灯油代
原油価格が高くなっていると言うことで、ガソリンと灯油が値上がりしているらしい。茹で蛙の例えのように、徐々に値上がりしているから、実際のところは、ほとんど気にも掛けていないくらいだ。でも徐々に出費は増えているのだろう。もっともまだ普段の生活に影響があるレベルではないのだが。
考えてみると、ガソリンの値上がりはやむを得まい。クルマを利用する人々で公平に負担をすればいいだろ。見ようによっては、地方に住む人達は例外としても、公共の交通網が充実している都市部ではクルマは贅沢品と見られても仕方ないかもしれない。それでもクルマに乗るのであれば、それなりに負担はすべきかもしれない。クルマ好きな私なので、リッターあたり200円とかにならない限りは値上がりしようともガソリンを買い続けるだろう。
しかし灯油も値上げと言うのは、少々頂けない。冬のこの時期、ストーブは生活必需品だろう。むしろエアコンの方が贅沢品なのではないだろか。我が家にはエアコンこそないけれど、ヒーターはある。エアコンがなくても困る事はないが、ヒーターがないとしたら、それこそ日常生活に影響が出てくるだろ。万が一にも我が家にヒーターがなかったとしても、冬でも滅多に雪が降らぬ横浜では、さすがに凍え死ぬことはないだろうが、雪国に住む方々には深刻な、それこそ生死を左右するほどの事態になるだろう。
思うんだけれども、灯油は値上げせずに、その分をガソリンの値段……いや、やはりそれではクルマは乗るけど石油ストーブを使わない人たちには不公平以外の何ものでもない。うーむ。なかなかうまい方法というものはないようだ。もっともクルマにも乗るし石油ヒーターも使う私にとっては、いずれにせよ払わなければならないのだが。
でも、出費増えるのは懐に響く!増えないのが何と言っても一番であるのは言うまでもない!
考えてみると、ガソリンの値上がりはやむを得まい。クルマを利用する人々で公平に負担をすればいいだろ。見ようによっては、地方に住む人達は例外としても、公共の交通網が充実している都市部ではクルマは贅沢品と見られても仕方ないかもしれない。それでもクルマに乗るのであれば、それなりに負担はすべきかもしれない。クルマ好きな私なので、リッターあたり200円とかにならない限りは値上がりしようともガソリンを買い続けるだろう。
しかし灯油も値上げと言うのは、少々頂けない。冬のこの時期、ストーブは生活必需品だろう。むしろエアコンの方が贅沢品なのではないだろか。我が家にはエアコンこそないけれど、ヒーターはある。エアコンがなくても困る事はないが、ヒーターがないとしたら、それこそ日常生活に影響が出てくるだろ。万が一にも我が家にヒーターがなかったとしても、冬でも滅多に雪が降らぬ横浜では、さすがに凍え死ぬことはないだろうが、雪国に住む方々には深刻な、それこそ生死を左右するほどの事態になるだろう。
思うんだけれども、灯油は値上げせずに、その分をガソリンの値段……いや、やはりそれではクルマは乗るけど石油ストーブを使わない人たちには不公平以外の何ものでもない。うーむ。なかなかうまい方法というものはないようだ。もっともクルマにも乗るし石油ヒーターも使う私にとっては、いずれにせよ払わなければならないのだが。
でも、出費増えるのは懐に響く!増えないのが何と言っても一番であるのは言うまでもない!
