英会話らばっ(ワンポイント編) -2ページ目

医者にかかるとき(風邪編)

私の調子悪いPCに変わって、知人からPCを一週間借りてきた。

モノの故障も困るが、海外に住んでいる者にとって怖いものと言えば、病気や怪我である。

避けられるものならば避けたいが、やむを得ず病院や医者の世話になることも多い。
言葉の壁はもちろん問題であるが、病気や体のことに詳しい医者だって、日本人の特徴に詳しいかどうかはまた別だし、医療システムもかなりちがう。
治療や処方もそこの土地の人間に合った量や方法になっているので、適宜自分の身体と相談しながら臨機応変にいかないとどうも具合がかえって悪いということになりかねない。

西洋医学ではもともとこの病気に対して、この薬という方法なので、量などもあまり個人差はなく、簡単に子供と大人という風に、年齢で区別しているなど、適当な部分も多い。

しかし、気づいている人も多いと思うが、もともと白人とどう考えても体の様子がちがう。
見た目もちがうが、骨格だけでなく、内臓やそれぞれの器官の働き具合、強さもかなりちがう。

一般的に言われている違いだけでもかなりの差がある。
例えば、

・欧米人の平均的な腸の長さ4メートルに対し、日本人の腸の長さは7メートル
・日本人は欧米人に比べてインシュリンの働きが弱い
・日本人の歯の神経は欧米人のに比べて大きい

その他、欧米人の肝臓が強いだとか、胃腸が強いだとか、欧米人は肩が凝らないだとか、日本人との体の違いは顕著である。

私は医学博士でもなんでもないので、リストを延々と作れないが、専門になればもっといろいろあるのであろう。

当然かかりやすい病気も弱い部分もちがう。
熱が出て、一番最初にイギリスで恐れられるのは、

"meningitis"「髄膜炎」 

という病気で、これにかかると死亡につながりやすいせいか、医者は最初に、それにかかっている可能性がないかどうかを先に診る。
日本では少ないのか熱が出てそれを恐れる人なんてのは聞いたことがない。
イギリスに住み始めて初期のころ、熱を出して医者にいくたびに、

"There are no apparent signs of meningitis."
「髄膜炎の兆候はないようです」

と言われたが、知らないと「はぁ、そうですか」というようなものである。
かというと、かなり思い切った治療や、日本にないことをしてくれる。

「歯」なんかは保険制度がちがうのか、やたらとまとめて治療しようとする。
日本で1本の歯を何回にもわけて治療していたのに慣れていると、

"I'm going to fill three teeth today,"
「今日は3本の歯の治療をします」

なんて言われたおりには、「3本もいっぺんに?!」と不安が胸をよぎる

日本の国民健康保険にあたるようなイギリスの"NHS"(National Health Service)というものは基本的に薬を除いて医療費はかからない。
そしてNHSというところは常に赤字である。
だからむやみに余計な検査や治療もしてくれない。

風邪くらいでは、上記の髄膜炎のように死亡につながるような、病気の可能性がないか調べたあとは特に何をしてくれるでもないので、少々の風邪程度では医者に行かなくなるのが現状だ。

英語がわかりにくいという日本人について、何度か医者にお供したこともあるけれど、日本人が尋ねる質問は日本の医療システムに基づいているので、かなり的のずれた質問になってしまうことも多い。

ある知人は日本で家族が風邪を引いたりすれば、点滴を打ってもらったそうで、その点滴ですぐ風邪が治るので、こちらで打ってくれないのかと私に尋ねた。

まず「点滴」というのを英語で、

"intravenous drip"

と言う。
しかし、英国中どこを探しても、風邪を引いて「点滴」を打つという人は、いないと思われる。
「点滴」というのは、事故や重い病気をした人が入院しているときにするもので、風邪を引いて点滴というのは、尋ねることさえ躊躇される。

"Could I have an intravenous drip?"
「点滴を打ってもらえますでしょうか?」

英語は簡単だが、間違いなく、

"What for?"
「何のために?」

と聞き返されると思われる。

「風邪を引いて点滴」という発想は、イギリスでは「かすり傷で救急車」というくらいありえない発想ではある。

骨折して苦痛に顔をゆがめながら、数時間も外来で待たされる国で、風邪の治りをよくするためにベッド1台空けてくれると、到底思えないのが現状だ。

しかし、「できないと思う」と伝えるのは私なので、私の責任のように思ってしまうものなのよね。
「これはできないの?」「あれはできないの?」という質問に対して、「できない」と答えるとき、それは私ができないのじゃなく、イギリスができないんだからね。

風邪は万病の元とは言え、もう自力で治すしかない。

"I have a sore throat"
「のどが痛いんです。」

"I have a runny nose."
「鼻が出るんです。」

"I have a high temperature."
「高熱があるんです。」

"I cough at night."
「夜に咳き込むんです。」

"I have muscle ache all over my body."
「体の節々が痛むんです。」

こんなに訴えて、イギリスの医者が言うのは、

"Get lots of rest and drink lots of clean water."
「水分をたくさんとって、しっかり休んでください」

というようなお決まりのセリフで、あっさり診療が終わる。
そうそう、つけたしのように、

"Come back if the symptoms get worse or do not go away after one week ."
「症状が悪化したり、一週間しても同じならまた来なさい」

