皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

今回は特に一つのテーマではなく←っていつもそうかもですが(笑)心にうつりゆくふわふわ雲の「かけら」のような?思いの端々を、JW(賛美&オリジナル)ソングの好きな歌詞に当てはめつつ書いていこうかな~と思います。では早速音楽スタート♪

 

 

 

”神と同じ愛 育めば~♪

怒りと憎しみ乗り越えられる~♪”

130番「進んで許す」より引用

 

 

このブログをお読みの多くの方はおそらくイエスが話された超高額の負債をしていた奴隷が王に許された例え話をご存じかと思います。一生かけても弁済出来ないほどの金額を帳消しにしてもらったお話です。この話でエホバの許しの寛大さを学ぶことができます。ところで、その超高額の金額を王さまはある意味で手放したわけですが、その金額って王さまにとっては微々たる額だったのでしょうか?たとえば100億円のうちの1億円だから全然OK!だったのでしょうか?

 

 

この例え話の要点は、エホバが快く許してくださったのと同じように仲間を快く許しましょう、がポイントなので王さまの払った犠牲の大きさが今一つピンとこないかもしれません。でもこの例えの王さまにあたるエホバにとって手放した「金額」というのは極めて大きな額だったのです。奴隷にあたる人間には決して手に入らないものは「完全な命」であって、エホバが手放したのはその「完全な命の対価」に釣り合う、ご自身が最も愛しておられたイエス・キリストでした。

 

 

エホバは私たちのために、本当にかけがえのない大切な存在であるイエスの命とその人生を引き渡してくださいました。宇宙を含めすべての世界で最も偉い方、エホバが最も大きな自己犠牲を払ってくださったのです。そこまでして人間を、私たちを救いたいのです。計ることなどできない、熱い熱い思いをエホバは私たちに抱いているのです。それだけアダムとエバの子孫が大好きなのです。判って欲しいなぁ~(^-^)

 

 

 

 

 

 

”祈りにより 悩み委ね~♪

すぐそばに感じる神の愛~♪”

28番「エホバの友となる」より引用

 

 

アブラハムだって最初から神の「友」だったわけではありません。でも祈り=神との相互コミュニケーションで友情を育み「友」になることができました。私たち人間はみんながそうなれる可能性があります。神との絆を持つだけでなく、深めていくならそれができるのです。「友」だからこそ、友と共に喜び、悲しみ、傷つくことがあります。エホバが感じておられることが判るようになります。エホバの優しさに愛情に包まれて、感じることができます。祈り続けるのをどうか諦めないでください、神が行なわれたすべての良いことを思い巡らして欲しいです。日々当たり前に享受できていることは決して当たり前のことではないのです。どうか小さな細やかな神の愛情に気づいてくださいますように。

 

 

ネットで現役JWを標榜していたら、結構いろいろ言われたことがあったんですよね。

①現役JWのSNSを組織は禁止している(←ソース何処?)からおかしい

②現役JWの意見を知りたい(情報をシャットアウトして沈黙するな)

③現役JWは黙っててほしい(被害者じゃないし共感しないから)

などなど現役でないJWさん方々はご意見がコロコロ異なり、マタイ11:18&19とかルカ7:34&35みたいだなぁって思ったものです。そういたしますと多分報道関連も日本支部が沈黙を保とうと、何かしらを発表しようと反JWさん方々が満足することは決してないわけですね。結局何をしたところ「とて」あらさがしをするのです。少し何だかな~(可哀想)と思わなくもないのです。この気持ちもエホバはよ~く判ってくださっています。

 

 

 

 

 

 

”つらいときはいつもずっとそばで~♪

慰めてくれたあなたのこと~忘れないでいれば♪”

3番「私たちの力、希望、確信」より引用

 

 

エホバは親から鞭などを誤用されて感情的に叱られた2世さんたちの辛い記憶・痛みをよく大変よくご存じです。というよりもエホバの方がもっともっと傷ついています。あなたの心と体が悲鳴をあげていたとき、エホバも同じ気持ち痛みを味わいました。辛い思いを共有しておらます。だからこそより深く同情されています。そして信じられないかもしれませんがお一人お一人残らず愛しておられます。私はエホバを信じて欲しいというよりも、エホバという神さまが本当は一体どういう方なのか「真実」を知っていただきたいです。

