皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

皆さんはダニエル書はお好きですか?私は大好きです。時に預言の辺りは難しいかもしれないとしても(笑)個人的に私はダニエルと3人の友・ハナニヤ&ミシャエル&アザリヤ推しです(^O^)/はい。ダニエルと言えば10章で「大切な人(エホバ&天使たちにとって)」と想われていてそう呼び掛けられていることに深く感動しますし、エゼキエル書14章で偉業を成したノアやヨブと同列に名前が挙げられている(しかもダニエルは存命中でまだ若い)箇所からも彼の素晴らしい特質が伺えます。エホバにとってダニエルは本当に本当に貴重な存在だったと思います。

 

 

 

ダニエルはバビロンの宮廷に連れて行かれた直後(不本意ながらそこで暮らすことになった)エホバの目に自分を汚さないよう身を守ることを決意します(ダニエル1:8)そして決意に基づいた実行動を取っていくことになりますが、この「心に決めた」という言葉に私はずっと何か特別な引っ掛かりを感じていました。どう表現したら良いのか判りませんけれど、内面を明らかにしているある種の物珍しさを覚えたのです。

 

 

 

この聖句について私はもっと深く知る必要はあると思いますが、でも今の時点で理解できていることもあります。それはこの言葉をエホバが現代の私たちのためにあえて残してくださったということです。エホバはダニエルがどんなことをしたのかだけを記すこともできたはずですが、そのようにはなさいませんでした。ダニエルの行動の源をはっきりと書くことで「神に倣う、神に従う」とはどういうことなのかを教えてくださっています。私的にこれは神との強い絆を築く秘訣だと思っています。

 

 

 

遠く故国から離されたダニエルには、真の神との絆を強められるように霊的にお世話して教育してくれる保護者たちはもういません。見方を変えれば何でも自分で自由に思いのままに決められます。自分の欲求や願い通りに行動しても諫める人はいないのです。そして再び故国に戻れるという可能性は限りなく0でした。この条件下にあってダニエルはバビロンの神々に迎合するのではなくイスラエルの神エホバとの絆を強化し続けることを選んだのです。ダニエルのエホバへの強くて深い愛を感じませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

ダニエルたちは王の美食やぶどう酒から自分たちを守るように手立てを講じますが、正直なところ、本当はそれを食べたり飲んだりしたとしても身体への直接の悪影響はなかったかもしれません。現代は律法は廃されてほとんどの物を食べたり飲んだりしても大丈夫だからです。健康に悪影響があるかどうかをダニエルが知っていたのかは定かではありません。でもそれを口にしたら自分が神から見て汚れてしまう、ということはよく理解していました。それで口にすることはしませんでした。

 

 

 

普通の人なら喜ぶはずの王の美食を避けていることは周りから相当浮いている存在となったことでしょう。バビロン世界にどっぷり浸かっている人々から奇異の目にさらされたことは想像に難くありません。でもダニエルと3人の友は周りの人からどう思われようとも自分たちが信じる神のお名前のために行動しました。見えない神との絆を第一にしたのです。

 

 

 

現在私たちは日本という国の風習・文化・法律・宗教世界に住んでいます。この国の常識からすればきっと非常識な行動をしていることでしょう。学校行事のほとんどに関わらなかったり、輸血という治療を選択しなかったり、毎週の集会に出かけたり&伝道したりと日本に住む一般の方々から見れば相当に変わっている人たちです。でもこれが私たちの信じる神エホバが望んでおられることです。献身してエホバの証人になったのは神の望まれることを行なうためです。

 

 

 

皆と同じように国の行事には加わるべき、と他人は言うかもしれません。そして実際そうしたところとて身体に実害はないかもしれません。でもそれは自分とエホバとの絆を弱めます。日本の八百万の神に迎合することは時代は違ってもバビロンの神々に迎合することと同じです。ダニエルはそうすることを「自分を汚すこと」と捉えたのです。そして絶対に自分の身を汚さないと決意していました。

 

 

 

エホバの証人はどのような立場の人の要求よりも神に従うことを選んだ人たちです。神のご意思と人の望みが反するとき、例えば伝道するなと言われても伝道しますし、輸血を受け入れなさい、と言われても受け入れることはしません。エホバのお名前が神聖なものとされる行動をとることを第一としています。これは人を愛さないということではなく人を神よりも少なく愛するということです。ですので周りの方々に敬意を払い、親切で温かくかつ柔順でいることを重んじるよう各自最大限努力しつつも決して譲れない部分を持っているのです。

 

 

 

私は将来ダニエルに会えたとき、特に「ダニエル1:8」を書いてくれたことに深く感謝したいと思います。神から遠く離れているよその世界で強い決意を抱いて歩んでいくための大きな励ましを受け取ったからです。私もダニエルのように(サタンの圧力・狡猾な企みで)身を汚さないことを心に決めて日々生きていきます。がんばろ~(^O^)/

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

本題に入る前に、たまには自分のことでも書きましょうか(^-^)♪私は親から実際の鞭は受けていませんが、それでももれなくアダルトチャイルドです。これでもだいぶ良くなりましたが非常に自己肯定感を築くのを難しく感じます。生きづら~く感じることもままあります。昔、暫くの間JWなのに聖書がほとんど読めない、ということもあれば、涙が出なくなるほどの感情鈍麻になってしまったときが何年も続きました。さらに見当識障害や統合失調のような幻視幻聴症状が表れたり、一時的ですけれども認知症のような(記憶が砂のようにこぼれ落ちていくけれど自分ではどうにもできず他の人に説明もできない)というような状況にも陥りました。

 

 

 

当時、かろうじて読めていた出版物の一つに1992年5月22号の「アルコール依存症の親のもとで大人になった人のための助け」という記事があります。何度も読んだのを覚えています。これは現在のアダルトチルドレン(チャイルド)と呼ばれる人たちのための先駆けのような記事でした。AC(=アダルトチルドレン)とは「Adult Children of Alcoholics=ACOA」から来ています。もともとは「アルコール依存症の親を持つ家庭に生まれ、現在大人になった人」という意味でした。 今では解釈が拡大されて「機能不全の家庭に生まれ、大人になった人」を指すようになっています。

 

 

 

もう少し若かった頃の私は精神分析(的心理療法)治療を幾年も受けつつ、医学書・心理学書など、それはもう片っ端から読み漁りました。AC分野に関連した本の執筆で有名なS氏やN氏の書籍はもちろんのこと、認知療法での抑うつ克服ガイドで有名なB博士の本はかなり読み込みました。地元図書館から時には国会図書館に取り寄せもして研修医向けの精神医学書とか、本格的な論文集の「精神科治療学」「精神医療」シリーズなどの定期刊行物を読んだり、時には購入したり(←かなり高価)していました。そうした本や実際の医療は知識を増し加えるうえでサポートにはなってくれました。でも私の場合、心の傷を癒すのに何よりもエホバ神との絆を強めたことが最も大きな回復につながったのです。考えてみますとエホバが一番に!人の造りをよ~くご存じですから、当たり前と言えば当たり前なのですけどね(*^▽^*)

 

 

 

ですので私は医学や心理学・それに携わってこられたたくさんの方々の強力な助けに感謝してはいますが、何よりも誰よりも私を支えて助けてくださったエホバ神に最も感謝の気持ちを抱いています。これを前提に本題に入りたいと思います。

 

 

 

 

 

 

ご両親あるいは片親がJWの家庭に育ったアダルトチルドレンの方がネット界隈にはたくさんいらっしゃいます。辛いだろうな、と日々思っています。理不尽にむち打たれた記憶はずっとトラウマとして残り、その記憶に苦しめられているのだろうと思うと同情を禁じえません。必ず癒されて欲しいと心から願っています。と同時に、私は組織が「懲らしめのむち」を用いることを教えたことを否定しません。これはエホバ神のご意思だと思いますし、事実、組織は「神のご意思を伝える」機関だからです。

 

 

 

では何が問題なのか、と言うならばそれはむちを使ったこと自体が悪いのではなく、むちを用いる教育の仕方と、教育する側の心の動機の2つに問題があったのではないかと思います。むちをされたおかげで良い教育をして貰えたと感じるJW2世さんも確かにいらっしゃるのですから「用いる仕方」について目を向ける必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

前回のブログ記事の中でも書きましたが、エホバは教える立場の人が本当に子どもの永続する益のために基づいてむちを用いていたのか、利他的な愛だったのかその心をよくご覧になっています。「むち」は矯正とはいえ相手に少なからずの痛みを与えるわけですから、慎重なうえにも慎重を期して、褒める以上に注意深く用いていくもののはずです。誰かに助言を与える時はよく熟考してからというのと同じ、或いはそれ以上の熟考が求められる分野でしょう。子どもに対して毅然とした態度は必要不可欠ですが、当然その用い方は首尾一貫していることや、懲らしめが道理にかなっていて公正で何より子どもがエホバと良い関係を持てるように、ある意味親たちが一時的に子どもに嫌われるという自己犠牲を払ってでも子どもがエホバとの永続的な強い絆を築いてエホバを愛することができるようにサポートしたい!という動機はとても大切ではないでしょうか。

 

 

 

エホバ神も組織もそうですが、神の民に何も考えず盲信で従ってほしいとは願っていません。ちなみに今後「よくわからない指示でもすぐに従う」と言うのはある意味で緊急の時で会衆・羊全体が行なう行動です。そしてその指示が出される前に私たちは心からの深い愛情と敬意と信頼を神と組織に抱いている必要があります(当然のことですが組織の指示はすべてが聖書の原則を踏み越えるものではありません)

