迷わない生き方・決断できる方法

迷ったときに決断できる方法、正しい選択、後悔しない生き方ができるよう解説します。
ヨーガノンデュアリティーを生活に取り入れることで実現します。


仏教で生まれたマインドフルネス瞑想も取り入れています。
マインドフルネス瞑想の基になったヴィパッサナー瞑想は、正統ヨーガの確立に貢献しました。


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a r h a t s h i p @ d o c o m o . n e . j p

  • 06Jul
    • 児童虐待と犯罪と知能指数の無視できない関係とメタ認知能力

      性格について心理学で勉強しても、犯罪心理だけは次元が違うように感じられた。マナーをどんなに指導しても、解説の段階で受講者はつまずくので、うすうす脳科学的な問題に思われた。悪意は心理学では説明しきれないのかもしれない。そう気づいていたときだった。この本に出合った。ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書)Amazon(アマゾン)713円この本では、受刑者の平均IQの低さを取り上げ、IQが低いとどのようになるかの説明に主眼を置いている。書籍名も正にその驚きを伝える効果を担っていて、社会的反響も大きく、とても売れているようだ。もしも犯罪のほとんどがIQの低さこそ原因であるならば、単純な悪人なのではなく、ただ理解力がないことによる弊害が出ているということである。この点において、児童虐待も同列だ。児童虐待について調べていた際に読んだ次の本も、正に同じ視点に立つ本であった。児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか (朝日新書)Amazon(アマゾン)827〜4,850円こちらの本では、さらに耳をふさぎたくなるような残酷な歴史的事実にも触れている。デリケートなかたは目を通すにはつらいかもしれない。残酷な歴史的事実については別の機会に触れるとして、IQが低いとはどういうことなのか、わたしたちはついに理解する時代が来たようだ。上記の2冊のどちらでも、低IQ者で「知的障害」の診断がされていない「低IQと平均IQの境目」が犯罪者になりやすいと警鐘を鳴らしている。脳科学的に理解力が乏しいのに「理解せよ」と社会から強要され、「反省が足りない」「やる気がない」と罵られる。「できて当たり前だ」として突き放される彼らは、できていないことを隠してできているふりをするようになる。そうしないと、見放されてしまうからだ。そして、恐ろしいことに「犯罪を犯罪として認知していない」可能性すらあるのだ。低IQ者の研究は、犯罪予防のために急務であるだろう。ちょっとここで、明日発売のわたしの書籍で触れている内容の解説をしたい。わたし、まちがってるかな?: 人間関係を円滑にする2つの方法 (∞books(ムゲンブックス) - デザインエッグ社)Amazon(アマゾン)1,991円この本ではIQには触れないようにした。いわゆる「IQとは無関係のところで人間関係をどうしたらいいか」を示したものである。性格とは4種類の価値観を持った人間がいることを示し、人間関係でトラブルが起きるということは、お互いに勘違いが起きるということである。この点においてはIQは無関係だ。ただ、もう一つ、脳科学的な機能が関係している。それは「メタ認知」能力である。この本では「メタ認知」能力が高くないと理解できない問いかけを載せた。「メタ認知」能力も近年注目されている脳機能である。ビジネス書ではマネージメント能力として有用な人材に必須とされている。「メタ認知」能力が低くても犯罪に直結しないが、生育環境によっては凶悪犯罪者になりうると犯罪心理学ではいわれている。興味深いことに、人間は一生向上させることができる脳機能は記憶力のほか、この「メタ認知」能力なのである。あなた自身の「メタ認知」能力を確認するために、この書籍の前半部分にある「感謝はだれのために」問題を読んでみてはどうか。この問いかけに答えられる人は驚くほど少ない。

  • 24Jun
    • 人間関係を円滑にする本を書いた!

      2020年7月7日に、わたしの本が出版されます!わたし、まちがってるかな?: 人間関係を円滑にする2つの方法 (∞books(ムゲンブックス) - デザインエッグ社)Amazon(アマゾン)1,991円「あめいじゅ」10周年記念で企画して執筆いたしました。カウンセリングの仕事14年のキャリアから、人間関係の悩みの本質に迫り、悩みから解放される方法を解いています。そのほか、「あめいじゅ」の軌跡にも触れています。Amazonで買うと発売日に届くとのことですので、人間って何なんだろう?とか、人間関係カンタンにできないかな?と悩んでいるかたは、ぜひ一読をオススメいたします!

