ヨハネの福音書の冒頭にある「初め」にあった「言」とは何でしょうか。
キリスト教会では「言」とはイエスのことであると、根拠もなく妄信しています。イエスと「言」との関係を正しく理解するためには、イエスに関して述べられた次の預言を理解することが必要です。
わたしは彼らの同胞のうちから、おまえ(モーセ)のようなひとりの預言者(イエス)を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。(申命記18:18、19)
ペテロはこの聖句を引用して、次のように解説しています。
このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。(使徒3: 21、22)
「神の言葉」がイエスという預言者の「口に授け」られるのです。この関係を理解するなら、イエスの一連の言葉の意味は明白となります。
そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。(ヨハネ7:16)
わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。 わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。(ヨハネ12:49,50)
わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。(ヨハネ14:10)
ですから、ヨハネの福音書の冒頭の「初めにあった言」とは、イエスのことではなく、イエスの口を通して語られた神ご自身の「言葉」のことなのです。
わたしたちは神の被造物を通して、神について多くのことを知ることができますが、さらに神をより深く、親しく知るためには、神ご自身の言葉による必要があります。その言葉は、ヨハネが述べているように、神ご自身でもあるのです。
補足:
ヨハネの福音書の冒頭にある「すべてのものはこれによってできた」とは、創世記の創造のことではなく、ペテロが述べている「万物更新」のことであり、天にあるものと地にあるものすべてが、イエスを通して更新された「新創造」のことを述べているのです。