午後8時。メガテリヤキが明日で最終日なので、マクドナルドに立ち寄り夕食をとる事にした。

喫煙室には俺の他に、参考書を広げている学生風の男と、遠い目で外の景色を眺めながら、ゆっくりしたペースでフライドポテトを食う老人が居た。
それがとても淋しげな、かわいそうな風景に見えた。
ここでメガテリヤキを食っている俺だって、他人様の目から見ればチョッとかわいそうな人に映るかもしれない。
だってそうじゃないか。
幸せな夕餉とは、一家が揃い、美味しい家庭の味を堪能しながら、今日の出来事を皆で語り合う事なのだ。そうじゃない自分の境遇は、学生や老人と等しく、孤独な存在である。
ここに居る者、皆かわいそうなのだ。
そう思ったら、世の中にどれだけのかわいそうがあるのかを考え始めて止まらなくなった。
かわいそうにもいろいろある。
例えば、中学生の頃、俺の前の席に座っていた稲葉だ。俺は奴の頭を、面白いからというだけの理由で、三角定規(ちょっと大きめ)の90°の角で叩いた事があった。稲葉は何も悪い事をしていないのに。
そしたら奴の頭から血が吹き出て、あせった俺は慌ててハンカチで奴の頭を押さえたのだが、ハンカチは見る見る真っ赤に染まっていった。アレはかわいそうだった。酷い事をした。反省しても遠い昔の話だ。稲葉は今どこで何をしているんだろう・・・とか、そんな事。
思い出のいくつかを、頭の引出しから引っ張り出した。
引っ張り出した思い出の中に、弟の次男の思い出があった。
弟には現在、子供が3人居て、家族5人がとても仲良く暮らしている。子供の中でも次男は、とても社交的で思いやりのある子だ。
こんな事があった。
長男が4歳で、次男が3歳だったある日、彼らはウルトラマンごっこをしていた。
長男は当然、ウルトラマンをやりたくて、次男はいつまでたっても怪獣だった。
「たまにはウルトラマンをやらせてあげなさい」と弟の嫁は言うのだが、アトピーの痒さに耐える生活を強いられていた長男は、それ以外を絶えることが出来ず、弟に対する思いやりに欠けていた。それは仕方の無い事だと皆が分かっていた。
でも、次男までがそれを分かっているとは思っていなかった。
「ボク怪獣でいいよ」
次男は兄貴からパンチやキックをもろに受けて、それでも怪獣役を続けた。何度蹴られても、ぶたれても、彼は嫌な顔ひとつせず、怪獣役に徹しているのだ。
3歳にして兄貴想いの弟である。
そうこうしているうち、兄貴がエスカレートして、何かのおもちゃを弟に投げつけた。
それは見事に弟の目の辺りにヒットし、そこで初めて弟は泣いた。
こらえ切れずに泣いたふうに見えた。
もう次男がかわいそうでかわいそうで、俺はついつい彼を抱きしめてしまった。
当時の事を思い出したら泣けてきて、メガテリヤキが食えなくなってしまった。
次男は父親が大好きで、父が帰ると玄関まで走って行き、ニコニコしながらその場で服を脱ぎ始めるのだそうだ。
お父さんと一緒に風呂に入りたいのだ。
いい子じゃないか。
口の中にメガテリヤキを入れたまま嗚咽する俺に、学生と老人が「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれた。
そしたら余計に泣けて仕方なかった。



