小説と未来 -35ページ目

EmT.27 ニース

1999年10月31日、ニース近郊の町、アンティーブはハロウィン色に町が染まっていた。


 今では日本でもハロウィンが一般的になってきているが、当時の日本ではハロウィンは遠い外国の話だったような気がする。だから僕はパンプキンに子供の仮装姿を見て、これがキリスト教圏のお祭りハロウィンか、と感慨深く思ったものだった。


 10月30日、前日にジェノバを出発した僕と友人Hは25日ぶりにイタリアを出て、フランスに再入国した。

 ニースまでの列車では、小太りな女の子が4人座席の向かいに座って、僕ら日本人を気にしていた。だから話しかけると、長い会話となった。イタリアでの日本の知名度について話等が主な話だった。

 とにかく出てくる話は中田とアニメの話ばかりだった。イタリアはサッカー好きな人が多いが、好きでない人でも中田という名前は知っているくらい有名だという。とにかく中田はイタリアでも特別ですごいんだという事らしかった。誇らしい話だ。アニメもとにかく人気らしい。ドラえもんやポケモン、タイガーマスクなどなどのアニメをやっていて、それがまたタイトルが繋がらないので、ポケモンがドラえもんで、ドラえもんがポケモンになってしまったりして、盛り上がった。


 そんな時間が過ぎ、ニースに辿り着いた。

 久々のフランス、イタリア慣れしすぎた僕らにはフランス語圏が少し慣れない気がした。

 それでも少しだけフランス語はわかるので、英語が通じようが通じまいが、とりあえず道を尋ねるなり何なりはフランス語でチャレンジした。わからなかったら、そこで英語を使ってみる。そんな感じで駅の中やバスの乗り口で話をしていた。

 バスに乗るときには、おじいちゃんに「このバスはどこそこ行きで合っているか?」と尋ねた。「ウィ」と言われ、その後あれやこれやと言ったが、何を言っているかわからなかった。だいぶお年を召したおじいさんだったので、「ケラージュアベブー」と尋ねると、「98歳」と言われた。本当か、数字の聞き間違えかと思うと、おじいちゃんは指で98を数えた。指の折り方が日本とは違うが、確かに98だった。98にしては本当にしっかりしたおじいちゃんだった。


 バスに乗って、ユースホステルのある郊外まで移動、そして住宅街の中にあるユースホステルにチェックインした。その日はそれで終わりとなった。まだ日は暮れていなかったが、ユースでのんびり過ごした気がする。

 部屋ではピーターアーツみたいなフランス人と一緒だった。フランス語しかしゃべれずよくはわからないが、この間まで徴兵だっただの、家族とは仲が良くないだのなんだのと言った話をしていた。

「知っているフランス人はいるか?」と聞かれたので、友人Hが、「リュックベッソンが好きだ」と言う。

彼は「誰だ?」という顔をした。フランスでは逆に知らないのか?みたいな驚きだったが、「レオンの」だのなんだのというと、彼は「ああ、ルークヴェソーン」と答えた。フランスにはフランス人の正しい名があるという事だ。

 だから他は忘れたが、フランスで有名なフランス人を英語での発音でいうと意外と通じない事が多々ある事を知った。



 10月31日、僕らはニースから少し離れ、エズという村を目指した。コートダジュールと呼ばれる地中海の絶景を見られる断崖の上にある村として知られ、人気のスポットだ。

 ここには、ハイキングコースとしてニーチェの道と呼ばれる歩いて上るコースがある。しばらく運動不足だった僕らはこのコースにチャレンジした。

 1、2時間は掛かったと思う。上着を着ていったが、途中で暑くなって脱ぐくらいの運動となった。しかしスイスのグリンデルワルトへの自転車での山登りもそうだが、上るのは楽しいし、上った後の爽快さがある。

 辿り着いた景色は確かに絶景だった。友人Hがマルボロのタバコをおいて写真を撮った。それが彼の芸術だったらしい。僕もなんだかわからない非常に汚い絵を描いた。それも芸術だったのだろう?

