車がマドリードに着いたその日に、そのままマドリードには立ち寄らずにパリを目指して乗り換えの列車に乗っているはずだった。しかしどの列車もいっぱいで、僕らが手にすることが出来た切符は、その12月4日夜発の列車のみだった。
僕らにはマドリードに立ち寄りたくない理由があった。ここまで来るまでに出会った日本人がマドリードで危険な目に合っていた。もちろん全ての人がそうだったわけではないが、記憶に残る嫌なイメージがすでに残っている。
ある人は、ホテルに入ろうとした瞬間、殴られて意識を失い、全ての荷物を盗まれたと言っていた。
またある人は、ナイフを首に突きつけられ、財布を脅し取られたと言う。
しかもマドリードの駅では雪が降っていた。酷く寒かった。スペインには大寒波が押し寄せていた。
そんなマドリードには寄りたくなかったのだが、列車もないのでしかたなく一泊する事となった。
駅では、少年達が逃げ回っていて、警官が追いかけていた。何をやったのかわからないが、普通におかしな状況だ。しかしスペインの人々は当り前のようにしている。きっと日常茶飯事なのだろう。
地下鉄に乗り、最大の警戒をしながら街の中心へと移動した。
ホテルは出来るだけわかりやすい通り沿いのホテルにした。あまり狭い路地の安いホテルでは安心が出来ない。それなりのホテルに泊まった。
友人Hはずっと尻が痛いらしく、薬屋で薬を買うと、後はずっとホテルで過ごしていた。僕も黙ってホテルにいればいいのだが、なんだか落ち着かずに街へと一人出た。一応、千円程度の金を持って、後は何も持たずにホテルを出た。
歩いていると、後ろから3人のアラブ系の男が付けてきた。まさかとは思ったが、嫌な予感がしたので、広場まで早歩きで移動、そこにあった小さな売店で物を買うふりをして、3人の行動を伺う。
3人組は僕に近づいてくる。そして僕を取り囲んだ。やばい!とは思ったが何も出来ない。3人組は僕の身体を取り調べるかのようにあちこちをぺたぺたと触りまくってきた。そして何も持っていない事を理解すると、何らかのスペイン語だかアラビア語だかを喋りながら、どこかへ行ってしまった。
何も持たずによかったが、財布でも持っていたらどうなったか、と思う。
僕はその後、ノミの市といわれる露天をやっている入口まで行く。でもさっきの嫌な恐怖感が残って、とても観て歩く気にならない。お金もないし、落ち着かないのですぐに帰った。
その日は、その後、復活した友人Hとデパートに行った。革の財布が欲しいという友人Hの付き合いだ。友人Hはそこで財布を買った。しかしそこでもまたどこかの男が警官に捕まっているのを見た。マドリードはやはり危険な街だ。
夜は中華で飯を食べ、ホテルに戻った。
翌日は映画を観て過ごした。街を歩くよりはその方が安全だと考えた。500円程度で入れるし、時間を潰すにはよい。
映画はスペインの映画を観た。どうせ全てスペイン語に吹き替えられるので何を観てもよくはわからない。日本で言うと、三谷映画みたいなコント映画だった。なんだかよくはわからないがスペイン人の観客は笑って、手を叩き、皆楽しそうに見ていた。映画を楽しんだというよりその雰囲気を楽しんだ気がする。
そしてその夜、僕らはマドリードの駅からヘンダヤ行きの列車に乗った。危険地帯マドリードを僕らは無事に何事もなくクリアすることに成功した。
しかし疲れる列車だ。身動きの取れない椅子に座って、目を瞑る。旅の疲れは何かと限界に達している。この時ばかりは早く日本に帰りたいと思ったものだ。
パリへと戻る。
EmT.45 リスボン
1999年12月2日、リスボンの駅で、マドリード行きの夜行列車の発車時間をずっと待っていた。
あれはどれだけ無駄な時間だったのだろう。夕暮れ時からずっとリスボンの駅にいた。僕らはポルトガルエスクードを使い切ってしまっていたからもう何もすることができなかった。だからリスボン駅の駅前で、ずっと日が沈むのを待っていた。
前日にはナザレからリスボンに戻ってきた。
ポルトガルはリスボンに戻らないと基本的にはどこにも行けないようだったので、ナザレだけに行って、再びリスボンに戻ってきた。僕はオランダに行くことを決めていたし、友人Hはもう日本に帰る気分でいたので、これ以上ポルトガルを回る意味は僕らには残っていなかった。
