EmT.17 エルコラノ
ナポリのセントラルは閑散としていた。人は少なく、嵐の前の静けさのようだ。
1999年8月17日、僕と友人Hはナポリに辿り着いた。
僕らはそんな異様な静けさが漂う街に恐れを感じていたが、なんてことはない。ただ休日だっただけだ。街の休日は静かなようだ。
そして僕らはこのナポリで4泊することとなる。この旅始まって以来の長い滞在だった。
その日はナポリのユースホステルまで移動、後は洗濯をしたりしていたら、一日は過ぎていった。
翌朝、目を覚ますと、友人Hは起きない。彼にとってはいつもの事である。起こせば寝起きも悪いから起こしたくはない。でもいつもながら起こす。
しかし友人Hはいつものように、「何だよ!まだ眠みいんだよ!」というような不機嫌な態度をとって起きるのではなく、本当に起きようとしない。
「風邪引いたみたい。ほんと、体調悪い」
僕は困った。が、彼は僕に言う。
「いいよ。今日は寝てるから、好きに行ってくれば」と言う。
お言葉に甘えて、僕はこの旅始まって以来の一人旅をする事となった。
どこへ行くか決めていなかった僕は思いつきでポンペイ遺跡に向かった。
その昔、ヴェスヴィオス火山の噴火により一瞬にして灰と化した街として有名だ。しかし僕は少々違ったことがしたかったので、そのヴェスヴィオス火山の方に上ろうと考え直した。
ヴェスヴィオス火山にはエルコラノというところからバスが出ているという事が調べてわかった。なので僕は、ポンペイではなくエルコラノに向かった。
ナポリからエルコラノにはソレント行きの周遊鉄道というので行けた。比較的新しい路線のようで、イタリアにしては新しい列車だった。地中海沿岸の暖かい気候の中、僕は自由な気持ちになって、旅に出た。
エルコラノに着いたのは昼過ぎだった。ヴェスヴィオス行きのバスが出るには1時間ほどの待ち時間がある。一日に4,5便しか出ていないようで、1時間半か2時間に1度くらい行き来しているみたいだ。
僕らはとりあえず昼飯にしようと思い、近くにパン屋さんを見つけたので、そこでパンを買うこととした。
パンを買ってお金を払う。
その時、僕はふいに、銃を突きつけられた。
「よこせ」と、銃を持つ何者かは言った。
イタリアはナポリ、少し外れたとは言え、恐ろしい街だ。二人組みの強盗が僕を襲う。
人生で初めて、銃を突きつけらた。
「いいから、パンを寄こせ」
パン?
彼が欲しいのはパンだった。
僕は邪魔くさくなった。
「いいからあっち行け!」
「寄こせ、寄こせよ」と、彼は言う。
僕に銃を突きつけたのは、まだ小学生にも満たない男の子二人組みだ。
しかもいかにも、という一目でわかるおもちゃの銃。
「いいから、あっち行け」
僕は二人組みの小学生強盗を追い払った。
まあ、そんな事もありーの、で、パンを食べた後、ヴェスヴィオス火山に向かう。バスは1時間近く掛けて、ヴェスヴィオス山頂付近の場所まで移動、そこから1kmほどは歩いて上ってゆく。
40人くらいの観光客がいて共に上ってゆく。ちゃんとした登山の準備をした人から軽装な人まで様々だ。しかし山は山、それなりの格好をしていった方が正解だ。
気温は地表付近より、5℃~10℃は低い。大した服を着ていかなかった僕は寒かった。
中には半袖にショートパンツの女の子もいる。寒かろう。と僕は思って女の子の顔を見てみる。だけどにこやかに笑っている。
さすが南イタリア人!根っから明るい!