子どもの教育について与えられた指針は各々の家庭ごとに、家庭の状況に応じて適用していくものであって、単に一律どんな子どもにもむちを使えば良い、というものではありません。ですが私たちは国民性もあって「とりあえずお上には従っておくのが無難」という精神が江戸時代くらいから結構受け継がれている?のではないかな~と思います。同調圧力もよくありますしね。海外ですとその辺はまた異なるのかもしれませんが、いずれにしてもしそういう精神のままで上辺だけで表面的に組織に従っておられた(=つまり、これさえしておけば安泰大丈夫!な程度くらいの)後に齟齬が生じてもおかしくないでしょう。それは当事者双方ともとても気の毒なことです。

 

 

 

これも前回のブログに書いたことですが(許す、許さないはともかく)最初に聖書を学んだ1世の親たちはそれまで何世代も渡ってサタンからの悪影響を受け続けてきた人たちの末孫です。1世が真理を学んですぐに完璧になってキリストの丈に達することができる、というのは現実的な見方ではありません。日本の風土がキリスト教と合わないと言われるのであれば尚のことです。・・・ですので、サタンの世に漬けられてきた1世の方々もその親の悪影響をまともに受けられた2世の方々も広義的には被害者だと私は感じています。

 

 

 

 

 

 

私も含めて皆さんは様々な理不尽さを人生のうちに味わってきました。それを残りの数十年でもし修復出来たら(としたら)満足のうちに死ねますか?実のところエホバ神は誰よりも満足しません。なぜなら私たちの受けてきた理不尽な経験のほとんどは私たちの最初の二親(+サタン)に端を発しているからです。私たちのせいではないことをエホバ神はよ~くよ~くご存じなのです。エホバはそんな状況に置かれてしまった私たちを深く同情してくださっています。それでエホバは贖いの犠牲という別の理不尽さ?を持って解決してくださいました。

 

 

 

皆さんは誰かの失敗の悪影響を道づれで受けるのって嫌ではありませんか?アダムとエバはこの最たる出来事です。彼らが失敗したから、私たちは様々なことに苦しめられているのです。理にかなわないことが起きているのです。

でも誰かの成功の良い影響を道づれで受けるのはどうでしょうか?感情的には良かった~ラッキー♪と思うかもしれません。でもこれもホントは理にかなわないことですよね。エホバに従うことにおいて完璧に成功できたのはイエスだけです。でもほかの人もイエスの成功の恩恵を受けられるのです。

 

 

 

無論エホバ神はルールを全部変えてしまうこともできます。その権利もお持ちです。ですがエホバは首尾一貫して聖書の原則にご自身を合わせてくださっているのです。そのおかげで私たちはエホバは変わらない方だ、エホバはこういう方だ、といつでも思えて言えて安心することができるのです。これって感謝ですよね(*^▽^*)♪

 

 

 

 

 

 

私たちが、私がバプテスマを受けたいと思ったのは少なくとも神の基準に従いたいと思ったからです。最近学べましたが、エホバに献身するということはこれからの人生すべて、エホバだけを崇拝することを決意し、どんなときも神を第一に、自分のことよりも優って愛し、エホバの望まれることを行ない、嫌われることを憎み続ける、ということを神に誓約することです。皆さんはきっとこんな気持ちを抱いたからこそ、バプテスマをお受けになったのではありませんか?そしてエホバはその誓約に対して揺るぎない愛を以って応えてくださいます。エホバも責任を果たされます。

 

 

 

エホバはイエスの変ぼうの幻のとき、イエスの弟子たちに「彼(イエス)の言うこと聞きなさい」とお命じになりました。そのイエスは私たちに適宜霊的な食物を与えるため「忠実で思慮深い奴隷」を神の民の上に任命しています。そうであるなら組織の指示に従うのはエホバが望まれていることではありませんか。組織が本当にエホバに従っているのかどうか、熟考すれば必ず判るはずです。

 

 

 

仮にもし、組織がエホバに従っていない、と思われるのでしたら、サウル王に対してダビデがどのように接したかをぜひ思い出してください。それがエホバ神の望まれていることです。

 

 

神の望まれることを行なってきたダビデはソロモンにこんな忠告を与えました。

 

 

「あなたが神を探し求めるなら、神を見つけられるが、

神を捨てるなら、神からいつまでも退けられる。」

 

 

人によってはもしかすると、自分からエホバ神を組織を捨ててやった!と思っているかもしれません。ですが実際には神から退けられているのです。

それでも・・・エホバは筆者ヤコブを通してこうも言っておられます。

「神に近づいてください。そうすれば神は近づいてくださいます。」

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

基本私はTwitter(X)にはブログの更新記録しか呟きません(別アカウントは除く)でも最近事情があって長文を入れました。Twitterの文章は後に消去するかもしれないのでとりあえずこちらにも転記をしておきます(微修正有)

 

 

↓↓↓ ここから ↓↓↓

 

 

どなたか?私のブログの一部をコピペ(切り貼りですね)しておられるのかな?

一部分だと例えを書いた真意が歪んで汲まれてしまうので

こちらに思いを記しておきますね。↓

 

 

親御さんにトラウマになるような躾をされたこと、大変気の毒に思っています。

正直私はアダルトチルドレンになってしまわれたjw2世(元・現問わず)さん方は「jw」としては育てられていないと思います。親から虐待を受けながらも生き延びられたサバイバーさんです。今も尚生きづらいのは当然のことと推察します。

 

 

おそらく受け入れ難く思われるかと存じますが、エホバ神は深く同情しています。

本来ならエホバ神が愛の神であることを最もよく教えて貰える立場だったはずなのに間違った教育のせいで最も遠くに引き離され(エホバを嫌いにさせられて)しまったからです。回復は決して容易くない、そう思います。 

 

 

と同時に1世の親御さんもまた気の毒に思います。聖書の言葉を心に置いて古い人格を脱ぎ捨てることができなかった(できてない)からです。聖書の教えに基づいて躾をしているつもりがエホバから子供を遠ざけてしまいました。地上におられたイエスは自分に幼子たちが近づこうとするのを弟子たちが止めたとき憤られました(マルコ10:13-14)おそらくエホバはこのときのイエスと同じお気持ちだったと思います。

親御さんはお子さんとエホバとの絆を愛のうちに強める必要がありました。ご自身の子供ではありますが、エホバからの大切な預かりの宝物だからです。 

 

 

私が組織に責任を取らせる必要がないと言うのは、この組織は神の意志を伝えるための機関であって個人より偉いところでもなんでもないから(コリントの身体の各部の例えと同じでどれが偉いというわけではなくみんな必要)です。組織に属する人は各々が神とそれぞれ関係を築いています。責任はその人個人にあり、他人が代わって謝罪する必要も資格もありません。聖書は対人関係の問題解決はまず当人同士で話し合うマタイの原則を用いることを教えています。

許す、許さない、はともかく私個人の思いとしては最初に聖書を学んだ1世の親はそれまで何世代も渡ってサタンからの悪影響を受け続けてきた人たちの末孫です。学んですぐにキリストの丈に達することができる、と期待するところではないでしょう。

日本の風土がキリスト教と合わないと言われるのであれば尚のことです。

 

 

サタンの世に漬けられてきた1世の方々もその親の悪影響をまともに受けられた2世の方々も広義的には被害者だと私は感じています。 何より「エホバの証人」と呼ばれる人が、そのエホバ神のご意志を正しく理解して当てはめていなかったことはエホバがとても傷ついたはずです。

私たちのエホバの証人としてのエホバのご意志の当てはめ方は、今まで円周率「3」のレベルだったのです。でも訓練を重ねて変化してきました(全体としては)少しずつですが、以前よりもエホバが望まれることを行えるようになってきました。だから、エホバは今の私たちに「3.14…」を教えてくださっています。それを理解できる心を私たちが持てるようになったと判断してくださったからです。 エホバに近づけば近づくほどに、謙遜になればなるほどこの桁数は増えていき、暗記も理解も簡単にできるでしょう。でもエホバを学ぶことに終わりはありません。

 

 

↑↑↑ ここまで ↑↑↑

 

 

 

 

 

 

 

JW地上の組織に対して、即反対&否定するのでもなく、盲信するのでもなく、本当に得心して信頼するにはエホバ神への揺るぎない愛が欠かせないのだと私は思います。組織を盲信しているだけなら「懲らしめのむち」の用いるとき、単にその場の怒りやいら立ちの感情に任せたり、或いはとにかく場をすぐおさめるためにだけに、むちを簡単に使うかもしれません。本当の本心が子どものために永続的な益のために使っているのか、それとも親のプライドのためなのか、エホバは教える立場の人の心をよくご覧になっています(これは長老も同じですね)

エホバとの絆が本当に強いなら、むちを用いる場合(組織は実際のむちを使うことを禁止していません)エホバから託された子ども一人一人の心の繊細さをきちんと考慮して用いるのではないでしょうか。

エホバは大祭司エリが息子たちをきちんと懲らしめてこなかったことに責任を問われました。ですので子どもに対して毅然とした態度は必要不可欠です。でも同時に首尾一貫していることや、懲らしめが道理にかなっていて公正で何より子どもがエホバと良い関係を持てるよう、ある意味で自分が一時的に子どもにとっての悪者になったとしても、エホバを愛せるようにサポートしたいという利他的な愛の動機を抱いていることが「懲らしめのむち」を用いる場合のエホバへの揺るぎない愛の強さを表すものだと私は思います。