  • 25Mar
    • 斟酌とは何かに迫るの画像

      斟酌とは何かに迫る

      ここまでざっくりとマナーについて解説した。マナーは守ればいいということではなく、そこには明確な有効性があって、その有効性に沿って活用することで、マナーを守ることからの恩恵を最大限に生かすことができる。間違っても、「マナーを守らない人は悪い人だ」とか「マナーを守れば尊敬される」ということではないのだ。この有効性を理解すると、習っていないマナーであっても、どう対応したら正解なのかがわかるようになる。それがいわば斟酌となる。マナーをわかっている人というのは、たくさんあるマナーを覚えている人なのではなくて、斟酌によって正解がわかり、対応を間違えない人ということなのである。ここまで来て初めて「自分の判断で状況を間違えず失敗しない人」「尊敬される人」となるのだ。その観点から、もう一度振り返ってみよう。(1)あいさつする解説したとおり「私は不審人物ではありませんよ」と周囲に知らせるためのものである。斟酌で考えるならば「大きい声であいさつする」というのは、元気さを伝えるものではなく、場の空気を明るくするためのものでもなく、「相手に聞こえるようにあいさつする」という意味なのである。大きい声であっても機械的であったり、怒鳴りつけているような大声であったりすれば失礼である。それはもはやマナーではない。あいさつしない人間に遭遇したら、その人はなぜあいさつをしないのかを調べる。体調が悪いのか、不審な行動をしているのか、さまざまな悪いシナリオを想定して対応できるように準備しておけば、気配りがある人としてあなたは尊敬される。まずは相手が関係者であるならば「体調が悪いんですか?」と本人に確認する。相手の返答によって次の対応を考える。心配してくれただけでも感謝されることは多い。相手が関係者ではない場合、周囲の人に確認したり、本人に確認したりする。そうすることで、不審者が不審な行動をすることを避けることができる。周囲の人はあなたの的確な行動を評価したり、勇気をたたえたりするだろう。抜け目がない行動に、あなたの信頼はさらに高まる。(2)頼むときはお願いする頼み事をしているのに、相手が引き受けると決めてかかっているかのように扱い、本人の同意を取り付けようとしないことは、相手に対して敬意がない、無礼な行為である。たとえ、自分の立場が上であってもである。むしろ自分が上であるならば、下の者への計らいがあることで尊敬される。その計らいとは小言によって実現できるものではないし、干渉することでよい結果になるものでもない。マネージメントとは命令ではなく、提案である。命令とは組織としての方向を示すものであり、その方向に沿って一人一人に同意を取り付ける。同意されない場合、その異議申し立てを受け付け、改善の余地があれば管理者にフィードバックする。改善の余地がなく、同意も取れない場合、本人に組織上の評価が下がることを伝え、昇進は絶望的であろう。このように、命令とは絶対ではなく、命令に従うか従わずに異議を申し立てるかの自由意思を各自が持っている。その自由意思を尊重して、斟酌は求められる。会社組織などに限定されるものではなく、家族間における教育方針などにも当てはまる。(3)助けてもらったときには感謝する仕事で手伝ってもらった以外にも、食事を作ってもらったとか、技術を教えてもらったなどさまざまな場面で当てはまる。厳密には、仕事の報酬は給与、夫婦間や恋愛関係における手作りの食事などは役割分担、技術は学費等、それぞれに相当の報酬があるが、報酬があるからお礼を言わなくてもいいということはないし、報酬がないからお礼を言わなければいけないというルールも存在しない。「お礼を言う」とは「相手が自分自身のことではないのに、わざわざ私のために働いてくれたという事実をちゃんと認識していますよ」という表明であり、「恩に感じています」という意思表示である。この意思表示によって、報酬が支払われるということである。役割分担なら、こちらが相手のために働く。「お礼を言う」ことによって、相手の労力を評価している表明をし、後で報酬などで「お礼をする」意思表示だということである。十分にお礼をすることができない場合は、お断りをすることが求められる。「してくれると言うから、甘えていいだろう」という理屈は通らない。注意点を付け加えておこう。命を救ってくれたから、命の価値を考えて、お礼をし続けなければならないという理屈も通らない。「命が助かった」という結果への報酬ではなく、あくまでも労力に対する報酬となる。おぼれているときに助けてもらったのなら、泳いだ労力と、衣服を汚してしまったことへの弁償程度である。このように、労力に対し、報酬とは別に感謝の気持ちを伝えることは、義理に厚い印象を与えて尊敬される。反対に、感謝の気持ちだけを伝えて、報酬がない場合は口先だけの人間だとして、さげすまされる。金品にこだわらず、同等の労力でも報酬となる。これを助け合いと言う。(4)相手の目を見て話す「相手の目を見て聞く」として解説した。会話に集中していることの意思表示となる。会話をぞんざいに扱わないということは、丁寧な人、まめな人、誠実な人という印象を与える。いいかげんではない人という信用につながり、尊敬される。反対に、自分のことばかり話し、相手の話を聞かない人間は自己中心的とされ、さげすまされる。(5)うそをつかない平均的な人々には「うそをついていい場面」と「うそをついてはいけない場面」の区別は難しい。後日、詳しい解説はするが、ここで簡単に申し上げるなら、後で真実がわかってしまったときに、相手に不快感を与えてしまううそはついてはいけない。ここでいう不快感とは、自分が正しくても、相手が不快感を抱くならアウトである。相手のためを思ってついたうそでもである。何が正しくて、何が間違っているかは、一人一人の価値観による。相手の価値観に照らして、このタイミングでうそをついていいかどうかを考えないといけない。その価値観は人類に4パターンあり、相手が自分と同じ価値観とは限らない。「得をさせてくれる相手ならうそを許す人」「好きな相手ならうそを許す人」「誠意があればうそを許す人」「同情できればうそを許す人」といったようにさまざまである。その価値観に照らして、相手を思ってうそをついたのなら、相手はむしろ感謝してくれる。気遣いなく、ただ正直であればいいというものでもない。正直過ぎても、気遣いがないとされることがある。斟酌という意味では、相手の価値観に沿ってあげることが尊敬を集める。自分の価値観が素晴らしいものであっても、その価値観を選ぶかどうかは相手の自由であり、あなたは相手に押し付けてはならない。このように、うそをついていいかどうかの判断は非常に難しい。あなたの自由と等しく、相手の自由も尊ばなければならない。相手の価値観を尊重すれば、大きな尊敬を得られることが多い。(6)時間を守る約束した相手がだれであろうとあなたが時間を守るなら、長い年月をかけて信頼と尊敬につながっていく。反対に、相手の足元を見て、あえて遅刻する者は、あざとい人間とされ、心の広さを根拠とする尊敬は集められない。(7)身だしなみを整えるマウンティングすることで尊敬されると思い込んでいると、器が小さい人間だと思われる。清潔感が常に維持されていることによって、何かを頼んでも、何かでお世話になっても、人に紹介しても、トラブルが起きないだろうという安心感を与える。この安心感は信頼につながり、尊敬を集める。これらのマナーに一貫したものが「斟酌」である。大枠でもご理解いただけただろうか。

