「行い」を全面否定するキリスト教会にすれば、神に喜ばれる真の礼拝が「良い行い」のことであるとの考えは、到底受け入れられないでしょう。「救いは行いによるのではない」というパウロの言葉を前面に掲げて、「信仰だけで救われる」というのが彼らの主要な信条だからです。

とは言え、パウロが否定しているのは「モーセの律法」を行うことであり、律法契約に基づく義認のことです。一方、イエスが求めているのは「キリストの律法」を行うことであり、新しい契約に基づく救いのことです。ですから聖書が、繰り返し「行い」の重要さを強調しているのも不思議ではありません。

 

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。(マタイ7:21)

 

人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。(ヤコブ2:24)

 

霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。(ヤコブ2:26)

 

人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。(マタイ16:27)

 

なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。(Ⅱコリ5:10)

 

キリストの律法である「隣人愛」を実践するには、自己犠牲的で利他的な精神が必要とされます。それはいつも自分の肉的な欲望と対立するものであり、そうした欲望を克服することが求められるのです。

 

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(ルカ9:23)

 

「自分の十字架を負う」とは、人生の重大な岐路に立たされた時や、置かれた状況が大きく変化した時などに適用されることが多いですが、決してそのような特別な出来事を意味するものではありません。なぜならそれは「日々」行うべきものだからです。

自分の肉的な欲や思いを日々十字架につけ、神に喜ばれる行いのために、日々自分をささげることこそ、クリスチャンが行うべき真の礼拝なのです。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というキリストの律法が、心に銘記されている人にとって、真の礼拝を父に捧げる機会は日々存在すると言えるでしょう。そしてそれこそが神が求めておられる真の礼拝なのです。

 

あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 (ローマ12:1)