 

 

 

もっと言うなら、天のお父さまエホバへの愛情・信頼・絆を持っているだけでなく、深めていかなければ、地上の組織を本当に信頼することは難しいのかもしれません。

エホバと同じ考え、思い、見方ができて初めてエホバが地上の組織をどれだけ愛して信頼しておられるか、地上の組織がどれだけエホバに見倣おうとしているのかが判るからです。エホバを心から愛すれば愛するほど組織が好きになれる、このことを私は体験させていただいています。個人的にすごくよく判るのですが組織に属する一部の人から辛い目に遭わされる(と感じる)と、組織全体に対して疑いとかネガティブな感情を抱きがちになります。そうなってしまうのは無理もないことですし、エホバはその気持ちをよ~く判ってくださいます。でもだからこそ、エホバはその人が抱いてしまったネガティブ捕囚状態から一人残らず助けたい!と思っておられますし、その方法もよ~くご存じなのです。

 

 

 

聖書に人を許しなさい=怒りや恨みを捨てなさい、と書いてあるのは決してエホバが加害者の行為を甘くみているわけではなく、被害者がきちんと回復するためのケアのためであり、被害者が本当に幸せになるために欠かせない大切なステップなのです。エホバは故意に人を攻撃する人のそばにではなく、いつも心の打ち砕かれた人のすぐそばに寄り添っておられます。あなたを助けたいのです。

 

 

 

ところで、イエス・キリストは目に見えない神が実際にはどんな方なのかを生き方で表してくださいました。それで人々はイエスを通してエホバ神を知ることができたのです。人によってはイエスを心から信頼して大好きになれたので、敬愛するイエスが心から大好きな天のエホバのことも大好きになれたのかもしれません(上手く伝わるかしら?)その方式でまいりますと、エホバが用いておられる神の組織を心から支持するための条件は、エホバ神との絆をしっかり強く持っていること、つまりエホバを心から愛して信頼していることです。そうするならエホバが選んで、信頼して用いている地上の組織との絆もしっかり築けます。

 

 

 

ツッコミの入る例えかもしれませんが(笑)夫が妻を愛し、妻が夫を本当に敬愛して心から信頼しているならそれは二人が強い絆で結ばれているということです。そしてその絆の状態で災害に遭い、緊急避難をしなくてはならなくなったとき、夫の指示に妻があーだこーだと理由をつけて従う(あるいは従わない)ことはしないでしょう。なぜならそれまでに夫がいつも妻を心から愛して妻を大切にしてくれる(してきた)ことを、妻自身がよ~く判っているからです。そういう絆を今のうちに組織(つまり神の家族です)と強めて深めていくなら「いざ!」という時に、よくわからない指示だけれども従うことが簡単にできてしまうでしょう。エホバと組織を深く愛せているからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

さて、私的人生でお初な補助開拓奉仕ですが、無事にお約束した時間を果たすことができました~!パンパカパーン!!やったね♪がんばりました~私!えっへん!天のお父さまとお兄さま方々に深く感謝します。ありがと~(^-^)♪この調子で月末まで特別に楽しく奉仕をしたいと思います。

 

 

 

振り返るとエホバと知り合えてからの40年間、いろいろな経験を私はしてきました。家庭環境等の影響で私は5歳のころから既に希死念慮がありましたが、9歳の終わりの時にエホバが私をつかんでくださいました。両親のすんばらしくきつ~~~い反対を受けながらも何とか聖書を学び続けてきました。人一番、人への恐れが強くていつもおののきを感じていたこの私が・・・まさに奇跡としか言いようがありません。

 

 

 

小学5年生頃には校歌斉唱も国旗敬礼も自分でするのを止めました。親は喜ぶはずもなく、みんなと違っていることをする私を怒っていましたし(よく世間様に顔向けが云々~と言っていたのを思い出します)先生方からもいろいろ圧力を頂戴しました。中学の体育館の学年集会でひとりだけ名指しされみんなの前でずっと立たされたり、廊下に何時間も正座させられました。割と品行方正&成績優秀(笑)でも校歌を歌わなかったからです。

 

 

 

親戚の家に伺うとまず仏壇にお線香をあげる習慣を子供の私が止めたときもめっちゃ大変でしたし、祖父が亡くなったときのお通夜では鬼の形相の家族から逃れるためにトイレに一人ずっと立てこもっていましたね~。でもみんな意外なところから助けはちゃんと与えられました。今では懐かしい思い出です。

 

 

 

いつも隠れて行なう研究だったので司会者が家に来ることはなく、私が司会者の家に行きました。これがスタンダードだと思っていましたから、伝道に出て初めて研究は司会者側がお相手の家に訪問するものなのだと知りました(^▽^;)個人宅で行われる書籍研究は仕事が終わっても家に帰らず、商業施設のアトリウムお気に入りベンチで出版物を読みつつ時間を調整していました。王国会館の集会はラフな格好で出かけてトイレで着替えていました。大会の日は家族が眠っている間に家を出て(置き手紙をする)参加していましたね。家に帰って無視される、怒鳴られるは常のことでした。

 

 

 

バプテスマも秘密裏に受けて、濡れた水着は持って帰りませんでした。家を出ていかざるを得なくなって一人暮らしを始めたとき、それまで押し入れの天袋とか鍵付きの引き出しにしまっていた聖書や出版物を堂々と部屋のテーブルや枕元に置いたままで眠れたときはとてもうれしかったです。でも残念ながら会衆ガチャ?は当時はハズレ(苦笑)でしたので、成員からのいろいろな試練?仕打ちにも遭いました。なかなか大変でしたね~(遠い目)人の不公正を長い年月耐えてきました。

 

 

 

そんな40年をエホバは私と共にいて、私と同じ景色を見て同じ気持ちを共有し続けてきてくださいました。永遠に存在される宇宙の創造者がこんなちっぽけな私、それも何も持っていない私にずっと関心を示し続けてくださったのです。そして私を愛してくださった、私にとってエホバから愛されること以上の幸せはこの世にありません。

 

 

 

希死念慮を抱えつつ、子供の私がいろいろな困難を一人で乗り越えてなくてはならなかったのは本当に本当に怖かったです。でも怖いながらも私は自分の意志で選択して歩んでこれました。私は幸せ者です。大人たちからは否定されてきても、歩んできた道は間違っていなかったのです。この組織を通して教えてもらえる神の言葉の知恵のおかげで、私は世の中の人や組織の人たちではなく、エホバを真っすぐ見続けてくることができ、そのエホバはいつも私と一緒にいてくれました(*^▽^*)

 

 

 

エホバは今現在私に揺るぎない愛を持っておられることを私は知っています。平和の契約も結んでくださっています。聖書を理解する力を日々鍛えてくださっていることは勿論、世俗の仕事でもいつも私に成功をくださいます。エホバとの絆はこれからも強めて深めていきたいですけれども、少なくとも貴重すぎる絆を持たせていただいていることを私は理解しています。天のお父さまエホバのお名前が神聖なものとされることエホバだけが唯一の神として讃えられることを私は心から熱望しています。そう思えることができることにも深く深く感謝します♪

 

 

 

私は霊的には父なし子つまり孤児です。でも会衆の人からはあまりお世話されませんでした(悲)でも・・・だからこそ私は会衆の霊的には片親の若者たちや、あるいはやもめの姉妹たちを特に援助したいと思います。放置される辛さがよ~く判るから。何よりもエホバがそれを望まれているからです。私は今エホバのために自分ができることを精一杯行なって、来たるべき時が来たときに「あのときに精一杯やれて本当によかったです」と言えるようでありたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう~♪前回記事から随分間が空いてしまいましたが、皆さまご息災(←意味はくぐってね~♪)であらせられましたか?実は今までブログに書きた~いことはいろいろあったのですが、なにぶんかったる?しんどい&忙しい日々でして、健康的な睡眠時間確保のためブログは手放しておりました。そして今月!何と!人生お初な補助開拓奉仕を体験しているエシュルンです~♪おお~偉大です私は(笑)

 

 

 

その時々に応じて( ̄▽ ̄)書きたいなぁ~と思っていたことは異なるのですが、まぁ上手くまとめられる・・・かなぁ?ということで久しぶりのエシュルン姉妹ブログをご高覧くださいませ~(*^▽^*)ちなみに今日も一日中奉仕でしたよ!おお~偉大です私は!(←大事なことなので2回言いました)

 

 

 

 

 

 

 

 

1. 理解の調整について

 

 

何と言ってもスラックス~♪楽チンです(*^▽^*)発表のあった日から毎回ではありませんが何度か着用させていただきましたよ~(* ̄▽ ̄)フフフッ♪某Twitterでは物議?を醸し出していた??ような気もした「集会に来られた排斥者に対する対応の云々」については素直に良かった~と思いました。組織は精錬されたんですよ、間違いなく。うん(*^▽^*)

と言っても排斥されている人たちに対してバランスの取れた見方をする必要性についてはずっと前に教えられていましたけどね(例えばものみの塔1974年11/1号とか)

 

 

 

ここで「じゃあ今までの対応は間違ってたのだから、組織は謝罪すべき」というのは人の感情としては理解できなくもありません。でも論理的に私は謝罪は無用と考えてます。

論理的風な例えで少し見解を述べます。皆さまは円周率(π)という言葉をご存じだと思います。π=3.141592653589・・・・とずっと続くあれです( ̄▽ ̄)2022年に100兆桁(!)までは算出できたそうですが終わりはありません。私に言わせれば、今回の(とも限りませんが)理解の調整は今まで3.14だった理解が3.1415926までに成長を遂げたのだと思っています。

