小説と未来 -33ページ目

EmT.37 カサレス

1999年11月19日、4泊5日したカサレスを後にした。


 4泊というのは、実に長い。旅の中ではナポリにも4泊しているが、カサレスでの4泊はまったく別次元の時間の長さだ。ナポリは4泊していても、エルコラノやカプリ島に行っているし、ナポリの町自体も広い。でもカサレスは歩くだけで数時間もかければ街の全てを回れてしまう。

 どこに誰が住んでいるかも町の人は全て知っている事だろう。町ではあるが、まるで一つの家族のようにその狭い範囲で暮らしている。しかも町を出るには一日一二便しか来ないバスしかない。まさに陸の孤島だ。そこに5日間は実に長い。


 11月16日、友人Hがアフリカ大陸に向けて旅立った。

「じゃあ、セビーリャで会おう」

 僕らはそう再会を誓った。ただ素直にかっこいい別れとはならなかった。

 ホテルの店主がちゃんと帳簿をつけてないものだから、いくら払ったのか、もめた。僕は1泊分を払って、2泊目のみ追加したので払ってないことを告げ、なんとか納得してもらった。たしか前日もこのホテルの人はもめていた。日本人だったか忘れたが、もめていて、英語で会話をしようとするのだが、通じず、へたくそなりにもスペイン語のわかる僕がなんとか通訳になって理解してもらった経緯がある。今日も同じ繰り返しだった。

 そんなどたばたの中で、友人Hは旅立っていった。僕は前日より風邪を引いていたので、体調が悪く、部屋に戻ってベッドに寝ていた。

 昼間は薬屋に行って、薬を買った。後はホテルで寝ていた。ホテルのルームキーパーのおばちゃんがやってきて、部屋を掃除してくれた。寝ているのでシーツは取り替えなくいいという話をした。


 夜になって体調が良くなったので、外へと出た。夜のカサレスを散策する。

 細い道を歩いていると、前から中学生くらいの少年の集団がやってきた。僕はただすれ違おうとした。

 少年は僕に言った。「サーリテ!」と。

 サーリテ。スペイン語なんてわからない方がよかった。とその時僕は思った。彼は僕に、「出てけ!」と言ったのだ。なんだか心が痛かった。とても痛かった。来たいと思っていた町に来て、そこの少年に「出てけ!」と言われた。こんなに心痛い事はない。

 僕は何もやる気をなくし、再びホテルに帰って寝た。心が痛く、とてもつらい夜だった。


 11月17日、体調は良くなっていた。でも心は痛いままだ。

 この町の事を思い、自分の故郷を思っていた。自分の町が観光旅行で観られているのはどんな気分だろう。知らない外国人がやってきて、町をうろうろしているのは、確かに嫌な気分かもしれない。しかも僕のような根暗な東洋人が歩いていたら、「出て行け」と言いたい気分にもなるだろうか。

 体調の弱まりは、心も弱まる。回復にはまだ程遠い。

 気分を変えるために、カメラを持って、ホテルを出た。町を歩き、観光客が多く来るレストランのある展望台の方へと行った。僕はそこからさらに何もない山の上へと上っていった。どうせなら一番いい写真を撮ってやろう。誰もが数時間の滞在で去ってゆく町を5日間もいる僕がその違いを見せるところだ。

 とりあえず木の生えない荒れた山道を上ってゆく。上に上るとなぜか犬が飼われている。ここに住んでいる人がいるのか?鎖は繋がれているがめっちゃ吠えられた。でもここまで来て降りられない。ベストショットを撮れる場所まで行きたい。

 上りきると、今度は蛇に出会う。やれやれ。蛇は動こうとはしない。大丈夫だ。僕は蛇の数十センチ近くまで足を近づけ、そこから崖下を見下ろす。そこにはカサレスの白い町並みが広がる。この角度からのショットは普通撮らないだろう。そんな優越感を持って、そこで一枚の写真を撮った。綺麗な町並みだ。


