小説と未来 -38ページ目

EmT.12 ヴェネチア・・・パドヴァ

1999年10月9日、ヴェローナを出た僕と友人Hはヴェネチアをうろうろしていた。


 水の都ヴェネチアと言われるだけあって、レンガの街のあちこちに狭い運河が流れている。


 あっちもこっちもアーチ状の橋が架かっていて、僕らはあっちこっちと小島から小島に移動するように橋を渡る。

 駅からはしばらく土産屋通りが続く。ここは人通りが多い。


 やがて、サンマルコ広場に出る。ほんとに広い広場にはたくさんの観光客とたくさんのハトがいた。いい場所だけど、お金もなく、でっかいリュックの背負った僕らには落ち着かない場所だ。


 そんなわけで僕らはなるべく人のいない方へ、いない方へと移動した。

 そこには人々の住む場所が広がっていた。ヴェネチアといえども金持ちの豪邸ではない。小さな古い黄土色の壁の小さな家が壁をくっつけて並んでいる。


 さらにあちこちへと橋を渡ったり、小さな運河沿いを歩いていくと、COOPがあった。生活する人の為のスーパーだ。僕らにはこの方が落ち着く。

 

 スーパーでいつものようにパンを買って、昼飯とする。広場のレストランテやカフェに入る気にはなれない。



ヴェネチア。


 大観光都市。

 ここは旅人の街ではない。ツアーで観光に来るのがいい。


 そんなわけで、僕らはいいところ、イタリアンジェラードを口にしたくらいで、十分イタリア観光気分を味わったつもりになって、ヴェネチアを後にした。

 滞在時間はどれくらいだったろう。多分3,4時間程度だったろうか。


 僕らはヴェネチアを離れ、隣町パドヴァに移動した。駅から本日の寝床のユースホステルまでは距離があった。すでに日も暮れていてたが、僕らは2,3kmの道のりを歩いた。

 街はヴェネチアと違い現代的だった。


 パドヴァについては、なんか通りが広かったなあ、なんて印象しかない。

 1日の旅行では印象とは薄いものだ。せわしい旅行になりつつある。そして僕らはこの日、この先しばらく2泊くらいしながら移動するようにしようと思う直すのであった。


旅はただ通り過ぎるものではない。いろいろな経験を得て、次の町へ行くものだ。


それが徐々に僕らが覚えていった旅の楽しみ方だった。


つづく

EmT.11 ヴェローナ

1999年10月8日、ヴェローナの駅周辺は『金網の街』と化していた。


 金網の街?

 いったい何のことやら、と思っていたら、自転車レースが行われていた。道路と歩道の間に臨時の金網が張られ、道路は自転車が走るための専用道となっていた。


 イタリアやフランスでは自転車レースが人気らしく、日本だとしたら、大きなマラソン大会みたいなものだろうか?街中が自転車レースの為に準備される。

 僕らも金網の歩道側に張り付いて、走る自転車選手をイタリアの観客に混じって観戦していた。


 自転車レースを軽く観戦した後は、町の中心になる旧市街地を通っていた。

 ヴェローナはロミオとジュリエットの舞台として知られ、旧市街の細い通りにはジュリエットの家がある。旧市街は石畳の小道が続いていて、ちょっと開けた広場では町の人々が雑談している等、愛らしい光景を見せてくれていた。

 そんな中で、僕がふと目を留めたのは、道端にキャンプ用の小さな椅子を置いて、大きなキャンバスに絵を描いているおじさんだった。おじさんは町の絵を描いていた。きっとプロでもなんでもないのだろうけれど、絵はとても明るくて幸せが溢れている。綺麗な黄色い花が絵に映えていた。

 すぐに通り過ぎてしまい、わずかな時間の出来事だったのだけれど、そんな絵画が今でも忘れられずに思い出される。僕はあの瞬間、その名もない画家にそれまでに感じたことのない感情を抱いた気がする。芸術と美しい街並みと好きな事をするという事、それは生きる楽しみだと思う。


