小説と未来 -34ページ目

EmT.32 バレンシア

1999年11月9日の夜にはすでにカンポデクリプターナに着いていたが、昼過ぎ頃まではバレンシアにいた。


「バレンシアでパエリアを食べよう!」

 それが僕と友人Hの合言葉だった。どうやらパエリアの本番はバレンシアらしく、バレンシアといえばオレンジしか知らない僕にはぴんと来なかったが、パエリアを食べることは確かな目的となっていた。

 前の話で、『バルセロナではパエリアを食べた』と書いたが、実は食べていなかったかもしれない。パエリアを食べようとして食べずにバレンシアを目指したのかもしれない。


 バルセロナからバレンシアまではスペインの新幹線タルゴで向かった。座席がいっぱいだったのだが、僕と友人Hは無理やり乗り込んだ。車両の間で過ごすのは慣れているのでそこの床に座った。チケットがないので追い出される事を心配したが、回ってきた車掌さんは500ペセタ(=500円くらい)を払うとチケットをくれた。なんとかなるものだ。

 しかしスペインではどこへ行っても電車が混むので、後々でも苦労があった。がその話はまた後としよう。


 バレンシアに着くと、たくさんのオレンジの木々が僕らを迎え入れてくれた。バルセロナでもそうだったが、バレンシアではよりたくさんのオレンジの木が街路樹として使われている。

 友人Hはこれを食べたが、どうやらすっぱくてうまくないらしい。観賞用ということか?

 でもスペインではファンタオレンジがおいしい。同じファンタオレンジでもスペインのファンタオレンジは味が濃厚でうまい。だから僕はスペインではペットボトルの水の代わりにファンタオレンジで過ごしていた。


 着いたのは、夕方前の午後3時頃だったと思う。僕らは昼飯を食べていなかったので、駅側のホテルに泊まる場所をさっさと決めると、そのままパエリア屋探しを始めた。

 あちらこちら歩くが、どこで食べればいいのかわからない。しばらく歩いたあげく、友人Hの鼻に頼った。

「ここだな」と、友人Hは言う。

 リヨンの例もあるので、必ずしもあてにはならない。

 中に入ると、肉屋兼食堂みたいな狭い店だった。

「パエリアはあるか?」と聞くと、「今日は売り切れだ」と肉屋の主人は言う。周りにいた客も、「もっと早く来なくちゃダメだ。すぐに売り切れちまうよ」というような事を言っていた。

 しかたなくあきらめ、翌日に持ち越しとなった。リヨンとは違うパターンだが、また目指す食べ物にありつけない事態、いやな予感がする。


 だからその日は僕らは適当に食事を済ませた。何を食べたかも覚えていない。

 友人Hは日が暮れると、ホテルに戻って引きこもってしまった。僕は暇だったので、バレンシアの街を散歩することにした。

 何も持たずに一人あちこち歩いていた。旅慣れた事もあり、地図も持たず、自分の方向感覚に頼って歩いていた。しかしそれが過ちだった。

 迷子になった。

『やばい!』と思った。

 どこまで来たのかもわからない。1時間近く意味も適当に歩いていた。なんだか似たような街並みが続いていた。日もすっかり暮れてしまっていた。

 道行く人に道を尋ねればいい。だけど僕は誰にも道を聞かなかった。内向的になったわけではない。なんとなく、僕は迷子になったことを楽しんでいた。

『たしか、あの広場は?』

『この通りは、あの通りと繋がっている?』

 記憶を辿って、自分の居場所を想像する。僕は当り前の旅に飽きてしまっていて、ちょっとした刺激を求めていたのかもしれない。

 そんなこんなでまた歩くこと1時間くらい、『ああ、ここだ』という場所に戻った。そして『ここをこう行けば』と歩いて、ホテルに戻った。

 心臓のドキドキ感があったがそれがゆっくりと収まってゆくのを感じた。なんだか快感だった。知らない場所を歩く。それは旅の楽しみの一つである。いつからか僕は旅に出ると道のわからない場所を一人歩くのが趣味になっていた。変な趣味が出来たものだ。