前日の余った時間で、僕はシントラまで行った。ただし夕方に出た列車に乗って、日が暮れて、すぐに引き返してきた。シントラの街は駅から離れていて、谷があって、街まで行くのに、20分近く歩いた記憶がある。街の入口まで行って、日が暮れてしまって、なんだか理由があって、すぐに戻らないといけないと思った記憶がある。あれはファドに行った日の出来事だったろうか?それも定かではない。だとしたらこの一日を僕はどこでどう過ごしていたのだろう。
記憶はない。
ところで僕はこの文章を書き続けている事に疲れている。
でもきっと旅も同じように、僕は旅を続けることに疲れていたのだろう。もうすぐ終る。そういう思いが強く、そうなると投げやりになってくる。
丁寧に旅をする気にもなれない。
記憶もあまり思い出す気になれない。
2ヶ月も旅を続けると疲れてくる。そしてだらけてくる。
僕はもう、やる気がしない。
リスボンの駅前で過ごす一日は長かった。もうユーレイルパスを使ってどこかに行こうなんて気力もなかった。何もする気がなかった。残ったエスクードで、売店でお菓子とコーヒーを買った。売店のおねえさんは超ムスッとしていた。理由は知らない。ただヨーロッパではよくある話だ。わざわざ笑顔で対応するような国はほとんどないということだ。
夜行列車に乗って、マドリードへ向かう。
僕らはぐったり疲れていたが、眠りにくい列車だった。
とにかくぐったり疲れた。もう何もしたくない。
あの時、僕らは疲れていた。冬の始まりの寒さもある。僕らはもう移動したくない気持ちになっていた。もしお金があったら、航空券を買って、一気にパリまで行っていた事だろう。
でも僕らはマドリードを経由して電車での最後の長旅をする。
あの時、僕らは長い長い旅もやっと終るな、とほっとして事だろう。
もったいないくらいの楽しむべき時間なのに、僕らはもう帰る事を見つめていたにちがいない。
マドリードへ、つづく。
EmT.44 ナザレ
11月も終わる。旅ももうすぐ終る。
1999年11月30日、僕と友人Hはナザレにいた。
冬近くの海辺の町はとても静かだった。
11月29日、リスボンを出た僕らはヴァラドまで電車で行き、そこからナザレまで歩いていった。バスで10分くらいと書いてあったので、大した距離ではないだろうと思ったが、ここが意外と長かった。一山越えないとナザレには着かない。しかも友人Hのテンションはモロッコから帰ってきてからさらに低くなっている。もはや彼の旅は終っている。なぜこうまでして歩かなくてはいけないのか、そんな感じにさえ見えてくる。
途中でバスに乗ろうとしたが、バス停でのタイミングが悪く、行ってしまった。そんなこんなで歩いていたら、結局ナザレの町まで辿り着いた。
しかしそこではちょっとしたご褒美が待っていた。
僕らが町を歩いていると、駐車場のような、庭のような狭い空間で何人かの人たちが集まって、軽いパーティーを楽しんでいた。彼らは通りかかった僕らに話しかけてきた。僕らが道を聞いて話しかけたのかもしれないが、その記憶は定かではない。
いずれにしろ僕らは少しだけ、彼らに混ぜてもらった。お髭を生やした太っちょのおじさんとか、4,5人の仲良し集団がいたような気がする。僕らが彼らにもらったのは、ハウスワインだった。ポルトガルのワインと言えばポルトワイン。食前酒となる濃い目の甘いワインだ。これがなかなかうまい。僕らはそんな自家製のポルトワインをご馳走になった。
ナザレでは特にする事はなかった。
海辺のレストランで魚のフリット(から揚げ)を食べた。ポルトガルでは、僕はこればかり食べていた気がする。イタリアのナポリ以来、魚ではずすのが恐い(エビばっかり出てくる)ので、なるべくわかりやすい魚料理を頼んでばかりいた。
ちなみにポルトガルのレストランでは、頼んでもないのにヤギのチーズが出てくる。サービスかと思うと、しっかり料金を取られている。なので何度目かのレストランで僕らはこの大してうまくもないチーズを断るようにした。
泊まったのはアパルトメントだった。いつもながら生活観のある部屋のベッドで僕らは眠った。
11月30日も同じく、特にやる事はなく、僕らはナザレのビーチでひたすら写真を撮っていた。カンポ・デ・クリプターナ以来の写真撮影会である。
友人のお決まりのショットはクリプターナ以来、バックショットである。ポケットに手を突っ込んだ自分の後ろ姿を僕に撮らせるのがお決まりだ。しかも地面すれすれから上に向けて撮るのが気に入っている。青い空に、青い海が映る。さらに地表できらめくビーチの砂粒をはっきりと映す。確かに悪い写真ではない。