 ヴェローナではユースホステルに泊まった。街中から少し離れた場所にあり、古い教会を改築したような綺麗な建物だった。

 部屋は大部屋で、20台くらいの二段ベッドが並んでいる。ロンドンのストックウェルとはまるで正反対の神聖な香りの漂うユースホステルだった。

 僕らはそんなユースホステルで夕方過ぎまでまったり過ごした。


 日も暮れた頃、スーパーマーケットに買い物に出かけた。ヴェローナを流れる川沿いの道を歩き、小さなスーパーに着く。そして買い物をする。

 僕は友人Hより先に買い物が済んだので、スーパーの外で待っていた。


 その小さなスーパーの入口にはイタリア人とは少し違う感じの若い男が立っていた。そして出てくる人に、「お金を恵んでくれ」みたいな事をぼそりとつぶやいている。手にはお金を入れてもらうための箱を持っていた。『恵まれない国の子の為に』ではなく、もちろん『自分の為に』だ。

 僕はその男と少し話したのか、誰かと話しているのを聞いたのか、忘れたが、確かその男は東ヨーロッパの当時まだ紛争とかがあった頃の場所あたりの出身者だということを知った。つまりは自主的な難民だった。

 でも移ってきたイタリアでも職はない。差別があるのかどうかはわからないが、イタリア人以外がイタリアで職に着くのは難しいのだろう。

 恰幅のいいおじさん3人組が出てきて、おじさんたちはその若者に話しかける。そしてお札を何枚か取り出し、その若者に渡していた。

「おお、いいから使ってくれ」みたな事を言っていたのだろう。

 東ヨーロッパ系の若い男は、「グラッチェ」と何度も何度も言っていた。


 僕はお金を出すこともなく、友人Hが出てくるとそのままその場を立ち去った。

 友人Hにユースホステルに帰りながら、「恰幅のいいおじさんが若者に金を渡していた」という話を、尊敬をこめて話した。でも友人Hの反応は僕が期待していたものと違っていた。

「働かない奴に金をやる事はないんだよ」というのが彼の考え方だった。「ミラノの電車でギターを弾いていたおやじはいい。あれは演奏をして稼いでいる。でも何もやらない奴は何もやらずに金がもらえると思うだろう?そういうのは俺は嫌なんだよ」

 それも一理ある。だけど、立場や気持ちにおいて弱まった人間にお金を与えて、『がんばれよ!』という気持ちで渡してやるのも優しさではないだろうか?

 僕と友人Hは考え方が違った。その考えの違いは不調和でもあるけれど、考え方の違いはお互いを強く刺激し合う事になったに違いない。


 今では日本でも路上生活者が増えた。でも当時のイタリアでそれ以上に多くの路上生活者がいるように見えた。そして彼らはまた、人種的な面での損もしていた。それが日本とは違うところだ。

 僕はこの旅の中で自分が恵まれていることを感じてもいた。自分は日本人に生まれ、こうして世界を旅する事も出来る。

 この時から僕の考えは少し変わったにちがいない。

『自分には自分にしか出来ない事を出来る可能性が与えられている』

 旅立つ前の日本にいた頃の僕は、自分の立場、学歴社会、学校、教育とかに多くの不満を持っていた。でも旅の中で自分が恵まれている事を感じて、何でも出来る可能性があると思った時から、出来るか出来ないかは自分次第で、自分にはやれるかもしれない可能性が与えられているという事を感じるようになった。

『自分の立場に不満を持って何もしないのはもったいない。自分の立場で今出来る事をする』

 そう思うようになったのは、その時の経験からかもしれない。

 ふとそんな事を思う。


つづく

EmT.10 ミラノ

1999年10月7日、僕と友人Hはミラノにいた。


QT8という地下鉄の駅から歩いて数分のところにあるユースホステルに泊まっていた。

この日、僕らは二人ではなかった。ユースホステルであった同じ日本人のY君が一緒だった。


 Y君は28歳。仕事を辞め、イタリアのサッカー、セリエA観戦旅行のため、一人イタリアを訪れたと言う。彼はこの年にイタリアのヴェネチアに所属していた“名波”と一緒に写った写真を僕らに見せてくれた。

「ちょうどよく、会えたんや」と言っていた気がする。確か関西弁だったような?(イメージか?)