 

 

それと同時に鞭などで甚大な被害を受けたからといって不道徳をしても良い、ということは決してありません。冤罪排斥が全くないとは思いませんが、少なくとも自分が結婚関係以外の性関係を持ったことを知っているなら、それはエホバと自分に対する大きな罪です。悲しませています。罪レベルだけでいうなら、結婚していない成人の互いに同意した性関係も、児童虐待による強制の性関係も同罪です。正邪を裁くのは人の感情感覚ではなく神エホバです。

 

 

 

 

 

 

”たとえ闇の中で孤独に包まれても

あなたの聖なる力 私をすぐに見つけ出す~♪”

5番「エホバは素晴らしい創造者」より引用

 

 

宗教2世さんはこれまで理不尽な扱いをたくさん受けてこられたと思います。傷を癒すのは簡単なことでないでしょう。恨みを抱えたり生きづらさを感じたりするのは当然起こることでしょう。もし治す過程で可能ならば、理不尽な扱いをした相手の背景を理解しようとする(理解とは受容することではないです)相手の成育歴を考えてみるのは後々役に立ちます。これは自分の経験からも言えます。「理解しようとする」はそれ自体が「愛する」ことです。もし愛を示していくなら相手ではなくあなた自身が幸せに近づけます。利他的な愛は神の聖なる力です。あなたが本当に求めるなら神は必ず与えてくださいます。

 

 

 

 

 

 

”父よ見てますか~♪”

オリジナルソング~♪「小さな硬貨2つ」より

 

 

イエスが歌っている歌なのかな~という歌詞に聞こえます(^-^)2:24~から登場するイエスの挿絵がすご~くすご~く好きです(≧▽≦)神殿にいるので裸足ですが、とてもリラックスされて足を投げ出している?感じといい、やもめを優しく温かく見守っている顔(まなざし)が素敵すぎ~!

やもめは若くないはずなのに、2レプタを寄付できた直後の横顔が少し少女のような面影で(私にはそう見えます)エホバの前にはみんなかわいい子供なのだな~と思うのでした(*^▽^*)

 

 

 

 

 

 

”心の痛みを聞いてくれる神が

その腕広げて(私を見つめて)そっとささやく~♪

「さあ来なさい そばに 見せてあげる

あなたの中できらめく宝 美しいから~♪」”

オリジナルソング「そばに来なさい」より引用

 

 

天のお父さまエホバはみんなを助けたいパラダイスで本当に幸せにいつまでも暮らし続けて欲しい、それがエホバの望まれていることです。だから私たちエホバの証人に様々な方法で伝道することをお命じになっています。仲間を助けたいし(←以前にJWの精神疾患率のことを言及される方がいらっしゃいましたが、それだけサタンの世の空気に馴染まない人が多い証だと私は思っています)かつて仲間だった人々も助けたいし(その時々に適した方法でね)まだエホバをご存じない人たちも助けたい、エホバは皆さんのことをまばゆく宝石のように(事実実際の宝石より遥かに価値ある存在なのですから!)ご覧になっているのだと知っていただきたい、そういう姿勢を私は持ち続けていたいですし、それを望まれる主権者エホバのご意思に従いたいのです。

 

 

 

 

 

 

”愛する子のイエスさえも 与えたエホバ神は

どんなときも あなたのこと優しく気遣われる

神のために示した〜あなたの愛忘れず~♪

神はあなたをいつも守り~♪

強い人に〜してくださる〜♪”

38番「神はあなたを強い人にしてくださる」より引用

 

 