エホバは組織を構成する人々の理解力に応じて、真理を明らかにされていく方です(ヨハネ16:12&格言4:18など)エホバが良い時とされた時とは、エホバが私たちに教えても大丈夫!つまり私たちの側に成長があったということです。エホバの証人がレベルアップ~!できた証だと思うので私は嬉しいのです。

 

 

 

一部の方々はご納得いただけないかもしれません。もしかしたら地上の組織のトップを統治体だと思い込んでおられるのかもしれませんが、彼らはメッセンジャーです。新しい理解と調整はエホバから任命されたイエスから発信されているもので、それはエホバとイエスの目にちょうど良い時=私たちがその指示についていけると判断してくださったときになされます。早すぎても遅すぎてもダメなのです。だから今までの方針が間違っていたわけではありません。

 

 

 

私が学生の頃の教科書と現在の教科書は絶対に同じではないでしょう。歴史も化学も数学も書かれていることはどんどん変わってきているはずです。でもこのことに謝罪って必要なのでしょうか?むしろ今まで判らなかったことが、さらなる研究の成果によって明らかになったわけですから感謝するところではありませんか(^-^)♪組織の精錬も論理的にはこの例えと似ているかな〜と私は思います。円周率「3」よりも「3.14」よりも、さらにずっときめ細やかな「3.1415926」ケアがこれからなされていきますし私も微力ながらそうできるようでありたいです。

 

 

 

とはいえ知識を並べた教科書の刷新ならともかく組織の理解の調整は今までの人生をどうしてくれるの?ともやもやすることもあるでしょう。例えば今まで強力な反対者だった家族が信者になりました→めでたしめでたしかと言えば、人生はそう単純でもなく、過去に受けた仕打ちとかを全く忘れられるわけではありません。許していたとしても時折辛い記憶がよみがえることもあるでしょう。私は感情的ネグレクトをした両親をスッキリ許してはいます。でもだからといって自己肯定感が修復されたわけではありません。未だに幼少期の辛い経験は人生に暗い影を落としています。でもね、これは私の負うべき荷ですからね(*^▽^*)エホバはよ~く判ってくださっています。

 

 

 

Twitterで元JWさん同士でも理解してもらえないということで諍い(なのかな?よく判りませんけど)が生じているのが流れてくることがあります。内容はともかく人に理解してもらえない、という気持ちの辛さは少しわかるつもりです。でも、そういうお一人お一人の心の痛みを本当に分かってくださっているのが他ならぬ天のエホバとイエスだということを知って欲しい!と私は願っています。辛い体験のために生じたどんな感情も人間と違ってエホバとイエスは決してさげすんだりしません。あなたが悲しんでいるとき、エホバもイエスも涙しています、そして守ってあげたいと思っているのです。だから近づいて欲しいな~(^-^)

 

 

 

 

 

 

 

 

2. 初めての補助開拓奉仕中~♪

 

 

今よりももっと自尊心がなくて、エホバを愛することができていなかったときの私は奉仕が怖くてたまりませんでした。その頃も開拓奉仕は奨励されていましたが、ある姉妹に言われたことがあります。自尊心を埋め合わせるために開拓をしても幸せにはならない、と。本当にその通りだと今もそう思っています。今月補助開拓を行なっているのは自尊心のためではありません。自分から望んでエホバのためにできることをしたいと思って始めました。だから今とても充実しています。きちんと待って本当によかった(^-^)♪

 

 

 

奉仕の機会が増えたので、仲間の良い点を観察する貴重な機会にも恵まれています。

あらすてき~尊敬しちゃう♪な~んていうのは日常茶飯事、見倣いたいと思う姿勢がたくさん心に入ってきます。自分のための開拓奉仕ではなかったのに明らかに自分のためになっているのを実感しています。ありがたいですね~♪

観察しながら新たに発見したことがあります。それは神の言葉を温かい愛情をもって教えられた2世の兄弟姉妹は心から奉仕を楽しんでいます。もちろん葛藤や緊張はしているでしょうけれどそれでも無理をしてフリで行なっている人は誰もいません。人に会おうとしています。また謙遜な姿勢をお持ちの1世の姉妹たちはごく自然に利他的な行動をされます。自然に対する愛情たっぷりで幼子のように素直に感動もされます。改めて私はエホバがご自分が選ばれた=引き寄せられた方々、幼子のような謙遜な心を持っている方々を深く愛されていることがよく判りました。後半もがんばろ~っと(^O^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

3. お父さんやお母さんに見放されていたとしても、あなたにはエホバがいます

 

 

先週の集会聖書通読の範囲に詩編27:10がありました。宝石を探し出すのプログラムではこの聖句がピックアップされていましたね。私はこのようにコメントしました。

 

 

『エホバはつらい境遇にある人を深く気遣ってくださいます。でもイエスはエホバに倣うことで、自分が愛されていると感じ辛い人にエホバの愛の大きさが伝わるよう、全力で助けられました。それで私も家族や親しい人から文字通り見放されたり霊的な保護やお世話を受けることができなかった、かなわなかった方々にエホバの愛が少しでも感じられるようその大きさが少しでも理解できるようサポートすることに精一杯努めたいと思います。』

 

 

そういうわけもあり、今回このブログ記事を作成しました(^-^)♪時折JW2世さん方々のことを「真理の内に育てられた」という表現をすることがあります。でも私は思うのです、そこで育てられたはずの子供たち(現在大人な人たち)が人の顔色をびくびく窺うアダルトチルドレンになっていたりするのなら、果たしてその人は「真理の内に育てられた」なんて言えるのでしょうか?極端な言い方かもしれませんが、そういう人たちはむしろ父と母に霊的に正しく保護されなかった(捨てられた)子供たちではないのでしょうか。正確なところ、その人はJW2世とは呼べないのでは??と思うのです。

 

 

 

エホバが特に助けたい!と思っておられるのは、そんな辛い過去を持った方々すべてです。父母(あるいは片方の親)が教えてこられた、厳しく鞭をふるうだけのエホバ神は「本当の」エホバでは断じてありません!本当のエホバは宇宙で一番善良で親切で思いやりがあっていつも温かい愛情に満ちておられる方なのです。あなたの痛みを一番判ってくれるのは”元JW”の仲間ではなく、実はエホバなのです。どうか少しずつで良いので時々エホバ神に話しかけてみてください。そして傷が癒されていくことを私は心から願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

4. 遅ればせテーマながら「記念式」は宣伝なの?について

 

 

以下は昔の別ブログにUPしていた記事のコピペになります「記念式」とは一体?私的な思いを綴っています↓↓↓

 

 

 

ところで、記念式の時期になると、わりと?よ~~~く言われる事柄です。

 

 

①そもそも記念式は最初にイエスがなさったように、信仰のある油注がれた人たちだけですれば良い。

②なので、ほかの羊の出席はいらない(小命令違反)

③ということはお決まりの年一度の出席者とか、ましてや排斥者とか呼ぶのはちゃんちゃらおかしい、そもそも神に対して失礼である(大命令違反)

④なぜ宣伝をして一見さんを招待する必要があるのか理解不能。

 

 

ということを異口同音にネット上では見聞きしております。

で、私の答えです↓↓↓

説明しよう!

この日はエホバから全ての人への救出招待宣伝集会なのです(←何?)

 

 

統治体がこの形式の集会でOK通達出しているなら、これがエホバのご意志です。

信じたくなければ信じなくてよろしいですが。

記念式は大事、でも今の時代は人をすなどることも大事。

何とかして一人でも助けたい(排斥者であろうと例外なく)のです。

これは救出目的のための手段集会なのです。ある意味伝道&同時集会ですね。そもそも油注がれた人たちだけでOKなら、記念式の話なんて不要です。さっさとパンとぶどう酒をまわせばそれで式はすむはずですから。

 

 

でもそうせずにわざわざ、信者からすると薄っぺらい??まとめ話を作るのは、一見さんを始め、さほど信仰のない方々がどこの部分に心惹かれるか判らないからです。話のどこでも良いから、何か一つでも良い、心の琴線に届いてほしい、そうした強い願いがあります。

 

 

普段の集会はハードル高くても、記念式はやや初心向けです。

私のようなほかの羊もイエスに対する思いを新たにできる機会だったりもします。

ニサン14日はエホバとイエスが全人類を助けるため特に行動された日です。

だからこそ今も全ての人を招待して気遣うのです(同時に人類がお二方に特に感謝する日です)このエホバのご意志は一貫していませんか?