とはとりあえず言ってくれる。
そして大半1週間もすりゃ風邪というのは治るので、結局医者に何をしてもらったという気はせず、自力で風邪は治したという自信はつく。

なんとなくそれが本来の姿のような、そうでないような、そんなイギリスの医療事情ではある。


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めでたいのは誕生「日」

大半の欧米人にとって大事な行事というと、"Birthday"「誕生日」をあげる人が多い。



人間の一生の始まりということで、生まれた記念に誕生日というものがあるのだが、このお誕生日、欧米では非常に大切な行事として、小さなころから扱われる。



もともとこの世に生まれたその日から人生がスタートするわけで、その最初の日を祝うのも当然と言えば、当然という気はする。

だから、お誕生日は、

「この世にあなたがいるのもこの日のおかげ」と意味が大いに入っていて、親はもちろん、親戚、友人らで、「おめでとう」というお祝いモード。

誕生日カードやプレゼントのやりとりも盛んで、そして大人になってもずっと祝う。

誕生日を忘れるなんて、言語道断。

夫婦なら離婚の危機に発展しかねないほどである。



さて、もちろん日本でも誕生日を祝うが、やはり欧米に比べてその比ではない。

妻の誕生日を忘れて離婚になった夫婦はいないように思うし、しかもまたその忘れる人口が多い。



一番極めつけが、自分の子供が生まれるその日に、病院についていてやれないという人も多い。

これは欧米では、シングルマザーでもない限り、皆無に近いものがある。

日本で妻に子供が生まれるのに、病院に行かずに仕事している日本人夫を目の当たりにしたアメリカ人が、不思議に思い私に説明を求めてきた。

適当な私は、



"It may not be as important as you think it is."

「生まれるときはそれほど重要じゃないのかも」



そんな説明で納得するわけもなく、彼は、



"It's about life and death."

「生死の問題だろ」



と私に言った。

言い返す言葉もなかったが、まったくそのとおりである。



そのときに思ったが、「生死」の問題という考え方をすると、日本人はバランス的に、「生」より「死」に重きを置きすぎる気配はある。

誕生のときにかけつけられない人は多いが、誰かが死ぬときは、かならずかけつける。

誕生日は忘れても、亡くなってから、四十九日だの、何回忌だのは、忘れている気はしない。



こう言うのをたまたまこちらでイギリス人に説明していたら、



"That's very morbid."

「それはかなり陰気臭い」



と言われた。

陰気臭い! 

否定は確かにできないけれど、お誕生日をいくつもすっとばしで、死を悼む行事が多いことを思うと、確かにそうかもしれない。



最近は日本でも欧米化がかなり進んでいるので、楽しく誕生日を祝う人も増えたが、やっぱり日本人の誕生日の感覚と、欧米人の感覚が若干ちがうなぁと思ったところがある。



気づいたのは、先日もらった読者からの質問で、誕生日に贈る文で、



「今年も○○にとって良い年になりますように、、」というのを英語で教えてほしいという内容であった。



日本人が見ると、おかしい文に見えないし、そう難しい文ではないのだけれど、こういうところで、日本らしさが出るなぁと思った。

誕生日の言葉で、その年がいい年になりますようにというのは、あまりネイティブがする表現ではない。

誕生日というのは、生まれた「日」を祝うので、どうして「年」?というのがひとつ。

年を祝う言葉を発するときは、やはり新年やお正月の表現という気はする。



真偽は定かではないが、日本は昔は誕生日はみんな元旦だったそうで、その年の初めにその1年がいい年になりますようにという願いを込めて誕生日を祝ったのだと思われる。

だから、元旦に出すカードのセリフと似た感じになってしまうのね。



なので、欧米人にお誕生日カードを出すときは、その「日」を祝う言葉、あるいはその人の一生を祝う言葉のほうがふさわしい。

誕生日は毎年来るので、来年はいい年にならなくてもいいのか?ということになってしまう。



だから誕生日カードにかくセリフは、その「日」がいかに「スペシャルな日」かをまず念頭において、書くと失敗はない。



"I wish you very happy birthday."

"I wish you the very best on your birthday and always."

"I wish you nothing but the best!"

"Hope you have a great day with many happy returns"

"I hope all your wishes and dreams come true. "



こんな風にどれもこれも、その「日」やその後を長く祝うものが多い。



そういえば、私が昔にもらった誕生日カードで、



"I wish you ten more good and prosperous years."