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凍てついた早朝、子を宿したばかりの妻とふたり、駅のベンチに座っていた。俺たちは40分後に到着する列車を待っていた。
雲は低く、陰鬱で、今にも泣きだしそうだった。
収入源を失ったふたりには語るに足る陽気な話題など無く、尻からじんじんと伝わるベンチの冷たさばかりが気になった。
先のこと、どうしよう・・・答の出ない自問をすれば、たちまち重苦しい何かに包まれ、寒さはさらに厳しく感じられた。だから、列車を待つ間は、何も考えず、じっと黙っているしかなかった。
「あなた、日本人?」
突然、すっとんきょうな問いかけが聞こえた。
声のする方を向くと、髭におおわれた異邦人のエキゾチックな顔が間近に迫っていた。いつの間にか俺の右隣には、浅黒い肌、頭にターバンを巻いたインド人ふうの男が座って、俺を凝視していたので驚いた。彼が語り掛けるまで、その気配を感じることはなかったのだ。
「あなた、日本人?」
またもや彼は訪ねた。
「え、・・・っと、日本人ですけど」
考えるまでもなく俺は日本人だ。でも、予期せず問われると、即答できないものである。
「そうか・・・あなた、チベット人かと思ったよ」



気さくな異邦人は、喋りはじめると、よく喋った。
パキスタンから行商に来て5年、いろんなことがあって、その間、一度も里帰りしていない、みたいなことをつらつらと言った。
「なんで俺のこと、チベット人だと思ったんです?」
「わたしの友達のチベット人に似ていたからね。かわいそうな人だったけど、今は、パキスタンに住んで幸せにしてるね」
「じゃあ俺は、チベット人みたいなイメージなんですか?」
「そうね・・・なんと言うかね、今の人生の前に、チベット人みたいかな、と思った」
「前世ですか?」
「ぜんせ?なにそれ?」
「生まれる前のことです」
「ああ、それだね」



イスラムのお坊さんをしています。彼は言うが、そのお坊さんが、どんな理由で遠い日本で行商をしているのか、暗い話題しか無かった俺たち夫婦には、久しぶりに浮世離れした、心踊る物語だった。
「何を売っているんです?」
「パキスタンのジュエリーですね」
「売れるんですか?」
「売れるから国に帰れないよ。忙しい。すごく売れる」
パキスタン・ジュエリーと言うものを見たことがない。それでも売れると言うのなら、俺の知らない一部の世界でもてはやされるトレンドなのだろう。
「金持ちのトレンドじゃないよ、金持ちとか貧乏とか関係ない。不幸な人がね、持つと幸せになる、魔法のジュエリーね。すごい効き目ね。世の中の不幸な人、みんなわたしのジュエリー欲しがる」
そう前置きしてから「だから日本に来たよ」と言った。
「なら俺も、ひとつ欲しいな」
彼は再び俺を凝視して、にっこりと笑いながら
「あなたどうして?幸せじゃない。美しい奥さんと、元気な赤ちゃん居るじゃない」
と、神掛かった予言をした。
何故、妻が妊娠していることを知ったのだろう、そんなことは一言も打ち明けてないのに。
突如彼は、目を閉じ、天を仰ぎ、両手のたなごころを天に向けて何かの呪文を唱えはじめた。
風が渡った気がした。
そんなに長いこと唱えたわけでもなかったが、短くも感じられなかった。
つぶやく様な異邦のことばの「音」に、力というか・・・重さを感じた。
呪文が終わると、彼はたなごころを合わせ、こうべを下げ、再び顔を上げると、俺と妻の胸のあたりに、優しく息を吹きかけた。
「あなたたち、これで大丈夫。焦ることは体に良くないよ、だから、あなたたちの心に天使を入れました」



彼はいつ、ベンチを立ち去ったのだろう。深い目をした異邦人は、俺たちの意識をかいくぐるかの様に消え失せた。
最初から居なかったのでは、と思えるほど、見事な消え方だった。
少なくとも、列車が到着する前には、持っていた大きなトランクごと消えていた。
彼の座っていたあたりから、何とも喩えようのない、白檀の麗しい香りが漂って、それは彼が消えてから俺たちが列車に乗り込むまでの間、そこに彼がいたことを立証するかの如く香っていた。