 夜になって、展望台側から再び撮影をしようと、ホテルを出た。

 でも僕は夜景を写真には収めなかった。『ここで暮らす人がいる。そっとしておこう。僕の心の中だけ残しておこう』なんて、なんだかそんな事を思った。

 それからバルに飲みにいったが、地元の人たちと和気あいあいとはなれなかった。僕は自分が下手くそな人間だと感じた。

『もしこの町に自分が生まれていたら、彼らと仲良くなれたのだろうか?いや、僕の性格なら、この町を出て行きたいと思うだろう。自分の故郷でもそんな事を思っていたのだから、それがどんなに綺麗な、誇れる町であっても変わらない。きっと僕は、高校になったらこの街を出て、マラガかどっかの高校に行くのだろう』

 ただ一人そんな空想をして飲んでいた。


 11月18日は、カサレスの頂上にある教会で一人、日記を書いていた。

 子供の頃を思い出していた。子供の頃、よく家の近くの崖山で遊んでいた。山の上から地上を見下ろすのは好きだった。いろいろな空想を持って、友達と二人で勇者ごっこをした。カサレスはそんな僕らの遊び場を思い出させる町並みだった。

 なんとなく、僕はこの町に来たかった理由を理解した気がする。小学生の頃が一番楽しかった。22歳までの僕はそう思っていた。ヨーロッパの旅に来るまでは、勉強や学校や、常に何かに縛られていた。小学生の頃、空想していた頃からの夢だったのだろう。

 夢の町のイメージに重なる場所に、その日、僕はいる事ができた。一日だけ、カサレスの子供達から自分の夢に重なる、その山の頂上を奪い、ただゆっくりと過ぎてゆく時間を過ごしていた。

 僕の子供の頃の夢はここに完結したのだろう。


 11月19日、悪い夢を見て、目が覚めた。そしてカサレスを旅立つ事とした。本当は友人Hが帰るまでもっと長い間ここにいようと思っていたが、やはりそこは自分の町ではないし、自分の居場所ではなかった。だから出てゆくこととした。


 なんだかよくわからないが、カサレスの日々を思い出すと、ブルーになる。行きたい町で思い出深い町のはずなのに、なぜだか切ない。昔の恋人を思い出すように、その思い出はなんだかとても切ない感じだ。

 カサレス。僕の好きな町は僕をブルーにさせる。


ロンダへ続く。

EmT.36 コスタ・デル・ソル

1999年11月16日、僕はこの旅が始まる前から目的地としていたカサレスに辿り着いた。

断崖絶壁の上に建つ白壁の家々の集落、RPGゲームに出てきそうな町並み、僕はそんな幻想的空間の中に含まれてみたいと望んでいた。


 マラガからの旅はバスとなった。僕らの旅も、ついにレールのない道を進むこととなった。

 11月15日の事だ。海沿いの道をバスは進む。その海岸沿いはコスタ・デル・ソルと言われ、日本語に訳すと、「太陽の海岸」という意味になる。その名の通り、地中海の海の上に大きな照りつく太陽が輝いていた。もう11月も半ばなのに、とても暖かい気候だった。

 エステポナという中継地点で、僕らは乗り換えのバスを待つ。コスタ・デル・ソルの海をバックに僕らは互いの写真を取り合った。毎日着ている服も、背負い続けたバッグももうボロボロだ。旅の途中で話すのを忘れたが、僕のバッグはコールマンの肩掛けバッグだったが、イタリアのナポリ辺りで壊れたので自分で縫い直しリュックにした。汚い縫い口だがそれがまた味のある感じに仕上がっていて、今では完全に旅慣れた男のバッグへと変身していた。

 ロンドンでは何もかもが真新しかった僕らも、今では一気にいつ買い換えてもおかしくないくらいボロボロなものばかりを所有している。これがバッグパッカーの旅というものなんだな、としみじみ思う。


 僕らはしばらくコスタ・デル・ソルの海を眺めていた。僕は『ここまで来たか』と思い、友人Hはその地中海の向こうにあるアフリカ大陸を見つめていたのかもしれない。海面に反射する太陽の光がキラキラと輝いていた。あれは実に眩しい輝きだった。


 エステポナからカサレス行きのバスに乗る。カサレスは海岸沿いから少し内陸に入ってゆく。いくつかの小さな街を越えると、そこは木の生えない荒れた土地が広がる。赤い風化した土が谷や山を作っていて、しばらく何もない風景が続く。唯一見られたのは、現代風の発電用の風車だけだった。