 断崖には教会があり、訪れる人はみんな中に入り、お祈りをした。僕らも同じようにして、中に入りお祈りをした。帰りに記帳のノートがあったので、日本語で自分の名前とカタカナで「エズ」と書いておいた。特に意味はない。


 地中海の絶景を日が西に傾くまでしばらく眺めてから、地上に戻った。

 そしてその後、列車でアンティーブに立ち寄った。フランス料理が有名な町で知られているが、その日はちょうどハロウィンで別の盛り上がりも見せていた。辺りはすっかり暗くなっていて、ハロウィンが盛り上がる時間となっていた。古びた中世の街並みの中を仮装した子供たちが駆け回る、これこそハロウィンだ!と思ったものだ。

 そしてフランス料理を楽しむ。僕は白魚のムニエルみたいのを頼んだ。ホワイトソースが掛かっていて、やはりイタリアとは違う上品なおいしさを感じた。友人Hはブイヤベースを頼んだ。僕は食べていないので味はわからないが、おいしいと言っていた事を覚えている。またそれも多分イタリアと違うあっさりめの味のスープだったのだろう。と思う。いやちょっともらったかもしれない。なんかあっさりしていておいしかった記憶がある。記憶が勝手に味を作り出しているだけなのかも?


 そんな風にしてフランス、ニース近郊での一日が過ぎていった。

 なんとも穏やかで平穏な時間だった。その頃の僕らは、旅をすっかり生活としてしまっていたように思う。


次へつづく

EmT.26 ピサ~ジェノバ

1999年10月29日、シエナを出た僕と友人Hはピサを経由し、ジェノバへ向かった。


 旅に対する不安が消えた旅を続ける。

 いつものように駅へ行き、出発時間のわからない列車に乗り込む。やがて出発した列車、車窓の風景を楽しみながら、次の町の予定を決めながら、緩やかに時と場所を移動してゆく。

 次に立ち寄った町はピサだった。僕らが目指すフランス方面へ抜ける通り道でもあったので、立ち寄ってみた。ピサといえばピサの斜塔、イタリアに行ったからにはそれだけは見ておこうという単純な考えだ。

 斜塔は広場にあり、とても傾いていた。とても傾いていて、反対側からワイヤーが支えていた。思わず、右こめかみから汗が流れ落ちそうになった。どこかで聞いた話では、昔は斜塔の中に入る事も出来たそうだが、今は見たとおり、傾きが進んで危険な状態ということだ。

 現代の技術からしたら多分まっすぐ直す事もでき、そうすれば塔は無理なく長くそこにあるだろう。だけどそれではピサの斜塔という意味が成り立たない。だから無理やりワイヤーで角度を固定して、それ以上にもそれ以下にもならないようにしているわけだ。

 それはそれで・・・・・・・・。

 て、訳で僕らはその場をすぐに後にした。

 写真も撮らずに戻っていくと、友人Hは全く別の場所で、「写真を撮ってくれ」と言い始めた。いつもの写真家になりたくなるような綺麗な景色も見あたらない。いや、むしろそこは汚い場所がある。

 破られポスターが壁にぎっしりと貼ってある場所だ。ゴミバケツがいくつかあって、そこから零れ落ちたビニールのゴミが散乱している。何かのマフィア映画のワンシーンのようなその場所を、友人Hは気に入ったらしい。

 その場でワンシャッター。

「よし、OKだ」

 なんだかわからないが、それでよかったようだ。

『イタリアってこんな感じだよ!』ってイメージだろうか??


 それでピサは終わりだった。それが僕のピサのイメージだ。

 再び電車に乗り込み、今度はジェノバを目指す。


 ピサからジェノバの海岸沿いを行く車窓の景色は綺麗だった。100年くらい前にでも造られたかのような石の柱で支えられた海辺の崖の中を列車はすり抜けてゆく。海辺の風景は石の柱でコマ送りの古い映画のように映し出される。トンネルに入り、抜けるとまたコマ送りの海辺の風景が流れる。またトンネル。またコマ送りの海の景色。その車窓の風景はこの旅の中でかなり上位の光景だった。


