そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(ヨハネ1:14)

 

この「肉体」は確かにイエスのことです。ですから「言」=「イエス」と考える人も多いことでしょう。これはキリスト教の「受肉」の教理の根拠となっています。マリヤの胎内にイエスとなる神が宿った瞬間とされています。

とは言え、「言は肉体となった」すなわち、神の言葉がイエスの口に授けられたのはその時ではありません。それはイエスがおよそ三十歳の時、ヨルダン川でバプテスマを受けられた後に生じました。神の言葉は天からの聖霊としてイエスの上に降りたのです。マタイは次のように記しています。

 

この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタイ4:17)

 

「言は肉体となった」とは、神の言葉が、イエスの肉体を通して聞かれるようになり、神の業がイエスの肉体を通して行われるようになったことを意味しています。

ヨハネがその手紙の中で「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言」と言っているのは、イエス自身のことではなく、イエスを通して現わされた「神の言葉」「神の業」のことなのです。

イエス自身も次のように述べておられます。

 

わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。(ヨハネ14:9,10)

 

「イエスを見た者は父を見た」とは、イエスが父であるからではありません。イエスの中におられる父を見るからなのです。

それでも、結局は、イエス=父なのでしょうか。もしそうであるなら、以下に示すイエスの言葉は、全くナンセンスなものとなり、福音の本質を理解することはできなくなります。

 

さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。(ヨハネ5:19)

 

わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。(ヨハネ5:30)

 

そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。(ヨハネ8:28)