「あと10年は順調な年が続きますように」



というのがあった。

とっさに



「10年だけ?」



とは思った。

10年経ってから、しっかり順調なのが途切れたのは、きっとこのカードのせいだっ。





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無礼なのはどっち?(後編)

さて、昨日の続きで日本人が、欧米でむっとくるかもしれないケースである。



もうひとつは電話の応対である。

普通に電話のかけ方、呼び出し方、返答の仕方なんてのは、どこにでも載っているので、ここでは省くが、例えば自分のところに日本人が電話をかけてきて、同居人や家族の呼び出しをする場合、



リーン、リーン、

「はい、山田でございます」

「もしもし、私、鈴木と言いますが、花子さんいらっしゃいますか」

「少々お待ちくださいませ」



とこういう経路をたどる。

日本人が読んでなんらおかしいと思わない普通のやりとりである。



これが欧米で英語の場合、



Ring,Ring 

"Hello." 「もしもし」

"Is Lisa there?" 「リサはいます?」

"Just a second, please." 「少々お待ちください」



これ、欧米人が見てなんらおかしいと思わない普通のやりとりなんだが、これ日本人が見ると、電話をかけてきた人は名乗らないのかということになる。

日本なら電話をかけてきて、自分の名を名乗らないことはかなり失礼なイメージが強い。

ときに小中学生が電話で、名乗り忘れるというのはあるが、大人ならほぼ100%に近い数字で、自分を誰か名乗り上げる。



ところが、欧米では、自分の名を名乗る確率は半分くらいのような気がする。

もちろん電話をかけてきた相手が、自分も共通の知人だったり、どこかの会社からというようなときは別である。



確かにちゃんと名乗る人も多いが、もし名乗り上げなくても、日本のように、



「一体誰よ。失礼だわ」



とは、思うことなく、電話を取り次ぐのが欧米式である。

一般的な例として、欧米の家庭で電話が鳴り、そこの家の母親が出る。

そこの家の息子の友達が、息子を呼び出す。



"Is Tom there?" 「トムはいますか」

"Yes, I'll get him for you." 「彼に代わるわね」



こんな風に母親も相手が誰かいちいち尋ねない。

これが日本人だと、大半の人は、



「どちら様でしょうか」



と尋ねる。

これは名乗らないと失礼だという文化から来るので、もう日本人は大半確かめないと気が済まない。

これを英語にそのまま当てはめ、こういうのを練習して必ず尋ねる。



"Who am I speaking to?" 「どちら様ですか」

"Who's calling please?" 「どちら様ですか」

"Who's this please" 「どちら様ですか」



「あんた、誰やねんっ」 シリーズである。



もちろん尋ねたって「無礼」というほどではないが、"nosy"「せんさく好き」なイメージは与える。



欧米で聞かない理由に、個々のプライバシーを尊重するというほかに、欧米には"Accents"(アクセント)というものがあり、これで大体誰かわかるのである。

これはカタカナ日本語の「強く発音する」という意味の「アクセント」じゃなく、個人個人が持っている、「発音の癖」というものである。

日本語は音が少ないので、こういう「発音の癖」というものがほとんどない。

関西の人がアナウンサーになるのに、数週間で標準語をマスターしたりできる。

英語の"Accents"「発音の癖」というのものは、ちっとやそっとでは、変えられないし、声との組み合わせによって、まるで人の顔のように、誰かわかるようにできている。

イギリスでは息子になりすまして、「オレオレ詐欺」をするなんてことはほとんど不可能に近いのである。



そんなこんな理由で電話で名乗らない人を尋ねないのだが、欧米でも聞いてくる人もいる。

映画なんかでもよく見るのだが、娘にかかってきた男の子に対して、



「君は誰だい?」



と父親が尋ねるシーンをよく見る。

あれは根掘り葉掘りというイメージを与える効果というのをかもし出しているわけである。



まとめると、名乗りあげない欧米人に対して、"Accents"「発音の癖」を読み取って誰か理解するか、せんさくすることなく、さっさと該当の人に電話を代わろうということだが、そこは気になる日本人。



やっぱり誰か尋ねたいという人のために、相手にせんさく好きだと思われずに、尋ねる英語を紹介しておく。



"Who shall I say is calling?"

「どちら様でしょうか」



これだと、



「私はあなたに興味はないんだけど、代わる相手に、誰からかかってきてると伝えればいい?」



というそういうニュアンスがある。

元々、執事が主人にかかってきた電話の応対でよく使う表現だが、丁寧かつ、プライバシーにかかわることは興味を示さないというスタンスであるがゆえに、相手に失礼のないような言い方である。



電話は顔が見えないだけに、声とニュアンスだけなので、結構難しいのである。



さて、最近うちには間違い電話も多いのだが、間違い電話してきた人が、私に向かって、



"Who's this?" 「誰?」



というのが多い。

こっちが聞きたいっつーの。

君がかけてきたんだろう。



こういうときには、私のほうから聞き返してはいる。



"Who am I speaking to?"

「君こそ誰だ?」

(関西訳:おまえこそ誰やねん)



でも、決して君に興味はない。






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無礼なのはどっち?(前編)

マナーがなっていない! 失礼だ。

と、思うことは誰にでもある。
そしてそう思うときは、大半、相手のマナーが本当になっていないときなんだと思う。

ところが、たまに相手がそれほどマナー違反をしていなくても、そう感じるときもある。
文化の差などによってである。
日本の文化を知らないで、失礼なことをしちゃう外国人や、外国の文化を知らないで、失礼なことをしちゃう日本人なんてのも、結構エピソードとしては珍しくないのである。

うまい具合に、外国人から「日本人って失礼だ」と聞く割合と、日本人から「外国人は失礼だ」という割合は、私にはほぼ半々であるように思う。
ということで、どっちもどっちなので許しあおうっていうわけだが、どこを許して目をつぶるのか、どこを許さずに修正してあげるのか、私はいつも現場の文化に沿うというようにしている。