 ジェノバに着いたのは夜だった。ガイドブックにジェノバは載っていなかったので、どこに行けばいいかわからなかった。駅が二つあり、とりあえず新しい方の駅に降り立った。

 歩いてホテルを探した。難しい事はなく、ホテルを見つけ、チェックインした。この点においても僕らは旅慣れてきていた。もう野宿をすることはないだろう。


 しかしそんな旅慣れた僕もまだ失敗をする。

 夕食を安く済まそうと、その日はスーパーで食品を買いに行った。僕らの食事はレストランみたいなところで食べることはそれほどなく、ファーストフードとか喫茶店の軽食みたいな感じで済ますか、それ以外はスーパーでパンとハムとチーズを買う生活だった。

 友人Hは生ハム派、僕はチーズ派だった。スイスのインターラーケン以来カマンベールチーズを好んで食べる傾向にあったが、たまには変えてみようと、別のチーズを買った。

 ブルーチーズだった。


 これがまたひどくまずかった。多分サラダに小さく刻んだそいつを少し入れるくらいならアクセントとしていいのだろう。でもそいつはクラッカーやましてパンに塗って食べるような代物ではない。

 僕はそいつをパンに塗って一口食べた。

「壁臭い」

 多分この表現がベストだ。古い家の色の変わった壁の臭いがする。僕はそう感じた。貧乏旅行の僕ら、捨てるのも惜しいので何とかそいつを食べようと考えたが、どう考えても食べられない。

 二口目。

「壁臭い!」

 あの壁臭さ。僕は忘れる事はないだろう。その後、ブルーチーズとは旅行中も、日本に帰ってきてからも何度か食したことはある。たしかに臭みはある。しかしあの壁臭さまではいかない。

 僕は何口かチャレンジしたが、慣れる事もなく、そのパンとチーズをゴミ箱に捨てた。


 人はうまいものは覚えているが、まずいものの記憶はより強く残っている。

 いい経験より、悪い経験の方がより強く脳裏に刻まれる。そんなものだ。


 その臭さは翌日まで残っていた。ほんと、「壁臭い」


つづく

EmT.25 シエナ

1999年10月28日、シエナのユースホステルではThe verveのアーバン・ヒムスが流れていた。

現実感のあるような、夢の中のひと時のような、あいまいな時間がそこにはあった。



 前日の午前11時のゴルフォデアラチ発のフェリーに乗って、チビタベッチア港に戻ってきた。

 帰りのフェリーの事はあまりよく覚えていない。ただなんとなくこの旅最大の山場を過ぎ去ってしまったかのような寂しさがあった。フェリーでカプチーノを飲んでいる写真が一枚残っているが、その思い出は皆無だ。


 シエナに着いたのは何時ごろだったろう?チビタベッチア港に着いたのが午後5時くらいになるから、かなり遅い時間だったに違いない。でもさしたる問題もなく、僕らはシエナのユースホステルに着いたのだろう。野宿になる不安とか、そんなものも一切感じないままに宿まで着いていたのだから。


 気がついたら、翌朝は始まっていた。

 僕は当たり前のように友人Hを起こし、朝食を共に食べた。洗濯物が溜まっていたので、洗濯をする事にした。ユースホステルには洗濯機が付いていたからただで出来そうだった。ただし洗剤がなかったので、買わなくてはならなかった。

 ユースの受付のおばさんに尋ねる。しかし洗剤という言葉が出てこない。

「ウォッシュ」だの、「シャボン」だの、とりあえずそれがわかりそうなそうな言葉を連呼する。

「ああ、タケタケターケ」とおばさんは言った。

 何の事だかわからないが、「イエス、タケタケターケ」と僕らは言った。

 とりあえず洗剤は出てきた。

 僕らは「タケタケターケ」で盛り上がった。


 洗濯物を干すベランダではアメリカ人ぽい外国人さんたちがビールを飲んで優雅なひと時を送っていた。彼らはザ・ヴァーヴのアーバンヒムスを聴いていた。なんとなくその事が僕の脳裏に焼きついた。さして思い入れのあるCDではないが、それはなんとなく耳に残っている。


 洗濯を終えると、僕らは軽く散歩に出かけた。

 シエナの中心には大きな広場がある。カンポ広場と呼ばれるその広場には年に1回馬のレースが行われるそうだ。町の各地区の代表となる馬がレースを繰り広げる。勝った地区には何らかの名誉があるみたいだ。