  • 18Mar
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      「身だしなみを整える」

      身だしなみはマナーだが、身だしなみそのものは自分への評価に直結するものであり、今まで解説したマナーである「時間を守る」「相手の目を見て話す」「助けてもらったときには感謝する」「頼むときはお願いする」「あいさつする」のような、相手に対して何か意思表示をするといった効果はない。その意味では、各自の自由だと言い切ってしまいたいところだが、本気で各自の自由だと思い込んで身だしなみが絶望的になってしまっている人は意外にいる。そういった人たちには、身だしなみがひどいと、どれだけ周囲の人に迷惑をかけるかが理解できない。身だしなみができていない人というのは、いったい何が問題なのであろうか。それは、公私の区別がついていないことである。身だしなみが整っている人というのは、公の場ではみっともないことができないという常識や自尊心がある。反対に身だしなみができていない人の場合は、公の場とプライベートの区別がないために、素の自分をさらけ出したり、普段のだらしなさが露見したりする。身だしなみが整っている人に感じられる信用とは、いざというときに信用できそうだという保険のようなものである。何か頼み事があったり、仲介されて世話になっていたりすると、身だしなみが整っている人に対しては安心感があるが、身だしなみができていない人に対しては不安が募る。余計な心配をさせられるのだ。これは人によっては迷惑である。結果として、身だしなみができていない人とはかかわらないほうがずっと安心して過ごせるので、距離を置くことになる。身だしなみとは、このような社会性にかかわる部分であり、社会性が身についていない人にとっては、まったく理解できない。そこで、あなた自身にこのあたりをご理解いただけているか確認していただくために、質問したい。「身だしなみを整える」とは具体的に何をすればいいのであろうか。頭のいい人から「TPOをわきまえる」という声が聞こえてきそうだ。マナーでは重要視されるし、それこそが身だしなみそのものであるという印象も持たれている。TPOというほどの場面ではない、日常的な人間関係でも身だしなみは問題視される。特別な場面は当然として、日常的な交流では何を最低限、気をつけていれば身だしなみが整っているといえるだろうか。これに答えられた人は社会性があるといえる。そして、意外と多くの人が答えられないでいるだろうと思われる。答えられたつもりの人に誤解がある可能性があるので、もちろん正解も解説する。「身だしなみを整える」とは、おしゃれな格好をするとか、化粧をきっちりするといったことは一切含まれない。このあたりを誤解してブランド品に身を固めたり、化粧を派手にしたりする人がいるが、それは身だしなみではなくマウンティングである。「身だしなみを整える」とは本来、自尊心にかかわりがなく、自尊心がない人に身だしなみができていない人がいるということなのである。人に迷惑をかけない身だしなみとは、注意点をたったひとつだけ押さえるだけでよい。それは、清潔感である。女性の場合、化粧そのものも身だしなみのうちに入ると解釈されるところがあるが、清潔感があるかどうかで判断すればよく、すっぴんでは清潔感が伝わらない場合に限りナチュラルメイク程度にすればよいということである。男性の場合も、清潔であればいいだろうという誤解が多い。無精ひげを生やしたまま、洗顔しているから問題ないということはあり得ない。遠目に見れば無精ひげは汚れた肌に見えるものである。男女共通の問題としては肌の不調や服の染みなども気を配ることで清潔感が伝わるようになる。肌の不調は厳密には身体的特徴であって不潔なものではないが、清潔感という印象としては気を使うことによって効果的だということである。そして、もっとも重要である考え方としては、この清潔感はマウンティングのような効果がないために、相手に誤って不快感を与える心配がない。一言にまとめるなら、身だしなみとは清潔感が信用につながるということだ。性的魅力や紳士淑女的魅力とは無関係なものなのである。これに必要があればTPOがプラスされるということになる。

  • 15Mar
    • 「時間を守る」の画像

      「時間を守る」

      「時間を守る」ことについて、もちろんマナーだとはわかってはいるが、あえて守らないという心理が働くことがある。どうやら、約束した時間を守るということは、相手との関係を丁寧に考えているという気持ちと連動しているようだ。常に時間を守るタイプをAタイプとするなら、あえて守らないという心理が働くタイプをBタイプとしよう。それ以外に、信頼関係が構築されている対等な関係の場合、時間を守らなくても許してもらえるだろうという甘えが生じる者もいる。会社は遅刻しないが、交際相手や友人との約束ではよく遅刻するというケースである。この場合は、先ほどの心理とは同じでなく、自分が遅刻しても許してほしいという感情がある。本人にとって、相手との関係を丁寧に考えていないというつもりはない。このタイプをCタイプとしよう。もうひとつ、相手がだれであろうと遅刻する者もいる。この場合は、相手との関係を丁寧に考えていないというつもりはないばかりか、遅刻しても許してほしいという感情すらなく、ただ自己管理ができていない。それが当たり前となっていて、自分だけではなく、ほかの人間もそうだと固く信じている。時間どおりに到着することがほぼできない。こういったタイプには何度、反省を促しても、自分だけではないと思っているから改善されることがない。このタイプをDタイプとしよう。このように、時間を守るという感覚だけで4タイプに分けることができる。これは性格のせいというわけではなく、人間関係を考える思考の成熟度、コミュニケーションスキルの経験値によるものが大きい。ただ、ここで誤解してはならないのは、社会的に成功している人や、人生経験が豊富な人でも、必ずしもAタイプのような必ず時間を守るという精神にはならないということである。経営者や指導者になると、わざと見せつけるように遅れて登場するという面倒な人間がいるのはそのためである。ここまできて見えてくるのは、AタイプやBタイプのような相手のことを考えて時間を守るタイプと、CタイプとDタイプのような相手のことよりも自分の都合で時間を守るタイプに分かれることが分かる。「そりゃ、そうだ」という声が聞こえそうだが、前者が後者のタイプに腹を立てる理由はわかるだろうか。時間を守ることについて、相手へのリスペクトがあるかどうかが試されていることになるのだ。このあたりを理解していない人間が後者になるといえる。これを心理学では「社会性がない」とされる。本来、マナーとは「自分のことをわかってもらう」ためには機能しない。自分勝手な人はマナーを守らない。相手へのリスペクトがあるかどうかを試されているとは、社会性がない人間にとっては寝耳に水なのである。では、どうしたら自分のことをわかってもらえるのだろうか。社会性がある人からすると「なんてばかなことを言っているのだ」という話だろう。そうなのだが、ここは教えないと理解されるはずがない。はっきりと申し上げるなら、そこまで考える力がないから社会性がないのである。社会性をはぐくむということは、本人に考えさせることではなく、教えて納得させることである。本人が自分で気づけるならば、初めから社会性が身についている話なのである。したがって、わかっている人間がわかっていない人間に教えてあげないと、社会性がない人間はいつまでも改善されないのだ。このことについて、社会性がある人間で多数派だと思われるBタイプにご理解いただくために、わかりやすい話をしよう。社会性がない人間になぜ自分が教えてあげないといけないのかという疑問は、そっくりあなたにも当てはまる。なぜなら、あなた自身がAタイプになれない理由はなんなのか考えたことがあるだろうか。おそらくAタイプの人間になろうと考えたことがないだろう。Aタイプの人間からすれば、BタイプもCタイプもDタイプも同列なのである。BタイプがCタイプやDタイプを見る目と同じなのだ。人間はだれしも「自分は尊敬される側にいる」と思っている。Dタイプでさえそうである。それが原因で反省しない。しかし、Aタイプは教えることを惜しまない。「自分は尊敬される側にいる」とは思っていないからだ。時間を守るか守らないかだけではなく、守らないときはどんなときかで、人間性、その人間の心の大きさ、器が見えてきた。あなたがAタイプでいたいとしても、Bタイプでいたいとしても、Cタイプでいたいとしても、まったくの自由である。その代わり、Bタイプ以下でいる人間が「自分が尊敬される側にいる」と思い込んでいる限り、自分のタイプより上の人間からすれば、みっともなく哀れに映るだろう。さてここで、自分より上のタイプは何が優れているのか。そして、なぜそれが重要なのかについて説明しよう。「自分は尊敬される側にいる」と考えること自体がみっともないのである。自分が尊敬される人間かどうかに関係なく、自分が相手を尊敬することによって、初めて自分が尊敬される価値を生み出す。自分のことがわかってもらえるようになるのだ。それは、常に初対面ではゼロからスタートすることを意味する。相手への尊敬の念を示し続けることによって、自分が尊敬されるという不動の地位を得ることができるのである。しかし、残念ながらCタイプ以下には、相手が先に尊敬の念を示してくるのは自信がないからだと思い込む知能の浅はかさがある。そういった者たちにAタイプがどんなに尊敬の念を持って接しても調子に乗られるだけである。そのため、その不動の地位を獲得するためには、感服したBタイプがそこにいなければならない。Bタイプに対してはCタイプ以下は尊敬の念を抱く。自信があるように見えるからである。Aタイプは本来、すべての人に尊敬されるべき存在だが、このように突き抜けてしまうと理解者が減ってしまうのである。このようなことはどんな分野でもあることだろう。理想的であればあるほど孤高の存在になってしまうのである。そのため、Aタイプであり続けることを断念してしまう者さえいる。それは、承認欲求に負けたからである。究極の理想の人間になるとき、承認欲求からは卒業しなければならないのだ。あなた自身がどんな人間でありたいかという信念こそ、あなたが承認欲求に負けない方法なのである。さらにその上もある。信念すら捨てて理想が維持できるとき、それがさとりと言われるものである。