見事に登頂。上は曇っていて、あまり何も見ることができなかった。
小さな山小屋があって、そこでコーヒーとか軽食とか売っている。僕は寒さのあまり、カプチーノを頼む。
「デリシオソ(おいしい)」
寒さの中で飲む泡のカプチーノが心身を温めてくれた。
少しだけ雲が晴れると、ナポリの街並みがわずかに見えた。晴れたらきっとナポリの街並み、ポンペイの遺跡、カプリ島に海、ソレントの海岸とかが見渡せて美しいのだろうと思った。
わずかに晴れた瞬間を狙って、写真を撮った、がもちろん、後々その写真はただの雲を撮ったものでしかないことを思い知らされる。
ドイツ人の夫婦にお願いして、写真も撮ってもらった。奥さんはわずかな雲の違いによって、二度シャッターを押したが、どちらも変わらない。バックは雲、ただの間違え探しみたいに同じ写真が二つ撮れただけだった。と日本に帰ってきて、現像して知ることとなる。
そんな時間を過ごし、ナポリのユースホステルに帰った。
友人Hは元気そうで、たくさんの日本人に囲まれていた。ここでもローマと同様、日本人集団が集まっていた。そしていろいろ食べ物の話をしたそうで、ナポリの薄焼きのうまいピッツァマルゲリータを食べたという。その店は僕が行ったらしまっていて、食べることはできなかった。
とにもかくにも、明日はうまいパスタを食べに行こう、という事に決まった。
初めての一人旅、不安もなく、自由の楽しみを知る一日となった。そしてこの一日が、この先のいくつかの別れ道の始まりとなるのだが、その事はまだしばらく先の事となる。
ナポリの二日はそうして過ぎていった。
つづく
EmT.16 ローマの休日
1999年10月16日、僕と友人Hはローマの日本人宿で集まった10人近い日本連中とトラットリアに行き、ディナーを楽しんでいた。ような気がする。
前日にフィウミンチノの野宿から生還して、ローマに着いた僕らを待っていたのは、犬を散歩する髭を生やした男だった。彼は僕らを日本人が多く集まるという宿に連れて行ってくれた。
ローマの古くさいビルの中に、その宿はあった。
僕らの前には先客がいて、カウンターで手続きをしている。見たことのあるような後姿。でも、『そんなはずはないだろう、何しろ旅なのだから』と僕は思う。
だけどその後姿の人物は、僕らの知る人物だった。
「Y君!」
ミラノのユースホステルで一緒だったY君だった。彼はイタリアサッカーセリエA旅行をしていて、今度はローマダービーだか何かを見に、ローマへ来たそうだ。
これは偶然だろうか?必然だろうか?
ただ、ローマではたくさんの日本人に出会った。たくさん出会いすぎて、誰がいつどこで出会った誰だったかさえ、もはや覚えていない。
記憶を思い出そうとする。
ダメだ、うまくいかない。
僕は友人Hはローマ観光をした。その時は二人だった気がする。
コロッセオに行って、歩いて真実の口へ。タクシーに乗って、混んだ道を行き、トレビの泉着。最後にスペイン階段でまったりとした時間を過ごす。お決まりのコースだった。
夜、寝るときには、アメリカ人の女の子が一緒の部屋に一人居た。
たしか僕らと同じ年だった。友人Hは当時ふけて見られたが、アメリカ人の女の子に、「トエンティートゥー」といったら、「そのくらいね」と言われて、喜んでいたのを思い出す。
10月16日は、ヴァチカンに行った。
大阪出身のU君という人物が一緒だった。なんとなくとっつきにくい人だったような気がする。記憶はかなりない。その日の記憶はかなり薄らいでいる。
ヴァチカンには2度行っている。もう一度は10月21日である。もう少し先の話で、その時はヴァチカンミュージアムに行っていて、16日よりもたくさんの記憶がある。。だから10月16日何をやっていたのか?というと記憶がはっきり出てこない。僕にはヴァチカンの外で撮った友人Htとの記念写真が残っていて、それはU君が撮ってくれた写真だったという事は確かだ。
いろいろな人と出会ったのは、21日の事だったかもしれない。皆で飯を食ったのも21日だったかもしれない。それは別の宿だった。
この記憶の曖昧さは何だろう?旅行記にならない。あまりに曖昧すぎる記憶、いくつかの思い出深い出来事もあるのだけれど、それは全て21日の出来事だったような気がする。
あの日本人宿は確かダニがいて、友人Hが食われた。だから翌日は別のところに泊まった?いや、二泊したような気がする。
記憶がはっきりしてこない。
なんだか、忘れてしまったみたいだ。
僕はあの時の気持ちにもなれないし、あの日の記憶もない。自分じゃない誰かの話を探しているかのようだ。
今日は記憶が崩壊している。
でも確かに1999年10月16日、僕はローマにいた。その事は定かなんだけど、1999年10月16日の記録はかなり壊れてしまっている。ファイルの修復は不可能みたいだ。
記憶、ブロークン。そんな日もある。いつか思い出すこともあるだろうか?