定時に
今日は一日、自社勤務だったので、定時に帰ろうと思っていたのだが、結局この時間になってしまった……。
今から帰って、風呂はいって、晩飯食って……さらにそれから、一仕事。こりゃあ、寝るのは朝日が昇った後になるかもしれんな……。
今から帰って、風呂はいって、晩飯食って……さらにそれから、一仕事。こりゃあ、寝るのは朝日が昇った後になるかもしれんな……。
スーパー
スーパーというと、スーパーマーケットを連想する。スーパーの店長というと、安っぽい白いワイシャツに同じく安っぽいネクタイをして、店のロゴと名前の入ったエプロンを着てレジや野菜売り場の辺りをうろうろしている、中年のおっさんを連想してしまう。
一方、スーパーはスーパーでもスーパーマンというと、惑星クリプトからやってきたスーパーマン、またの名をクラーク・ケントというあの人を思い出してしまう。いや、むしろスーパーマンと言えば、あの青いタイツに赤いパンツ、「S」と書かれた青いぴちぴちのシャツに赤いマントの、あのスーパーマンしかいないだろう。普段は新聞社でさえない記者をしているが、ひとたび問題が発生すると、回転ドアや電話ボックスで変身して助けに駆けつけるのだ。どうでもいいけど、変身した後、それまで着ていたものはどうするんだろうか……。向うところ敵なしのヒーローである。映画ではクリストファー・リーブ氏が演じていたが、落馬したときに首だか背骨だかを骨折してしまい、首から下が不随になってしまったとか。なるほど、映画では無敵のヒーローを演じていても現実では落馬の怪我で体が不自由になってしまうものなのである。やはりスーパーマンとはフィクションの世界だけなのだろう。
ところで、日本には、スーパー店長なるものが存在するらしい。「スーパーの店長」と「スーパー店長」……似ているような、似ていないような……前者だと、さえない中年のおっさんを想像してしまうけど、後者だと何やら強い店長を思い浮かべてしまう。
だが、スーパー店長も名ばかりのようだ。本当のヒーローではなかった。ある茨城のスーパーの駐車場でこんなことがあったとか。
悪者「撃つぞ!」
店長「撃てるもんなら、撃ってみろ!」
(さすがスーパー店長!弾なんかはじき返しちゃうんだろ!もしかしたら、自分でもそう思って疑わなかったのかもしれない。いや、逃げもしなければ、命乞いもしないなんて、やっぱ本気で自分はスーパー店長だと思っていたに違いない。)
悪者「じゃ、撃ってやる!」(パンッ!)
店長「えっ!!」
悪者、自転車で逃走。スーパー店長、通行人に助けを求める。結果、脚を撃たれ重傷。
やはり、ヒーローなんてフィクションの世界だけだ。
一方、スーパーはスーパーでもスーパーマンというと、惑星クリプトからやってきたスーパーマン、またの名をクラーク・ケントというあの人を思い出してしまう。いや、むしろスーパーマンと言えば、あの青いタイツに赤いパンツ、「S」と書かれた青いぴちぴちのシャツに赤いマントの、あのスーパーマンしかいないだろう。普段は新聞社でさえない記者をしているが、ひとたび問題が発生すると、回転ドアや電話ボックスで変身して助けに駆けつけるのだ。どうでもいいけど、変身した後、それまで着ていたものはどうするんだろうか……。向うところ敵なしのヒーローである。映画ではクリストファー・リーブ氏が演じていたが、落馬したときに首だか背骨だかを骨折してしまい、首から下が不随になってしまったとか。なるほど、映画では無敵のヒーローを演じていても現実では落馬の怪我で体が不自由になってしまうものなのである。やはりスーパーマンとはフィクションの世界だけなのだろう。
ところで、日本には、スーパー店長なるものが存在するらしい。「スーパーの店長」と「スーパー店長」……似ているような、似ていないような……前者だと、さえない中年のおっさんを想像してしまうけど、後者だと何やら強い店長を思い浮かべてしまう。
だが、スーパー店長も名ばかりのようだ。本当のヒーローではなかった。ある茨城のスーパーの駐車場でこんなことがあったとか。
悪者「撃つぞ!」
店長「撃てるもんなら、撃ってみろ!」
(さすがスーパー店長!弾なんかはじき返しちゃうんだろ!もしかしたら、自分でもそう思って疑わなかったのかもしれない。いや、逃げもしなければ、命乞いもしないなんて、やっぱ本気で自分はスーパー店長だと思っていたに違いない。)
悪者「じゃ、撃ってやる!」(パンッ!)