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遠い遠い昔、ずうっと西の果ての神秘の国に、王子とその妻である姫が幸せに暮らしていた。
王子は姫を連れて領内の森を散策した。
するとそこに金色の鹿が現れた。
姫は「あの金の鹿がほしい」と王子に懇願した。
王子は「ここで待っている様に」と姫に告げると、携帯していた得意な弓で金の鹿を射止めんとばかり後を追った。
王子が居ない隙に、悪の大王は姫をさらって行ってしまった。
金色の鹿は、悪の大王の放ったおとりだったのだ。
目的はただひとつ、姫を我が妻にする事だった。


この話はラーマーヤナという名前で知られている。
この話の面白いところは、鹿を射止めんとする王子は善であり、姫をさらう大王は悪である、という設定である。
哀れ姫をさらわれた王子は、様々な神霊に助けられ、姫を奪還すべく奮闘する。
目線を変えてみると、この話には矛盾があることに気が付く。
金の鹿の命は、姫がこれから送るであろう大王との暮らしに比べて軽いものなのか、金の鹿を射止める事は悪くないけど、姫をさらう事は悪なのか。
物語は続く。


姫を奪還した王子は、悪の大王と決着を付けるべく軍隊を要請した。
強大な軍隊は、ひるむ大王に容赦しなかった。
いよいよ劣勢と判断すると、大王は魔法を使い善良なる兵士たちを自害の道に追いやった。
自らの胸に刃を立てる兵士たち。
するとそこに「善の象徴」が現れて、何か新しい事件が興る予感を孕みながら物語りはフェードアウトするのだ。


決着を見る事なく何故そこで終わるのか?
いや、終わってなんかいない。たぶんその物語は現在も続いているのだ。
語り部は王子の視線で話を進めるが、誰かが魔王の視線で物語を語ったとなれば、きっと聞き手は魔王に同情するだろう。
何が善で何が悪なのかは視点によって変化するのだ。
善と悪は拮抗する。そして決着を見ない。
その延長が「今」なのだ。
そう考えると、そもそも「善と悪」というものの考え方自体が間違っている様にも感じる。
善悪は社会生活をスムーズに送るための人間独自のシステムだ。
大空に溶ける様な、大海にいだかれる様な生き方をする者には、ひょっとしたら善悪の垣根など無いのかも知れない。
俺たちが終わらない物語を終結させようと試みるなら、何かを犠牲にして新しい世界を迎えなければならないだろう。
でも悲しいかな、人間は自分の置かれている環境から抜けることを好まない。
それは致し方ない。
ただ、美しい夕焼けのその先に、終わらない戦いが今も繰り広げられている事を思うのは有用だと思うのだ。


王子は妻を奪還したが、魔王と「男と女」の関係になったのではないかと疑った。
姫は悲しみ、自らの潔白を証明するとばかりに燃えさかる炎に身を投じた。哀れに思った神々が姫を救い出したが、天に口無し、姫の操はどうだったのか真実を知るものは、姫と魔王以外には無い。
ひょっとしたら、魔王の純粋な愛に体を許したかも知れない。
さて、王子、姫、魔王、誰が善で誰が悪なのか。




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小学生の頃、幼馴染の田村(あだ名は「タムジン」だった)が給食を食っていた。
それはもう毎日毎日食っていた。
田村はでかい。太っているのではなくでかい。でかいから食うのか、食うからでかいのかは分からない。
我々と同じ量を、我々と同じ時間内で食うのだが、とりわけ俺の中で田村は、どんな級友よりも「給食を食う」イメージが強かった。
ある日、女の子が「あたし、これ食べられないから田村にあげる」と言って、自分の給食に出された献立の一つを田村に差し出した。
おそらくその子も、田村に対しては「給食を食う」イメージが強かったのだと思う。だからこそ田村にあげたのだと思う。
「俺、くっちゃうよぉ~?もらっちゃうよぉ~?」
田村は、女の子からの食料が自分の皿に移された瞬間、お預けを食らっていた犬が「待て」を解かれたかの如く食った。
一心不乱に食った。
それはもう、貪り食う、と言ってもいい位の勢いで食った。
俺は泣いた。
悲しくて泣いた。
何故泣けたのか、その時は分からなかった。
まわりの友達も「なんで泣いているんだ?」と不思議なものを見る顔をしていた。
今更ながら思い起こすと、それが「人間は不完全でいびつな形をしている」事を知った瞬間だったのだと思う。
それは「業」の体現であった。人間は「食うこと」から逃れられないのだ、人間には逃れられないものがある、という事実を、まじまじと見せつけられた事象だったのだ。
今でも食う人を見ると切なくなる。