つづく。
EmT.15 フィウミンチノ
1999年10月15日朝、ローマのテルミニ駅に着いた時は、すでにヘトヘトになっている僕と友人Hだった。
話は前日に戻る。
フィレンチェでの楽しい時間を満喫した僕と友人Hは、電車に乗って、アッシジを目指していた。アッシジは丘の上の城壁の街で、そこからの平原の眺めが美しいということで有名な観光地だ。
僕はそんな美しい景色を見てみたいと思ってアッシジに向かっていた。
しかし残念ながら、僕がその風景に出会う事はなかった。乗継駅を間違えたのだ。僕らは降りるべき駅を降りずに通過してしまった。
「まあ、いいじゃねえか」と友人Hは軽々しく言った。
僕はその言葉に少しいらっとしたが、フィレンチェでの楽しい時間があったので、そこまでの苛立ちにはならなかった。
そしてそのまま僕らは列車に乗って、何もない広野を越えて、ラジオの音楽を聴きながら、ローマのテルミニ駅まで辿り着いた。
僕らの旅行の予定から、ローマに着くのはまだ早い気がした。
なので小旅行のつもりで、そこから別の町へ向かう列車に乗ってみた。しばらく海を見ていなかった僕らは海が見たくなったので、海沿いのフィウミンチノという町へと行くことになった。
その町には国内線の空港があるというくらいの情報だけで後はないもわからなかった。
フィウミンチノに着くと、空はすっかり夜になっていた。どこにでもありそうな普通の住宅街だ。
それに少しホテルが多いくらいである。とりあえずどこかに泊まろうと、ホテルを探した。しかし空港のある町であるせいか、どこも混んでいて泊まれない。普通の空いていても結構高くて、貧乏旅行の僕らは泊まる気になれない。そんなあれこれを悩んでいるうちに町のホテルはどこも埋まってゆく。
僕らは駅から離れた方へと向かってゆく。ホテルを探しながら歩いていると、一匹の大きな野良犬が付いてくる。ダルメシアンの模様がないような白い大型犬だった。
犬は道先案内をするかのように僕らに付いてくる。どこかで足を止めれば犬も止め、どこかのホテルに入って出てくればまた犬が僕らを待っていた。
途中、腹のすいた僕らはピッツァリアで、ピザを食べた。しばらくそこでどうするか、コーヒーを飲みながら考えていた。
「まあ、もう一軒行って、ダメだったらローマに戻るしかないな」というのが結論だった。
そのピッツァリアも終る時間になって、店を閉めようとする。
僕らが店を出ると、犬はまだ僕らのことを寝転んで待っていて、僕らが歩き出すと起き上がり付いてきた。
最後のホテルを見つけ、そこに行く。空いてはいたが、値段が高い。2,000円くらいで泊まってきた僕らにとって、一泊7,000円くらいすると実に高い。3泊出来る。その時の僕らの旅行はそんな感じだった。
「あきらめよう。戻ろうか」と、友人Hが言う。
僕も同意して、駅へと戻ってゆく。だいぶ歩いてきたので、駅までは30分以上かかる。犬は起き上がり僕らについてくる。
しかしそんな旅友の犬さんの事を気にしている暇もなく、僕らは駅に急いだ。
「確かこっちだったなあ」みたいに、僕らは適当に歩いてきてしまったので、さほど道を覚えていなかった。
そんなに大きな町ではないし、複雑でもなかったので戻ることはできるはずだった。
結構時間は掛かったが、駅まで辿り着いた。気がつくと、旅友の犬さんはいなくなっていた。犬さんは役目を終えたようにいなくなってしまっていた。
「じゃあ、ローマに戻るか」と思った僕らだが、すでに列車は終っていた。まだ午後10時くらいだったと思うが、最終列車はすでに行ってしまっていたのだ。
決定しました。2度目の野宿です。
そして僕らは野宿ポイントを探す。川の流れる橋の下とか考えるけど、いまいちだ。
なので結局駅側の公衆便所の側に場所をとった。周りが背の高い草に覆われている場所で、ここなら誰もやってこないだろう、というのが決定ポイントだった。しかしペンキでなんだかわからないアルファベットの落書きはしてあるし、あまり気持ちよく眠れそうな場所ではなかった。
それでも僕らはそこで眠った。どこかのヤンキーがやってきて金を奪いにこないかに怯えながら、眠りに就いた。ドイツで野宿した時ほど寒くはなかったので、思ったよりすんなりと眠っていた。ただ目が覚めると、コンクリートの上に寝たので体がひどく痛かった。