 

 

もう少し踏み込むと本来はシンプルでも最も厳粛のある契約締結の記念の日であり、エホバとイエスを愛して信仰を持つ契約対象者に限定というのは間違ってはいないと思います(例:極めて格調高い結婚式とか〇〇賞とかに呼ばれた、中に入れる招待状を持つことのできる関係者ですね)でもホストのエホバとイエスは極めて深い愛を持っておられるので、ご自分たちのほうから身をかがめてすべての人を招待してくださった(この契約の影響はすべての人の命に及ぶので)というほうがより正確に近いだろうと推察します。

 

 

ということで、私としては記念式の宣伝は大いに結構と思っています。それで誰かの命が救われるのなら、それこそがまさにお二方の1番の望みであり、体裁の優先順位はそれよりも低くて良いのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

JW libraryの新着情報で何本かの動画がupされていました。ゆっくり見ようと思っていたら、早々にX(Twitter)で、元JWさん方々の間で、あれこれ言われているようでびっくり(←自動的に上がっていたものですから^▽^;)ええと、私以前から思っていたのですが、おそらく今のところは組織に戻りたいと考えておられないであろう、ネット界隈の元JWさん方々って、私たちよりも遥かに熱心にブロードキャスティングとかその他のお知らせとかをご覧になっている気がします。皆さん存外お暇なのか?それともいわゆるストーカー的粘着気質なのか?は存じませんが、いや~すごいですね。それで組織著作の動画や画像をあえてルール忌避して勝手に載せています、これまたすごいですねー。

 

 

 

と、まぁさておき。

会衆から除かれた人たち(排斥・断絶)=「全てが背教者」ではない、これが改めて強調されたのが良かったと思いました。今は離れていてもみんなを絶対に助けたいと願っておられるエホバの愛情の強さを感じます。罪を憎んで人を憎まずって大切ですよね、うん。それでも自由意思は尊重されるべきですから、戻りたくない人を無理に引っ張らないことも愛の表れです。個人自由と責任のバランスは大切ですね、うん。漸進的に理解できることを揶揄される方もいらっしゃいますが、私が思うにエホバは私たちJW信者の歩みレベルに応じて教えてくださっているのだと感じます。幼子のような集団から各々訓練してきた良心によって判断できる、までに成長してきたことなのだと思いました。だからこのタイミングで新しい見解になったのでしょう。

 

 

 

と、統治体②の感想はここで一旦横に置きまして。

私は同時期に配信された「このことを信じますか(ヨハネ11:26)」のお話がとても心の琴線に触れました。お話の詳しい内容はJW libraryをご覧ください( ̄▽ ̄)v

 

 

 

以下は私の私的な見解です↓

イエスの「あなたの兄弟(ラザロ)は生き返ります」の言葉に対し、マルタが「終わりの日に彼が生き返ることは知っています」という答えをした理由について動画では少なくとも、という前提で2点考察(今まで若い人しか復活していない・亡くなってから日数が経過している)されていました。私は別の理由を考えていました。それはマルタが人を復活させる力を持つイエスが少なくとも今この時にラザロを復活させる意思をお持ちではないのだと思っていたからでは、かな?です。

 

 

 

マルタとマリアもイエスが来てくれればラザロは死なないと信じていました。信じていたのでラザロが亡くなる少し前に使いを出しています。でもイエスはあえて2日待った後でマルタたちの住むベタニヤに向かいました(それをマルタが知っていたかどうかでもこの見解は変わりますし・ラザロの死後4日経っていますからイエスが急いできても、間に合わなかったかもしれません)イエスが間に合って来ることをマルタとマリアは期待していたはずです。でもこの時点ではイエスは二人の期待には応えませんでした。あえて急いでは来られなかったイエスの行動から、マルタはもちろんイエスを愛していますが、ラザロを今すぐに生き返らせて欲しいという願いは聞き入れられないと判断していたのではないでしょうか・・な~んて思ったり。違うかもしれません。でももしそうだとするならば、その後にイエスの流された涙がより愛情深く、私には伝わるのです。

 

 

 

イエスはマルタの姉妹マリアにも「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」と言われます。そして今度は泣き声を聞き、泣いている人たちもご覧になります。聖書にはイエスが心の中でうめき、苦悩されて涙を流されたことが記されています。イエスが泣かれたのは愛するラザロが亡くなってしまったこともそうですが、ラザロの死で悲しい思いをしている人々の苦しみを感じたからでもあるでしょう。ここからも充分にイエスの憐れみ深さや同情心が判るのですが、今回私はマリアの(と泣いてはいないマルタも)深い気持ちにイエスが心から寄り添っておられた、という視点で書きます。

 

 

 

マリアが泣いた理由は無論ラザロの死なのですが、イエスに対してなぜ?どうして?助けてくれなかったの?というちょっと微怒と言いますか、期待が打ち砕かれた絶望とかそういった複雑なものも混ざっていたのではないでしょうか。もちろんマルタもマリアも「あなたが来なかったせいでラザロは死んだのよ!!」なんて失礼なことは言いませんし、イエスに感謝をしない人たちでもありません。でもこのときばかりは堪えていたのではないかな~と思います。自分たちの身近に救い主メシアがおられるのです、頼りたくもなるでしょう。でも一番助けを必要としているときに応えてくださらなかった。悲しいとか悔しいとか0ではない、何らかの負の感情を抱いてしまったとしても(無意識でも)おかしくない状況です。他の人たちは助けてくださったのに私たちはダメなの??とも思ったかもしれません。

 

 

 

イエスは人の心を正確に洞察することができる方です。事細かな心の内を読むことができます。だからこの時のマルタやマリア他の人たちの幾らかの自分への負の感情をイエスはご存じだったでしょう。それでも、たった一言も責めませんでした。むしろそのなぜ神は助けてくれない(くれなかった)の??しくしく(涙)・・・の辛さを、その心の苦しみを、ご自身の痛み同様に感じて共に涙してくださいました。明らかにイエスは人間の苦しみに寄り添ってくださる方です。であれば当然お父さまエホバも同じ方ですよね(^-^)♪

 

 

 

エホバとイエスは私たちの日々の悩みや苦しみに優しく寄り添う&涙を共にするだけでなく、解決策を既にご存じです。そしてそれは必ずしも楽園世界での一掃に限りません。マルタやマリアの身に生じたように今生きているこの世界で救出してくださることもたくさんあります。エホバは私たちの想像もできないような素晴らしい仕方で解決してくださるのです。あなたはこのことを信じますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

さてさて、ここで温めておいた?統治体②の話と組み合わせます。

 

 

問題はこの後です。復活したラザロ、そしてマルタとマリアは当然イエスに感謝したでしょう。でも後になって「やっぱり最初からラザロ死ぬ前に病気の時に癒してくれれば良かったのに、そうしたらたくさん苦しまなくて済んだのに」・・と3人は思ったでしょうか?皆さんはどう思いますか?

 

 

 

さらに、例えばエジプトで苦難の末、総理大臣になったヨセフは父ヤコブと再会してみんなで飢饉の時代を乗り越えた後で「でもやっぱり17歳から39歳の間、お父さんと一緒に暮らしたかった。過去には戻れないんだ・・辛いなぁ」とネガティブモードになったでしょうか?皆さんはどう思いますか?

 

 

 

王国会館に来られた排斥されている人と交友は持たないものの、挨拶することは自由裁量になりました。ではこれまでに挨拶されなかったことは不当ですか?許されないことですか?悔しいですか?皆さんはどう思いますか?

 

 

 

 

乗り越える鍵はたぶん・・・「謙遜さ」なのだろうなぁと私は思います。

そして、たとえどんな「後遺症」が残っていたとしても、エホバを信頼するなら必ず私たちが思いもよらない仕方でエホバは行動されて解決してくださいます。

あなたは「このことを信じますか」(^-^)?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

最近の素朴な?疑問なのですが、排斥or断絶のゆえに会衆の成員から交流を断たれること(←これは本来は自己犠牲の「愛」の表れなのですよ~きちんと理解されてない方もいらっしゃるようですが)を「忌避」と呼び、とても問題視されるのに、離れておいて声をかけられようとすると「かまわないで&来ないで&うっとうしい」と警戒する、はて?これ如何に?・・・もしかして「あなた方は私が意見を求める時にだけ答えればいいんだ~」なんて、悪い意味で子供っぽい?利己的なことを希望しておられるの・・かな・・まさかねぇ・・(;・∀・)

 

 

 

まあ正確にはそういうことではないのでしょうけれど( ̄▽ ̄)でもいずれにしても「忌避」反対!主張の方々は、誰かがエホバの組織を離れても、組織の人たちはその離れた人と仲良しでい続けるべき、ということなのでしょう・・かね?でもこれって一般の人たちから見たら「え?」とも思われるかもしれません。なぜなら自分の意志じゃなかったのにバプテスマを無理やり受けさせられた~とか(ちなみに、嫌なのに受けたのであればその時点で「洗脳」されてはいないですよね)言う人がやっと組織から離れられて、組織側からも関係を断ってくれているならある意味、良かったね~なお話ではないでしょうか?多分いずれ元JWの方々の「忌避は悪」主張はツッコミが入るような気がしますし、割と世間一般スタンダードな考え方だと思います、それに世の支配者である悪魔サタンはエホバの組織から人を離れさせるのが主眼であって、離れた人のその後の人生&福祉なんて関心ないですからね。離れさえすれば、あとはどうなろうと知ったこっちゃない、そういう世の中です。

 

 

 

さて現実として神の組織のおいて「エホバの証人になった人」が組織を離れる場合、その人は組織と仲良しではいられなくなります。エホバの証人になる=バプテスマを受ける、ということをエホバは非常に大切な契約とご覧になっているからです。仮に強制されたと言っても、少なくとも身体的に水に無理やりに身体を沈めさせられた人はいません。自分で着替えて水のある所に向かったはずです。それが未成年であったとしても「霊的には大人」としてエホバは扱っています(子供と見下げていません)

 

 

 

バプテスマは結婚に例えることがあることをご存じかと思います。普通、結婚という契約を結んだ以上、別れるためには離婚が必要です(聖書的には永遠の結びつきですけどね)もしも自分の意思に反して無理やり結婚させられたと言う人が、後に自分の意志で離婚できた場合、以前の配偶者から離婚後も自分と関わりを持ってもらいたいとは普通思わないでしょう。逃げられて良かったね~で終わるはずです。だから余計排斥・断絶後の「忌避」反対というのが???になるわけです。