店長「えっ!!」
悪者、自転車で逃走。スーパー店長、通行人に助けを求める。結果、脚を撃たれ重傷。
やはり、ヒーローなんてフィクションの世界だけだ。
男
今日のニュースから……なんでも新幹線に乗り間違えて、自分のふがいなさに腹を立てて、全裸になった男が現れたとか。びっくりだな。これは今までに見たことも聞いたこともない、前代未聞のチン事である。真冬の、しかも盛岡で、停車中の新幹線のデッキで……きっと寒かっただろうにとは思うのであるが……来ていたものを全部脱いでしまってスッポンポンになったらしい。いやぁー、びっくり仰天。
乗車口からパンツやらが飛び出してくるのを発見した駅員さんに通報されて、現行犯逮捕になったそうな。駅員さんも電車に乗っていたお客さんもさぞや驚いたことだろう。もしかしたら、乗客の人たちは珍しいものを見ることができたと、はしゃいでいたかもしれないが。うむ、私だったら間違いなく喜んでしまう。もしかしたら、写真か動画を撮ってしまうかもしれないな。まぁ、そんなものを撮ってどうするのか、後から冷静になって考えれば、自分のしたことをすごく疑問に思うかもしれないけど、現在進行形でそんなのを目撃したら、祭りのようなもんである。
しかし何というか……露出狂ってわけでもないだろうし、変態というわけでもないんだろう。ただ考えることが突拍子もないというか、やることが大胆というか、どうにも憎めない。
新幹線に乗り間違えたことを不甲斐なく思ってすっぽんぽんになったのか。いや、電車を乗り間違えることは珍しいことじゃない。まぁ、新幹線に乗り間違えるというのはよほどのことだと思うけど。でも、裸になるほどのことでもないだろう。
どうやら親に買ってもらった服を着ていることが自立につながらないと思って、脱ぎ捨てたらしい。きっと彼の頭のなかでは、このように議論が展開したのだろう……親に買ってもらった服を着ている→自立できない→新幹線に乗り間違える→ふがいない→裸一貫でやり直す→脱いじゃえ!
裸一貫でやり直そうという心意気は男らしい。それは認める。でも、文字通り裸になるのは……ちょっと違う気がするのだが。特に人様に迷惑を掛けたわけでもないし、その心意気に免じて、私だったら罪に問わずにおきたいところだ。
乗車口からパンツやらが飛び出してくるのを発見した駅員さんに通報されて、現行犯逮捕になったそうな。駅員さんも電車に乗っていたお客さんもさぞや驚いたことだろう。もしかしたら、乗客の人たちは珍しいものを見ることができたと、はしゃいでいたかもしれないが。うむ、私だったら間違いなく喜んでしまう。もしかしたら、写真か動画を撮ってしまうかもしれないな。まぁ、そんなものを撮ってどうするのか、後から冷静になって考えれば、自分のしたことをすごく疑問に思うかもしれないけど、現在進行形でそんなのを目撃したら、祭りのようなもんである。
しかし何というか……露出狂ってわけでもないだろうし、変態というわけでもないんだろう。ただ考えることが突拍子もないというか、やることが大胆というか、どうにも憎めない。
新幹線に乗り間違えたことを不甲斐なく思ってすっぽんぽんになったのか。いや、電車を乗り間違えることは珍しいことじゃない。まぁ、新幹線に乗り間違えるというのはよほどのことだと思うけど。でも、裸になるほどのことでもないだろう。
どうやら親に買ってもらった服を着ていることが自立につながらないと思って、脱ぎ捨てたらしい。きっと彼の頭のなかでは、このように議論が展開したのだろう……親に買ってもらった服を着ている→自立できない→新幹線に乗り間違える→ふがいない→裸一貫でやり直す→脱いじゃえ!
