協会は「エホバ」が本来の発音でないことを認めながらも、神のみ名を用いることが大切だと主張しています。正確な発音が分からない以上、12世紀以後の歴史において定着してきた「エホバ」という発音を用いるのはふさわしいことであるとしています。

発音云々よりも用いることが重要であるなら、確かに協会の言う通りでしょう。多くのJWもこの点で納得して「エホバ」を受け入れてきたのではないでしょうか。集会や大会で、祈りで、あるいは霊的な会話や手紙で、どれほど頻繁に「エホバ」の名が用いられるか、JWなら誰もが認めるところです。
協会は「一世紀のクリスチャンたちも神の御名を用いたに違いない」と独断し、新世界訳のギリシャ語聖書の中に、写本にはない「エホバ」を237箇所も挿入しました。

それにもかかわらず、パウロがフィリピの会衆に書送った手紙の中には一度も「エホバ」が登場しないのです。パウロがテモテ、テトスやフィレモンへ書送った手紙の中にも用いられていないのは何故でしょうか。ヨハネが書いた三つの手紙の中でも、只の一度も神の固有の名として「エホバ」を用いていないのはどうしてでしょうか。「神」や「主」は頻繁に用いながらも「エホバ」に相当する聖四文字は一度も用いていないのです。

実際のところ、古代の写本に従う限り、パウロやヨハネだけでなく新約聖書の筆者は誰も「エホバ」を用いていません。このことは「不正確な発音であっても用いることに意義がある」とする協会の主張とは明らかに調和しません。
むしろ、聖四文字を用いないことの方が聖書的なのです。


付記
一般の聖書はもちろん、協会の新世界訳でも、
聖書中のイエスの祈りを調べてください。一度も「エホバ」を用いておられません。