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目覚めたら、わきの下の香りがいい具合に芳しかった。下手な香水などを振るよりも遥かにセクシーな香りだ、これが所謂フェロモンなのか、と妙に納得して、ならばシャワーを浴びずに出かければ、女性の興味を惹くかもしれない。
そう考えたのはいいが、やはり香りの好みは人それぞれなので、どこで誰の失礼になるやも分からない。だから無難にシャワーを浴びるのがいいだろう。俺だって真っ当な社会人だ。この試みは一旦置いといて、休日に改めて実行してみよう、まだ夢から抜け出せず、そんな不道徳な事をぼんやりと思っていた。寝起きの自分は正直な自分だ。夢の中にこそ本来の自分が存在する。それがひとたび目覚めの時間を迎えると、夢の残滓が徐々に体から抜け落ち、治まっていたアレルギーがぶり返すかの如く、不本意な何かがふつふつと湧き出てくる。日常ってやつに冒される。剥き出しの心に硬い鱗が生えてくる。
こうして俺は、いつも通りの常識的な社会人へと変身する。
この数日間の俺は、連日リビングの床で気絶していた。
何が原因か分からないが、たぶん疲れているのだ。
上体を起こし、フローリングに座り込むと、昨晩の記憶がどこまで残っているのか思い出してみた。
家に帰って、服を脱いで、嗚呼!とばかりに床に転がって、・・・思い出せない。つまり、記憶を辿るかぎり俺は、仕事から帰ってから今までの間、風呂にも布団にも入らず、素っ裸でリビングのフローリングに寝っ転がっていた事になる。
パソコンの横にウイスキーのボトルと、氷が溶けたであろう水の入ったグラスがあった。ボトルは三分の二が無くなっていた。
不思議と体のどこかが痛い、とかの感覚は無く、むしろ爽快だった。硬い床としっかりした睡眠がそれを達成させたのだろう。今何時なのか。午前7時だ。
晩飯を食っていなかったので腹が激しく減っている様だ、いつまでもグーグーと鳴っていた。

立ち上がると、裸である事を忘れてバルコニーに通じる引き戸を全開にした。朝の冷たい空気が室内になだれ込み、外気を振るわせる無数の鳥の鳴き声が響いた。
バルコニーの向かいには若夫婦の越してきたばかりの部屋が向かい合っている。カーテンの開き具合や光線の加減で、彼らの生活が丸見えだ。共働きなのだろう、二人があわただしく身支度しているのが、彼らの部屋の、レースのカーテン越しに見え隠れした。
こっちから見えるのだから向こうからも見えているに違いない、と瞬時に判断した俺は(つまり俺はまだ寝ぼけていたという事だ)彼らの爽やかな朝に俺の裸体というありがた迷惑なオプションを付けてはいけない、と窓から離れた。
下着は部屋の端っこの床に脱ぎ捨ててあり、そのそばには俺の胴体に伸されたであろう状態の数枚のティッシュが束になって落ちていた。
おもむろに下着を身につけると、タバコに火をつけてパソコンの電源を入れた。
パソコンはスタンバイの状態から起動し、昨晩俺が最後に見たであろう画面を映した。

