皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

JW libraryの新着情報で何本かの動画がupされていました。ゆっくり見ようと思っていたら、早々にX(Twitter)で、元JWさん方々の間で、あれこれ言われているようでびっくり(←自動的に上がっていたものですから^▽^;)ええと、私以前から思っていたのですが、おそらく今のところは組織に戻りたいと考えておられないであろう、ネット界隈の元JWさん方々って、私たちよりも遥かに熱心にブロードキャスティングとかその他のお知らせとかをご覧になっている気がします。皆さん存外お暇なのか?それともいわゆるストーカー的粘着気質なのか?は存じませんが、いや~すごいですね。それで組織著作の動画や画像をあえてルール忌避して勝手に載せています、これまたすごいですねー。

 

 

 

と、まぁさておき。

会衆から除かれた人たち(排斥・断絶)=「全てが背教者」ではない、これが改めて強調されたのが良かったと思いました。今は離れていてもみんなを絶対に助けたいと願っておられるエホバの愛情の強さを感じます。罪を憎んで人を憎まずって大切ですよね、うん。それでも自由意思は尊重されるべきですから、戻りたくない人を無理に引っ張らないことも愛の表れです。個人自由と責任のバランスは大切ですね、うん。漸進的に理解できることを揶揄される方もいらっしゃいますが、私が思うにエホバは私たちJW信者の歩みレベルに応じて教えてくださっているのだと感じます。幼子のような集団から各々訓練してきた良心によって判断できる、までに成長してきたことなのだと思いました。だからこのタイミングで新しい見解になったのでしょう。

 

 

 

と、統治体②の感想はここで一旦横に置きまして。

私は同時期に配信された「このことを信じますか(ヨハネ11:26)」のお話がとても心の琴線に触れました。お話の詳しい内容はJW libraryをご覧ください( ̄▽ ̄)v

 

 

 

以下は私の私的な見解です↓

イエスの「あなたの兄弟(ラザロ)は生き返ります」の言葉に対し、マルタが「終わりの日に彼が生き返ることは知っています」という答えをした理由について動画では少なくとも、という前提で2点考察(今まで若い人しか復活していない・亡くなってから日数が経過している)されていました。私は別の理由を考えていました。それはマルタが人を復活させる力を持つイエスが少なくとも今この時にラザロを復活させる意思をお持ちではないのだと思っていたからでは、かな?です。

 

 

 

マルタとマリアもイエスが来てくれればラザロは死なないと信じていました。信じていたのでラザロが亡くなる少し前に使いを出しています。でもイエスはあえて2日待った後でマルタたちの住むベタニヤに向かいました(それをマルタが知っていたかどうかでもこの見解は変わりますし・ラザロの死後4日経っていますからイエスが急いできても、間に合わなかったかもしれません)イエスが間に合って来ることをマルタとマリアは期待していたはずです。でもこの時点ではイエスは二人の期待には応えませんでした。あえて急いでは来られなかったイエスの行動から、マルタはもちろんイエスを愛していますが、ラザロを今すぐに生き返らせて欲しいという願いは聞き入れられないと判断していたのではないでしょうか・・な~んて思ったり。違うかもしれません。でももしそうだとするならば、その後にイエスの流された涙がより愛情深く、私には伝わるのです。

 

 

 

イエスはマルタの姉妹マリアにも「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」と言われます。そして今度は泣き声を聞き、泣いている人たちもご覧になります。聖書にはイエスが心の中でうめき、苦悩されて涙を流されたことが記されています。イエスが泣かれたのは愛するラザロが亡くなってしまったこともそうですが、ラザロの死で悲しい思いをしている人々の苦しみを感じたからでもあるでしょう。ここからも充分にイエスの憐れみ深さや同情心が判るのですが、今回私はマリアの(と泣いてはいないマルタも)深い気持ちにイエスが心から寄り添っておられた、という視点で書きます。

 

 

 

マリアが泣いた理由は無論ラザロの死なのですが、イエスに対してなぜ?どうして?助けてくれなかったの?というちょっと微怒と言いますか、期待が打ち砕かれた絶望とかそういった複雑なものも混ざっていたのではないでしょうか。もちろんマルタもマリアも「あなたが来なかったせいでラザロは死んだのよ!!」なんて失礼なことは言いませんし、イエスに感謝をしない人たちでもありません。でもこのときばかりは堪えていたのではないかな~と思います。自分たちの身近に救い主メシアがおられるのです、頼りたくもなるでしょう。でも一番助けを必要としているときに応えてくださらなかった。悲しいとか悔しいとか0ではない、何らかの負の感情を抱いてしまったとしても(無意識でも)おかしくない状況です。他の人たちは助けてくださったのに私たちはダメなの??とも思ったかもしれません。

 

 

 

イエスは人の心を正確に洞察することができる方です。事細かな心の内を読むことができます。だからこの時のマルタやマリア他の人たちの幾らかの自分への負の感情をイエスはご存じだったでしょう。それでも、たった一言も責めませんでした。むしろそのなぜ神は助けてくれない(くれなかった)の??しくしく(涙)・・・の辛さを、その心の苦しみを、ご自身の痛み同様に感じて共に涙してくださいました。明らかにイエスは人間の苦しみに寄り添ってくださる方です。であれば当然お父さまエホバも同じ方ですよね(^-^)♪

 

 

 

エホバとイエスは私たちの日々の悩みや苦しみに優しく寄り添う&涙を共にするだけでなく、解決策を既にご存じです。そしてそれは必ずしも楽園世界での一掃に限りません。マルタやマリアの身に生じたように今生きているこの世界で救出してくださることもたくさんあります。エホバは私たちの想像もできないような素晴らしい仕方で解決してくださるのです。あなたはこのことを信じますか?

 

 

 

 

 

 

さてさて、ここで温めておいた?統治体②の話と組み合わせます。

 

 

問題はこの後です。復活したラザロ、そしてマルタとマリアは当然イエスに感謝したでしょう。でも後になって「やっぱり最初からラザロ死ぬ前に病気の時に癒してくれれば良かったのに、そうしたらたくさん苦しまなくて済んだのに」・・と3人は思ったでしょうか?皆さんはどう思いますか?

 

 

 

さらに、例えばエジプトで苦難の末、総理大臣になったヨセフは父ヤコブと再会してみんなで飢饉の時代を乗り越えた後で「でもやっぱり17歳から39歳の間、お父さんと一緒に暮らしたかった。過去には戻れないんだ・・辛いなぁ」とネガティブモードになったでしょうか?皆さんはどう思いますか?

 

 

 

王国会館に来られた排斥されている人と交友は持たないものの、挨拶することは自由裁量になりました。ではこれまでに挨拶されなかったことは不当ですか?許されないことですか?悔しいですか?皆さんはどう思いますか?

 

 

 

乗り越える鍵はたぶん・・・「謙遜さ」なのだろうなぁと私は思います。

そして、たとえどんな「後遺症」が残っていたとしても、エホバを信頼するなら必ず私たちが思いもよらない仕方でエホバは行動されて解決してくださいます。

あなたは「このことを信じますか」(^-^)?