ものみの塔は「そうだ」と述べています。
*** 塔00 10/15 7ページ どうすれば神に近づけますか ***
神や主といった称号(偽りの神々にも用いられている)は,エホバの力,権威,あるいは地位に注意を引くかもしれませんが,この方を他とはっきりと区別しているのは,その固有のお名前だけです。
ところで動物園の猿の群れを見てください。どの猿も同じような顔をしていて区別するのが難しいでしょう。しかし飼育員はそれぞれの猿に名前をつけて、各々の猿をよく知るようになり、やがて見ただけで区別できるようになります。
また我々日本人にはアフリカの人たちは皆んな同じ顔をしているように見えます。しかし名前を知って親しくなれば、顔の違いも判別できるようになります。
主題との類比がお分かりでしょうか。そうです、一見同じように見えても、名前を知ることも含め、理解や親しみが増せば区別が容易になるということです。
しかし何か変だと思われませんか?「この方を他とはっきりと区別しているのは,その固有のお名前だけです」って、本当ですか? 聖書の神を崇拝する人たちの間で、唯一無二の全能の神と、人間が作った偽りの神々が、一見同じように見えますか? 全宇宙を創造された神であり、自分の命の与え主、救い主である神であっても、名前で区別しなければならない程に他と同じように見えるのでしょうか?
何が変かと言うと、唯一真の神と偽りの神々とが、同一レベル、同一場面に置かれていることです。猿やアフリカ人の場合と同じように、何時でも誰にとっても区別しにくい一つのグループの中に混在しているかのように扱われていることです。
しかし真の神を親しく知るならその違いは歴然としており、名前で区別することが必要なほど偽りの神々と類似しているとはとても言えません。聖書の中で「神」と言えば創造主のことであり、他の神々と混同する心配は全くありませんでした。一世紀当時、固有名が用いられていなくても誰ひとり混乱した人はいませんでした。
そもそも唯一真の神は、固有名で区別する必要などないのではないでしょうか。
あなたの「お父さん」のことを考えてください。例えば「彦衛門」と名前で呼ばないと、隣のおっさんと間違えるほど区別しにくいですか。いいえ、家の中でも外でも「お父さん」で十分な筈です。仮に「彦衛門」と「隣のおっさん」が並んで立っていたとしても、あなたが「お父さん」と呼べば、誰のことか何の混乱も生じません。父と子の親しい関係が確立しているからです。
イエスが「父よ」と呼びかけて祈られた理由が良く理解できるのではないでしょうか。
イエスと神との間では、名前で区別しなければ混同するような特別な状況も、微妙な距離感も無かったのです。
そして私たちにもそうするよう教えられました。
「そこで,あなた方はこのように祈らなければなりません。
「『天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。
偉大な創造主を親しく「父」と呼ぶことができるのはクリスチャンの特権です。
*** 塔00 10/15 7ページ どうすれば神に近づけますか ***
神や主といった称号(偽りの神々にも用いられている)は,エホバの力,権威,あるいは地位に注意を引くかもしれませんが,この方を他とはっきりと区別しているのは,その固有のお名前だけです。
ところで動物園の猿の群れを見てください。どの猿も同じような顔をしていて区別するのが難しいでしょう。しかし飼育員はそれぞれの猿に名前をつけて、各々の猿をよく知るようになり、やがて見ただけで区別できるようになります。
また我々日本人にはアフリカの人たちは皆んな同じ顔をしているように見えます。しかし名前を知って親しくなれば、顔の違いも判別できるようになります。
主題との類比がお分かりでしょうか。そうです、一見同じように見えても、名前を知ることも含め、理解や親しみが増せば区別が容易になるということです。
しかし何か変だと思われませんか?「この方を他とはっきりと区別しているのは,その固有のお名前だけです」って、本当ですか? 聖書の神を崇拝する人たちの間で、唯一無二の全能の神と、人間が作った偽りの神々が、一見同じように見えますか? 全宇宙を創造された神であり、自分の命の与え主、救い主である神であっても、名前で区別しなければならない程に他と同じように見えるのでしょうか?
何が変かと言うと、唯一真の神と偽りの神々とが、同一レベル、同一場面に置かれていることです。猿やアフリカ人の場合と同じように、何時でも誰にとっても区別しにくい一つのグループの中に混在しているかのように扱われていることです。
しかし真の神を親しく知るならその違いは歴然としており、名前で区別することが必要なほど偽りの神々と類似しているとはとても言えません。聖書の中で「神」と言えば創造主のことであり、他の神々と混同する心配は全くありませんでした。一世紀当時、固有名が用いられていなくても誰ひとり混乱した人はいませんでした。
そもそも唯一真の神は、固有名で区別する必要などないのではないでしょうか。
あなたの「お父さん」のことを考えてください。例えば「彦衛門」と名前で呼ばないと、隣のおっさんと間違えるほど区別しにくいですか。いいえ、家の中でも外でも「お父さん」で十分な筈です。仮に「彦衛門」と「隣のおっさん」が並んで立っていたとしても、あなたが「お父さん」と呼べば、誰のことか何の混乱も生じません。父と子の親しい関係が確立しているからです。
イエスが「父よ」と呼びかけて祈られた理由が良く理解できるのではないでしょうか。
イエスと神との間では、名前で区別しなければ混同するような特別な状況も、微妙な距離感も無かったのです。
そして私たちにもそうするよう教えられました。
「そこで,あなた方はこのように祈らなければなりません。
「『天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。
偉大な創造主を親しく「父」と呼ぶことができるのはクリスチャンの特権です。