  • 22Feb
    • 「うそをつかない」マナーの理由をあなたは解説できるかの画像

      「うそをつかない」マナーの理由をあなたは解説できるか

      「うそをつかない」はだれもが本気では思っていないマナーだろう。うそをつかなければいいというものではないから、まさにケースバイケースで対応していると思う。プライバシーを守るためや、社交辞令、所属する組織の責任を負い個人的な意見を控えるなどである。では、なぜわざわざ「うそをつかない」ことをマナーとして教えているのだろうか。これは、単にうそをつかれたくないから、うそをつかないようにと指導しているのだ。つまり、相手があなたにうそをつかれたくない場面では、あなたはうそを言ってはいけないが、相手があなたにうそをつかれてもいい場面では、あなたはうそを言ってもいいということになる。なんだか改めて言わなくてもいいような当たり前の話になってきたが、ここで重要なのは「相手があなたにうそをつかれたくないタイミングを見極める」ことがマナーということなのだ。ところがである。このあたりを勘違いして「みんなは自分の都合でうそをついている」と思い込んで、「自分も事情があればうそをついていい」と判断して正当化し、ばれても無反省どころか、その後も繰り返す人間は非常に多い。さらに厄介なことに、彼らに向かってうそをつかないようお願いすると、「みんなしていることなのに、なぜ自分だけ悪く言われるのか」と被害妄想を募らせ、個人攻撃が始まることがある。個人攻撃がなく無反省でも、個人攻撃があっても、いずれにしろ彼らを反省させて関係を改善することは非常に難しい。信頼関係の構築には絶望的なのだ。とはいえ、彼らも損はしたくない。「反省しなさい」と何度もしかられては、しかる人間に対し不信感を抱くが、反省しているふりをしたほうが得だと気づいてからは、堪忍袋の緒が切れるまではあっさりと反省の態度を示すようになる。反省しているといううそをつくのだ。相当に悪い人間に見えるが、彼らにとっても「自分が正しい」と思う理屈がある。それが「みんなしていることなのに、なぜ自分だけ悪く言われるのか」である。そもそも、自分の勘違いに気づいていないのだ。考えると、ここで私が申し上げた「相手があなたにうそをつかれたくないタイミングを見極める」ことがマナーだと教えてくれた人間を、私は見たことがない。「うそを言っていいときと悪いときがある。それが分からないのか」とあきれられるばかりで、「うそを言っていいとき」と「うそを言ってはだめなとき」の区別を説明できる人間はそうそういない。おそらくだれも考えたことがないし、いつも感覚的に判断していて、ぼんやりとしたその感覚を信じるだけで、いざ説明を求められると言葉にできず困惑するのだ。あなたが説明に困るような問題は、だれにとっても難しい問題なのである。だからこそ、そのわからないことで人に怒ってはいけないし、怒られても被害妄想に陥る必要はない。説明できる人間がほとんどいない問題は、人間の平均的な知能では理解が難しいという証明である。人間の平均的な知能はIQ100とされているが、その上にも下にも均等に広がり、IQ80の人もIQ120の人も決してめずらしくない。IQ100近辺に約半数の人間が集中しているというから、IQ100で理解できない問題はほとんどの人が理解できない問題であるといえる。したがって、マナーでいわれる「うそをつかない」は、「うそを言っていいとき」と「うそを言ってはだめなとき」を見極めることこそがマナーだが、それをどう区別するかの方法を理解する知能の個人差があるため、これをもってその人をののしっていいという口実にはならない。理解できる知能を持った人にヒントを与えるなら、「相手の身になって考える」である。それも今だけではなく、この嘘を見抜かれたときに相手がどう思うかといった未来を想像する知能が必要である。「相手の身になって考える」ことも知能が高くなければできないが、未来のことを想像することもある程度の知能を必要とする。もしも、あなたがこれを簡単に想像できるのなら、あなたは知能が高い可能性がある。そんなあなたにお願いしたい。理解できない人間をののしったり、しかったりしないでほしい。丁寧に共感などによる安心感を相手に与えてから、相手を諭してあげてほしい。「マナーを守らないほうが悪い」と言っているうちは、あなたは身体能力によって劣っている人間をけなしていることになる。それは断じて正義ではない。ただのいじめである。反対に、もしもあなたが「うそを言っていいとき」と「うそを言ってはだめなとき」を見極める方法を説明できないなら、「みんなも自分の都合でうそをついている」とあなたが思っているのは正しい。なぜなら、ほとんどの人が理解できていないからである。ただ、ときどき理解できる人間があなたを注意してくる。それについて、あなたは被害妄想に陥る必要はない。なぜなら、あなただけが理解できないと決めつけられたのではなく、また、同罪のみんなを野放しにしてあなただけを断罪しているのでもなく、その注意してきた人間が現実を直視できないからだ。あなたが注意されることによって、注意してきた人間に、まるで「注意してくる無礼な人間」の代表であるかのように、今まで自分が恥をかかされてきた怒りをすべてその人にぶつけたくなるが、その相手も「うそをつく無礼な人間」の代表であるかのように、あなたを注意してきたのだ。はっきりいって、どちらも代表ではないし、どちらも被害妄想である。ただ理解できる人間が、理解できていない人間に教えてくれればいいことである。必ず教えなければならないという義務はないが、あなたがお願いすれば教えてくれる可能性はある。その意味では、注意してきた人間に怒りをぶつけるよりは、教えてもらえるようにお願いしたほうが賢明だ。もし、いざ説明させたら説明できない人間だったのなら、逆にこちらからマナー違反だと教えてやろう。自分でわからないことを人に注意するなんておかしいと。そうなって初めて「ばかにしないでほしい」と言えるのだ。「うそをつかない」のマナーの結論として、残念だが、うそをついてはいけない場面を正しく判断できる人間はほとんどいないので、世代交代するたびに、理解できる人間が諭していくしかない。繰り返し、繰り返し、伝えていくしかないのである。どう諭すかは、この記事の続きで公開していく。

