目覚めたら、わきの下の香りがいい具合に芳しかった。下手な香水などを振るよりも遥かにセクシーな香りだ、これが所謂フェロモンなのか、と妙に納得して、ならばシャワーを浴びずに出かければ、女性の興味を惹くかもしれない。
そう考えたのはいいが、やはり香りの好みは人それぞれなので、どこで誰の失礼になるやも分からない。だから無難にシャワーを浴びるのがいいだろう。俺だって真っ当な社会人だ。この試みは一旦置いといて、休日に改めて実行してみよう、まだ夢から抜け出せず、そんな不道徳な事をぼんやりと思っていた。寝起きの自分は正直な自分だ。夢の中にこそ本来の自分が存在する。それがひとたび目覚めの時間を迎えると、夢の残滓が徐々に体から抜け落ち、治まっていたアレルギーがぶり返すかの如く、不本意な何かがふつふつと湧き出てくる。日常ってやつに冒される。剥き出しの心に硬い鱗が生えてくる。
こうして俺は、いつも通りの常識的な社会人へと変身する。
この数日間の俺は、連日リビングの床で気絶していた。
何が原因か分からないが、たぶん疲れているのだ。
上体を起こし、フローリングに座り込むと、昨晩の記憶がどこまで残っているのか思い出してみた。
家に帰って、服を脱いで、嗚呼!とばかりに床に転がって、・・・思い出せない。つまり、記憶を辿るかぎり俺は、仕事から帰ってから今までの間、風呂にも布団にも入らず、素っ裸でリビングのフローリングに寝っ転がっていた事になる。
パソコンの横にウイスキーのボトルと、氷が溶けたであろう水の入ったグラスがあった。ボトルは三分の二が無くなっていた。
不思議と体のどこかが痛い、とかの感覚は無く、むしろ爽快だった。硬い床としっかりした睡眠がそれを達成させたのだろう。今何時なのか。午前7時だ。
晩飯を食っていなかったので腹が激しく減っている様だ、いつまでもグーグーと鳴っていた。

立ち上がると、裸である事を忘れてバルコニーに通じる引き戸を全開にした。朝の冷たい空気が室内になだれ込み、外気を振るわせる無数の鳥の鳴き声が響いた。
バルコニーの向かいには若夫婦の越してきたばかりの部屋が向かい合っている。カーテンの開き具合や光線の加減で、彼らの生活が丸見えだ。共働きなのだろう、二人があわただしく身支度しているのが、彼らの部屋の、レースのカーテン越しに見え隠れした。
こっちから見えるのだから向こうからも見えているに違いない、と瞬時に判断した俺は(つまり俺はまだ寝ぼけていたという事だ)彼らの爽やかな朝に俺の裸体というありがた迷惑なオプションを付けてはいけない、と窓から離れた。
下着は部屋の端っこの床に脱ぎ捨ててあり、そのそばには俺の胴体に伸されたであろう状態の数枚のティッシュが束になって落ちていた。
おもむろに下着を身につけると、タバコに火をつけてパソコンの電源を入れた。
パソコンはスタンバイの状態から起動し、昨晩俺が最後に見たであろう画面を映した。

ライブカメラ映像が切断された状態の窓と、文章を打ち掛けた状態のメッセンジャーが残っていた。
相手からの最後のメッセージは「はずかしい」だった。
相手の事もメッセンジャーの事も何も覚えていないが、何かしら「はずかしい」事を共有していたのは否めない。


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