 ちなみにこの年は中田がペルージャにいて、活躍していた年で、イタリアでも超人気だった。だから僕らはある街では歩くたびに「おお、中田、中田」と言われることになる。


 それはそれとして、このY君、サッカー以外の点ではついてない。ユースで1万円くらい入っていた財布をベッドに置いておいたら盗まれたり、ヴェネチアで出会った日本人について行ったら、大してうまくもないのに3万円くらいするイタリア料理を食べる羽目になったり、そんな話をしていた。

「だからイタリアは注意せんといかん」というのが結論だった。

 僕らはユースでは鍵のかかるロッカーを使い、お金は腹の中に隠していた。(海外旅行を警戒して旅に出た僕らは腹巻上の大切な物を隠し持っておける財布をいつも肌身離さずしていた。そしてそこにパスポートやカードや、大切な物を入れておいた)


 確かにイタリアは今までの国と少し違う。振り返り僕はその事を思い出していた。

 一日前に戻る。


 スイスの国境を越え、イタリアに入る。

 この辺りの景色はよく、トンネルを抜けると、アルプスの雪解け水で出来た湖が広がっていた。綺麗な湖畔の町が姿を現す。イタリアの高級避暑地といった感じだ。季節も秋口で涼しく過ごしやすい。アルプスと湖と青い空で、とても壮大だ。

 そんなときに突然、警官が来て、バッグの中の荷物を調べられた。パスポートも要求された。電車内だ。疑う余事もない。警官に何かを調べられたのだ。マフィアの国だけあって、麻薬か何かを調べられたのだろうか?ここまでの国境越えにおいてはそんな事がなかった。

 不気味だ。


 イタリア、ミラノの駅に着いて、そこからは地下鉄で移動した。突然車内でギターを弾きだすおじさんが現れる。一緒にいた女性がケースに金を入れてくれとせがむ。僕らはそれをあまり見ないようにしていた。

 そんな光景は電車を降りてからも変わりない。あちらこちらに貧乏人がいて、なにやらやって金をせがんでいる。


 イタリアリラを下ろして、僕らはまず腹ごしらえに、マクドナルドに行った。

 一番大きい紙幣を出したら、店員のお姉ちゃんに嫌な顔をされた。この国ではでかい札を出すと嫌な顔をされる。基本的には皆小金しか持っていないということか。なら銀行からでかい金出てくるんじゃねえよ!と言いたかった。

 ちなみにイタリア通貨、リラには戸惑った。

 当時100リラが5.75円だった。だから1万リラでも575円。10万リラでやっと5,750円だ。普通に5,000円程度を出しても、10万リラ。マクドナルドのハンバーガーが5000リラとか言われてもなんか高いような気にさせられる。でも20万リラとか普通に持っているから、金持ちになった気もする。

 慣れるまではなんだかいつも損をした気分になっていた。


 そんなこんながあり、イタリアはお金に注意しないといけないと思ったわけである。


 僕らはこの日、そのY君とそれなりに一緒に行動した。長い時間ではなかったと思う。彼はミラノダービーのチケットを手に入れるだのなんだのやる事があり忙しかったのだと思う。そしてそれなりの会話をした。