  • 20Feb
  • 18Feb
    • 「相手の目を見て話す」は正しいかの画像

      「相手の目を見て話す」は正しいか

      相手の目を見て話しましょうというのは、よく聞くマナーであるし、だれもがそうだと思っている。そして、実際にそうしてみると、意外とうまくいかないことに気づく。見つめすぎると自分も相手も嫌な気分になるからだ。そこで、少し目をそらすことになるが、目を合わせなければマナー違反になるし、目を合わせすぎると嫌な空気になってしまうので、人によってはわけがわからないままに目をそらしっぱなしにするか、タイミングを見て相手の目を見ようとする。ビジネスマナー講座では、「自分がちょうどいいと思うタイミングで」といったあいまいな指導が許されないから、相手の目が見られないなら相手の口元を見ましょうといったアイディアが生まれた。微妙に視線がそれるので、相手にとっても違和感や威圧感が少なくなるとも考えられた。斟酌を理解しないでマナーを覚えようとしたために起きた誤解だろう。マナーは斟酌から生まれたが、斟酌を理解しない者にすればマナーを覚えればいいということになる。すると、「目を見られなければ口元を見ればいい」といった苦し紛れのマナーまでもが、斟酌由来のマナーかのように我が物顔で闊歩することになる。はっきり言おう。口元を見たところで、相手の顔をガン見すれば、違和感や威圧感はぬぐえない。相手の目を見ているのか、口元を見ているのかは近距離でなければわからない。わからないものを「口元見てますから」といってごまかせると思っているほうが恐ろしい。まして、斟酌から考えれば、相手が違和感や威圧感を感じるかもしれない行為はすべて排除するべきである。斟酌とはそういう意味なのだ。マナーが斟酌由来であるなら、斟酌のないマナーはもはやマナーではない。独りよがりというものである。私がここまで強くいうのには理由がある。そもそも「相手の目を見て話す」と指導されているマナーそのものが斟酌を由来としていないからだ。実はこのマナー自体に誤りがあったのである。正しくは「相手の顔を見て話を聞く」である。マナー指導者の意図は本来「会話中によそ見をするな」というものであった。「相手の目を見て話す」の「話す」には日本語で「会話」の意味も持っているから、「声を発しているときに相手の目を見る」ではなく「会話しているときに相手の目を見る」という意味のところ、「声を発しているときに相手の目を見る」と誤解されてしまった。厳密には「聞いていますよ」と意思表示するために相手の顔を見るのである。よそ見していては「この相手と会話することに同意できない」あるいは「違うことをしたい」という意思表示になってしまう。では、なぜ話しかけているときに相手の顔を見なくてもいいかというと、相手に話しかけていること自体が「違うことをしたい」という意思表示と正反対だからである。会話しているときに会話そのものに積極的である意思表示は「顔を向けている」か「相手に話しかけている」のどちらかで済むのだ。話しかけている以外は会話に集中しているという意思表示が必要となる。それが「相手の顔を見て話を聞く」である。視線を合わせること自体には、必要があってする分にはかまわない。それは「これが伝えたいことなのです」といったメッセージが込められているタイミングか、「あなたはどう思いますか」と問いかけるタイミングである。相手が複数人数いる場合は一人ひとり視線を配り「あなたにも話しかけていますよ」と合図する意味もあるだろう。とはいえ、統計では0.5秒から1秒の凝視が効果的であり、2秒凝視すると逆効果になると出ている。統計では「友好度が下がる」といった表現しかされていないが、コミュニケーションなのだから「これが伝えたいことなのです」というタイミングでは「伝えたからな。知らなかったなんて言うなよ」や「共感できないなんて言わないよな。逆らうなよ」といった強制の意思表示となり、「あなたはどう思いますか」というタイミングでは「まさか考えていなかったなんていいかげんな返答しないだろうな」や「共感している返答をしろよ」といった強制の意思表示となるのだ。言い換えれば「アイコンタクト自体にも意思表示がある」だけのことである。ただ、会話そのものに限っては、話している側が目をそらし、聞いている側が目を向けることで会話は成立する。このことだけは間違えてはいけない。今日から覚えなおそう。「相手の目を見て話す」ではなく「相手の顔を見て聞く」である。

  • 16Feb
  • 13Feb
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      助けてもらったときには感謝する