 翌日の11月9日、遅めの朝を向かえ、僕らは昼頃まで適当に時間を潰し、例のお肉屋さんに向かった。

 今度は早く来た。

「おお、残念だな。まだ出来てないよ」と、肉屋の主人は言った。

 時間は12時過ぎ。この頃、僕らは普通の昼を考えていたが、スペインの昼は14時からだ。シエスタの週間だ。2時間待ちたいところであったが、それでは次の予定地に着かない。すでにホテルもチェックアウトしていた。

 というわけで、今回はすんなりあきらめた。

 僕らはお肉屋さんで別の料理を頼んだ。なんだかわからず頼んで、僕の目の前にやってきたのはハムカツだった。

「なんだ。またやってしまったか」と思ったが、食べるとこれがうまい。さくりと仕上げられたころもを一口食べると中からジューシーな肉汁が滴り落ちてくる。

 久々の大ヒット。僕は満足にそいつを平らげた。

 友人Hも何かの肉料理だったと思うがうまそうに食べていた。パエリアは食べられなかったが、この日は満足のいく昼飯となった。


 失敗もあれば、成功もある。そして勘を頼りに動く。旅の中で僕らは少しずつ様々な勘を得だしていた。旅は勘を鋭くするのかもしれない。

 友人Hはこの旅で感性を磨くと言っていたが、磨かれたのは感性より勘の方だったような気もする。


そんなわけで、僕らの旅はカンポデクリプターナへと続く。

EmT.31 バルセロナ

1999年11月7日、バルセロナのランブラス通りの夜は更けてゆく。


 前日、僕らの長旅はようやくスペインに達した。僕自身はスペインを楽しみにしていたので、フランスとの国境の海岸に白壁の家が立ち並ぶ集落が見えると、『とうとうここまで来たな』とワクワクした気持ちになった。


 フランス国境を越えて、最初の街はバルセロナである。街というよりは大都市だ。

 イタリアで会った日本人達は皆口を揃えてスペインは危険だと言っていた。とくにマドリッドが危険だという話だが、バルセロナも危険である事に変わりはないだろう。

 だからバルセロナの駅を出たとき、広い駅前の広場では、どことなく冷たい空気を感じた。ナポリを初めて訪れた日の、何となく閑散とした寒々しい空気に似ていた。

 危険な香りだ。

 それでも僕らは警戒の気持ちを持ちながら、街を歩いた。夜更け近くになっていたが、メインストリートのランブラス通りはたくさんの人に溢れていて、賑わっていた。

 何に人々がそれほど賑わっているかというと、このランブラス通りにはたくさんの大道芸人がいて、様々なパフォーマンスを見せてくれている。

 ピエロの格好をした人や、体を灰色に塗ってロボットのようなパントマイムをしている人、様々な人が様々な芸を見せてくれている。しかも芸はイタリアのようなとりあえず金が欲しいだけの素人芸ではなく、全てが一流のパフォーマンスを磨いていて、それを見せてくれてる。それが1km以上ある通りにずらりと何十人もいる。

 一日いても飽きない通りだ。

 僕らはそんなランブラス通り沿いにあるホテルに泊まった。すきま風が冷たい、ぼろっちいホテルだった事を覚えている。

 夜はぷらりと外に出て、久々にバーで飲んだ。いわゆるスペインバル。今は日本でも増えたが、当時はこれがスペイン風のバーか、と関して思ったものだ。軽いつまみを頼んで、ワインを飲む。それがスペインでの夜の過ごし方だ。

 となりに座っていたおやっさんはラジオでサッカー放送を聞いていた。どこを応援しているのかと聞いたら、意外にもレアルマドリードだと言ってきた。大阪のジャイアンツファンみたいなものか?バルセロナだからと言ってみんなバルサを応援しているわけではないらしい。おやっさんはとにかく世界のレアルマドリードだと、レアルを自分の事のように自信満々に語っていた。確かに当時のスペインではレアルがずば抜けて強かった頃だったかもしれない。