 しかしそれのみに限らず、このY君とはこの旅で3度出会う事となる。旅とは時として予想外の偶然をもたらすものだ。


 10月7日、僕と友人Hはミラノを散策した。しかしミラノはイタリアでは金持ちの街。ファッションやなにやらで来るにはいいが、僕らにはあまりおもしろい街ではなかった。

 観光として、最後の晩餐は見に行った。でも後は大した記憶もない。

 得た知識としては、ミラノのピザは厚焼きだということ。きのこはフンギということ。

 それからレストランテではパスタだけを頼んではいけない。ちゃんと前菜、パスタ、メイン、デザート、コーヒーという順に頼む必要がある。ということ。


 僕らがやらかした失敗談。

 イタリアにきたらパスタだろう?と思い、適当に入ったレストランテでパスタを頼んだ。そして量の少ないパスタを食べ、それだけで出てきた。

 やけに量の少ないパスタだな、とがっかりした。しかもお店のおばちゃんは不満そうな目で僕らが出て行くのを見ていた。なんだか嫌な店だと勝手に思い込んでいた。

 イタリアにはイタリアの常識がある。ピザを食うにはピッツァリア、安く気兼ねなく食うならトラットリア。レストランテではしっかりとコースを頼んで食べないといけない。

 だからレストランテでパスタしか食べない僕らがむしろお店にとって嫌がらせだったわけである。


 ミラノは僕らにとって、イタリア入門の街となった。

 そして僕らはこの後、長い長いイタリアのいろいろを味わうこととなる。そのいろいろが今の僕を形成している一要因になっているのかもしれない。なんて思うくらい、イタリアは長く思い出深い地となった。


つづく

EmT.9 インターラーケン~グリーンデルワルト


 澄んだ清かな空気に、カランコロンカランコロンと鈴の音が鳴り響いた。道路沿いから緑の草原に目をやると、首に鈴輪を付けた牛がモーーーーッといって鳴いていた。


 1999年10月5日、僕と友人Hはインターラーケンからグリーンデルワルトに向けてマウンテンバイクをゆっくりと漕いで進んでいた。

 前日にフュッセンを出発した僕らは一日かけて移動し、4カ国目となるスイスのインターラーケンにやってきた。インターラーケンはアルプスの登山客が集まる観光都市だ。でも僕らはもちろん登山をしに来たわけでもなく、立ち寄っただけである。スイスにも色々な町があるが、なぜインターラーケンに寄ったか理由ははっきりと覚えていないが、友人Hが知っていたというのが理由だったと思う。


 泊まったユースホステルにはレンタルできるマウンテンバイクが置いてあった。それだけの理由で、僕らはサイクリングをすることとなった。

 サイクリングといっても山登りだ。平坦な道を進んでゆくわけではない。それほどの急斜面ではないが、上り坂はけっこうきつい。それでも空気は澄んで、風は心地よかった。何も持ってきていない僕らはひたすら自転車を漕いで進むしかなかった。

 僕らはまだ若かった。息切れはしても体力は十分にあった。この時の僕はまさか10年後に日本でチャリを走らせて旅するとは想像もしていなかっただろう。あの時の若さがあれば去年の旅はもっと楽だったろう(余談)。

 途中にはスイスの天然水が飲める水場があった。水も持たずに走っていて、喉の渇いた僕らはその水を浴びるように飲んで復活した。ただで飲める生のミネラルウオーター、とってもうまかった。


 そして僕らはグリーンデルワルトまで行き着いた。本来、インターラーケンからグリーンデルワルトには登山鉄道があり、それで行くことができる。僕らはマウンテンバイクでやってきたが、行き着いてしまうとなんてことはない。当たり前に観光用のお店や泊まるためのペンションがあって特に感動するものはない。

 登山客はここからスタートする人もいる。でも僕らはそこまでの間にある美しい景色を目にした。広がる草原にアルプスの山々、小さな小屋、スイスだなといった光景を目にしてきた。

 いつだって大切なのはゴール地点じゃない。ゴールまで辿り着くのは目的の達成に必要だけど、楽しかった思い出はそこに行き着くまでの道のりにある。だから僕らにとってそこは十分なゴール地点だった。


 スイスに泊まったのは、このインターラーケンの二日だけだった。

 サイクリング以外に覚えていることと言えば、カマンベールチーズがおいしかったことを覚えている。スーパーで買った普通のカマンベールチーズだったがこれがいい塩加減でうまい。虫入りだったので、嫌な人は嫌かもしれないが、僕は今でもあれはうまかったと覚えている。そしてカマンベールチーズが好きになった。