      助けてもらったときといっても、大げさな意味ではなく、手伝ってもらったとか、相談に乗ってもらったとか、そういった日常的なものを含む。食事をごちそうしてくれたり、忘れ物を届けてくれたりといったお礼を言う場面を想定している。これも昨日と同じく、親しき仲にも礼儀ありであるから、家族やパートナーから何かをしてもらったときは、やはり感謝の気持ちを伝えることが大切だ。昨日と微妙に違う点としては、昨日の場合は自分が望んでいることを相手に頼むという、そこには必ず自分の意思があるが、助けてもらったときというのは、毎日、食事を作ってくれているとか、送り迎えをしているとかで、いつものことになってしまい、いちいちお礼を言わなければならない気持ちが薄れて、当たり前のようになってしまうということがある。そこに利害関係があると、ちょっとややこしいことになることもめずらしくない。というのも、恋愛関係で見受けられるケースだが、片方の思いが強く、頻繁に会いたいとお願いすると、相手が乗り気ではなくても、食事を作ってくれるなら会いに行くという場合に、それが常態化して「食事をいただくかわりに、会ってあげている」という気分になって、毎回作ってくれる食事について感謝しなくなるという恋愛相談をよく受ける。これに似たケースは無数にある。「レストランでごちそうするかわりに会ってあげる」というのはもっとも多いパターンかもしれない。バブル時代にはやった言葉である「アッシー君」「メッシー君」というのは、今でもめずらしくない存在だといえる。これらの「会ってあげているから、感謝しなくていい」というところが問題なのである。このあたりが、親しき仲にも礼儀ありに加えて、利害関係が合致したとしても、感謝しなくていいという理屈にはならないということなのだ。人から何か労力を提供してくれたときに、感謝しなくていいという場面は、どんな事情があろうとも存在しない。もう少し踏み込んでみよう。「うれしい!」「ありがとう!」「ありがとうございます!」と感激しながらお礼を言えば、相手は喜んで応じてくれるという関係の場合に、容赦なく繰り返しお願いするというのも、感謝の言葉は使っていながら、当てにしている時点で感謝の念がないことになる。この点はなぜかご理解いただけるだろうか。心理学的には人間の心には「返報性の原理」が働くという。一回の送迎に対し、一回会うという行為が同じ価値かどうか、人によって違う。もっといえばタイミングによっても違う。送迎した側が「めったに会えない人を送り迎えするだけで会えるなら喜んで引き受ける」と思っているうちは会うだけでもその労力の対価として納得していたが、それが繰り返されて「めったに会えない人」ではなく「いつでも会える人」となってしまったら「一回の送迎」と「一回会う」の釣り合いは取れなくなる。やがて「こんなに送迎してあげたのだから、きっと何か見返りがあるはず」と期待を膨らませてしまう結果になるのだ。送迎の必要がなくなって会わなくなるとそれで終了とはならないだろう。一度喜ばれたからといって、今後も同じパターンで喜ばれると思い込むと、後で恨みを買う可能性があるのである。もしあなたが感謝の気持ちを込めた十分なお返しをできないと考えた場合、それ以上お世話にならないことが斟酌である。「相手がしてくれると言っているから」といってお返しの当てもないのに甘えることは、内容によっては恐ろしい事態を生むかもしれない。親しき仲にも礼儀ありという意味で、家族の間でも感謝の言葉をかけるのは大切だ。当たり前に助けてもらうとか、当たり前に世話してもらうということはこの世に存在しない。それに加えて、感謝の言葉だけではなく、相手の労力に見合ったお返しができないなら、お世話になってはならないということである。これが「助けてもらったときには感謝する」の真意である。

  • 12Feb
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      頼み事をするときはお願いする

      これも至って当たり前のことである。ところが、不思議なことに自分はちゃんとやっているつもりという現象が起きやすい。人によっては、命令することがお願いすることだと勘違いしているほどである。ここで私が申し上げているのは、何も丁寧語で言うべきだということではない。親しき仲にも礼儀ありということである。「掃除しとけ」→「掃除してほしい」「掃除を頼んでいいだろうか」「うるさい」→「静かにしてほしい」簡単にいえばこのようなことである。このような命令口調は親しい間柄では問題がないと思われがちだ。親しい間柄のパートナーがいない人にとっては命令口調のような乱暴な言葉遣いは、パートナーあってこその特別な会話なのであこがれを持ちやすく、交際相手ができると積極的に使いたいと考える人もいる。パートナー間の合意のうえでそのような言葉遣いを好むのは一向にかまわないが、恋の破綻や離婚に際し、必ずと言っていいほど悪く言われる。十分な信頼関係が確立されていないと使えない言葉遣いであっても、この言葉遣いをすれば信頼関係が維持されるということはありえないことに注意したほうがいい。まして、相手との関係がこじれているタイミングでこの言葉遣いをすると、ますますこじらせる可能性を秘めている。そんなリスクをわざわざ負うほどの魅力は、長い交際に至っている大人同士の間ではないといえるだろう。さて、これらの言葉遣いはなぜいいときと悪いときがあるのだろうか。こういったあいまいな部分が、信頼関係とは何かをわかりづらくさせ、尊敬される振る舞いとは何かについての混乱を招いている。ここで重要になってくるのは、心理学的にも法的にも「相手の意思を尊重する」という考え方である。近年、コンプライアンスという言葉が普及するにつれて、人権を意識する場面が増えた。心理学的には精神疾患の予防につながるだろう。そもそも、こういった根本的な問題は家庭なり学校なりで教わるべきだが、社会や法律が先行し、私たち一人ひとりが追い付いていないというのが実情である。親も教員も理解していないのが一般的であり、家庭でも学校でも人権侵害がまかり通っている。近年は「毒親」「ブラック校則」「ブラック企業」といった言葉が生まれ、少しずつ認知されてきたといえるだろう。これからの時代は確実に人権をどう理解するかにかかっている。これを誤るとあなたは法的にも社会的にも地位を脅かされるだろう。今までは「相手の人権を無視してでも、相手を思って行動に移し、結果的によい方向に向かおうとしたのであればよしとする」という風潮であった。よい結果になっても、ならなくても「そこには愛があった」ということで許される傾向があったのだ。万が一、相手本人から許されなくても、第三者からは糾弾されなかった。これからは違う。「相手が困る方向に向かっていても、相手の人権を尊重して妨害してはならない。こちらがよい方法を提案して、相手が受け入れてもらうように説得する」これ以外にはないのである。「そんなこといっていたら、今までの名作映画の感動シーンが人権侵害だってことになるんじゃないの?」という声が聞こえてきそうだ。残念ながら、そうである。そうではあるが、そのふたりの間で結果的によい方向に向かったのであれば、トラブルにはならないだろう。だから映画であるともいえる。現実はドラマチックにはなかなかならないものである。結果的に悪い方向に向かうほうが自然であり、映画と同じことをしても現実では失敗するものだ。辛口で夢も希望もない話ではあるが、「頼みごとをするときはお願いする」ということは、相手の意思を尊重するということである。ここを丁寧にするとあなたは尊敬され信頼されるのだ。相手の意思と自分の意思をどちらも尊重し、同意なく妨害してはならない。相手の意思と自分の意思の両方を貫くことで衝突が発生する場合は、相手に折れてもらうように説得するか、自分が折れるしかない。スポーツなら試合をすればよいが、仕事や恋愛なら、相手の意思を無視することは人権侵害となり、信頼関係の破綻は確定する。信頼関係の回復をしたければ新たに努力するしかない。この世のだれであっても、他者の意思を勝手に決める自由も愛も存在しないのである。この意味ではこれも斟酌となる。

