凍てついた早朝、子を宿したばかりの妻とふたり、駅のベンチに座っていた。俺たちは40分後に到着する列車を待っていた。
雲は低く、陰鬱で、今にも泣きだしそうだった。
収入源を失ったふたりには語るに足る陽気な話題など無く、尻からじんじんと伝わるベンチの冷たさばかりが気になった。
先のこと、どうしよう・・・答の出ない自問をすれば、たちまち重苦しい何かに包まれ、寒さはさらに厳しく感じられた。だから、列車を待つ間は、何も考えず、じっと黙っているしかなかった。
「あなた、日本人?」
突然、すっとんきょうな問いかけが聞こえた。
声のする方を向くと、髭におおわれた異邦人のエキゾチックな顔が間近に迫っていた。いつの間にか俺の右隣には、浅黒い肌、頭にターバンを巻いたインド人ふうの男が座って、俺を凝視していたので驚いた。彼が語り掛けるまで、その気配を感じることはなかったのだ。
「あなた、日本人?」
またもや彼は訪ねた。
「え、・・・っと、日本人ですけど」
考えるまでもなく俺は日本人だ。でも、予期せず問われると、即答できないものである。
「そうか・・・あなた、チベット人かと思ったよ」



気さくな異邦人は、喋りはじめると、よく喋った。
パキスタンから行商に来て5年、いろんなことがあって、その間、一度も里帰りしていない、みたいなことをつらつらと言った。
「なんで俺のこと、チベット人だと思ったんです?」
「わたしの友達のチベット人に似ていたからね。かわいそうな人だったけど、今は、パキスタンに住んで幸せにしてるね」
「じゃあ俺は、チベット人みたいなイメージなんですか?」
「そうね・・・なんと言うかね、今の人生の前に、チベット人みたいかな、と思った」
「前世ですか?」
「ぜんせ?なにそれ?」
「生まれる前のことです」
「ああ、それだね」



イスラムのお坊さんをしています。彼は言うが、そのお坊さんが、どんな理由で遠い日本で行商をしているのか、暗い話題しか無かった俺たち夫婦には、久しぶりに浮世離れした、心踊る物語だった。
「何を売っているんです?」
「パキスタンのジュエリーですね」
「売れるんですか?」
「売れるから国に帰れないよ。忙しい。すごく売れる」
パキスタン・ジュエリーと言うものを見たことがない。それでも売れると言うのなら、俺の知らない一部の世界でもてはやされるトレンドなのだろう。
「金持ちのトレンドじゃないよ、金持ちとか貧乏とか関係ない。不幸な人がね、持つと幸せになる、魔法のジュエリーね。すごい効き目ね。世の中の不幸な人、みんなわたしのジュエリー欲しがる」
そう前置きしてから「だから日本に来たよ」と言った。
「なら俺も、ひとつ欲しいな」
彼は再び俺を凝視して、にっこりと笑いながら
「あなたどうして?幸せじゃない。美しい奥さんと、元気な赤ちゃん居るじゃない」
と、神掛かった予言をした。
何故、妻が妊娠していることを知ったのだろう、そんなことは一言も打ち明けてないのに。
突如彼は、目を閉じ、天を仰ぎ、両手のたなごころを天に向けて何かの呪文を唱えはじめた。
風が渡った気がした。
そんなに長いこと唱えたわけでもなかったが、短くも感じられなかった。
つぶやく様な異邦のことばの「音」に、力というか・・・重さを感じた。
呪文が終わると、彼はたなごころを合わせ、こうべを下げ、再び顔を上げると、俺と妻の胸のあたりに、優しく息を吹きかけた。
「あなたたち、これで大丈夫。焦ることは体に良くないよ、だから、あなたたちの心に天使を入れました」



彼はいつ、ベンチを立ち去ったのだろう。深い目をした異邦人は、俺たちの意識をかいくぐるかの様に消え失せた。
最初から居なかったのでは、と思えるほど、見事な消え方だった。
少なくとも、列車が到着する前には、持っていた大きなトランクごと消えていた。
彼の座っていたあたりから、何とも喩えようのない、白檀の麗しい香りが漂って、それは彼が消えてから俺たちが列車に乗り込むまでの間、そこに彼がいたことを立証するかの如く香っていた。



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