一度予定を踏み外すと、ずれにずれてゆく。予定がずれたときはそれを取り戻そうとしてしまうが、無理な行動はしない方がいい、というのが、その時僕の学んだ答えだった。
疲れきって、僕と友人Hはローマに戻る。
大都市で多くの危険もあるはずだが、どこかに眠る場所があるローマという町に、僕らはほっと落ち着いた気がする。
つづく
EmT.14 フィレンチェ
1999年10月13日、フィレンチェのコンドミニアムのダイニングで、40くらいのイタリア人おばさん2人のシチリア島話を聞いていた。
「ヴェリーッシモ、ヴェリーッシモ、ヴェリーーーーシッモ」
丸顔の方のおばちゃんはずっとその言葉ばかりを連呼していた。僕らはこのおばちゃんをヴェリーッシモおばちゃんと命名した。
ヴェリーッシモとは、イタリア語で、すっごいのよ!みたいな意味だ。
ヴェリーッシモおばちゃんはイタリアのシチリアがいかに美しいかを長々と語り続けた。が、僕と友人Hはその内容もほとんど忘れ、とにかくヴェリーッシモという言葉だけは忘れずにしっかり覚える事となった。この後、僕らは旅の中で何かいいものに出会うたびに、やたらとヴェリーッシモと言うようになったのは、当然の結果であるわけだ。
10月12日に、僕らはラヴェンナを出て、イタリアは中世のルネッサンス文化の都市、フィレンチェへとやってきた。ユースホステルに飽きた僕らはこの日、ホテルに泊まろうと駅中のインフォメーションの列に並び、安いホテルを探した。
紹介されたのは、広めの2DKを使用したコンドミニアム、つまり一般のマンションを旅行用に貸し出した部屋だった。部屋は僕ら専用ではなく、隣に二人組がいた。ヴェリーッシモおばちゃんたちだった。
ユースホテルのドミトリー(大部屋)に比べたら、まだ住み心地はいい。ベッドはふかふかしているし、おばちゃんたちと寝る部屋はもちろん別。ダイニングキッチンだけが共同空間になっているだけだ。
その日、おばちゃんたちと顔を合わせた。軽く挨拶をする。ヴェリーッシモおばちゃんは目にクマを作り、くしゅくしゅと鼻を鳴らしている。なんか目がやばい。
僕はふと思った。『ひょっとして、あれをやっているのでは?』
ここはマフィアの国。あれが出回っていて、結構やりまくっていてもおかしくない。
そんな話を友人Hにすると、笑われた。
友人Hの話では、おばちゃんはただ単に風邪を引いているだけだそうだ。
たしかにもう一人の細身のおばちゃんは普通だし、変な気配はない。考えすぎの僕だった。イタリアは結構ちゃんとした国だと思った。
話は変わる。
フィレンチェでは、この旅始まって以来の買い物をした。とは言ってもジーンズ一足だ。
それでも僕らにとってはこの旅始まって以来の高い買い物だった。
駅からコンドミニアムに着くまで街中を歩いていた時、「ナカタ、ナカータ」とあちこちで僕らを呼ぶ声がする。もちろん僕らの名前はナカタではない。この年、イタリアペルージャで大活躍をしていた中田の事だ。
中田はイタリアで一番有名な日本だった。だから彼らは若い日本人の旅行者を見ると皆、「ナカタ、ナカタ」と言って呼び止めるわけだ。
そして呼び止める彼らはただの町の人でなく、たいてい露天商だ。フィレンチェでは通りに露天がずらりと並び、様々なものを売っている。靴や服、どちらかというとおしゃれなものが多い。
僕はその中からジーンズが欲しくなった。
コンドミニアムを出た後、僕らは買い物に出かけた。そして露天で、日本円にして約3,500円で古ジーンズを買った。日本で普通にジーンズを買うよりははるかに安いが、貧乏旅行の僕らにとっては大金だった。
それはLevisの555という代物で、見たことのないブーツカットのジーンズだ。少し汚れがついていたが、それがまたダメージジーンズっぽくていい。サイズも僕にぴったりで、僕はそれを買わずにはいられなかった。
僕はその旅で、いずれそのジーンズばかりを穿いて、旅をすることとなった。
友人Hも確か靴を買った。この時、彼は靴が気に入らず、また後ほど彼は靴を買うこととなる。旅の中の買い物とは怖いものだ。一度一品にこだわるとよりよいそれが欲しくて仕方なくなる。