 11月7日は、朝からバルセロナ観光をした。

 モンジュイックの丘へとケーブルカーで上った。友人Hはマラソンが好きなので、ここを有森裕子が上ったんだみたいな事を言って感心していた。確かにたいそうな坂道だった。

 丘の上には大砲などがあり、昔はここが要塞だった事を教えてくれる。天気もよく穏やかな一日だった。僕らは、バルセロナの女は皆尻がでかいな、なんてどうでもいい話をしながら、その晴れやかな空の下で昼を過ごした。

 その後、サグラダファミリアへ。遠くから見たが、不思議な形状の高い建物だった。2011年の今でも建築中だ。あれから12年経つが少しは完成に近づいたのだろうか。


 危険な街といわれたバルセロナだけれど、特に危険な目に合う事はなかった。どちらかというと穏やかな観光を楽しめる場所で、イタリアのローマを思い出させる部分もあった気がする。

 夜はパエリアを食べた。ガイドブックに乗っていた有名店だった。それなりにうまかったが、何となく観光客向けを感じた。友人Hはきっともっとうまいパエリアがあるはずだと思ったのだろう。この後、僕らはしばらくパエリアを追い続ける旅をする事となった。


 バルセロナの二日間はのんびりとした程よい観光日だった。今思い返すとなかなかいい街だった。もっと回る場所もあったのだから、もっとのんびりしてもよかったろう。

 また行ってもきっと楽しめるだろう。ふとそんな事を思う、バルセロナの思い出である。


つづく

EmT.30 カルカッソンヌ

1999年11月6日、フランス国境を渡り、スペインに入る。当時、僕が行ってみたかった国の一つだ。

 しかし、スペインでの話はまだ早い。日にちは一日逆戻りして、11月5日の話に戻る。


 1999年11月5日、僕と友人Hはリヨンの街を去り、一気にスペインを目指していた。それは結構な距離があり、一日中の移動となる。僕らはスペインに入る前の中継地点として、カルカッソンヌを選んだ。フランス人的に言うと、キャルキャッソンヌだ。


 一日中の移動となり、キャルキャッソンヌに着いたのは、日暮れすぎの事となった。駅からは碁盤の目になっている城下町が広がり、城壁に囲まれた街シテと呼ばれる場所へと続いている。

 ユースホステルはシテの中にある。道がよくわからないので、地図を見ながらあたりを見回していると、でっかいリュックを背負ったカナダ風の女性二人組みが見えた。僕らは『間違いない』と判断する。あの二人は今日、キャルキャッソンヌのユースホステルに泊まるだろう。だから着いていけば必ず着く。そんなせこい考えも旅慣れた技となり、僕らは彼女達について行った。

 でかいカナダの女の子達は歩くのが速い。僕らは彼女達の20mほど後ろをひそかについていっていたのだが、途中で疲れてしまった。そこにギターとハーモニカを同時に演奏している外国人の姿が飛び込んできた。僕らは歩道で足を止め、その外国人の演奏を見る事とした。

 細身の体に、髭を髭を生やした細い顔立ち、ただの貧乏人とは違い、自由に生きているだけといった余裕のある風貌をしていた。彼はしばらく演奏した後、演奏を止めた。僕らが拍手をすると、その外国人は僕らに話しかけてきた。

「やあ、君達、どこから来たんだ」

「ジャポネだ」と僕らは答える。

 つたない英語で、あちこちを旅しているんだ、みたいな会話をする。僕らは上手に英語が使えず、イタリア語が出てきたり、フランス語が出てきたり、気がつくとめちゃくちゃな言葉を使っている。

 すると彼は突っ込みながら言う。

「それはイタリア語だろう?だけど俺はわかるよ。家系はイタリア人なんだ。ただし育ったのはチュニジア、だからイタリアとチュニジアの両方の国籍を持っている。今はフランス暮らしているから、フランス住民だけどね」