 そんな道をしばらく行くと、崖の上に白い家々が所狭しと建ち並ぶ集落が見える。それがカサレスだ。遠めに見ると実に不思議な世界だ。そこだけにしか人の居場所がない。

 観光客も多いのだが、たいていの観光客はカサレスの中に入るのではなく、そこから少し離れた展望台のような場所に車を止め、カサレスを眺めたり写真を撮ったりして、それからそこにあるレストランで食事をして帰ってゆく。観るには楽しめるが、中に入れば何もない街だからだ。

 僕らはそんな街の中に入り込んだ。確かに何もない街だった。ホテルが一軒、バルが一軒、雑貨屋が一軒、薬屋が一軒、一通りの店はあるが、全てが一軒ずつくらいしかない。そして全ての家々が白色に綺麗に塗られている。ロールプレイングの世界だ。


 僕はこの町に来たかったので、しばらくこの町に居ついてみることにした。友人Hはアフリカに行く予定なので、一泊して、翌日出発する予定だった。

 しかし翌日はバスがなく、11月16日も友人Hはカサレスに留まる事となった。僕らはそんなカサレスの崖の頂上にある教会に行き、遥か遠くの風景を眺めていた。

 僕らは崖の端に行き、そこから何十mも下に広がる地上を眺めた。広大な風景だった。やる事がないので、日が暮れるまで一日中、そこで過ごしていた。何枚かの写真を撮り、何かを語り合った。太陽が沈むのをじっと眺めていた。やがて日は沈んでゆく。美しい夕陽だった。

 夜は、唯一のバルでタパスをつまみながらワインを飲んだ。友人Hは調子のいい感じで、町の人と簡単な会話をしていた。僕はそういうのが苦手なので、明日から一人か、と思うと少し気が重かった。

 少し風邪を引いていた。この旅では何度か軽い風邪になったが、今回は熱もあり、喉も痛く、一番悪い風邪になりそうだった。特にやる事はないので、ホテルに戻って早めに寝た。


 翌朝、友人Hは旅立ってゆく。

 僕は自分を見つめ直す時間が来ていると思っていた。一人、何もない、自分の望んだ場所で、自分を見つめ直そうと考えていた。

 明日から一人だ。


カサレスの日々はつづく。

EmT.35 マラガ

1999年11月14日、まらがでの退屈な時間は過ぎていった。


 僕と友人Hは、数日後より、別行動に移ることに決めた。僕はスペインのアンダルシア地方に残り、友人Hはジブラルタル海峡を渡り、モロッコへ行く。

 友人Hはもはやスペインには何の興味もなく、マラガでは顕著に何をする気もなくなっていた。

 旅の始めはモロッコへ行く事などは考えてもいなかったので、僕らはガイドブックの一つもない。「公用語は何だ?」と、友人Hはそこから分っていない。僕は適当に「アフリカだから一般にフランス語か、スペインが近いからスペイン語か」と答えた。フランス語は難しいので、友人Hは急にスペイン語の勉強を始めた。しかし残念ながらモロッコはアラビア語かフランス語が共通語であったわけだが、この時は僕も友人Hも知らなかったし、それを調べる手段も持ち合わせてはいなかった。

 今回の別行動は1週間ばかりの別行動である。僕と友人Hは一度イタリアのサルディーニャ島で別行動をしているが、それよりも遥かに長い。友人Hはアフリカ行きにそわそわ、わくわくしていて、マラガなどその為の準備の場所にしか過ぎなかったようだ。


 だからマラガでは暇な時間を過ごした。

 グラナダを出て、マラガに着いた13日は、僕もほとんど記憶にない。ホテルに泊まった事は覚えているが、後は記憶にない。ただ僕は、「来たい場所に来ていたな」と思ったことを覚えている。スペインのアンダルシア地方はこの旅の中で最も着たい場所だった。


 14日の朝、アンダルシアの海辺、マラガの町を一人歩いた。

 朝8時頃目が覚めた僕は朝一の散策をする事とした。ホテルは朝食も付いていないので、友人Hを起こす必要がなかったので眠らせておいた。

 街を西へ歩いて行くと商店街の狭い道が続いてた。狭い路地が続いていた。店はどこも空いていない。ずっと行った先には闘牛場があった。ここも早くて閉まっていた。何もない静かな朝だった。それでも知らない街を朝早く散策すると、なんだかとても心地よく感じられた。