ライブカメラ映像が切断された状態の窓と、文章を打ち掛けた状態のメッセンジャーが残っていた。
相手からの最後のメッセージは「はずかしい」だった。
相手の事もメッセンジャーの事も何も覚えていないが、何かしら「はずかしい」事を共有していたのは否めない。


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クタ、レギャンから離れると、地域の人たちの住む普通の住宅街は迷路の様だ。
たまに目にする明かりの下には商店の看板だったり何かのスローガンだったり、インドネシア語など分からない分、アールヌーボーのポスターさながらのエキゾチズムを感じさせる。
長持ちする蛍光灯が重宝がられる。深夜のワルンがとても饒舌に見えるのは、夜間消える事の無い蛍光灯の緑色のせいだ。闇を照らす色はアーク灯のオレンジ、白熱灯の黄色、そして蛍光灯の緑色。
そこには繁華街に見られる七色電飾の華やかさは無い。
シンプルな緑色が、独白の様に、ただ輝くばかりである。
民家の軒先には犬たちが頭を寄せ合って寝ている。
集会所には家に帰れない人が数人、大理石の上で雑魚寝している。
それらを右に左に見ながら歩くと、入り口に掲げられたサンヒャン・ウィデワサが白熱灯に身を任せてぼうっと光っていた。
チチャが俺の気配を感じてウィディの後ろに隠れた。





ドアを叩いて2分程待った。出てきたのは半目を開けた無表情の小男だった。
手招きだけして喋らず、俺を奥の部屋へ促すと、振り向きもしないでもと来た廊下を帰っていった。
暗い。
小さな石油ランプの光だけが世界の真ん中で輝いており、他は漆黒の闇だった。
灯油の様な香りと、上等な香の香りが混濁して独特の雰囲気を演出していた。
たぶん、ランプの光は原初の宇宙だ。
その漆黒の中にたくさんのうごめくものがあった。
人間の目だ。真っ暗闇に無数の白目だけが浮き出ていた。
ビックバン、そして島宇宙へと拡散し、膨張する。
誰かがどこかで弦楽器を爪弾いていた。その音は遠くから聞こえる様でもあり、近くから聞こえる様でもあった。





闇に目が慣れてくると、思っていたほど多くの人間が居ない事に気がついた。
ランプのそばに琵琶の様な楽器を抱く老人が座り、それを取り囲む様に8人のゲストが横になっていた。
俺は適当なスペースを見つけると、自分の煙管が運ばれるのを待った。
誰も何も言わない。身動きすらしない。じっと奏者の演奏に耳を傾けている。
耳はおろか、肉体の全てを使って奏者に集中していたと言った方が正しいだろう。
弛緩した目が、奏者のあらゆる部位を観察するために、ロボットの様に細かく、左右に小刻みに動いていた。
目玉が動くたびに小さなランプの光が反射し、暗闇にキラキラした光のダンスを醸し出す。
海底の、岩に張り付いて一生を送る名も知らぬ生物の様だ。





俺の煙管が来た。
さっきの小男が茶色い液体をスプーンで加熱した。
ぐらぐらと沸騰すると、それはカラメルの様などろっとしたものに変身した。
琵琶法師は語りを入れる事無く幽玄な曲を爪弾く。
カラメルの様なものを、小男は俺の煙管に詰め、LPGの匂いがする使い捨てライターで火を点けた。
一瞬部屋の中が明るくなって、一人一人の顔かたちがはっきり分かった。
皆、表情は無かった。ただ琵琶法師に集中していた。
小男は俺の煙管に火をつけると、何も言う事無く俺に吸い口をわたして「さあやれ」とばかりに右手を三回あおった。





妙にはっきりした思考で、何故彼らが集中しているのかを理解した。
体が揺れるたびに波の音がする様な気がする。
関節は宇宙船から見た地上のガス爆発程の極小さな音を立てた。たぶんそれを波の音の様に感じたのだ。
とり立てて嬉しい訳じゃなかった。ただ、充足している。
そして彼らの白目が動きつづける理由も分かった。
待っているのだ。
何も教えてくれる事の無かった神が、いつか何かを教えてくれるのを待っているのだ。
俺はようやく現代に戻ってきたって訳。





