メタとは、「高次な-」「超-」「-間の」「-を含んだ」「ーを入れた」「-の後ろの」等の意味の接頭語で、単独ではあまり使われません。しかし私の場合、このメタからいろいろなことを考え始めたのです。

 

最初に出てきたのは「メタ認知」です。これまた簡単なようで難解なものだったのです。

メタ認知とは、自己の認知活動(知覚、情動、記憶、思考など)を客観的に捉え、評価した上で制御することを意味します。

 

例えば「はしご」を考えてみましょう。

はしごは普段はあまり使われません。使うのは、高いところに上るとき、つまり二階に上がる場合には階段(つまりはしご)を使います。階段とはしごの違いは、固定されているか、そうでないかの違いです。

 

私たちは、はしごを見るとその段階で、はしごの役割をすぐに認知できます。しかしいろいろな道具と同じように初めての道具の場合、どのようにして使うのか、何のために使うのかが分からない事もあります。多くの人達は多くの経験から、道具に近い存在(造形物)の役割を予測できます。

 

階段の場合、設置の向きが存在します。上下、左右、裏表と色々です。しかしはしごの場合、上下、左右、裏表を無視できます。つまりこれもメタ認知の一つと考えてよいでしょう。

 

事実を客観的にとらえるとは、つまり誰でも同じように考えると置き換えてもいいでしょう。

はしごを見てその使い方はいろいろですが、上に上がるというのが一般的です。しかしはしごには、別の使い方が存在します。つまり深く掘った穴に降りるときにもはしごは使われます。

 

つまりはしごは、登ったり、下ったりするときに使う道具と考えることが出来ます。しかしそれだけではありません。例えば、地面に円を描くときにも使用されているのです。これは意外な展開でしょう。田植えなどのときに植える場所を設定する道具としても使われます。サイズは少し異なります。

 

教官だった時、いろいろな論文を書きました。30代の頃が多かったように思います。以前と違って、最近では、結構古い時代の論文も見られるようになりました。つまり私の論文もその殆どが閲覧可能なのです。さらに他の人達が閲覧した数も分かります。

 

ある論文は数千件の閲覧が記録されていました。私にとっては意外なものでした。その論文は授業分析に関するもので、これだけが突出して閲覧が多かったのです。現在においても確かに授業分析は日常的に必要なものかもしれません。しかしこの分野は進んでいるようであまり進んでいません。教育方法つまり授業の内容も大きくは変化していないのです。

 

研究職という環境は、ある意味で閉鎖的です。つまり研究一筋とはいっても、私の場合、いろいろな分野に手を出して、どれが専門か分からない状態になっていました。そんな状態で大学を脱出し、民間で働くようになったのです。でも結果的にこれで良かったのではと思っています。

 

同期のメンバーはほとんどが教授になり、既に退官して消息も分からなくなりました。多分働いているのは私だけかもしれません。私の故郷では「死ぬ三日前までは働く」と言われてきました。当然のように私もそのようなものだと思っていました。つまり隠居なんて考えたことがないのです。そんな私ですから隠居なんて飽きてしまい多分できないと思います。

 

さて、メタ認知はさらに進みました。

私の時代の多くの論文は、「仮説を立て、それをいろいろな方法で検証する(証明する)こと」という考えで書かれています。もちろんこの考えと方法は今でも行われています。もちろん研究者はこの方法で研究成果を上げてきたと考えてよいでしょう。

 

しかしインターネットやAiの時代の研究論文は少し変わってきたのです。ダーウィンの考え方でさえ、見直されるようになったのです。彼は種の形成理論を構築しました。全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、彼が自然選択と呼んだプロセスを通して進化したことを明らかにしたのです。しかしこの考えにも疑問符が打たれるようになったのです。私にとっても意外な展開でした。短い期間でも突然変異が起きる可能性が高いことが明らかになってきたのです。

 

メタ認知で大きな問題だったのは、人の存在でした。

「宇宙は人が存在することによって認知された」つまり「人が存在しなければ宇宙は存在しない」と言う意味にもとらえられるのです。ここで想定は「人がここに存在しなかった場合」が対極としてあるのです。「犬がいても、猫がいても、蛸がいても、鯨がいても、チンパンジーがいても・・・」と言うことなのです。さらにこれは量子力学的にも証明されているというから驚きです。

 

現実に私が苦労したのは、メタ認知という考えを使う、つまり利用する場合のことでした。

どうやってメタ認知を使うのか分からなかったのです。もちろん漠然とは分かっているつもりでも、現実はそんなには簡単ではなかったのです。

 

 

関連していろいろな研究者の本を読んでみました。中でも野中郁次郎さんの本が多かったように思います。『失敗の本質』「新製品開発のプロセス」「ナレッジマネジメント」・・・

野中郁次郎さんの考えは、西洋は主に形式知、東洋は暗黙知重視の文化を持っており、日本企業が優れているのは組織の成員がもっている暗黙知と形式知をうまくダイナミックに連動させて経営するところにある、と説明しています。日本の場合、飲み会などの「場」を通じての暗黙知の共有、暗黙知の形式知化を促すコンセプト設定などが例として挙げられていました。この暗黙知と形式知のダイナミックな連動を理論化したものとしてSECIモデルが登場しました。なかなか興味深いモデルなのです。

 

しかし、これでも私の頭の中はまだしっくりしませんでした。最初は何かが足りたいと考えていたのです。しかし最終的に近づいたのは、何かを捨てるという考え方でした。つまりこれまでの考え方を捨てるというより、破壊する必要があったのです。捨てると破壊の違いは、捨てるには、拾うという副産物が付いてくるのですが、破壊にはそれがないのです。破壊には消滅させることも含まれているからです。

 

もう一つの誘惑はオントロジーの世界でした。デモこれもパス

 

オグデンとリチャーズの「意味の意味」という本を読んだとき、私は数ページまでは読み進んだものの先に進めなかったのです。他の人のことはわかりませんが、私にとっては難解な本でした。

手に取った本の中で、こんな経験は初めてでした。だからかもしれません。最後まで捨てられなかった本なのです。この文章を書いているときも、後ろの書架から私をにらみつけているのです(笑)石橋幸太郎さんに訳に難つけるほどの勇気もなかったのです。この本を買ったのは1980年だったと思います。

 

メタ認知への挑戦は今でも続いています。そろそろ諦めときなのかもしれません。