今は私も外国にいるので、日本の文化をそのまま背負い込んで生活すると、

「礼儀のなっていないやつばかりだっ」

と、カッカしかねない。
でも実は、それは文化だったりするので、そんなことでそこの国の人は、カッカしていない。

ということで、日本人が「むっとしてしまうケース」というのを2つ紹介する。

ひとつはサービスのことを言及した日記でも書いたが、やはりお客様は神様じゃないというところからである。
アメリカもそうだったが、イギリスなんかはアメリカに輪をかけて、店員のプライドが高い。
いわゆる、

「店員は王様」

というのを頭に叩き込んでおかなければいけない。
「客は神様」 というのが体にしみついている日本人には、これがなかなか大変で、しょっちゅう日本人から、文句が出るのも、この類のことである。

もちろんこちらの文化に合わせなくてはいけないので、日本人もいったん日本を出れば、「神様」でいられない。
「店員が王様」だということを頭に叩きこんだら、必然と客は「家来以下」という構図になることがわかる。

「家来以下」が「王様」に、何かお願いをする場合、それは「王様」の気分次第である。

"Could you tell me where the washing powder is?"
「洗濯せっけんはどこにありますでしょうか」
(今度攻め入る国はどちらでしょうか)

これくらいの質問だと、確実に答えてくれる。
ところが、もうちょっと踏み込んだお願いになると、

"Could you wrap this up as a gift?"
「これを包装していただけますか」
(勲章はいただけるのでしょうか)

却下される可能性大である。
イギリスの王様は厳しいので、なかなか「勲章」はくれないが、どうすれば「勲章をもらえるか」(包装できるか)は教えてくれる。
そして大半の答えが、

"The shop across the road sells wrapping papers."
「お向かいの店で包装紙を売っているよ」
(命をかえりみず、戦ってくるのじゃ)

こんなこと言われてしまうと、「神様」としては、

「恐れ多くも神である私に向かって、よくそんなことが言えるよな」

とこうなるらしい。
だけど、ここはイギリス。
あなたは神じゃないの。
単なる家来なの。
これがすっと頭に入るまでに、数ヶ月から1年かかるのが日本人なのである。

たまにイギリス人の店員がやってくれないのは、言葉がうまく通じていないからだと思っている人もいるが、実は根本的に通じている、通じていないというのはこういうことに関しては関係はないのである。

私もよく通訳で店員にあれこれ聞いてほしいと言われることが多々あるが、いつも、自分の持つ一番美しい話し方を総導入してさらに丁重に、そして丁寧に、尋ねるようにしているが、それでも相手に却下される可能性は必ず念頭に置いている。

イギリスの店員は失礼でも何でもなく、日本人の客が神でもなんでもないというだけの話なのである。
ということで、「神」から「家来」への切り替えがすんなり出来る人は、カッカしなくてすむ。

さて、もうひとつあったのだが、長くなりそうなので続きは明日にする。

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どんなおうち?

ついこの間、「マッチ箱のような小さな家っていうのはどういうの?」と尋ねられた。

英語では小さな家を表現するのに、「マッチ箱のような」とは言わないが、家が小さいということを表現するのは割合簡単である。

その前に家を小さいというのをどこで言うのかという問題だが、私に質問をした知人はよく、

"What sort of house did you live in Japan?"
「日本ではどんなおうちに住んでいたの?」

と聞かれるのだそうだ。
そして彼女は、

"It was a small house like a box."
「マッチ箱のような小さな家よ」

と謙遜して答えたいらしい。
だけど、実はこれは質問の答えに全くなっていないのである。

日本では、

「どんなおうちに住んでいるの?」

と聞かれたら、

「庭付きのおうちよ」
「ワンルームマンションよ」
「豪邸よ」
「狭いおうちよ」

とこんな風に返す。
これはとにかく何を物語っているかというと、全部家のサイズである。
みんな意識をしているかどうかは疑問だが、

「どんなおうち?」
という質問には、「家のサイズはどの程度」というのを答えることを期待されているような気がする。
だから、英語で聞かれたって、日本風に答えると、

「マッチ箱のような小さな家よ」

という答えになってしまうわけだが、英語で「どんなおうち?」か聞かれたら、まずほとんどの相手はサイズを聞いていない。
じゃぁ何を聞いているのかという話になるのだが、構造や建築様式を聞いている場合がほとんである。

木造なのか鉄筋なのか、マンションなのか一軒家なのか、古いのか新しいのか、1階建てなのか2階建てなのか、と、こういうことを聞いている。
だから、ここでサイズだけを答えると、会話としては成り立たないのである。

とりあえず、適当な答えとしては、「マッチ箱」や「ウサギ小屋」のように、小さい、狭いという表現は忘れて、

"I lived in an old two-story house"
「古い2階建ての家に住んでたわ」

"I lived on the fifth floor flat."
「マンションの5階に住んでいたよ」

”I lived in a new wooden house."
「新しい木造の家に住んでいたの」

もちろん、すごい豪邸に住んでいて、ちょっと自慢したいようなときにはそれこそ、

"I lived in a five bedroom house with a swimming pool."
「プールつきの寝室が5つある家なのよ」

とサイズをほのめかしてもそりゃ構わない。
だけど日本風に謙遜して小さいというのは、きっと質問者の聞きたいことの趣旨から外れていて、会話がそこで終わってしまうように思う。
もちろん、どんなに家が小さいかというのを説明したいときもあるので、それは構造の一環として、伝えるといいように思う。