 街の一日が始まる前の静けさは何となく好きだ。


 ホテルに戻ると、やっと起きた友人Hとその日何をするか決めた。観光も何もする気もなかった友人はの提案は、映画を観ることだった。

 僕らはマラガのマクドナルドで昼飯を食べ、マラガの映画館で映画を観た。ほとんどマラガで休日を過ごす一般市民と同じ行動を取っていた。この日は日曜日だった。

 観た映画は、「クラブ・デ・ルーチャ(スペイン語名)」、英語では、「ファイト・クラブ」だ。スペイン語はともかく、英語なら少しは聞き取れるだろうと思って入ったが、残念ながらスペインでは吹き替えが主流だった。だからエドワード・ノートンもブラッド・ピットも流暢なスペイン語を喋っていて、僕らには話の内容をほとんど理解できなかった。

 映画を観た後は市場で買い物をした。僕はベルトが欲しかったので、1000円くらいのベルトを買った。友人H確か財布を欲しがっていたが、ここでは買わなかった。

 スペインの牛革製品は安かった。フランスのようなおしゃれさはないが、ごっつくて頑丈そうな革製品が安く売られていた。でも僕は、ここで買ったベルトに対して『もう少しごついベルトを買うんだった』と後悔し、この後もう1本別の街でベルトを買うこととなる。

 そんな風にして、マラガでの一日は過ぎていった。闘牛場やピカソ美術館、マラガには観光スポットもあるのだが、友人Hのあまりのやる気のなさにそんな一般庶民的な生活をマラガでは送る事となった。

 でも僕も否定はしない。確かに1ヶ月半も経つと、観光も飽きてきている。グラナダのアルハンブラ宮殿も、始めにくれば感動的だったかもしれない。でも1ヵ月半も西洋の立派な建築物を観ていると、だんだんと感動も薄れてくる。街並みも、街の習慣とかも、当たり前になってくる。友人Hがアフリカに渡りたいと思った気持ちもわからなくはない。

 もし僕がアンダルシアに来たいという気持ちが最初からなければ、友人Hと共にアフリカに渡っていたかもしれない。それはあくまで仮定だが、そういう気持ちもわかるくらい僕らの旅はマンネリ化してしまっていた。

 この頃、僕らが思っていたことは、「旅は1ヶ月から1ヶ月半くらいで帰るのがいいな。それがいろいろ味わえて、一番楽しめる旅の時間だな」という事だった。彼か僕か、どちらが言ったかは忘れたが、どちらか言って、どちらかが深く頷く感想だった。

 旅のスタートから2ヶ月が近づいている。僕らの旅は後1ヶ月ほど続く。


つづく

EmT.34 グラナダ

1999年11月12日、グラナダのレストランで友人Hと昼間からデカンタのワインを頼んで、飲みながらの昼食を楽しんでいた。


 そんな僕らではあるのだが、グラナダまで移動する夜行列車ではとても大変な事態となっていた。世に言う500ペセタ事件である。


 それはカンポ・デ・クリプターナを出て、夜行列車に乗り換えるアルカサールという駅での出来事だった。僕はカンポ・デクリプターナのカフェかどこかで、友人Hに500ペセタを貸していた。そしてその500ペセタをいつ返してもらえるかを気にしていた。

 僕は友人Hが500ペセタを返せる状況にあったのを知っていたので、聞いてみた。

「あの、500ペセタ、まだ返してもらってないよね」


「何言ってんだよ!返しただろう?」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の中につっかえていたものが一気に苛立ちに変わった。

『こいつ!何言ってんだ!』

「いつ?返した?」

 でも僕は心の内とは裏腹に冷静に聞き返した。

「いつって、返してだろう?さっき」

「いつだよ」

「いや、返したよ!」


「いや、返してもらってない」

 僕の苛立ちは徐々に頭に血を上らせる。そして彼との今までの旅行のいろいろなイライラが蘇ってくる。


 金に関していえば、僕は彼の方が5万円ほど旅行資金が少ない事を知っていたから、時より僕の方が多く払っていた。たとえばレストランでの小銭分やちょっとした移動代等、まあ値段にしたら、100円にもならないくらいの小銭だが、それが積もりに積もっている。500ペセタは500円くらいだが、これは貸したお金だ!貸したという名目のお金は返してもらわないとすっきりしない。おごってやったのならいい。でも貸しは貸しだ!