  • 11Feb
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      あいさつが勧められる本当の理由

      昨日の問いかけ「なぜマナーではメリットに関係なくあいさつを推奨するのか」について、あなたは答えられるだろうか。あいさつの実情については昨日書いたとおりだが、マナーで推奨される理由は、本来簡単な理由ではない。例えば、「お互いにいい気分で過ごせるように」といった理由ではないのである。社会の中では必ず意味がある。実用性や有効性、そこに必ず何か期待される社会的効果があるのである。個人の気分の問題ではないのだ。個人的にはそれを目的にするのは自由だが、社会の中ではマナーによって多くの人が受ける恩恵があるのである。昨日もちらりと書いたが、家族間でのあいさつには、いつもどおりではなかった場合に、家族が心配するという家族間の団結の狙いがある。いち早くだれかが気づくことによって、病気を心配したり、精神的な応援の必要性に気づいたりと重大な意味がある。学校、職場のほか、近所づきあいやボランティア等の助け合いなどであいさつをする場合は、一人ひとりのメリットのほかに、社会的には何があるだろうか。それはただひとつ、「私には敵意がありません」あるいは「私は体調など問題ありません」と相手に認知してもらうことである。知らない人が紛れ込んでいたり、顔見知りでも不審な行動をしていたりした場合は、団体行動や地域社会の治安にとっては重大な問題がある。万が一、自分が体調を崩し、あいさつができなかった場合に、早くに相手に気づいてもらうことは、自分の人生を守るうえで有効かもしれない。いずれにしても、「問題がない私です」と認知してもらうこと、相手に余計な心配をさせないことがあいさつの本当の役割なのである。これが、昨日問いかけた「なぜマナーでは(個人の)メリットに関係なくあいさつを推奨するのか」の答えである。治安と聞いて「人を疑うなんて、ひどい」または「そんな疑い合う関係なんて耐えられない」と思われるかもしれない。だからこそ、あいさつをするといえる。こちらが人を疑うのではなく、相手に心配をさせないように、こちらから積極的にあいさつをすると相手が安心するという考え方なのである。自分がひとりの人間に向かってあいさつをして、相手からあいさつが返されなかったとしても、それでいちいち「なんて失礼な人なんだ」と腹を立てる必要はない。ここで求められているのは「自分は怪しい人間ではないですよ」と、その場にいる人々に認知してもらうことである。あいさつを返さなかった人間は覚えておいたほうがいい。「体調が悪いのかな」「何かあったのかな」とあれこれ気に留めておけば、何かあったときに早急にその人を助けられるかもしれない。不審な行動があれば、ほかに被害者が出ることを防げたり、自分が狙われることを避けたりできるかもしれない。ここで、斟酌について触れよう。自分が積極的にあいさつする人間になることは、周囲の人に「余計な心配をかけないで済む」という安心感を与える。緊急時以外は赤の他人に無駄に心配をかけてしまっては、迷惑をかけることになる。必要以上に心配してもらいたいというのは、その人のわがままといわれかねない。本当に体調を崩したときにだけあいさつを控え、体調を崩していないなら、積極的にあいさつをすることが、周囲の人への気配りとなり、それがその人のやさしさ、斟酌となるのだ。できる限り、人の生活のじゃまをしないようにすることが、斟酌の意味に含まれている「手加減する」「控える」という気配りなのである。次に(2)の解説に進めよう。

  • 10Feb
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      そもそも尊敬される人間とは

      そもそも尊敬される人間とはどんな姿なのだろうか。どんな振る舞いをして、何を気をつけているのだろうか。信頼関係を多くの人と築いていて、社交性を持った人物が尊敬される人間であることはわかる。具体的に何をすれば、そのような人間になれるのだろうか。仮にマナーをしっかり守っている人間がそうだとしよう。小学校で習うマナーといえば、以下のものだろう。(1)あいさつする(2)頼むときはお願いする(3)助けてもらったときには感謝する(4)相手の目を見て話す(5)うそをつかない(6)時間を守る(7)身だしなみを整えるそして、前回書いたように、この最低限のマナーすらできていない大人は無数にいる。それはなぜだろう。そして、たったこれだけを実践できれば信頼関係が築けて、社交性を持てるのだろうか。(1)から考えてみよう。あいさつはしたほうがいいに決まっている。無視すれば感じが悪いし、仕事でも支障が出る。では、なぜあいさつをしない大人がいるのだろうか。あなたはあいさつが大切なことだと知りながら、あいさつをするべき相手としなくてもいい相手をどのように区別しているのだろうか。映画やテレビドラマなどを見ていると、家族にはあいさつをしたりしなかったりしているようである。「おはよう」とあいさつすると「おはよう」と返ってくる。かけなくても失礼にはならない。あいさつしたのに、あいさつで返さなければ不機嫌になる家族もいれば、心配する家族もいる。いつものことであきらめている空気もあるかもしれない。映画やドラマではストーリー上の演出としてこれらは決められており、「こういう人間関係なのだ」あるいは「これから何か起きるかもしれないと予感させる」という目的がある。したがって、家族間ではあいさつをしてもしなくてもかまわないと考えることが実情に近いだろう。いつもと違う様子があれば心配するという意味で、あいさつをまめにして、いつもどおりでなければ心配するというのが家族間における理想であろう。学校ではどうだろうか。同級生とあいさつするかしないかは相手によるだろう。好意を示すか、反感を示すかのどちらかだ。特段、好意も反感もない場合は、積極的にはしないが反感は持っていないよという程度の反応はするかもしれない。いわゆる軽い会釈である。教育上、教員にはあいさつをするように指導される。そのため、好意も反感もない場合はあいさつをするが、反感がある場合は軽い会釈か完全無視かだろう。家族関係のあいさつとの違いは、家族間では好意をわざわざ示さなくてもよいのに対し、同級生や教員に対しては好意を示すことによって学校生活を円滑にできる見込みがある。職場ではどうだろうか。同級生ばかりの学校とは違い、職場ではほとんどが年上である。そのため、好意を示すことによって職場環境を円滑にできる見込みがある。上司や顧客に対し反感を示すことはほぼメリットがない。ここまできて、私たちはなぜあいさつをするのかについて、実情が見えてきた。学校で習ったマナーに反して、私たちは好意を持っているふりをすることでメリットがある場合にあいさつをしているのだ。友達と仲がいい関係を維持したいときや、教員や上司などと協力関係を維持したいときである。したがって、メリットがない場合にあいさつを不要と考えるか、メリットがない状態をなくすために反感を示そうとして無視をする。これが世の中に無数にいるあいさつをしない大人の理屈である。では逆に、なぜマナーではメリットに関係なくあいさつを推奨するのか。あなたには説明できるだろうか。