 そんなこんなもあり、彼は何ヶ国語もぺらぺら話し、自由な感じで僕らに話しかけてくれた。僕らの自由旅行を越えた自由人だ。

 彼にはその後、カルカッソンヌの紹介や、アフリカが意外と近いなんて話もしてくれた。

 それがきっかけだったろうか?友人Hはアフリカに興味を持つようになった。そして後々アフリカ大陸へと渡るわけだが、その話はまた後ですることとしよう。


 そんなチュニジア人の自由人に、ユースホステルの場所を聞き、城跡のシテへと渡った。着いたのがちょうど日暮れ跡という事もあり、シテは綺麗にライトアップされていて美しかった。こんな城壁の中に街があるなんて、なんともファンタスティックな光景だ。

 ユースホステルはそんなファンタスティックな城壁の中にある。


 僕らはユースにチェックインし、簡単な夕食を済ますとすぐに外へ出て、写真撮影会を始めた。ストラスブールを思い出すこのパターン。あちらこちらを歩き回り、友人Hは城壁を照らす赤く光る街灯の下で、壁にもたれてポーズを決める。

「よし、最高のシーンが撮れた」

 喜ぶ彼だが、ストラスブールに引き続き、このシーンは撮れていない。安い使い捨てカメラでは、世界は全て闇に包まれている。

 僕も僕の1万円程度の安いカメラ(当時フィルム)で何枚か写真を撮った。しかし最悪な事に、帰りの空港検査でX線透視に掛けてしまい、その部分が赤くなり、全てアウトになってしまった。

 というわけで、あの美しい夜景は、僕と友人Hの頭の中の記憶にしか残っていないわけである。まあ残っていても見たものとは違う暗い街並みを写真となるのだろうが。



 翌朝、僕らはそんな前日の夜間撮影会と、長い列車移動に疲れていて、ぐっすり眠ってしまっていた。

 僕は目が覚めると、もう10時過ぎていて、朝食の時間が終ってしまっていることに気づいた。

 友人Hを起こすのも面倒なので、とりあえず食堂に向かう。食堂の手前に自販機のある休憩所があり、そこから食堂を見ると、やはり朝食はもうクローズドになっていた。僕はあきらめてそこにある椅子に座り、自販機でお菓子を買って食べることとした。

 一人食べていると、いくつかの座席の向こうに日本人の女性が、アメリカ人の男と一緒に座っている姿が見えた。日本人の女の子に目が合ったので、僕が頭を下げると、向こうも頭を下げた。いわゆるお辞儀だ。これをするかしないかで、相手が日本人なのか、日本人に見える別の国の人なのかがわかる。

 彼女は僕の傍に来て、隣に座った。僕はそのアメリカ人の男と旅をしているのかと思ったが、アメリカ人はただ隣に座っていただけで関係なかったようだ。

 彼女は一人で旅をしているらしい。話をしていて、そうだという事がわかった。見た目は身長も150cmくらいしかなく、体格も細く、性格も柔らかで、とても一人旅をしている女性には見えない。だが彼女はマドリードからカルカッソンヌまで一人で来たと言う。海外旅行は初めてなの?と聞くと、昔パリに2週間程いたことがあるけれど、移動する旅は初めて、と言う。僕は2週間ずっとパリにいるだけの旅行も、女の子一人でマドリードから旅をする旅行も、かなり興味深く珍しいものに感じられた。

 やがて友人Hが起きてきて、僕の傍までやってきた。

「おお!、何だ?」

「ああ、なんか、一人旅しているそうで」みたいな感じで、僕は彼女を紹介した。

 友人Hは朝食に起こさなかった事に腹を立ててきたそうだが、僕が女の子と話しているのを見て、なんだか意外すぎて拍子抜けになったらしい。


 そんな時間も束の間、僕と友人Hはカルカッソンヌを中継地点としていたので、ユースを去ることとした。彼女はもう一泊する予定という事で、そんな僕らを見送ると言って、駅まで一緒に着いてきてくれた。