イギリス人は自分の家に誇りを持っている人も多いので、自分の家を謙遜して悪くいう習慣がない。
だから、あまり謙遜していると自分の住んでいる家が嫌いなんだ、と思われるので要注意である。

さて、私の家もあまり褒めるところはないが、確かに自分にとってはお城ではあるし、愛着もある。
だから、「どんなおうち?」と聞かれたら、イギリス人には迷わずこう答えている。

"My house has potential!!"
「そのうちいい家になるよ!」

でも、それいつ?って聞かないで。(汗)


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"My blog has potential!" 「そのうちいいブログになるよ!」

壊れそうなモノ

本日も知人の質問から。



モノが壊れたときの表現の仕方である。

私たちの周りでは実にいろんなものがよく壊れる。

モノが壊れるとトラブルになることも多いので、こういう小さな表現は知っていて損はないと思う。



質問してくれた知人は、壊れたモノの大きさによって、表現の仕方がちがうのかだとか、あるいは完全に壊れてはいないが、調子が悪いというようなときの言い方を知りたいという内容であった。



物が完全に壊れていて使えないような場合で、公共のものだと、張り紙がしてあったりする。



"Out of order"

「故障中です」



日本は修理をすぐしてくれる国なので、欧米より "Out of order" 「故障中です」の張り紙が少ないように思う。



そのほかのものもほぼサイズにかかわらず、"broken"「壊れている」という言葉を使って簡単に表現できる。



"My phone's broken."

「電話が壊れた」



"My watch is broken."

「時計が壊れている」



という風に。

ところが、完全に壊れたわけじゃなく、ちょっと調子が悪いという程度のときがある。

電球ならつくときもあれば、つかないときもあるだとか、テレビなどでいうと叩けば映るだとか、まったく動かないというわけではなく、半分壊れているような状態である。



口語表現ではあるが、こちらで老若男女使う言葉で、



"playing up" という。



年配の人でも普通に使う言葉なので非常に便利で、「なんだか調子が悪い」というときに役立つ。



"My PC is playing up."

「パソコンの調子が悪い」



"My TV is playing up."

「テレビの調子が悪い」



大きなものでも使える。



"My car is playing up."

「車の調子が悪い」



ついでにお腹の調子にも使える。



"My stomach is playing up."

「お腹の調子が悪い」



ちなみに体ではお腹しか使えない。

完全に壊れているというわけではないので、これから壊れていくという予告にも聞こえるが、だいたいモノというのは壊れかけてからが長いものなのである。

なので、叩いたり、振ったりしながら(もっと壊れそうだが)、完全に壊れてしまうまでは、だましだまし使う。

そうして、いつしか、



"My car is dead."

「車がうんともすんとも言わない」



とここへ行き着く。



哀愁さえ感じてしまうモノの壊れていき具合だが、やはり何事も順番があるように、普通に作動しているところから、完全に壊れてしまうまでの一番長い期間(短い場合もあるが)の言い方を知っていると、便利だと思う。



ところで、"play up" というのを辞書で引くと、結構いろんな意味が書かれているのだが、悪ふざけするだとか、大げさに言うとか、宣伝するとか、いろいろあるのだが、会話では、もうほとんど上記に説明した「調子が悪い」という意味以外では使わない。



なのでほかの意味は消去しておいていいであろう。

こんなこと言うと、辞書を作った人は卒倒するだろうな。

正確に言い換えると、たまに新聞の記事で使われることもあるが、新聞を英語で読まない人は消しておいてよい。



しかし、うちを見渡すとなんだかまともに作動しているものがない気がしてきた。

あれも、これも、それも、調子が悪い。

私の中では、



"○○ is playing up."

「○○の調子が悪い」



というのは、工夫すれば使えるということである。

最近は、PCの調子が悪い。

急にぶつっといきそうで毎日ひやひやである。



急に更新が途切れたらPCのご臨終だと思ってください。(汗



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学校で売買される驚きのモノ

イギリスというところは、小学校から高校まで、常に寄付を募っている。



やりくりが苦しくて学校運営のための資金なのか、別のチャリティへ寄付する一環なのか、とにかく定期的に、



"fundraising events" 「基金集めのイベント」



というものが行われている。

いろんな形でチャリティ風に計画されるわけだが、それはそれはもう毎月のように、ちょっとした金額を寄付するようなイベントがある。



まず、一番一般的なのが、



"Non-School Uniform Day" 

「学校に制服を着てこなくていい日」



こういう日を設置して、そのかわり生徒一人につき、1ポンド程度(約200円)を持っていくというようなやりかたである。

どこの学校でもこれは定期的に行っている。



そのほかに学校で催し物を開催しては、音楽イベントだの、スポーツイベントだの、ビンゴゲームイベントだの、バザーやブックショップイベントだのと、ありとあらゆることが常に行われている。