 それぞれに旗のデザインがあり、ドラゴンだのフェニックスだの、なかなかしゃれていてかっこいい。僕は何を買ったか忘れたが、馬のデザインの何かを買った。

 普段のカンポ広場はのんびりと町の人々が寝転がっている場所だ。中心がえぐれていて、自転車レースのバンクみたく、周囲が坂になっている。だから坂の上側を頭にして寝転がるとちょうどいい感じで心地よく寝転がれる。しかも日当たりもよく、暖かい。

 僕らはそんな場所に寝転がり、その日一日を過ごした。


 何気なく、いつのも旅が始まっていた。

 サルディーニャで止まってしまっていた時は、シエナで静かに動き始めた気がする。でも、サルディーニャを過ぎた僕らの旅は、それまでの旅をしている僕らとどこか変わってしまった気がする。なんとなく、旅が当たり前の毎日になってゆく。一日一日の特別な印象もなく、僕らはずっと昔からこんな事をしていたかのようなそんな気持ちになっていたんじゃないだろうか。


旅はまだまだ続いていた。旅はまだまだ続いていたはずなのに。

EmT.24 カリアリ

1999年10月26日、僕はサルディーニャ島最大の都市カリアリで朝を迎えていた。


 前日、10月25日の夜は、9月24日にヨーロッパに来て以来、初めての一人で寝る時間を迎えた。

 寂しい夜?なんて事は全くない。久々に一人ぐっすり眠れる。それは気楽なものだった。


 10月25日早朝、まだ日も昇らない時間に、僕は一人オルビアのホテルを出た。公園の木にはモズの大群がとまっていて、ピーチクパーチク鳴いていた。

 昨日何度も立ち寄った、駅のカウンターしかないカフェバーには、朝早いビジネスマンがあわただしくコーヒーを飲む時間を過ごしていた。いつもはのんびりしているバーの女性もこの時間ばかりは手際よくせわしく右へ左へと動き、客を相手にしていた。


 僕は始発の列車に乗って、一人カリアリに向かった。

 夜が明けてゆく中、列車は何もない荒野を抜けてゆく。本当に何もない土地だ。痩せた土地には草もまばらにしか生えない。半分岩砂漠のような土地、そこには何もない。そんな景色がどこまでも続く。

 今までにない景色だ。日本で言ったら、北海道の広野みたいな感じだろうか?まるでイタリアではない別の国に来たかのような印象を受けた。


 しかしサルディーニャのカリアリは一つの大都市だった。北東のオルビアとは違い、たくさんの人が歩いている。車も走っている。空港もあるから、飛行機で旅行に来る人も多いのだろう。

 この街はマリンスポーツのメッカとして知られている。また、日本では、当時ガンバ大阪から移籍したエムボマが在籍していたサッカーチームがある事で知られていた。というか僕はそれでカリアリという名前を知っていた。


 まずはいつものように宿探し、一人で宿を探すのもそれほど難しいことではなかった。街中で宿を見つけ、僕はすぐに一人ビーチを目指した。

 街は暖かく、10月終りになるけれど、25度くらいはあっただろう。皆街の人は半袖だ。

 街の中心からバスに乗って、いや、乗らずに歩いてビーチに向かった。途中大きなサッカー場も見えた。町はスポーツのキャンプ地としても栄えているようだ。

 ビーチはどこまでも広く長い。泳いでいる人はいないが、水着でビーチバレーをやったり、歩いたり、走ったり、日光浴をしている人がいる。

 日光浴の女性はトップレスだ。周りを気にもせず、しっかり見せて、目を閉じて寝ている。


 さすがイタリア!すばらしい!