 小雨も降っていて、少し肌寒い中、風も強かった。彼女の小さな折りたたみ傘は途中、橋の上で飛ばされそうになって、彼女は傘をたたんだ。僕らは小雨だったので最初から傘を差してはいなかったが、そんな状況の中でも彼女は僕らと共に駅まで一緒にいった。

 そしてパリでの話や、これからコルシカ島に行くという話をした。


 駅に着いて、僕らは列車が来るまでの30分を共に過ごした。友人Hは何の気を回してか知らないが、タバコを吸いにいくといって、しばらくどこかへ行って帰ってこなかった。なんだか余計な気を回されると不自然になって、余計に会話が途切れてしまう。変な緊張が頭の回転を悪くする。

 僕は彼女とその30分間、ろくに話も出来なかった。名前も聞かないままだった。


 友人Hが来て、「そろそろ出発だな」と言って戻ってきた。


「もう行っちゃうんですか?」と、彼女は言った。

 僕は頷いた。

「じゃあ、気をつけて。旅して」と、僕は彼女に言った。


 あの時、僕は、「いや、やっぱりもう一泊しようか」と、バーデン・バーデンの時のように言えばよかったのかもしれない。そんな旅での出逢いは、旅の中でまたあるだろうなんて、どこかで思って、僕は去ったけれど、そんな出逢いは二度はないものだ。

 でもあの時、僕は目指していたスペインに入る楽しみも多く持っていた。だからきっと、僕はもう一泊しようと言わなかったのだろう。


 カルカッソンヌ、僕の思い出の地、あの場所は僕のアルバムにも残っていない。なんだかとても切ない思い出。切ない思い出はいつまでも脳に残ってしまうものだ。


スペインへとつづく

EmT.29 リヨン

1999年11月4日、一泊の予定が二泊となり、僕と友人Hはリヨン二日目の夜を過ごしていた。


 フランスのリヨンを訪れたのには訳がある。友人Hいわく、リヨンはフランス料理のメッカとも言えるようなうまい店がたくさんある、との事だった。イタリアのフィレンチェ、ナポリ辺りから始まった僕らの食楽ロードはフランスに入ってもアンティーブに引き続き、続いていた。

 11月3日にリヨンに着いた僕らは、とりあえずホテルにチェックインし、それから街中を散策した。旧市街と呼ばれる古い石畳の街並みの辺りにはレストランがたくさんある。僕らはどの辺りにうまそうな店があるか、ただそれだけを探すために旧市街を散策していた。

「きっとこの辺りだな」と、僕らはレストランの立ち並ぶところに目星をつけて、後は夜を待つだけにして、ホテルに戻った。

 しかしリヨンの旧市街は古い石畳で雰囲気がいい割には、犬のフンだらけだった。フンを避けながら歩く為にいちいち気を使う。しかも僕はきっちりとまだ生でほやほやのフンをぴちゃりと踏んでしまった。最悪だ。

「いやあ、あれは見事な綺麗な踏みっぷりだったね。スローモーションだったね」

と、旅から何年も経った後にその話をしていた。犬のフンの踏み方にそんな芸術などあるか!?と僕は突っ込みたい。あのフンは実に最悪だった。その日は一日、靴の溝に入り込んだフンがなかなか取れずにいらいらされせられた。実にたちの悪いフンだった。



 そんな話をして、食事の話になるので、なんとも、な話の内容である。

 ここからは食楽の話に切り替えよう。


 夜になって、僕と友人Hは古い旧市街の街並みへ入り込んだ。

 たくさんの西洋風の建物が連なり、日本のファミリーレストランのような、いかにもレストランですというような店構えの店は一つもなかった。表にレストランの名前が書いてある看板が出ているだけで、後は店というより民家のような造りをしている。

 僕らは小さな出窓から中を覗き、店の様子を見てみる。どこの店がいいのかはほとんどわからない。

「ここだ。ここにしよう!ここがうまそうだ」

 友人Hは何の根拠があってかわからないが、そんな事を言って店を決めた。僕はそれに従うしかなかった。僕には何の予感も感じない。

 そして勢いで店に入った。

 中からは変な音楽が聞こえる。変な、というのも失礼だが、これは?コーラン?イスラム?