バザーのようなものがあると、保護者は学校に売り物にする、カップケーキだとか、お菓子やいらぬものを持っていかないといけない。



イギリスらしく、売るときは1つ50円だとか安い値段で取引されているので、確かによく売れる。

しかし、1個50円のカップケーキをわざわざ10個作ってもって行くなら、500円寄付したほうが早いんじゃないかと、たまに思うこともある。



"Primary school"でも、"High school" でも同じように、行われている。

こういうイベントは、学校側やPTAで考えられ、子供が飽きないよう、寄付金ができるだけ多く集まるようにかなり工夫される。



その中でもちょっとおもしろいチャリティが行われていたので、紹介しておく。

あるハイ・スクールでオークションが行われたことがあった。

オークションはハイスクールくらいになると珍しくなく、いろんなものが売られるのだが、そのときのオークションは、かなり変わったものを売っていた。

なんと、



"slaves" 「奴隷」



である。

え?と思うだろうが、日本語の奴隷の意味そのままで、言うことをいろいろ聞いてもらうことのできる「人間」のことである。

イギリスのハイスクールでは、11歳~18歳くらいまでの幅広い年齢層なのだが、あらかじめ奴隷になってくれる17歳~18歳の上級生の中から立候補を募らせ、その生徒たちを "slaves" 「奴隷」として、オークションに出しているのだ。



そしてその "slaves" 「奴隷」を落札すると、休み時間におやつを買いに行かせたり、宿題を手伝わせたりするのに利用することができるのだ。



さて気になるお値段のほうだが、まず "Slave No.1" 「奴隷第1号」は5ポンド(約1000円)で落札された。

そのあと"Slave No.2" 「奴隷第2号」、"Slave No.3" 「奴隷第3号」も、それより高い値段で落札された。

どんどん落札される値段がつり上がり、一番最後の「奴隷」は先生の立候補者であった。



なんとこの先生には、60ポンド「約12000円」もの値段がつき、落札された。

1日先生を奴隷のように扱えるという権限は、12000円は高いのか安いのか、私にもさっぱりわからないが、11~16歳くらいの子がオークションで、出す額としては、思い切った金額であるとは思う。



こういうのもチャリティの一環でやっているとは言え、こんなの日本の高校でやれば、きっとPTAは卒倒するのではないかと思われる。



たまに、「イギリスの高校ってどんなところ?」と尋ねられることがあるが、決して、



「奴隷の売買が行われているところ」



とは日本人には言えない。(汗)





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カッコいい英語

英会話のフレーズ集なんかで、とても気になることがある。

困ったときだとか、レストランでだとか、友人同士の会話でだとか、いろんな表現がいろんなところで知ることができるようになった。
インターネットでもう調べられない表現はないんじゃないかと思うほどに。
その中でよく見るのが、

「○○をカッコよく言うには?」

だとか、

「△△をカッコよく言いたい」

という前置きといっしょに紹介されている英文である。
「カッコよく言う」という言葉に読者が弱いのか、過去によっぽど「カッコ悪い」思いをしたのか、定かではないが、とにかくそこらじゅうに「カッコよく言おう」という風潮がある。

何か英語で表現するのに、文法的に発音的に「正しい言い方」であるかどうかはわかりやすいが、「カッコいい」かどうかは、"context"「文脈」や会話の相手や、もっと細かいことをいうと、話し手の身なり、発音、話し方などが複雑に関係するので、この言い方が「カッコいい」という単純なことでもないといつも思う。

そして紹介されている「カッコいい」フレーズというのは大半が、ビジネス的な言い回し、あるいは文語体の表現を、そのまま口語文にしているだけだったりする。

例えば、好きという表現を

"I like Sushi very much." 「お寿司がとても好きです」

これを「カッコよく」言うと

"I love sushi." 「お寿司が大好き」

なんて書いてある。
どう見ても普通の文なんだが、本当に「カッコよく」なったのかどうか大いに疑問だ。
いわゆる文語体を口語体に変えるということであるが、確かに堅さは取れるかもしれない。
だが、「カッコよく」なると思うのは非常に危険な気がする。
下手をすると軽い感じに聞こえるし、相手によっては失礼になることもあるし、イギリスのように結構保守的な国では、「カッコよく」しようと意識すること自体が、「カッコ悪い」とそんな風にとられることもある。

知人にもちょっと前に聞かれた。

「ダイエットしなきゃ」ってカッコよく何て言うの?

「カッコよく」って何よ?
 「ダイエットしないといけない状況」ということ自体、すでにもう「カッコいい」という意味合いから外れている気がするのは私だけ?
だが、日本人が「カッコよく」というときは、「ネイティブがナチュラルに使う表現」という意味であるらしく、彼女は「カッコいい表現」をインターネットから見つけてきていた。
その表現が、

"I need to go on a diet." 「ダイエットしなきゃ」

そのままやん。
カッコいいも何もそのままである。
ナチュラルに確かに使う表現であるし、間違ってはいないが、普通のダイレクトな言い方なのに、そこに「カッコいい」言い方と書かれていることがちょっと気になる。

ちなみに欧米人もダイエットはさかんであるし、「ダイエットしなきゃ」なんて表現はあちらこちらで聞くが、私には(私にだけかもしれないが)、少しひねりのある文のほうがおもしろいし、カッコいいと思える。