 

 

 

そうは言っても、組織の皆からの集団無視はあり得ないと思われるかもしれません。でも理由があります。「エホバの証人になる=バプテスマを受ける」ことはエホバと特別な関係、絆を結ぶということです。結婚に例えられるバプテスマですけれども、バプテスマは単なる2人間だけの結婚契約と同じではありません。他のエホバの証人(仲間)と絆を持つ場合には必ずエホバを通して絆を結ぶのです。イメージとしては仲間との絆の線は2点間の1本の線ではなく、真ん中にエホバがいる3点間の2本の線の結びつきです。その線を実線とすると、仲間の人間との直の関係の線は実線ではありません。点線です。つまり実線2本と点線1本の三角形の関係なのです。点線は世の人たちと絆を結ぶレベルと同じくらいの比重かもしれません。霊的には結ばれていないのです。

 

 

 

お分かりでしょうか?エホバの組織を離れる(エホバの証人ではなくなってしまう)場合、実線が切れてしまうのです。それは同時に他のエホバの証人たちと霊的な絆も断たれることを意味します。エホバを介さない限り結ぶことはできません。エホバはこの霊的な絆を最も大切な絆の線とご覧になっており、修復をいつでも強く望まれています。エホバの証人とはエホバが大切と思うことを大切にする人のことです。そのため、エホバの証人はエホバが願っておられる通りにします。離れた人たちと点線での絆を強めようとはしません。あくまで相手側の実線の回復を待ちます。離れた人とエホバとの絆の修復がかなえば、再び仲間同士の絆を結ぶことができます。そうなることが私たちエホバの証人の願いです。

 

 

 

 

 

 

これを「条件付きの愛」と評するかどうかは読んでいる方の自由です。条件付きの愛というと○○ができれば愛する○○ができなければ愛さない、こととよく説明されていますが、正確に言うと少し違うと思います。愛の種類が利己的か利他的かが、条件付きか無償かの差だと私は思います。何でもかんでも許容し許すのは「無償の愛」とは呼べません。本当に愛しているなら時に叱って矯正する(促す)ことも「無償の愛」のはずです。その人の長期の幸せを心から熱望しているからです。

 

 

 

神の存在を確信していない人よりも、神の存在を確信している人の方が幸せだと私は言えます。いろいろ&たくさんのことに感謝できるからです。例えばエホバは人間にとって安全な宇宙法則を設けて管理してくださっています。太陽はいつも東から昇り西に沈みます。間違えませんからこれを不安に思うことはありません。晩の後は朝になることも確信しています。自分には五感が備わり気象や植物の恩恵を受けますし、可愛いと感じる動物たちもいます。「神は愛」と聖書に書かれている通りですね。

 

 

 

このブログを読まれているJW・元JWの皆さんはきっと過去にたくさんの悲しい思いをされてきたことでしょう。親からの不当な条件付きの愛や会衆の名ばかりのクリスチャン愛などを経験してこられたかもしれません。愛してもらいたいと思う人たちから愛してもらえなかった、深く傷ついてこられたでしょう。そのために今の自分は不幸で無力で、もっと言うなら正当な愛をもらえなかった被害者と感じてしまうかもしれません。

 

 

 

ですが・・・本当にダメなんでしょうか?正当な愛をもらえないと立ち上がることはできないのでしょうか?どうかエホバ神に目を向けてみてください。「神は愛」なのです。そして私たちはその神の特質を持つ者して創造されました。そうであるならば究極には他者からの愛が注がれなかったとしても幸せに生きていけます。なぜなら「愛」は自分の中にある=愛が備えられているからです。愛をもらえなかった思考は時にひどく自分を苦しめるでしょう。でもエホバは愛の源の方です。人間からもらえなかった分の愛を、人間からもらえる以上に与えてくださいます。人は一緒に歩んでくれないかもしれませんが、エホバはいつでも一緒に共にステップを踏んでくださいます。歩いてもくれますし伴走も、添い寝もしてくれます。どうかをそのことを神に願い求めてくださいますように。愚痴でかまわないので、いっぱい祈ってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

今回は特に一つのテーマではなく←っていつもそうかもですが(笑)心にうつりゆくふわふわ雲の「かけら」のような?思いの端々を、JW(賛美&オリジナル)ソングの好きな歌詞に当てはめつつ書いていこうかな~と思います。では早速音楽スタート♪

 

 

 

”神と同じ愛 育めば~♪

怒りと憎しみ乗り越えられる~♪”

130番「進んで許す」より引用

 

 

このブログをお読みの多くの方はおそらくイエスが話された超高額の負債をしていた奴隷が王に許された例え話をご存じかと思います。一生かけても弁済出来ないほどの金額を帳消しにしてもらったお話です。この話でエホバの許しの寛大さを学ぶことができます。ところで、その超高額の金額を王さまはある意味で手放したわけですが、その金額って王さまにとっては微々たる額だったのでしょうか?たとえば100億円のうちの1億円だから全然OK!だったのでしょうか?

 

 

この例え話の要点は、エホバが快く許してくださったのと同じように仲間を快く許しましょう、がポイントなので王さまの払った犠牲の大きさが今一つピンとこないかもしれません。でもこの例えの王さまにあたるエホバにとって手放した「金額」というのは極めて大きな額だったのです。奴隷にあたる人間には決して手に入らないものは「完全な命」であって、エホバが手放したのはその「完全な命の対価」に釣り合う、ご自身が最も愛しておられたイエス・キリストでした。

 

 

エホバは私たちのために、本当にかけがえのない大切な存在であるイエスの命とその人生を引き渡してくださいました。宇宙を含めすべての世界で最も偉い方、エホバが最も大きな自己犠牲を払ってくださったのです。そこまでして人間を、私たちを救いたいのです。計ることなどできない、熱い熱い思いをエホバは私たちに抱いているのです。それだけアダムとエバの子孫が大好きなのです。判って欲しいなぁ~(^-^)

 

 

 

 

 

 

”祈りにより 悩み委ね~♪

すぐそばに感じる神の愛~♪”

28番「エホバの友となる」より引用

 

 

アブラハムだって最初から神の「友」だったわけではありません。でも祈り=神との相互コミュニケーションで友情を育み「友」になることができました。私たち人間はみんながそうなれる可能性があります。神との絆を持つだけでなく、深めていくならそれができるのです。「友」だからこそ、友と共に喜び、悲しみ、傷つくことがあります。エホバが感じておられることが判るようになります。エホバの優しさに愛情に包まれて、感じることができます。祈り続けるのをどうか諦めないでください、神が行なわれたすべての良いことを思い巡らして欲しいです。日々当たり前に享受できていることは決して当たり前のことではないのです。どうか小さな細やかな神の愛情に気づいてくださいますように。

 

 

ネットで現役JWを標榜していたら、結構いろいろ言われたことがあったんですよね。

①現役JWのSNSを組織は禁止している(←ソース何処?)からおかしい

②現役JWの意見を知りたい(情報をシャットアウトして沈黙するな)

③現役JWは黙っててほしい(被害者じゃないし共感しないから)

などなど現役でないJWさん方々はご意見がコロコロ異なり、マタイ11:18&19とかルカ7:34&35みたいだなぁって思ったものです。そういたしますと多分報道関連も日本支部が沈黙を保とうと、何かしらを発表しようと反JWさん方々が満足することは決してないわけですね。結局何をしたところ「とて」あらさがしをするのです。少し何だかな~(可哀想)と思わなくもないのです。この気持ちもエホバはよ~く判ってくださっています。

 

 

 

 

 

 

”つらいときはいつもずっとそばで~♪

慰めてくれたあなたのこと~忘れないでいれば♪”

3番「私たちの力、希望、確信」より引用

 

 

エホバは親から鞭などを誤用されて感情的に叱られた2世さんたちの辛い記憶・痛みをよく大変よくご存じです。というよりもエホバの方がもっともっと傷ついています。あなたの心と体が悲鳴をあげていたとき、エホバも同じ気持ち痛みを味わいました。辛い思いを共有しておらます。だからこそより深く同情されています。そして信じられないかもしれませんがお一人お一人残らず愛しておられます。私はエホバを信じて欲しいというよりも、エホバという神さまが本当は一体どういう方なのか「真実」を知っていただきたいです。

 

 

それと同時に鞭などで甚大な被害を受けたからといって不道徳をしても良い、ということは決してありません。冤罪排斥が全くないとは思いませんが、少なくとも自分が結婚関係以外の性関係を持ったことを知っているなら、それはエホバと自分に対する大きな罪です。悲しませています。罪レベルだけでいうなら、結婚していない成人の互いに同意した性関係も、児童虐待による強制の性関係も同罪です。正邪を裁くのは人の感情感覚ではなく神エホバです。

 

 

 

 

 

 

”たとえ闇の中で孤独に包まれても

あなたの聖なる力 私をすぐに見つけ出す~♪”

5番「エホバは素晴らしい創造者」より引用

 

 

宗教2世さんはこれまで理不尽な扱いをたくさん受けてこられたと思います。傷を癒すのは簡単なことでないでしょう。恨みを抱えたり生きづらさを感じたりするのは当然起こることでしょう。もし治す過程で可能ならば、理不尽な扱いをした相手の背景を理解しようとする(理解とは受容することではないです)相手の成育歴を考えてみるのは後々役に立ちます。これは自分の経験からも言えます。「理解しようとする」はそれ自体が「愛する」ことです。もし愛を示していくなら相手ではなくあなた自身が幸せに近づけます。利他的な愛は神の聖なる力です。あなたが本当に求めるなら神は必ず与えてくださいます。

 

 

 

 

 

 

”父よ見てますか~♪”

オリジナルソング~♪「小さな硬貨2つ」より

 

 

イエスが歌っている歌なのかな~という歌詞に聞こえます(^-^)2:24~から登場するイエスの挿絵がすご~くすご~く好きです(≧▽≦)神殿にいるので裸足ですが、とてもリラックスされて足を投げ出している?感じといい、やもめを優しく温かく見守っている顔(まなざし)が素敵すぎ~!