 それに泊まったとき、ダブルベッドになってしまったときは、いつも布団を引っ張り取られ、起きたら僕には布団が掛かっていない。そしてぬくぬく寝ている奴は起きないので起こしてやらないとならない!起こせば不機嫌で、「起こすタイミングが悪いんだよ!」みたいな理不尽な事を言う。

 旅のルートや電車の時刻はいつも僕がチェックしている。奴は付いてくるだけ。最初はホテルのロビーとかいろいろ奴に任せていたが、少しずつ僕が全部やるようになっている。『俺はおまえのガイドか!』と少しずつ言いたくなってくる。

 朝がスローなあいつは、観光したいのに起きないから、僕は朝一人退屈な午前中の時間を2時間くらい送らなければならない。その上、起きて飯食えば、またタバコの一服で待たされ、さらにトイレで待たされる。旅行前にミズボウソウにあっているから、顔の荒れも気にして、10分くらい顔を洗っている。僕はその時間を無駄に待っている。

 1ヶ月半、共に過ごした苛立ちは、500ペセタによって、頂点に達した。


「返しただろう?」

「もういいよ」と、僕は言った。

 500ペセタが『もういいよ』ではない。全てがもういいのだ。僕はそれで友人Hと口を聞くのを止めた。


 とりあえず、こんな所に野宿するつもりもないので、一緒の夜行列車に乗り込む。この電車は空いていたので、横長3列の座席をそれぞれ一人で使う事ができた。

 僕は彼とは口を聞かず、眠りに就いた。険悪な気分だったが、長い時間外で過ごした疲れたせいか、以外にも眠りは早々に訪れた。僕はすぐに眠ってしまった。



 列車は静かにガタンゴトンと音を立てて進んでいた。窓の外からやわらかい日差しが差し込んでいた。暖かく心地よい朝だった。綺麗な朝日が東の空に浮かんでいた。冷えた身体を温める温かい光だった。

 身体の疲れが取れ、心の疲れも取れたかのようだ。

 友人Hも早々と光に目を覚ました。久々に早い朝だった。

「よお、もう着く?」

「ああ、あと一時間くらいじゃないか」

 なぜか普通に会話をしてしまった。500ペセタは、どうでも良くなってしまっていた。旅の空気は僕の心も変えてしまった。旅とは意外とそんなものだ。


 グラナダではペンシオンに泊まった。

 そして一日目は、世界遺産でも有名なアルハンブラ宮殿を観光した。イスラム圏の独特の模様と形状の建物が綺麗だったのを覚えている。僕らはそんなアルハンブラ宮殿を半日かけてぐるぐる見て回った。

 二日目は、ジプシー街と呼ばれるアフリカのような白壁の街並みを散策した。そして昼飯はレストランによって、ガスパッチョを食べた。冷たいスープだ。暖かいスープに比べて濃厚な味がする。でも食べたのは友人Hで僕は別の物を頼んだような気がする。いずれにしてもおいしいスペイン料理を味わった。パエリアはなかったが。


 1999年11月12日、スペインのグラナダでのんびりした時間を過ごす。夜はスペインバルでタパスをつまみに酒でも飲もう。魚介類のサラダをビネガーと塩とオリーブオイルを掛けて食べるのがおいしい。そんなあれこれを思いながら一日を過ごしていたことだろう。

 グラナダの地は僕らを静かに包んでいた。

 でもすでに、その時、僕らは決めていた。友人Hはアフリカへ行く。そして僕はこのスペインのアンダルシア地方に残り、のんびりした時間を過ごす。それは行きたい場所が違ったせいか、それとも互いに一人での時間を望むようになっていたのか。