裸一貫でやり直そうという心意気は男らしい。それは認める。でも、文字通り裸になるのは……ちょっと違う気がするのだが。特に人様に迷惑を掛けたわけでもないし、その心意気に免じて、私だったら罪に問わずにおきたいところだ。
芥川賞
芥川賞と直木賞の受賞者が発表された。
何より印象に残ったのが、芥川賞を受賞された朝吹さんと西村さん、この2名の経歴の違いである。
朝吹さんは、大学院生。父親が詩人で文学者、大叔母が翻訳家とか。なんとも文学好きな血筋なのかもしれない。なるべくしてなったというような気もする。
一方、西村さんは、中卒のフリーター。しかも前科持ちとか。
なんともバックグラウンドの異なる二人である。どちらの作品もまだ読んだことはないが、それぞれが今まで歩んできた道筋を考えるに、おそらくまったく性質が異なる作品であるに違いない。さすがにここまで違い過ぎると、果たしてそれがどのような形になって作品に現れてくるのか、ちょっと気になるところだ。そのうち気が向いたら読んでみようかな。おそらく文藝春秋に記載されるだろうからね。
しかし、ここまで作者自身についてのインパクトが強いというか、特徴がありすぎると、どのような物を書いているか想像できてしまいそうである。朝吹さんは、おそらく優等生っぽい作品であろうとか、西村さんはやや荒々しく生々しい作品であろうとか……確たる根拠があるわけではないのだが、なんとなくそのようなことを想像してしまうのだ。もっとも実際に読んだことがないのだから何とも言えないから、私の勝手な思い込みということもあるだろうが。でも、ある程度予想が出来てしまう時点で、なんだかちょっと興ざめしてしまう気がしなくもない。もっとも文学賞を取ったからと言うだけで、それが私の趣向に合うというわけでもないだろうから、どうでもいいっちゃ、どうでもいいんだけどね。
それにしても、文章を書くには、本当に年齢も経歴も関係ないということは明白である。要するに読み手の心をつかむことができるかどうか、ということなのだろうか。もっとも、読み手というのも色々だろうから、こうすれば良い文章が書ける、という方法は存在しないだろう。裏を返せば、読み手のことを意識せずに、自分の書きたいことを書きたいように書くというのも、ひとつなのかもしれない。それでも分かってくれる人は分かってくれるだろうし、分かってくれない人のためにわざわざ作品を書くのも時間と労力の無駄であろう。などと、何一つまともなものを書いたことのない私が言うのもおこがましいけど。自戒するようなものだ。
何より印象に残ったのが、芥川賞を受賞された朝吹さんと西村さん、この2名の経歴の違いである。
朝吹さんは、大学院生。父親が詩人で文学者、大叔母が翻訳家とか。なんとも文学好きな血筋なのかもしれない。なるべくしてなったというような気もする。
一方、西村さんは、中卒のフリーター。しかも前科持ちとか。
なんともバックグラウンドの異なる二人である。どちらの作品もまだ読んだことはないが、それぞれが今まで歩んできた道筋を考えるに、おそらくまったく性質が異なる作品であるに違いない。さすがにここまで違い過ぎると、果たしてそれがどのような形になって作品に現れてくるのか、ちょっと気になるところだ。そのうち気が向いたら読んでみようかな。おそらく文藝春秋に記載されるだろうからね。
しかし、ここまで作者自身についてのインパクトが強いというか、特徴がありすぎると、どのような物を書いているか想像できてしまいそうである。朝吹さんは、おそらく優等生っぽい作品であろうとか、西村さんはやや荒々しく生々しい作品であろうとか……確たる根拠があるわけではないのだが、なんとなくそのようなことを想像してしまうのだ。もっとも実際に読んだことがないのだから何とも言えないから、私の勝手な思い込みということもあるだろうが。でも、ある程度予想が出来てしまう時点で、なんだかちょっと興ざめしてしまう気がしなくもない。もっとも文学賞を取ったからと言うだけで、それが私の趣向に合うというわけでもないだろうから、どうでもいいっちゃ、どうでもいいんだけどね。
それにしても、文章を書くには、本当に年齢も経歴も関係ないということは明白である。要するに読み手の心をつかむことができるかどうか、ということなのだろうか。もっとも、読み手というのも色々だろうから、こうすれば良い文章が書ける、という方法は存在しないだろう。裏を返せば、読み手のことを意識せずに、自分の書きたいことを書きたいように書くというのも、ひとつなのかもしれない。それでも分かってくれる人は分かってくれるだろうし、分かってくれない人のためにわざわざ作品を書くのも時間と労力の無駄であろう。などと、何一つまともなものを書いたことのない私が言うのもおこがましいけど。自戒するようなものだ。