もし仮にです、親から会衆から引いては組織から虐待を受けたと訴える(心or言葉or行動に関わりなく)自分は被害者と思っている人たちが、自分を辛い目に遭わせた人たちからの正式な謝罪を受け、賠償も支払われ、加害者たちが相応の辛い目に遭い、お望みの通りにものみの塔が禁令になったとします。すると被害者の人たちは大満足以降の人生の幸せは確約されるのでしょうか?・・・答えはNOでしょう。理由は2つあります。

 

 

1番目の理由は自分を変革しようと努力しない、厳しい言い方をすると被害者のままでいることに甘んじてそこから抜け出そうとしない場合があるからです。以前にJWだった(あるいは関わっていた)ことがあまりにも人に知られたくない、秘密にしておきたいので、のびのびできない、という感想の記事を読んだことがあります。その人にとってはほとんど事がJWのせい、なのかもしれませんが、根本原因はご自身が「他人の目が気になって仕方がない」「異質なものは到底周囲に受け入れられないと認識しているし、自分も受け入れない」立場だからではないでしょうか。JWだったから受け入れてもらえなくていじめられた、だからJWが悪い、という感覚&思考は正直???です。それは誰かをいじめる行動をする人の問題なのではありませんか?マイノリティなJWの教えを全否定して他責にするのは楽なことかもしれませんけれども・・。

 

 

謝ってもらう、相応の償いをもらう、加害者がぎゃふんと言わされることは全部してもらうことであって受け身ですよね。「人」を動かしたい欲求がかなうだけのことであって、もしそれだけなら「自分」が成長するわけではないので、喜びが永続するとは私には思えません。

 

 

 

2番目の理由は、変えたくても変えられない自分、他の人にJWだ(JWだった)と知られることが恥ずかしくてたまらない、自分を演じるので本当の自分が出せない、顔色を伺うことが直せない、これこそが人間の持つ罪深さ・不完全さに起因するからです。本当はみんな誰でも良い意味で他人を気にしないで、いつでもゴーイングマイウェイ( ̄▽ ̄)でいたいですよね。でもそれができない、なぜなら私たちが「罪」に繋がれているからです。生まれながらに罪の奴隷(この状態が神の敵と表現されます)なのです。周りの人たちもみんな不完全+不完全な環境で育ってきていますので、互いに足を引っ張ってしまいやすい状況でもあります。もし生きている間にある程度の変革ができたとしても、生まれつきや成育過程の悪い影響が無問題にならない状態にはならないでしょう。「不完全」とはそういうことだと私は思います。

 

 

もし私たちが「完全」であったなら恥の感覚・罪悪感・孤独・寂しさ・なんだか表現できないモヤモヤする鬱屈する気持ちなどは決して味わったりはしなかったのです。今の私たちには悪影響から本当に自由になることはできません。エホバはそのことをご存じなので、罪の囚われ状態から救い出したいと強く強く願っておられるのです。そのために聖書を準備されました。聖書は人が「不完全」ながらでもその中にあって最高度に幸せに生きられる方法が書いてある本です。

 

 

例えば、受けるより与えること、善をもって悪を征服すること、感謝すること、古い人格を捨てて新しい人格を身に着けること、義に過ぎないこと、などを教えてくれています。何よりエホバのお名前が神聖なものとされること、神のご意思がなされることを念頭においての行動がすすめられているのは、実のところは私たちの幸せに直結するからです。聖書はエホバがエホバのために書いた本ではありません(エホバにはもっと難しいことが書けます)私たち人が清さの点で神から遠く引き離されていても天のお父さまエホバに守られていると感じることができて、かつ私たちが強くなれるように、不完全な人間向けに書かれた神の本です。活用していきたいですね(*^▽^*)

 

 

 

 

 

 

”お父さんエホバ あなたと歩く♪

悲しみの谷をあなたと抜けて♪

喜びの丘をあなたと歩く~♪”

48番「毎日エホバと共に歩む」より引用

 

 

つれづれなるままに~タイトルなので・・ホント長々と喋ってしまってる私(^▽^;)「言葉が多ければ失敗を避けられない(格言10:19)」の通り、たぶん・・いろいろやらかしていると思います・・すみませんm(_ _)m

 

 