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安定の尻尾ばかり追い求めた結果、自分らにはもう時間が無くなっていたなんて笑い話にもならない。
「生きる」という事は「リスクを覚悟する」ところから始まると思う。
少なくとも思い出だけは残る。


玄関で靴を履こうとかがんだ瞬間、胸ポケットに入れておいた水晶の結晶がタイル地の床に落ちて割れた。
綺麗な金属音が響いた。
割れた水晶はいくつかの破片になり、それぞれが太陽の光を反射し、七色のスペクトルを放射してキラキラと光った。
彼女はその一部始終を見ていた。
何か言うかな、と思ったが、彼女は何も言わなかった。
その日は海に行ったのだが、デートの最中彼女は殆ど話をしなかった。
浜辺に座り夕陽の沈む海を眺めながら、気が付くと彼女は静かに泣いていた。


その水晶は海外で鉱物の採掘をしている友人からもらったものだった。
懇意にしてもらっている僧侶にその石を見てもらったら、まだ幼い小人が住んでいるというお告げを頂いた。小人はたまにいたずらをするだろうけれど、あなたを好きだと言っている、と僧侶は教えてくれた。
俺は小さな神棚を作り、水晶を祀った。
僧侶に言われたとおり、小人の好みそうなお菓子をお供えした。

「小人さん、遊んで欲しいかな」

水晶を透かして眺めながら、彼女はとても優しい顔をしていた。
わたしが一人で部屋に居るときには出てきてね、遊んであげるからね、と語り掛けて、そしていつまでも空中に透かして見ていた。
それから彼女は何かにつけて水晶片手に小人さんとお話をしていた。
彼女曰く、それは決して独り言ではなく、小人さんとのお話なのだ。
風呂に入っては小人を排水口に流し、橋を渡れば橋の真ん中あたりで川に突き落とし、バーに出かけるとグラスの中に溺れさせた。

「あんまりいじめると小人さん、出てこなくなっちゃうよ」

「いじめてるんじゃないわよ、遊んであげているの」

「なんでいつも溺れさせようとするんだ?」

「小人さんは泳ぎが下手なんだって」

「それじゃ死んじゃうよ」

「大丈夫だよ、だって小人さんは魔法が使えるんだよ」

「でも、いくらなんでも風呂の排水口に流すのはかわいそうだろ」

「うわー!って流されてくるくる回りながら排水口に吸い込まれていくんだよ?ちょーかわいくない?」

「それ、かわいいのか?」

「かわいい子には旅をさせなくちゃ。広い世界を見て、海まで流されたらきちんと帰ってくるんだから。ちょっとした旅行よ。もし海まで遠くて、一人ぼっちで川にぷかぷかと浮かびながら星をかぞえるのも飽きちゃったら、泣きながら飛んで帰ってくから心配してないわ」

「帰り道が分からなくて帰ってこれないかも知れないじゃないか」

「大丈夫よ、水晶のおうちはここにあるんだから。お土産にお魚を持って、ちゃんと帰ってくるわよ。だから明日あたり晩御飯はお魚ね」

「じゃあ、小人は喜んでるの?」

「あたりまえじゃない!喜んでるよ。小人さんとあたしは超なかよしさんだもん」

「じゃあいつか、小人をつれてみんなで海に行こう」       彼女とはその後間もなく別れた。何が原因だったのかよく分からないが、小人が居なくなってしまったのも、その原因の一つだろうか。




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世の中に意味など無い。
宇宙に意味なんか無い。
無いけど、意味を作った方が面白いから 人間は色んなものに意味をくっつけたんだ。




頭がズキズキする。目を開けたいのだが、まぶたを上げようにもそれ以上の力で上から押し戻され、まるで目が開かない。ただでさえ暗い店内が、開かない目のせいで余計に暗い。