 

 旅には旅でしか味わえない楽しみがある。それは四方から鳴り響く音であったり、匂いであったり、体感した事であったり、360度見渡した景色であったり、味わった食べ物であったりする。これらは映像やら何やらでは味わえない。

 僕はスイスに来て、また一つ旅の楽しみに嵌っていった。そんなスイスでの体験だった。


つづく

EmT.8 フュッセン

1999年10月3日、朝早く、フュッセンの駅に着いた。


 列車は急な山道を上ってきたので、町は結構高い位置にあるはずだ。気温はおそらく10℃ちょっとしかなかったろう。だが町の人は半袖で歩いている。慣れとは怖いものだ。


 僕と友人Hは駅のカフェでしばらく体を暖めながら時間を潰し、9時くらいに「歩き方」に載っていたペンションを訪れた。老夫婦でやっていると書いてあったが出てきたのは老婆だけだった。

 おばあさんは朝早くから訪れた僕らを快く迎え入れてくれた。普通のホテルなら15時過ぎでもなければチェックインできないものだが、おばあさんは僕らを空いている部屋に入れてくれた。白い部屋で温かかった覚えがある。水が澄んでいて綺麗だった。水道水も飲めたかもしれない。ここまでは全てペットボトルだ。

 野宿の昨夜を送っただから、僕らはしばらくベッドで休んだ。やっと心休まる時間だった。


 午後、体を起こした僕らはノインヴァンシュタイン城へと向かった。フュッセンの名所である。

 世界的にも有名なお城だ。お城というのも色々あるが、ドイツのノインヴァンシュタイン城は、お城と言ったら思いつく、あのお城の形をしていて知られている。つまりは、シンデレラ城とか、ディズニーランドの城とか、あの形のお城だ。

 バスで移動して、お城のある山のふもとまで移動。そこから山の上にお城が見えた。空は曇っていたが、お城まで雲がかかるほどではなかった。

 お城まではロープウェーで上ることが出来るのだが、お金のない僕らは頂上目指して歩いて上ることとした。あたりはトレッキングコースとなっていて、整備された土の道があちこちに別れて広がっている。僕らは観光案内所で地図を手に入れ、それを基に、ノインヴァンシュタイン城の入口を目指した。

 山の入口ではあれほどはっきり見えたお城も山に入ると木々に隠れ、どこだかわからなくなる。とりあえず簡易な地図だけを頼りに上ってゆく。

 しかしこのパターンはたいていうまくいかない。時々木々の抜けたところで見えるお城の方向を目指した僕らだが、辿り着いたのはお城の裏側だった。城壁が阻み、そこから中には入る事ができない。

「やれやれ」

「まあいいか」

 でも僕と友人Hは特にがっかりしてはいなかった。多分、恋人を連れて来て、こんな目にあったらおそらく最悪な結果となるだろう。もちろんその前にそれならそれで確実にロープウェーを選択するはずだ。

 多分僕らはお互いにそのお城にそこまで興味がなかったのだろう。そして山の中を散策した楽しみで十分だった。しかも前日の野宿でもういろいろとどうでも良くなっている。そろそろ帰りたい。

 だから結局お城には行かないまま、僕らは山を降りた。

 後は街まで戻り、フュッセンの街並みを散策した。山の中の避暑地といった感じだ。ドイツはどこへ行っても刺激的な感じはないが、どこも落ち着いている。僕の個人的な感想としてはどことなく日本の観光地っぽい。そんな気がする。


 フュッセンでの出来事は他にはほとんど覚えていない。記憶は少しずつ薄まっていく。思い返さなかった土地の思い出はかなり消えていったように思う。


 あの日、後僕は何をしていたのだろう?思い返す気もさしてない。ただ寝ていただけかもしれない。そんな日もあった事だろう。

 そしてフュッセンでの一日は過ぎていった。


つづく