世の中には多種多様な考え(生き方の選択)があります。その中で「私」はエホバのお考えに合わせたいと思うようになりました(決してできているわけではありませんよ~汗)昔の私はそれこそ、自分の子供(を持つとしたら)に聖書教育なんてしたいと思いませんでしたし、自分と同じように苦労させてその上で選択させようという、冷たい、親の資格すらない考えの持ち主でした。虐待・・負の教育、負の育ち方ってやっぱり連鎖するんですよね。所属会衆の対人で大きな問題を抱えていたとき、私はその相手の方に対して憎しみの気持ちでいっぱいでした。刺し違えたいとさえ思っていました。長い長い希死念慮に苦しんでいたときは「自死したいので、排斥してください」と頼んだこともあります。却下されましたけど(^▽^;)

 

 

こんなめちゃくちゃ視野の狭い私を、エホバは本当に本当に諦めの悪~い愛(←誉め言葉です)での伸縮布で覆ってくださり、私の違反を遠くに追いやって、私の思考を変えてくださいました。私がある程度健やかに自由になって存在できるのはエホバのおかげなのです。だから私はエホバのために生きたいのです。

 

 

エホバは子供に幼い時からエホバの愛と原則を教えることを命じておられます。今の世の中で寿命分だけ穏やかな日々を過ごすためにではなく、滅びようとしている世界から生き残るために、エホバは宣べ伝えることを命じておられます。私はその命令を無視したいと思いません。人の様々な願いよりもエホバのご意思を私は支持します。

 

 

 

もし大多数のエホバの証人(組織に属する者)が、エホバのご意思に反しているなら組織としての罪は免れないでしょう。エホバは過去にイスラエルを「国民」としてはその罪の多さゆえに見離しました。それでも個々にエホバ神に従おうとした人たちのことはいつも守ってこられました。現在、大多数のエホバの証人はエホバのご意思に従おうと努力しています。ですのでエホバはこの地上の組織を捨てることはなさいません。外部や内部の人がどれほど画策しても「組織」に謝罪させることはできないと私は思っています。なぜなら対人不和の解決策の原則はまずは当人同士の話し合いだからです。

 

 

当事者がエホバが定めた手順に沿っていないのに、エホバの組織が団体でお詫びすることはないでしょう。少なくとも私の所属会衆では公&暗黙での鞭の規則などはなく個々の家庭で裁量していました。また長老が裁くのは内部の人だけです(その権限をエホバは聖書中ではっきりと与えておられます)外に出ていった人と関わりはありません。内部の人間が虐待などの犯罪を行なった場合、刑事訴訟や司法裁判に関しては行政の管轄です。それを組織が踏み越えてするのは上位の権威に反します。厳しめに聞こえるかもしれませんが、感情的にならずに冷静に線引きを見極めることはとても大切なことだと私は思います。もちろん世の中は多種多様な考えがあって、選ぶのは個人の自由ですけれどね(^^)ただ私はエホバとエホバのお考えを伝えてくれる組織に従ってきて本当に幸せだと思っているので、この生き方を選び続けたいです。

 

 

 

 

 

 

【おまけ】

 

エシュルンが最もお気に入りの歌、それは・・・

 

18番「贖いに感謝する」と

136番「エホバは充分に「報いて」くださる」

です(^-^)♪

 

 

毎年の記念式で「18番」を歌うとき、いつも目頭がじーん&胸が熱くなります。昔の私、バプテスマを受けた頃の私は全くそんなことはなかったので、こんなにも自分が変われたこと、イエスをきちんと愛せるようにエホバが私を変えてくださったことに心から、本当に心から感謝しています。

 

 

「136番」の歌詞は今までの自分の歩みとリンクするので、私がいつか結婚するとき入場の曲に使いたいです。今の体制であればこだわりはないのですけど、もし楽園の世界で結婚するのであれば、緑の映えるガーデンで、白い丸天井のガゼボの中の白いベンチに腰掛けて結婚の話を聴きたいですね~(≧▽≦)♪

はい、エシュルンの気持ちはいつでも乙女です(笑)