協会は「ギリシャ語聖書の原典との正確さは幾千もの写本によって確証される」と述べながら、全ての写本を否定して、‘エホバ’と言う言葉を237箇所も挿入しました。
そのため、キリストによって取り除かれるべきベールが今日も除かれずに残っています。

コリント第二 3章14‐17をご覧下さい。
…彼らの知力は鈍っていました。同じベールが今日まで,古い契約の朗読の際に取られずに残っているのです。というのは,それはキリストによって除き去られるものだからです。実際,今日に至るまで,モーセが読まれるときにはいつも,彼らの心の上にベールが掛けられています。しかし,転じてエホバに向かうとき,ベールは取り除かれるのです。さて,エホバは霊です。そしてエホバの霊のある所には自由があります。

ここで‘エホバ’は写本では「主」です。一世紀のクリスチャンにとって「主」とはキリストのことです。ですから写本に忠実な聖書であれば次のようになります。

…彼らの知力は鈍っていました。同じベールが今日まで,古い契約の朗読の際に取られずに残っているのです。というのは,それはキリストによって除き去られるものだからです。 実際,今日に至るまで,モーセが読まれるときにはいつも,彼らの心の上にベールが掛けられています。 しかし,転じて主(キリスト)に向かうとき,ベールは取り除かれるのです。 さて,主(キリスト)は霊です。そして主(キリスト)の霊のある所には自由があります。

Jwはキリストに転じるべきところを再びエホバに戻したため、転じたことにならず、キリストによって除き去られるべきベールに今日も覆われたままです。知力の鈍ったJWがモーセの律法に囚われたり、自由がない理由がよく解るのではないでしょうか。