やもめは若くないはずなのに、2レプタを寄付できた直後の横顔が少し少女のような面影で(私にはそう見えます)エホバの前にはみんなかわいい子供なのだな~と思うのでした(*^▽^*)

 

 

 

 

 

 

”心の痛みを聞いてくれる神が

その腕広げて(私を見つめて)そっとささやく~♪

「さあ来なさい そばに 見せてあげる

あなたの中できらめく宝 美しいから~♪」”

オリジナルソング「そばに来なさい」より引用

 

 

天のお父さまエホバはみんなを助けたいパラダイスで本当に幸せにいつまでも暮らし続けて欲しい、それがエホバの望まれていることです。だから私たちエホバの証人に様々な方法で伝道することをお命じになっています。仲間を助けたいし(←以前にJWの精神疾患率のことを言及される方がいらっしゃいましたが、それだけサタンの世の空気に馴染まない人が多い証だと私は思っています)かつて仲間だった人々も助けたいし(その時々に適した方法でね)まだエホバをご存じない人たちも助けたい、エホバは皆さんのことをまばゆく宝石のように(事実実際の宝石より遥かに価値ある存在なのですから!)ご覧になっているのだと知っていただきたい、そういう姿勢を私は持ち続けていたいですし、それを望まれる主権者エホバのご意思に従いたいのです。

 

 

 

 

 

 

”愛する子のイエスさえも 与えたエホバ神は

どんなときも あなたのこと優しく気遣われる

神のために示した〜あなたの愛忘れず~♪

神はあなたをいつも守り~♪

強い人に〜してくださる〜♪”

38番「神はあなたを強い人にしてくださる」より引用

 

 

もし仮にです、親から会衆から引いては組織から虐待を受けたと訴える(心or言葉or行動に関わりなく)自分は被害者と思っている人たちが、自分を辛い目に遭わせた人たちからの正式な謝罪を受け、賠償も支払われ、加害者たちが相応の辛い目に遭い、お望みの通りにものみの塔が禁令になったとします。すると被害者の人たちは大満足以降の人生の幸せは確約されるのでしょうか?・・・答えはNOでしょう。理由は2つあります。

 

 

1番目の理由は自分を変革しようと努力しない、厳しい言い方をすると被害者のままでいることに甘んじてそこから抜け出そうとしない場合があるからです。以前にJWだった(あるいは関わっていた)ことがあまりにも人に知られたくない、秘密にしておきたいので、のびのびできない、という感想の記事を読んだことがあります。その人にとってはほとんど事がJWのせい、なのかもしれませんが、根本原因はご自身が「他人の目が気になって仕方がない」「異質なものは到底周囲に受け入れられないと認識しているし、自分も受け入れない」立場だからではないでしょうか。JWだったから受け入れてもらえなくていじめられた、だからJWが悪い、という感覚&思考は正直???です。それは誰かをいじめる行動をする人の問題なのではありませんか?マイノリティなJWの教えを全否定して他責にするのは楽なことかもしれませんけれども・・。

 

 

謝ってもらう、相応の償いをもらう、加害者がぎゃふんと言わされることは全部してもらうことであって受け身ですよね。「人」を動かしたい欲求がかなうだけのことであって、もしそれだけなら「自分」が成長するわけではないので、喜びが永続するとは私には思えません。

 

 

 

2番目の理由は、変えたくても変えられない自分、他の人にJWだ(JWだった)と知られることが恥ずかしくてたまらない、自分を演じるので本当の自分が出せない、顔色を伺うことが直せない、これこそが人間の持つ罪深さ・不完全さに起因するからです。本当はみんな誰でも良い意味で他人を気にしないで、いつでもゴーイングマイウェイ( ̄▽ ̄)でいたいですよね。でもそれができない、なぜなら私たちが「罪」に繋がれているからです。生まれながらに罪の奴隷(この状態が神の敵と表現されます)なのです。周りの人たちもみんな不完全+不完全な環境で育ってきていますので、互いに足を引っ張ってしまいやすい状況でもあります。もし生きている間にある程度の変革ができたとしても、生まれつきや成育過程の悪い影響が無問題にならない状態にはならないでしょう。「不完全」とはそういうことだと私は思います。

 

 

もし私たちが「完全」であったなら恥の感覚・罪悪感・孤独・寂しさ・なんだか表現できないモヤモヤする鬱屈する気持ちなどは決して味わったりはしなかったのです。今の私たちには悪影響から本当に自由になることはできません。エホバはそのことをご存じなので、罪の囚われ状態から救い出したいと強く強く願っておられるのです。そのために聖書を準備されました。聖書は人が「不完全」ながらでもその中にあって最高度に幸せに生きられる方法が書いてある本です。

 

 

例えば、受けるより与えること、善をもって悪を征服すること、感謝すること、古い人格を捨てて新しい人格を身に着けること、義に過ぎないこと、などを教えてくれています。何よりエホバのお名前が神聖なものとされること、神のご意思がなされることを念頭においての行動がすすめられているのは、実のところは私たちの幸せに直結するからです。聖書はエホバがエホバのために書いた本ではありません(エホバにはもっと難しいことが書けます)私たち人が清さの点で神から遠く引き離されていても天のお父さまエホバに守られていると感じることができて、かつ私たちが強くなれるように、不完全な人間向けに書かれた神の本です。活用していきたいですね(*^▽^*)

 

 

 

 

 

 

”お父さんエホバ あなたと歩く♪

悲しみの谷をあなたと抜けて♪

喜びの丘をあなたと歩く~♪”

48番「毎日エホバと共に歩む」より引用

 

 

つれづれなるままに~タイトルなので・・ホント長々と喋ってしまってる私(^▽^;)「言葉が多ければ失敗を避けられない(格言10:19)」の通り、たぶん・・いろいろやらかしていると思います・・すみませんm(_ _)m

 

 

世の中には多種多様な考え(生き方の選択)があります。その中で「私」はエホバのお考えに合わせたいと思うようになりました(決してできているわけではありませんよ~汗)昔の私はそれこそ、自分の子供(を持つとしたら)に聖書教育なんてしたいと思いませんでしたし、自分と同じように苦労させてその上で選択させようという、冷たい、親の資格すらない考えの持ち主でした。虐待・・負の教育、負の育ち方ってやっぱり連鎖するんですよね。所属会衆の対人で大きな問題を抱えていたとき、私はその相手の方に対して憎しみの気持ちでいっぱいでした。刺し違えたいとさえ思っていました。長い長い希死念慮に苦しんでいたときは「自死したいので、排斥してください」と頼んだこともあります。却下されましたけど(^▽^;)

 

 

こんなめちゃくちゃ視野の狭い私を、エホバは本当に本当に諦めの悪~い愛(←誉め言葉です)での伸縮布で覆ってくださり、私の違反を遠くに追いやって、私の思考を変えてくださいました。私がある程度健やかに自由になって存在できるのはエホバのおかげなのです。だから私はエホバのために生きたいのです。

 

 

エホバは子供に幼い時からエホバの愛と原則を教えることを命じておられます。今の世の中で寿命分だけ穏やかな日々を過ごすためにではなく、滅びようとしている世界から生き残るために、エホバは宣べ伝えることを命じておられます。私はその命令を無視したいと思いません。人の様々な願いよりもエホバのご意思を私は支持します。

 

 

 

もし大多数のエホバの証人(組織に属する者)が、エホバのご意思に反しているなら組織としての罪は免れないでしょう。エホバは過去にイスラエルを「国民」としてはその罪の多さゆえに見離しました。それでも個々にエホバ神に従おうとした人たちのことはいつも守ってこられました。現在、大多数のエホバの証人はエホバのご意思に従おうと努力しています。ですのでエホバはこの地上の組織を捨てることはなさいません。外部や内部の人がどれほど画策しても「組織」に謝罪させることはできないと私は思っています。なぜなら対人不和の解決策の原則はまずは当人同士の話し合いだからです。

 

 

当事者がエホバが定めた手順に沿っていないのに、エホバの組織が団体でお詫びすることはないでしょう。少なくとも私の所属会衆では公&暗黙での鞭の規則などはなく個々の家庭で裁量していました。また長老が裁くのは内部の人だけです(その権限をエホバは聖書中ではっきりと与えておられます)外に出ていった人と関わりはありません。内部の人間が虐待などの犯罪を行なった場合、刑事訴訟や司法裁判に関しては行政の管轄です。それを組織が踏み越えてするのは上位の権威に反します。厳しめに聞こえるかもしれませんが、感情的にならずに冷静に線引きを見極めることはとても大切なことだと私は思います。もちろん世の中は多種多様な考えがあって、選ぶのは個人の自由ですけれどね(^^)ただ私はエホバとエホバのお考えを伝えてくれる組織に従ってきて本当に幸せだと思っているので、この生き方を選び続けたいです。