 僕も水着姿になって、レディーたちとは少し離れた場所で日光浴をしていた。みたいな感じです。


 まあ、そんな一人の時間を、僕は満喫した。

 宿に帰っても一人きりの時間が続いた。明日は起こす相手もいないし、自分の好きな時間に起きて好きな時間に出発できる。そんな気楽な気持ちでのびのびと過ごすことができる。

 寝るときは、いつもより寝つきがよい気がした。


 1999年10月26日、僕はゆっくりとした朝を迎えた。朝食を取ってから出発、どこに立ち寄ることなく、カリアリ駅を出発した。

 カリアリからオルビアへの帰る道は、やけに時間が掛かった。乗継が悪く、2度程乗換えがあったが、どちらも1時間程度の待ち時間があった。

 サルディーニャ島のど真ん中くらいの町ではかなり時間があったので、駅を出てみた。本当に語りようのないくらい、何もない町だった。

 すぐに駅に引き返すと、学校の帰り時間だったのか、小学生から高校生くらいの子供がたくさんいた。僕のような東洋人が珍しいのか、僕の方をじろじろ見ていたが、誰も何も話しかけてくることはなかった。そんな子供たちと共に同じ電車に乗った。最初は騒がしかった列車も徐々に皆いなくなり、ほとんど誰もいない列車に乗って、オルビアまで戻った。


 予定では、友人Hはすでに本日のフェリーでチビタベッチア港まで行ってしまっているはずだ。

 僕は明日のフェリーを待つために、再びオルビアで泊まったホテル、ミネルバに戻った。

 ホテルミネルバのおばさんは僕が戻ってきた事に、「あーとか、うーとか」言っていた。最初はまた戻ってきた事に喜んでいるのかと思ったが、急におばさんは部屋の奥の方に消えていった。

 再び戻ってきた。そしてその後ろから、友人Hが現れた。

「あ、なんで?」と僕は尋ねた。

「おお、なんか今日、フェリー休みだったみたいでよ」


 そんなわけで僕の一人旅はあっけなく終った。なんでも自由で楽しい時間は長くは続かなかった。しかし僕は友人Hの顔を見た瞬間、安堵感と小さな嬉しさを感じた。


 なぜだろう?あれだけ一人は自由でいいな。と思ったはずなのに、なぜだか嬉しい気持ちになった。

 後で気づく事だが、一人の旅は一人の思い出にしかならないけれど、二人の旅は二人の思い出となる。旅の時は良くても後々一人きりだった時間とは寂しいものになるものだ。

 ずっと一人は寂しい。それは普段の生活でも変わらないけれど、旅の思い出はより大きい。多くの仲間と共有し合うことが楽しい思い出になる。

 僕は後々、その事に気づく事になる。


 一人旅は、本当は寂しいものだ。そして、一人の生活とは、やはり、寂しいものだ。


つづく

EmT.23 オルビア

1999年8月24日、ゆったりとしたオルビアの朝が始まった。


 サルディーニャのオルビアでの二日目も、その土地での時の流れは緩やかだった。

 僕らは遅い時間に起きて、泳ぐ準備をして、朝食を取ってから、駅へと向かった。


 その日、僕たちはオルビアとゴルフォアランチの間にあるマリネーラと呼ばれるビーチに行く事になっていた。どのようなビーチかはわからないが、昨日から港や海岸通りで綺麗な海を見ているので、この辺りのビーチは相当綺麗だろう、というのが容易に想像できた。