例えば、

"I'll have to let the Cakes go."
「ケーキ類をちょっとよそへ出かけさせるわ」

"I'd better give the beer a rest."
「ビールに休憩させてやらないとな」

"Time for the chocolate to take a holiday"
「チョコレートに長期休暇を取らすわ」

こんな感じに。
同じように「禁煙しなきゃ」という文を、

"I'd better give my lungs a break."
「肺に休憩させないとな」

なんて言う人もいた。
こういう文を裏から伝えるような表現は英語には結構多く、ジョークなどにもよく用いられる方法でもある。
日本語と比較して私にはこれくらいのひねりがある文のほうが、カッコよく聞こえる気がする。
もちろんそれも人によるので必ずしも「カッコよく」なることは保証はできない。

しかし、チョコレートより私に長期休暇くれと言いたいし、家のローンもよそに出かけてくれないかなぁとか、私の考える英文は結局生活に基づいてしまう。

いつまでたっても「カッコよく」なれないのである。(汗)


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面白い字幕

引き続き風邪を引いているので声が出にくい。
声が出なくて静かでいいと周りに思われそうだが、結構本人はつらい。

とてもハスキーな声になっているのだが、声が出づらいような表現を紹介しておく。

朝起きて、ちょっと声が出にくいようなときや風邪の初期で少ししわがれたような声のとき、

"my voice is a little croaky" 「声がしわがれている」

こんな風に言う。
風邪の症状が悪化したり、さらにひどい声になってくると、

"my voice is hoarse." 「声が枯れている」

そして本当に出なくなると、

"I've lost my voice." 「声が出ない」 

とこうなる。
今私の声は"Hoarse"「声枯れ」という状態だ。
馬の"Horse"とまったく同じ発音で、病院なんかで症状を言うのにも便利な言葉である。

さて、話は変わるが、英語に少しでも携わっていると、翻訳や通訳をする機会が増える。

その場で瞬時に変換をしないといけない通訳は、ほぼ綱渡りに近いものがあるし、翻訳の場合は、この言葉でもない、あの言葉でもないと、一人ちまちまと長い時間をかけなくてはならず、時間によってできる量が決まっているため、生産のなかなかあがらない仕事ではある。

英語と日本語の違いがあまりに顕著なために、間に入る通訳者や翻訳者によって、意味やニュアンスががらりと変わるなんてことが日常的にある。
ということで、通訳とか翻訳業は仕事としては失敗の出やすい、あるいは、なかなかクライエントに気に入ってもらえないということも多い。

言葉の変換はよっぽどの間違いを除いては、作文などの国語力やその人のセンスも、多少出るので、同時通訳や映画の字幕翻訳など、限られた時間範囲で行うものは、もう英語の世界というより、ほぼ芸術の世界かもしれないと思うこともある。

私は映画が結構好きなので、いろんな映画を見るのだけれど、この字幕というのが結構おもしろい。
文字数が決まっていて、尚且つ映画の流れとして、ストーリーが理解できるようにつけていかなければならないので、意訳の世界である。

セリフが生きるも死ぬもこの翻訳者にかかるのだが、アートセンスみたいなもので、少々飛躍して訳されていても全体の流れとしてわかればいいのではないかと思う。
ということで、私はあまり翻訳者や通訳者のバッシングはしない。

自分の気に入らない絵を描いたからといって、その絵が悪い絵かというとそれはそれでまたちがうからである。
自分ならそういう絵を描かないというだけに等しい。

バッシングはしないけれどがっかりというのは結構ある。
英語で6巻くらいに渡って書かれた小説があって、私にはおもしろかったので、知人に訳書を探したのだ。
で、この書で私が抱いているイメージと翻訳者が抱いているイメージが明らかに違う。
この主人公は英語で私が読んだイメージでは、個性の強い、やんちゃなタイプであった。
ところが、訳書では彼のセリフはすべて、敬語になっているのだ。

"I'm ○○." 「オレは○○だ。」 と私がイメージしているところを、

"I'm ○○." 「私は○○です。」 と、翻訳されている。

もうこうなると、私が捉えた主人公と、翻訳者の捉える主人公に相当のずれがあり、同じものを読んでいる気がしなかった。
決して悪い翻訳ではなかったが、私の考えている主人公は別人なんだと思えてきた。
こんな風に、読む人によって感想がちがい、登場人物の捉え方にずれができる。

ニュアンスや雰囲気の受け取り方というのは、十人十色なので、そういう理由で、英語のフレーズ集なんかは、意味は書いてあっても、ニュアンスについては説明が少ないのかもしれない。

逆に私を、うーんと唸らせるようなすばらしい翻訳に出会うこともある。
私が絶賛するピカイチの字幕があるので、紹介しておく。

「アダムス・ファミリー」というお化け一家の映画である。
この映画はホームコメディの娯楽映画だが、同じコメディでも、かなりのブラックコメディである。

子供たちがギロチンを使って遊んでいるシーンがあった。
そこへお母さんがやってきて、「何をしているの」と尋ねる。
子供たちは「新しい遊びを考えた」と答える。
すると、お母さんは「なんていう名前の遊びなの」と聞き返す。

このときの子供たちの答えが英語で、

”Is-there -God" 