 

 

 

 

 

 

【おまけ】

 

エシュルンが最もお気に入りの歌、それは・・・

 

18番「贖いに感謝する」と

136番「エホバは充分に「報いて」くださる」

です(^-^)♪

 

 

毎年の記念式で「18番」を歌うとき、いつも目頭がじーん&胸が熱くなります。昔の私、バプテスマを受けた頃の私は全くそんなことはなかったので、こんなにも自分が変われたこと、イエスをきちんと愛せるようにエホバが私を変えてくださったことに心から、本当に心から感謝しています。

 

 

「136番」の歌詞は今までの自分の歩みとリンクするので、私がいつか結婚するとき入場の曲に使いたいです。今の体制であればこだわりはないのですけど、もし楽園の世界で結婚するのであれば、緑の映えるガーデンで、白い丸天井のガゼボの中の白いベンチに腰掛けて結婚の話を聴きたいですね~(≧▽≦)♪

はい、エシュルンの気持ちはいつでも乙女です(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

冬の夜、私のお楽しみはブランデー入り紅茶~♪(* ̄▽ ̄)フフフッそのせいか今の時期の紅茶消費量は多めです。お気に入りはWedgwoodなのですが、最近取り扱いが減ってきているみたいで買い置きしておきたいな~と思うこの頃。ちなみに少し風邪気味の時は(レモン汁+蜂蜜+赤ワイン)÷お湯がおススメです。良かったらお試しあれ♪~と何杯目かの紅茶を飲みながらチョイ書きしていたブログの仕上げを始めた次第でございます。

 

 

 

エホバにできてサタンにはできないことの最たるものは「誰にも命を与えられない」ことと以前に書きましたがさらにできないことを付け加えます。それは利他的な愛を表すことです。サタンはアガペー愛に沿った行動(&思考)ができません。そうしておそらくはサタンの胤(サタンの子孫)と呼ばれる人たちにも困難なことでしょう。エホバからの聖なる力が与えられない(拒絶している)からです。

 

 

 

エホバは創世記3:15ではっきりとエホバの側とサタンの側は「敵対関係」にあると宣言されています。ですので世を愛して受け入れられようとすること=世との交友(世の支配者はサタンと書かれています)は神に敵対することである、と聖書は一貫して伝えています。今回の記事タイトルはコリント第二6:14の以前の訳出から拝借しましたが、同じ節の今の訳出に「正しいことと不法にいったいどんな関わりがあるでしょうか」とあります。「エホバの観点で」正しいことと正しくないことの間には何の共通土台も築けません。従いまして、とりわけ自ら望んで聖書の教えに背く人の言動&行動に関わりを持つのは無駄であり有害なことなのだと、理解するようになりました。

 

 

 

実は、この考えに成長する以前の私は、離れる人が表現するところの忌避と呼ばれることをしている組織、距離を置こうとしている団体にわざわざ、あえてかまいたいとする人たちがいるのを不思議に思ったこともありました。一体嫌いなの?好きなの?何なのだろう?だったのですが・・・たぶん何事も(打ち壊すことも含めて)自分の思い通りに人を動かしたかったのでしょうね。であればやはりサタンの子孫に属する(あえて属そうとしている)人たちは、神と同じアガペー愛を示し難いという結論に書きながら至ったのでした( ̄▽ ̄)

 

 

 

 

 

 

 

 

私を含めてエホバの証人は良い意味でも悪い意味でも変わっている、と思われている人たちでしょう。各自エホバとの絆の強さ(聖なる力のキャッチしやすさ)は異なりますし、文化的背景も、成育歴も異なりますから、中にはええええ?という方も私を含めていることでしょう。どこかで書いたかもしれませんが「クリスチャン」なんて別に大した一門の人物でもありませんし、全員罪深い人間です。ですが「エホバ」という神さまを愛そうと努力しています。その「姿勢」を天のお父さまは深~く愛してくださり、それゆえに世から選んで(取り分けて)くださいました。私たちが世捨て人にならずに世のただ中にあって世の人に伝道するのは世に迎合したいのではなく、エホバとイエスの持たれる利他的な愛に動かされ、お二方の思いと同じように世界の人々に、世から離れて敵対関係にあるエホバ神の側に寝返ってもらいたいんですね。あ、もしかすると裏切るというよりも表返る?かな(笑)

 

 

 

私は人間を創造され、人間のためにその他のすべてのものを創造された神が存在することを信じています。私は卑小な人間でとても罪深い者ですが、それでもエホバ神と絆を結べることを信じていて、それを天のお父さまのほうが遥かに強く心から望んでおられることを聖書と、贖いの備えをくださったことから信じています。

エホバ神のお名前が神聖なものとされること、地上がパラダイスになること、敵対するサタンが存在しなくなることを確信しています。イエスがマタイの聖句で祈られた「王国が来ますように」という「王国」とは、サタンと自らの意志であえてサタンに属する者たちを「滅ぼす」役目を帯びた王国であると理解しています。私はこのスタンスを人が何を言おうと崩しませんし、曲げるつもりはまったくありません。これが私が自由意思で選んだ、私の生きる道だからです。

 

 

 

・・・どうも文章が固いですね〜(^_^;)ホントはもっと柔らかく書きたいのですが、まだまだ発展途上ですm(_ _)m

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

2024年がスタートしました。今年と来年は私にとっては節目になる年になります。1984年に私は初めて「エホバ」神の存在を知りました。エホバは私が生まれる遥か前から私をご存じだったのですけれども(^-^)お互いに出会ったのはこの年です。ですので今年はちょうど40周年記念になります。また私は2000年に25歳でバプテスマを受けました。それで来年はクリスチャンになって25周年記念ですね、クリスチャンの人生とそうでなかった人生の期間がちょうど同じになる年です。これから2年は何となくですけれど、私の人生に大きな影響があるような・・・気がします(笑)

 

 

 

さて、昨年の終わり頃は久しぶりにがっくりと心身の具合が優れませんでした。いろいろな体験からくるPTSDなどなど・・に捕まりかけました(^▽^;)結構疲れていたのでしょうね。でも天のお父さまエホバはイザヤ54:10で私に約束なさった通りに私を決して見離しませんでした。いろいろなことを分析できて、ちょっぴりまた賢くなれました。エホバの聖なる力のおかげで私は生きることができているのだな~と改めて認識する機会となりました(*^▽^*)

 

 

 

ところで、今現在もエホバの証人に反対意見を述べる数多くのSNS情報はアメブロを始めとしたブログ・X(Twitter)など多岐に存在していると思います。どうしてJWがそれに関わらない(見ない・触れない)=華麗にスルーが良策なのか・・・実に判る気がします。ネガティブ感情とか疑いの気持ちとかが入るというよりも、私のようなタイプは反論・説得したくなるからです(あはは~)だってエホバの言うことに間違いなしと確信していますからいくらでも言い返せます。でもエホバはそうすることを望んでいません。エホバの証人が争う必要は全くありません。私たちの天のお父さまエホバが必ずパーフェクトに良きに計らいます。その人たちの抱えるたくさんの大きな大きな悲しみと苦痛を癒して救ってくださいます。だから私たちの今すべきことはお父さまエホバを自分の力の及ぶ限り信頼すること&全力で委ねてお任せすることなのです。ちゃんちゃん。

 

 

 

エホバは最後のハルマゲドンのその時まで人を助けたいと思っておられます。神の子イエスは弟子のユダを、彼の自由意思を尊重しつつも、最後の最後の瞬間まで助けたかったはずです。私的見解ですがノアの時代の洪水の時、もし箱船の扉が閉じられてから7日間の間に箱船に入りたい人が現れたら、扉を開けてくれたのではないかな~と思っていたりもします( ̄▽ ̄)

皆さんはもし洪水になる直前とか、ハルマゲドンの直前とかに神の側に転向する人がいたらどう思いますか?全然~!船造ってないから、宣べ伝えてないからズルい!と思いますか?私は全く思いません。

ノアは箱船を作る長い長い期間、エホバと共に働くことができました。同じように、現代の私たちも伝道を含め日々お父さまのご意思を行なってきたことで、いつも傍にいることができました。神と一緒の日々を過ごさせていただきました。滅びの直前に転向する人はその経験の時間が遥かに少ないのです。私たち、私はとても恵まれた者です。エホバとの絆を持つだけでなく、深めてくることもできたのですから♪本当に感謝です。

 

 

 

今私たちが生きている時代は、輝かしい時代・新しい歴史の扉を自分で開けることができる、唯一無二の時です。今生きている人たちは、回復されるパラダイスの時代でその基礎となる人たちの1人なのです。これってとても貴重な貴重な宝です(^-^)♪

アブラハムも、ヨセフも、モーセも、ヨシュアも、エリヤも、ダニエルも、み~んな過去のすご~いエホバの証人には手に届かなかったことが、私たちには届くのです。だから元気を出して一緒にがんばりましょう(*^▽^*)♪エホバはいつも一緒です。

 

 

 

ダビデがすぐにイスラエルの王にはなれなかったのと同じように自分の望みが自分の願う時には来ないこともあります。と言いますかそのほうが断然多いことでしょう。でもエホバは必ず心の願いをかなえてくださいます。エホバは必ずあなたとわたしのために立ち上がって行動してくださいます。その信仰を持ち続けることができますように。信仰を持ち続けるための聖なる力をエホバが与えてくださいますように♪