 今思えば、暗に僕らはその両方を望んでいた気がする。

 旅慣れた僕らは自由を望む。僕らは十分に自由だったけれど、旅で起こる様々な失敗を恐れなくなった僕らは互いに一番近くにいる相手が気になり出したのだろう。

 大人になって、いろいろな人間関係を経験する。今思えば、友人Hとの二人旅は様々な人間関係の原点を学んだ旅だったのかもしれない。

 人間関係、人との関係、友人関係、会社の関係、恋人関係、社会との関係、何歳になっても、そればかりは実に難しいものだ。


つづく

EmT.33 カンポ・デ・クリプターナ

1999年11月10日、グラナダ行きの夜行列車に乗るために、僕らはカンポ・デ・クリプターナを後にした。


 カンポ・デ・クリプターナに着いたのは、前日の夜だった。

 駅から続く工場地帯みたいな退屈な街並みを抜けて、丘へと上ってゆくと小さなカンポ・デ・クリプターナの街並みが広がっていた。狭い石畳の道の左右には白壁の家々が所狭しと並んでいた。なんだかスペインらしい落ち着く光景だった。


 僕らはそんな静かな街のオステルに泊まった。スペインではホテルもさほど高くないのだが、それより安く泊まりたい時はオステルやペンシオンに泊まれる。一般的なユースホステルは少なかったからか、値段的に大して変わらなかったせいか、あまり泊まることはなかった。

 オステルは民宿みたいなものだ。いつもいろいろな置物や要らないものに溢れていて、どことなく田舎のおばさん家に泊まるような親しみを受ける。どこへ行っても妙に生活観のある部屋に泊まれる。


 そんなオステルで一泊して、11月10日はカンポ・デ・クリプターナで一日を過ごした。夜行列車に乗ることは決まっていたので、その日は帰る場所のない長い一日を過ごすこととなった。

 小さな街だったので、さほど見学する場所もない。有名なのは、ドン・キホーテの舞台にもなったといわれる風車があるだけだ。

 狭い街の小道を抜けると丘の上は一気に広々と荒野が広がっていて、白壁の家にファンが付いたような風車がたくさん並んでいる。それ以外は何もないのだが、その何もないの景色がいい。

 特に観光化している様子もなく、町のおじさんが犬をつれて散歩している。僕らはそんな何もない静かな場所で、結局一日中のんびりと過ごすこととなった。

 長く退屈な時間で行われた事は、写真撮影会だった。いつもの様々なパターンで撮影を行った。友人Hのきめポーズは、後ろポケットに手を突っ込んで風車を見上げるバックショットで、僕らはそんな写真をかっこつけて撮り合った。

 いつも夜景で失敗している僕らだが、この日は昼からの写真撮影だったので、とても綺麗な写真が撮れていた。特に友人Hが僕のカメラで撮ったパノラマ写真は綺麗な感じで仕上がった。この旅の中ではベストに近い写真が残っている。

 それから僕は風車の絵を描いていた。特にやる事がなかったので、スケッチブックに風車を鉛筆書きした。友人Hは、「お、それいいな」と言って、自分で描いているふりをしてそれを写真に撮らせた。ひどい見せ掛けだけの写真を作ったものだ。


 長い一日だった。

 そんな風車しかない丘の上だが、唯一のカフェレストランがあった。僕らはそこでしばらくの時間を過ごした。そこは仲のいいラブラブな若夫婦が二人で経営していた。旦那も黒髪に浅黒い肌で渋くかっこよく、奥さんは金髪の色白で綺麗だった。二人は寄り添いラブラブな感じだった。

 渋い旦那の声とニコニコしている奥さん、なんとも絵になる光景だ。しかも二人で話をしているとやけに寄り添って、スキンシップする。さすが情熱の国スペイン、客前も仕事も関係ないのか?

『ああ、あんな結婚したいな』と、その頃は思ったものだ。今ではあり得ない幻を見たんじゃないかって気持ちにさせられるけど。

 時間は経ち、少しずつ街は闇に包まれてゆく。僕らは街まで降りて、街の小さな広場でまたしばらく時間を過ごした。スケッチブックに描いた風車に手を加えていると、街の14歳くらいの女の子が近づいてきて、「何を描いているの?」と尋ねてきた。僕がスケッチブックを見せると、「ああ、モレーナ(風車)」と言って頷いた。

 それからどうしたろう。しばらく日暮れ時が続いて、街のカフェで過ごしていたのかもしれない。カフェも閉まり、夜更けになって、僕らは街を出たのだろう。

 それがカンポ・デ・クリプターナの思い出だ。


 街を出て行く夜更けには11月過ぎの冷たい風が吹いていた。旅も少しずつ秋めいていた。


つづく