という言うのだが、直訳で言うと、「神は存在するのか」という意味で、遊びの名前にそれを使うのは、この世に慈悲というものはあるのか、それくらい残酷な遊びなのよ、というのをほのめかしているわけだ。
こういうのを意訳するのは結構難しい。
残酷な様子が伝わってこなくちゃいけない。
さらに、この映画はコメディなので、少しおもしろくなくちゃいけなかったのである。

残酷な訳だけでは、ホラー映画になってしまう。
ところがこの字幕者(誰か忘れたが)は、なかなかセンスがあったようで、恐ろしくかつおもしろい字幕をうまく作ってのけていた。

私をバカウケさせたその”Is-there -God"と対訳の字幕というのは、こうであった。

「地獄でホイ!」

こんなところでウケている場合じゃないのかもしれないが、私にはなんだかすごくうまくできた字幕のような気がした。
こんなコミカルな字幕は、後にも先にもこれっきりという感じである。

ああ、こんな面白いセリフのあと、私もオチなんかつけられない。
脱帽である。

オチのことを英語で、"a punchline"ともいうが、今日の日記のタイトルは、

"Is there a punchline" 「オチなくてホイ」

ということでいいかしらん。。。。


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語源シリーズ(後半)

すぐ更新するつもりが、ちょっとした風邪と、仕事関係者との宴会の二日酔いで、サボっていました。
失礼いたしました。


さて、前回の続き。
語源は違う国だけど、英語として定着した言葉をもう少し紹介しておく。
同じく英語経由で日本にも入っているものばかりを選んだ。

▼"ketchup" 「ケチャップ」→ソースの名前である中国語からの派生
▼"tea" 「お茶」→もともと中国語の"cha"やマレー語の"teh"を経由してきた言葉
▼"quiz" 「クイズ」→アイルランド人が18世紀に賭けをして作ったと言われる造語
▼"slogan" 「スローガン」→アイルランドやスコットランドの「戦いの叫び」という意味の"sluagh-ghairm"からの派生
▼"bridge" 「トランプゲーム」→ロシア語の"biritch"から派生 もっともとをただすとトルコまで行く
▼"yo-yo" 「ヨーヨー」→タガログ語からの派生
▼"penguin" 「ペンギン」 →"pen gwyn" 「白い頭」というウェールズ語から派生
▼"sapphire" 「サファイア」 →ヘブライ語からの派生
▼"ombudsman" 「オンブズマン」→スウェーデン語の"umbodhsmadhr"から派生
▼"satan" 「サタン」→ヘブライ語の「抵抗する・反対する」という言葉からきている
▼"canoe" 「カヌー」→カリブ語からスペイン語経由
▼"tiger" 「トラ」→クルド語の"tigris"から派生 "tij"「鋭利な」という意味からきている
▼"belt" 「ベルト」→エトルリア語(それどこ?)の"balteus"から派生
▼"jumbo" 「ジャンボ」→アフリカの神様を意味していた"Jumbo Mumbo"というマリ語・ガンビア語から派生
▼"mascara" 「マスカラ」→"mask".という意味のイタリア語"maschera"がオリジナル。
▼"jungle" 「ジャングル」→荒地や森林地帯などを意味する"jangal"というサンスクリット語からきている
▼"sofa" 「ソファ」→アラビア語の"suffa"からきた
▼"boomerangs" 「ブーメラン」 ほぼ消滅してしまったオーストラリアの先住民アボリジニ語からきた
▼"window" 「窓」→"vindauga"(vindr「風」 + auga「目」)という古ノルド語でスカンジナビア人が運んできたと言われる
▼"ski" 「スキー」→古ノルド語よりノルウェー経由で「スノーシューズ」という意味から
▼"dollar" 「ドル」→元々チェコで造られたコインから 作られた場所の名前からの派生とも言われる

英語だと思っている「チョコレート「、「トマト」、「ポテト」なども、アメリカの先住民の言語がオリジナルで、スペイン経由で入ってきた言葉である。

ディズニーの子供映画でダンボというキャラクターがいたが、彼のお母さんの名前が"jumbo"「ジャンボ」であった。
最初、私は象が大きいので、"jumbo"「ジャンボ」とつけたのだろうなぁと思っていたのだが、実は1882年にロンドン動物園から買われて、サーカスに使われた象の名前が"jumbo"「ジャンボ」と言い、そこから大きいものを"jumbo"「ジャンボ」と呼ぶようになったらしい。

こんな風にゆえんが先なのか名前が先なのか、もうどちらが先なのかわからないものも多い。

確か"The Jungle Book"「ジャンブルブック」 というディズニー作品は、出てくる動物キャラクターの名前は、ほぼヒンズー語から来ていておもしろいと思ったことがある。

熊役の"Baloo"「バルー」は、ヒンズー語で"bear"「熊」という意味だし、
"Bagheera"「バゲーラ」は、ヒンズー語で"Panther"「ヒョウ」という意味である。

「へぇ、へぇ、へぇ」というだけの話かもしれないが、それはそれでやっぱりおもしろい。

800年前にわたってきた、"Window"「窓」という言葉だが、オリジナルは「風の目」という意味で、当時は窓にガラスなどはなく、壁に穴を開けたものだけというのがよくわかる。

ああ私の部屋の窓は、"window"(風の目)という言葉がぴったり。

だって、すきま風だらけなんだもの。(汗



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