 列車は毎日一時間に一本くらいしかないから、駅に着いてからも出発までに時間がある。軽くバーでイタリアンコーヒー(エスプレッソ)でも飲みながら列車が来るのを待つ。


 やがて2両編成の列車が駅舎とは反対のホームに止まっているのが見えた。

「ああ、あれだろう」と、軽いのりで僕らはその列車に乗り込んだ。

 乗客は結構いた。僕らは適当なところに席を取って、座って出発を待つ。


 このパターン、僕はふと感じた。『本当にこの列車なのだろうか?』

 僕は一人、列車の外に出て、列車の表示を確認する。「SASSARI」と書かれている。周りを見渡す。いろいろな条件から、やはり、行き先は反対だ。

 僕は再び慌てて列車に乗り込み、友人Hが座っていた場所に行く。

「おい、これ違うぞ」と言おうとしたが、そこに友人Hは居なかった。

 あれ、おかしいな。と思っていると、発車ベルの音が流れる。『ジリジリリーン』と音を立てる。僕は周囲を見回すが、友人Hは居ない。

 列車はまもなく動き出す。

『きっと気づいて降りたんだ』

 そう思って、僕は急いで列車からホームへ降りた。


 しかし駅のホームに友人Hはいなかった。

 次の瞬間、列車はサッサリに向けて、出発してしまった。

『はあ、またやってしまった』と、僕はため息をつく。


 そして反対ホームへ移動した。

 ゴルフォアランチ行きの列車は僕がホームのベンチに座った数分後に出発したが、僕はそいつを見送った。

『1駅先で友人Hはユータンして戻ってくるだろう。1時間は掛かるが、まだ遅い時間ではない。次の列車でマリネーラに行けばいい。しかしやらかしてしまったな。あの列車だろう、と言ったのは僕だ。だいたい列車の確認はいつも僕がする。これは僕のミスだ。あいつはきっと怒っているに違いない。綺麗なマリネーラの海を見るつもりだったのに、海のない島の内陸へ行ってしまう列車に乗ったのだから』

 僕はとても反省していた。そしてとても気弱になっていた。フュッセン行きの列車に乗り換えた時の思い出が蘇る。今回は野宿になることはないが、今回の失敗もあの時と同様に大きな失敗である。

 じっと時を待つ。


 やがて次の電車がやってきた。

 しかし友人Hは降りてこない。

『おかしい?どこへ行ってしまったのだろう?しばらく気づかずに、何駅か行ってしまったのか?としたら次の列車だろうか?』なんて事を想像する。

 とりあえずいったんカフェでコーヒータイムとした。オルビアのカフェバーではゆったりした時間が流れている。


 再び外に出て、太陽の直射日光を浴びながら次の列車が来るのを待つ。太陽は少しずつ西の空へと傾いている。

『今日はもうマリネーラに行くことはないだろう。しかしなぜ友人Hは戻ってこないのか?相当腹を立てて、戻ってくる気にもならなくなってしまったのか?』

 そんな事を考えながら、ゆったりしたオルビアの駅での時間は過ぎていった。


 とてもゆったりした時間をぼぉーっと過ごしてた。ただ待つだけの時間、これだけ人を待っていたのは人生で初めてだったかもしれない。

 日もかなり西に落ちかけた頃、何本目かの列車がやってきた。

 そしてついに友人Hは姿を現した。しかもめちゃめちゃ笑顔だった。

 怒っていると思っていた僕は一気に拍子抜けとなった。

「おお、なんだ、ずっとここにいたの?マリネーラに行ったかと思ってたよ」と僕に尋ねた。

「いや、待ってたよ。間違ったのわかったから」

「いやああ、サッサリまで行っちゃったよ。しかしすごい景色だったなあ」

 友人Hは僕の反省とはまるで関係なく、一人見てきた景色に感動したという話を続けた。

 僕はひどく心配しただけあって損をした気分になった。


 友人Hがそれほどまでに感動していた時間を僕は無駄に過ごした。彼はうまいものを食べれば、「俺はおまえよりうまいものを食ってるよ!」と言うし、こうしてたまたま一人どこかへ行けば、「俺はすっごい景色に出会ってきたよ!」と言う。

 なんとなくそういった一つ一つが逆に腹立たしく思えてきた。自分だけがこの旅でひどく損をしている気がしてきた。朝遅いのが遅い友人Hが起きるのを待っている時間も無駄に思えたし、友人Hがタバコを吸う一服待っている時間も無駄に思えた。いつもいろいろ待っていて、彼だけがいい思いをしているように感じられてきた。

 旅の最初は友人Hの行動力を期待していた。きっと自分に出来ない部分をやってくれて、僕にはそれが必要だと信じていた。最初はそれもあったかもしれない。でも今ではそんなものは何一つない。むしろ友人Hは僕の時間を無駄にさせる無駄な行動を取る相手に感じられた。

 僕は一人でヴェスヴィオスにも上ったし、一人でも行動できる。


「あのさあ、明日、俺、一人でカリアリに行って、一泊してこようと思う。いいかな?」

 僕はそんな事を友人Hに言っていた。

「おお、いいんじゃない」

 友人HはなんなくOKをした。


1999年10月24日、僕らはついに別行動をする事に決めた。ただしこの別れは3日後にシエナのユースホステルで会うことを約束しての別れだった。


つづく