しかし日本に帰ってきてから友人Hは写真がいくつかの場所でしかなく、そのいくつかの場所が1箇所で5枚も6枚もある事に気づく。今のデジカメ時代なら何枚撮ろうが消せばいいのだが、当時はフィルム、一枚一枚が無駄には撮れない時代だった。
それでも友人Hのナザレでの写真は10枚近くあったと思う。波の大きさが違ったり、砂粒のきらめきが違ったりする似たような写真がいっぱいある。写真は撮る楽しみか、残す思い出か、前者とするなら友人Hの写真もいいが、後者としては少し虚しい内容だ。
確かにナザレのビーチは綺麗だった。砂粒も荒く、ビーズのようにキラキラしていて、波も高々と上がっていた。美しく楽しい時間ではあった。でも写真は程々がいい。
僕らはそんなナザレでの時間を楽しんだ。
旅も残り半月程度になっていた。僕はこの頃、オランダに行くことを決めていた。友人Hはもうパリに行って帰るつもりでしかない。モロッコ旅行の刺激が余程だったのだろう。それに比べて僕は何もしていないと感じていた。だからオランダに行ってみようと思った。残りの旅の時間、僕はやり切れていない何かを満たさないとこの旅を終わりにはできないと感じていた。
ナザレでの時間は、その前の休養のようだった。とても緩やかで、穏やかな時間が2日程流れた。
つづく。
EmT.43 ファド on リスボン
1999年11月28日は、リスボンでファドを聴いた。
長いバス移動で、前日にリスボンに着いた。
リスボンでは日本人の女性二人組と会った事を覚えている。しかしどこでどう出会ったのか、その辺りの覚えはない。
二人組の女の子は別々に一人でヨーロッパへやってきたと言う。美術館巡りが趣味で、日本内からついには海外へ来てしまったわけで、日本人の女性の行動力はすごいなと驚かせれたものだ。
その二人組とはどこかで出会い、どこかで別れた。見た目は地味な格好をしたバッグパッカーだったので、特に惹かれるものは残念ながらなかった。
僕らはどこかのレストランで食事を済まし、ガイドブックを頼りにホテルを選んだ。
そして休めのホテルに泊まった。部屋はトイレとお風呂が付いていない。ドミトリーではないが、共同空間も多いつくりになっていた。
適当に休んで、風呂に入ろうとしたが、なかなか風呂が空かない。泊り客はあまりいないようだが、誰かが長く使っている。僕は少し不満に思いながら、お風呂が空くのを待った。
何度か空くのを見に行った。開いた瞬間に別の客に使われてしまいたくなかったからだ。11月終りでリスボンは寒かった。早く温まりたかった。バスの長旅の疲れもある。
何度目か、風呂場に行った時、長く入っていた客が出てきた。さっき会った日本人の女の子の一人だった。しかも下着姿。下をTシャツで隠している。なんだか気まずい状態になってしまったので、「ああどうも、ああお風呂どうぞ」みたいな。簡単な挨拶となった。
同じ日本人の同じバックパッカー、同じガイドブックの宿に泊まることはあり得るが、あまりに予想外な状態での再会だったので、その後、彼女と会う事はなかった。
翌日はリスボンをふらふらした。何をしたかも覚えていない。リスボンの灰色空の下を歩いていた。
僕らはその夜、ファドと呼ばれるリスボンの伝統音楽を聴きに行く事とした。セビーリャのフラメンコが楽しかったので、ポルトガルでも伝統芸を観ようと望んだわけだ。
そして夜が来た。
僕らはファドを観に、リスボンの坂道にあるファドをやっているレストランを訪れた。ディナーショーみたいな感じで、食事を楽しみながら、もしくはお酒を飲みながら聴くのが一般的らしい。
そんなところで僕らはテーブル席に付いて、ファドを待った。
出てきたのは、赤い派手な服を着たおばちゃんだった。おばちゃんはなんだか渋い歌を歌い始める。アカペラでオペラみたいな歌声だったかのような、感じだった。なんだか心震えるものもない。日本の演歌みたいなものだろうか。年齢が合わないのか、僕らは場違いな気持ちにさせられる。
友人Hを見ると、薄ら笑い。目があって、言いたいことは何となくわかった。
30分ぐらいはいたろうか。タイミングを見計らって、僕らはその場を出た。
「まあ、ああいうものだということで」としか言えなかった。
歴史ある各国の伝統文化、かならずしも感動できるとは限らない。
リスボンは何となく気まずい事に出会う事が多かった。
特別嫌な事もなかったが、これと言って楽しい事もない。ポルトガル、かつての海洋帝国に、僕らは何となく来たという感じがした。
つづく。