 席に案内され、店員がメニューを持ってくる。『カブール』と読むと書いてある。

「いやあ、やっちゃったね」としか言いようがなかった。

 僕らはリヨンに来て、人気のカブール料理店に入ってしまったようだ。僕らはシシカバブみたいなものや、ひよこ豆みたいなものが入ったカブール料理を堪能した。

 ああ、フランス。


 でも、その程度で、くじけ、あきらめる僕らではない。もう失敗は慣れっこだ。

「リベンジだな」と友人Hは言う。僕もうなずく。

 というわけで、すぐに僕らはリヨンの二泊を決め込み、明日こそはうまいフランス料理にありつける事を夢見て、その日を終わりにした。



 翌日の昼間はよりいっそう暇だった。

 友人Hは夜の事しか頭にないので、ホテルから出ようとしない。僕はあまりに退屈なので一人小旅行をした。

 訪れたのはセントエティエンヌという街だ。僕にはどこの街かもよくわからない。特に何があるわけでもないフランスの中規模都市だ。

 リヨンから1時間くらいのその街に行き、ただ街をふらふらした。ほとんど何も覚えていない。喫茶店で飲んだ紅茶があまりにもまずかったことは覚えている。やはりフランスやイタリアではコーヒーを頼むべきだ、という事を僕は理解した事がその街で起きた僕にとっての最大の出来事だ。


 リヨンに戻り、二日目のリベンジが開始された。

 昨日と同じ旧市街地へ行く。相変わらずレストランは外から中が見えない。しかも店は何の店だかわからない。とりあえず僕らは人気のありそうな、店を探す。

 歩き回ったあげく、1件の店が決定された。

「よし、ここでいいな」と友人Hは言い、「いいよ」と僕は言う。

 今日はうまいフランス料理にありつける。そう信じて入った。

 中は結構、人気のありそうな店で、客もいる。変な音楽は掛かっていない。

 僕らはテーブルに案内され、席に着く。


 メニューを持ってきたのは、、、、ターバンをかぶった髭もじゃのアジア系の男だった。

「よく来てくれた。いやあ、この店をどうやって知ったんだ」

 彼はオーナーで、僕ら日本人もしくは同じアジア人が来てくれてうれしかったのか、そう尋ねた。

 なんだか雑誌か何かにも載っている有名店らしい。僕らは何となく来たことを告げるしかない。しかも苦笑い。

「じゃあ、音楽を掛けよう」

 オーナーはレコードのあるところまで行って、曲を掛けた。また、例のコーランが始まる。

 僕らの苦笑いがさらに度を増す。


 リヨンの夜、二日目、僕らが食べたのはおいしい人気のインド料理だった。

 きっとおいしかったのだろうが、なんだか悔しくて、味は何も覚えていない。

『ああ、僕らが求めたフランス料理』

 今思うとあそこはイスラム圏の店が立ち並ぶ場所だったのかもしれない。そもそも僕らは行くべき場所を間違っていたのだろう、と思う。


 1999年、まだ2001年9月よりも前だった。今もあの辺りの料理屋は流行っているのだろうか?ふとそんな事も思う、2011年11月、世界平和を祈る。


つづく

EmT.28 アルル

1999年11月1日、フランス南部プロバンス地方の都市アルルに着いた。


 駅の側には遊園地があり、どこかの平和な地方都市を感じされた。小さい子供がいて家族と暮らすなら、フランスならこんな町がいいのだろう、と思わせるような町だった。

 だから駅のすぐ側には大きなスーパーもあった。

 僕らはそこで買い物をした。久々の大きなスーパーだったので、ついでに櫛と、バスタオルも買った。一応メイドインフランスである。しかも櫛は2011年を迎えたいまだに僕の胸元にある。