ここはどこで今何時で何故ここにいるのかとか、目覚めた瞬間はとても混乱するのだが、そのキャストアウェイ的な浮遊感がまた気持ち良かったりする。

それが欲しくてバーに足を伸ばすのかも知れない。

バーは天国だ。本当に何でも忘れさせてくれる。(まあ、明日には思い出すのだが)

カウンターの向こう側にバーテンダーの姿は無かった。

「にいさん、いい感じね」

不意に隣から丸っこい印象をともなった柔らかい声が聞こえて目をやると、髪をアップにした若い女が隣の席で俺の目覚めの一部始終を鑑賞していた。片肘をついた手は頭を包み込み、うつろな目をして、言っちゃなんだが彼女も相当出来上がっていた。

俺は口の周りを手で拭った。ヨダレでも垂れていやしないかと思ったのだ。

「何をそんなに飲んだのかしら?」

「・・・カリラ」

「へぇ!世の中にはカリラなんてお酒があるの?」

「ウイスキーの銘柄だ。美味いよ。美味くて、たくさん飲んだから酔っ払った」

「それ飲んでみたいなぁ」

俺はもう飲みたくなかったし、ホントなら誰とも話したくなかったのだが、久しぶりの上物鴨ネギじゃないか、酔ってうつろな目をした綺麗な女は大好物、そんなふうに、回らない脳みそはもはや原始的な部分しか働かなかったみたいだ。

「飲んでみたいのはいいけど、ちょっとクセがあるよ。それでもいい?」

「芋焼酎みたいなの?」

「違うな。コケみたいな味だ」

「コケ食べたことあるの?」

「ないよないけど、例えるならそんな感じ」

俺はついつい善からぬ未来を期待して、そこらに居る店員にカリラのダブルをロックでオーダーした。




「お酒の発明は偉大よね」

飲むつもりのなかったカリラが3杯目、女は球形の氷をつるつると指で遊びながら、なんだかとても基本的な間違いを言った。

「発明、じゃなくて発見だと思うけどな」

そんなのどうでも良かったけど、咄嗟に反応してしまった。

「サルが腐ったぶどうを食って気持ち良く酔っ払っていたその様子を見た人間が、恐る恐るそれを食ってみた。そしたら美味かったんだよ、きっと。美味いだけじゃない、浮ついた気分になれたのも良かったのかも知れないね」

「・・・お酒を飲む習慣があるから、お酒を作る会社はつぶれない」

彼女はこちらを見ずに、そんなことをこそっと言った。

「え?」

「世間に『それがないと生活出来ない』と思わせるのよ。そしたらみんながそれを買ってくれるじゃない?」

「何の話?」

「例えば、お醤油だって『お醤油が無いと生活できない』と思わせているから売れるのよ」

「それがどうした?」

女はグラスを持つとちびりと口に運び、俺を無表情で見た。

「必要だと思わせることなのよ」

無表情だ。

「あたし、自分でパワーストーンのブレスレットを作って売っているんだけど、結構売れるのよ」

それがどうした?

「考えてみて。パワーストーンって一回買ったらみんな後生大事に扱うでしょ?」

・・? うん。

「買ったら普通、それっきり、が普通でしょ?」

まあ、そうだね。

「だから、何かの理由をつけて『時期がきたら買い換えよう』と思わせるのがいいのよ」

うん。

「でね、浄化グッズとか、パワーがあるかどうかを見定める力のあるヒーラーを用意するのよ」

うん。

「グッズや鑑定料でも儲かるけど、ある程度時期がきたら『この石のパワーはすっかり落ちています』とか『邪気を吸い込んでいる』とかの脅しを掛けて、石を土に埋めさせたり、川や海に流させるのよ」

うん。

「その風潮が定着したらあたしのやってることだって酒屋さんやお醤油屋さんみたいに絶対必要な業種になると思わない?」

うん、そうだね。







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