ちなみに僕もこの旅では、ジーンズを2着、ベルトを2本買う事となる。友人Hの靴のこだわりほどではないが、それはまずもって珍しいことだ。
フィレンチェは楽しい町だった。13日はピッティ宮殿の美術館へ行った。
美術館に入るのもいつ以来になるか、特に興味があるわけでもないが、たくさんの名画が飾られていた。それは有意義な時間に感じられた。
フィレンチェにはミロのヴィーナスもあるが、それがある美術館はあまりにも人が並んでいるのでパスをした。そこには日本人観光客の集団が歩いていて、僕らは何となく不思議な気分でその集団を見ていた。
集団観光客は絵を観る人たちのように街を見学していて、僕らは街の人たちと同じく絵の中にいる人であるかのような、そんな印象を受けた。わかりにくいかもしれないが、そんな感じである。
夜はトラットリアで、パスタを食べた。カニ味噌のおいしいパスタだった。アルデンテではなく、少し平めんの多分生パスタだった。
僕らはこの日一日を、満喫した。宿泊場に帰れば、くしゅんくしゅん鼻をかみながらシチリア島のパレルモの話をするおばちゃんがいて、シチリアを話をする。
朝から晩まで一日中イベントの尽きない一日となった。
フィレンチェ、この街は後にも先にも、僕と友人Hが旅をした中で、最も充実した時間を送れた一日を与えてくれたような気がする。
そんな楽しい一日であった。
つづく
EmT.13 ラヴェンナ
1999年10月11日、イタリアはエーゲ海側の旧都市ラヴェンナにいた。
ヴェネチアでは人が溢れかえっていて、ざわざわした賑わいが止むことがなかったが、ラヴェンナは観光などには興味がないくらい静かだ。
正直な話、ラヴェンナの印象は薄い。
急ぎ足になりつつある僕らの旅行のペースを止めるため、ここでは2泊したが、1泊したくらいの印象しか残っていない。
僕の覚えでは、バナナのイタリアンジェラードがおいしかった。というくらいか。
さすがにそれだけではない。10月11日は、町の中心からモザイク画と呼ばれる壁画を見に、1時間くらい歩いて、それがある教会まで行った。確か、キリストと7匹の羊みたいな内容の絵だったと思う。思い出の中の話なので、実際は全く違うかもしれない(調べればいいのだが)。
モザイク画とは、ドットの色を塗られた小さな石を組み合わせて、一つの絵にした壁画である(と思う)。
それについて、特に印象はなく、見る人が見ればすばらしいのだろうが、僕らにとっては『そういうものだ』というくらいの印象だった。
昨日、ラヴェンナに着いた日、時間が2時くらいで、まだユースホステルが開いてなくて、僕はとてもトイレに行きたくなった。
近くにある施設に入り込み、トイレを探した。カフェと小さな売店があるのだが、ここが何なのかわからない。近くのお年寄りに、とりあえずトイレを聞く。イタリアでも、辞書では、「トイレット」というような言い方をすれば通じるはずだった。
しかしお年よりは全く理解できない。気がつくと、やたらいっぱいのご老人方に囲まれている。
「なんだ、なんだ?」みたいな感じで、僕に尋ねる。
あまりに囲まれて焦った僕は思わず、「バーニョ!」と叫んだ。
「ああ、それなら、あっちだ」と、一人のおじいちゃんが教えてくれた。
そこに行くと確かにトイレだった。通じたのだ。びっくりした。
とは言っても、前世の記憶とか、奇跡とかで出てきた言葉ではない。『バニョ』はスペイン語で『便所』である。僕は旅の前にスペイン語だけは勉強していたので、単語だけは出てくる。スペインもイタリアも同じだった、ということだ。
そして徐々に気づくが、スペイン語もイタリア語もそう大きく大差はない。『~チェ』とか『~ツァ』とか言ったらイタリア語、『~シア』とか『~シオン』とか言ったらスペイン語みたいなくらいの差の言葉が多い。イタリアにスペイン、フランスもそうだが、ラテン語圏、言葉は皆兄弟なんだなと理解した。
ちなみにその施設は後々思うと、イタリアの老人ホームみたいなところではなかったかと思う。
ラヴェンナでは、遊ぶ予定のなかった連休のようにのんびりした時間が過ぎていった。でも長い旅の中では、たまにはこうしたのんびりした時間も悪くないと思う僕なのであった。
だから僕は、特に何をした覚えもないラヴェンナに悪い印象はないのである。
程よい休日。
つづく