 買い物を済ませてからユースホステルまで歩く。1kmくらいの道のりだったろう。ユースは確か運動公園の傍にあった気がする。

 今思い出すと、やはりあの町は今まで見たフランスの他の都市より、遥かに生活観に溢れた町だった気がする。


 1日目は何なく過ぎ去った。何をしていたかも覚えていない。僕らはもう旅慣れてしまっていて、ユースで半日くらいダラダラ過ごすのも当たり前となっていたから、時々何をしていたか記憶のない事もあるのである。


 2日目、1999年の11月2日は、ヴィンセントヴァンゴッホが描いた事で知られる跳ね橋(通称ゴッホの跳ね橋)を見に出かけた。3kmくらいあったが、暇だったので僕らは歩いてそこまで向かう事にした。


 途中、自転車でやってきた夫婦が、僕らに「ゴッホの跳ね橋はこっちであってるか?」と尋ねた。

「僕らも向かっている」

と、僕らは答えた。

 2人は「メルシー」と言うと、ニコニコしながらまっすぐ自転車を漕いで進んでいったが、僕らは少し後で道を間違えた事に気づき、何もない草地を右へ曲がっていった。あの二人はどこへ行ったのだろうか?後々になっても会わなかった気がする。彼らは彼らなりに楽しんできっとやがて辿り着いたと信じたい。


 何もない草原、もしくは小麦畑かの駆られた跡地みたいな世界、それが永遠と続いていた。そんな中に小さな小川が流れているのが見えた。

 流れの先には小さな黒い橋らしきものが見える。

「ああ、あれだ、あれだ」

 きっとそんな感じで目的地へは辿り着いた気がする。

 ヴィンセントヴァンゴッホの跳ね橋はひょこりとそこにあった。しかも後々知ったのが、それはレプリカであるとの事である。高知県にもはりまや橋という、別名がっかり橋があるが、それと似たようなものだろう。

 でも僕はゴッホの跳ね橋の方が好きだ。


 跳ね橋の周りでは地元のおいちゃんたちが魚釣りをしていた。何の飾り気もない。それが逆に絵になっていた。友人Hが何か釣れるのかみたいな目で川底を覗いている。おいちゃんは釣り竿を垂らしながら釣りには興味なさそうに雑談をしている。

 僕はその光景をきっちりとフィルムに収めた。1999年版ゴッホの跳ね橋、なかなか悪くない。実にいい絵になっていた。

 ちなみに跳ね橋は跳ね橋というだけあって、跳ね上がっている。だから渡ることはできない。まあ幅の狭い小川だし、周りに別の橋が架かっていたりするので、実質必要のない橋ではあるのだが。


 そんなこの旅最大のゆるい名所を跡にして、僕らはユースホステルに戻った。

 この日も夕方頃、戻った後は何もしていなかった。僕は夜になってあまりに暇な気分になったので、街を散歩した。街中には闘技場や教会や旧市街の綺麗な街並みが見られ、大変いい場所だった。しかし僕らはそれを無視して、結局アルルという街ではヴィンセントヴァンゴッホの跳ね橋しか見ずに終った。


 実にゆるい2日間だった。

 ただ、この頃の僕はとても素直な気持ちになれていた。いろいろな不安や不信感もなく、とても素直に毎日を過ごせるようになっていた。誰かに話しかけることも恐くなく、社会に対する苛立ちもない。

 旅に出る前にあった様々な社会への苛立ち、恐れ、全てを忘れ、素直にありのままに生きていた。その事を自分自身でも感じ取っていた。

 だからこの頃、僕は、本当にこの旅に来てよかった、と言いたい気持ちに溢れていた。


 世界を自由に旅すれば、小さな社会の小さな出来事なんて、本当にどうでも良くなってしまうものなんだ。


 心から僕はそう言いたかったにちがいない。


 人は変われる。きっと。

 大きな世界との出会いは、小さな心の小さな人間を、きっと大きく変えてくれるだろう。


 そんな事を思う。


次回へ続く。