  • 09Feb
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      信頼関係と社交性を揺るぎないものにする「斟酌」

      前回は、斟酌についてざっくりと解説した。道徳上の心配りであり、その明文化されたものがマナーであって、マナーとしてはだれも暗記していないものでも、道徳上の気配りとして必要であれば手加減し身を引くことをいう。この斟酌をもって、信頼関係を築く社交性そのものだと私は前々回に断言した。似た言葉についても触れておく。斟酌のほかに、忖度、配慮、お取り計らいがある。簡単にいってしまえば、どれも意味が同じである。唯一、斟酌だけが「手加減する」「控える」という意味を含む。ここが重要である。そのうえで、なぜ斟酌が重要であり、手加減することや控えることが素晴らしいのかについて、説明しよう。道徳の授業では教えない、道徳そのものとは何かという授業である。どうか私についてきてほしい。私たちは、ぼんやりとしたイメージで「人として、してはいけないこと」「常識」「人の迷惑になること」を気をつけて生きている。場面ごとに判断し、ベストを尽くし、至らなければ謝罪するなり、そのつもりはなかったとして釈明するなりして、関係改善に努める。恐ろしいことに、これは学校で習うことはなく、親も教えてくれない。それには明確な理由がある。教師も親もぼんやりとしたイメージしか持っていないために教えることができないのだ。そこで、家庭生活、学校生活、団体行動などで、たまたま遭遇した出来事から学ぶしかなく、運がよければさまざまな体験ができ、運が悪ければ体験できない。さらにいえば、体験したところで必ずしもベストな方法を学ぶとは限らず、わからないまま謝罪して収束することもめずらしくない。結果として、標語のような言葉を暗記してマナーとして実践するという苦肉の策が生まれた。だれもが小学校で聞いたことがある標語は以下のものになる。(1)あいさつする(2)頼むときはお願いする(3)助けてもらったときには感謝する(4)相手の目を見て話す(5)うそをつかない(6)時間を守る(7)身だしなみを整えるしつけやビジネスマナーのサイトから拾ったが、こういったところだろうか。これらは幼少のうちは暗記でいいだろう。慣れることから始めることも教育につながるからである。成長すると、なぜこういったことをするのかを自然に理解すると解釈されている。そのためか、学校で詳しく習うことはないし、親からも当たり前のこととして説明されない。思春期や青年期に知ろうと努力しても「そんなこともわからないのか」と叱責されて説明されないのが落ちである。もちろん、これを読んでいるあなたから見ても(1)から(7)までのマナーは当たり前だから考えるまでもないと思われるかもしれない。ところが、世の中にはこの最低限のマナーだけでも、できていない大人が無数にいる。あいさつを無視する人、頼むときにお願いをしない人、助けてもらったのにお礼を言わない人、相手の目を見て話さない人、うそをつく人、遅刻する人、身だしなみが悪い人、すべてめずらしくないし、一日出掛ければ何人でも目撃できることだろう。その理由が「斟酌を理解していない」からであると私は断言する。その斟酌について、次回話そう。

  • 08Feb
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      斟酌とは何か

      これは「何をもって幸せな結婚、信頼関係がある友情、信頼される人材になれる社交性と呼ぶのか」の続きである。長らく待たせてしまった。斟酌(しんしゃく)とはマナーと似た領域をカバーする。そもそもマナーとは、斟酌が明文化されたものである。明文化し、人に明確に伝えることができるようになって、それをマナーと呼ぶようになった。マナーが求められる根本的原理が斟酌である。マナーは斟酌の一部といえる。マナーは明文化されたものだから、一つひとつ覚えないといけない。あの場合はこのように、この場合はあのようにと丸暗記である。しかし、斟酌が先に存在し、それをわかりやすくしたものがマナーであるから、斟酌のほうが求められていて、最低限これはしましょうと宣言されたのがマナーなのだ。それは、その求められている斟酌を理解している人間が存在していることを意味する。彼らは斟酌を言葉ではなく、形で理解している。丸暗記ではなく、ケースバイケースであり、臨機応変に対応できる。それを私たちは「人として大切なこと」「道徳」「人道」「ヒューマニズム」と表現してきた。「言葉にはしづらいけれどわかるよね」といった暗黙の了解で乗り切ってきた感がある。私が続きを書けずに待たせてしまった理由はここにある。人類が暗黙の了解でごまかし、明文化できたことだけマナーと呼んで社会に求めてきた、その暗黙の了解の部分に私は切り込む宣言をしたからである。では、それは小学校の「道徳」の授業で学んだことではないかといいたくなる人もいるかもしれない。それは違う。「道徳」の授業ではすでに明文化されたマナーを具体的に習えるようにしたに過ぎない。私は斟酌そのものを解説しようとしているのだ。一言で表現するなら「相手の立場になって考える」だが、これを実際にできている人間は少なすぎる。それは、まるで「陣痛の痛みは男には耐えられないというからね」と語る男が陣痛の痛みを理解しているつもりになっているのと同じなのである。相手の立場に立って考えるとは、ベストを尽くすことでも、相手の状況を理解してあげることでも、協力してあげることでもない。私は、人間が頭を使えばわかることを理解し合えずにいて、理解し合おうと声を掛け合いながら、理解しないでいる現実に絶句したのだ。この真実を理解することが「究極の人間」であり、社会からリスペクトされる「人格者」「徳を備えた人物」であり、仏教でいう「さとり」「如来」であり、完成された人格なのである。その理解は難しいことではないが、したことがない人間にとっては「目からうろこが落ちる」ほどの、あるいは、「コペルニクス的転回」といえるほどの、まさに覚醒と呼べる体験なのである。

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