言わずと知れた、江戸時代の2代目水戸藩主・徳川光圀(1628~1700)を主人公にした時代劇。
光圀は1661年から1690年まで30年近く水戸藩主をつとめ、1690年に隠居して、1700年末(陽暦では1701年初め)に没した。『水戸黄門』はその光圀が隠居していた時代の話である。もっとも、松尾芭蕉が登場する話では、芭蕉の没年が1694年なので、時代設定は1690年から1694年までに4年間に限られる。
5代将軍・綱吉の時代である。

 

元禄3年

1690年光圀63歳━第1部?、第3部?、第29部第1話・・・光圀隠居
_______━ケンペル(Kaempfer)来日
_______━近衛基煕が関白に
元禄4年~

1691年光圀64歳━光圀が西山荘に隠居
_______━第42部第1話…松平頼豊が12歳
_______━第42部第11話「大晦日、都で悪の大掃除(京都)」…近衛基煕が関白になった翌年?
_______━小笠原貞信が勝山(福井県)藩主に
1691~1692年_━第29部第4話「珍客駆け込む西山荘」・・・光圀がケンペルと会う
1691~1692年_━第30部第21話「遊女が狙った異人館(長崎)」・・・光圀が長崎でケンペルと再会
元禄5年~1692~1693年?━第4部第1話「水戸→江戸」…光圀と八兵衛が2年ぶりに江戸入り?
1692年光圀65歳┓ケンペル帰国
1693年光圀66歳┻第14部第27話「殿様を泣かせた娘(勝山)」…藩主が変わって2年
_______━第40部第1話…芭蕉登場、新旧八兵衛交代
_______━第40部第12話「藩主の嫁も楽じゃない(鶴岡)」・・・酒井忠義十三回忌?

1693~1695年?━第4部第1話「水戸→江戸」…越後騒動から14年

1694年光圀67歳━元禄7年10月12日1694年11月28日)、松尾芭蕉没

_______━第1部第2話・・・光圀が藤井紋太夫を刺殺
_______━第29部第25話「陰謀と裏切りの果てに(江戸・水戸)」・・・光圀が藤井紋太夫を刺殺

元禄7年11月23日1695年1月8日)、藤井徳昭
1695年光圀68歳━第30部冒頭…光圀が紋太夫刺殺後、閉じこもってあごひげが伸びる
1696年以前__━第38部第5話「暴れ若様まかり通る(和歌山)」(「源六」→「頼方」改名以前と假定)
1696年光圀69歳_吉宗が「源六」から「頼方」に改名?
1696年以降__━第28部第17話「暴れん坊は紀州の若様」(「源六」→「頼方」改名後と假定)
1697年光圀70歳━吉宗が綱吉に謁見
_______━第38部第5話「暴れ若様まかり通る(和歌山)」(第9話から推定)
_______━第38部第9話「世捨てお公家の悪退治(敦賀)」(勅命が元禄丁丑年)
1698年光圀71歳━第37部第23話「消えた水戸の若君!次期将軍を狙った野望」
_______━水戸の徳川吉孚(~よしざね、~よしのぶ)14歳。紀伊藩主・徳川光貞が隠居
1699年光圀72歳
1700年光圀73歳

元禄13年12月6日1701年1月14日)、光圀没

 

「史実」では光圀はほとんど関東地方の内部を回っただけで、『トリビアの泉』で取り上げられたときには北は勿来(なこそ)の関(福島県南端で茨城との県境近く)、南は鎌倉までとある。
さらにインターネットで観ると光圀は熱海(静岡県だが東部で神奈川との県境近く)まで言ったこともあるようで、ほとんど関東から出ていない。
 

 

ドラマ『水戸黄門』では光圀が北海道、東北から九州まで日本各地を歩いた話になっている。もっとも琉球には行っていないように見える(下注釋)。日本各地の風土を紹介しているように見えるが季節は明確でなく、たとえば光圀一行の旅の服装はいつも同じで、雪が降る中を歩く場面はほとんどないようだ。

 

『水戸黄門』における日本各地の名物は、それぞれ職人の住む家がそのまま町工場のようになっていて、家族がそのまま從業員のようである。その点は商家も同様で、奉公人は店に住み込んでいる場合が多い。
それで製品が流通し産業が成り立っていた。
近代化した今の日本では、労働者が急に解雇され、住む場所を失うなど、資本主義社会の悪しき性質が見える。もはや地域のつながり、人間同士の助け合いなど現代社会ではなくなっている。

 

『水戸黄門』で問題なのは、日本各地の為政者や商人が不正をはたらいた場合、それを地元の政治の責任者や住民が解決できず、中央から派遣された将軍家の光圀とその家臣数人が数日滞在して解決してしまうことであり、民主主義も地方自治も完全に否定されていることである。しかも光圀一行が去るとまた日本各地で問題が起きる。長期的には何も解決になっていない。

 

『水戸黄門』における日本国民は身近な問題に不満を言うだけで自らは何もせず、誰か自分たちに味方してくれる強い権力者が現れるのを待つだけ、または陳情するだけという人たちである。有権者としての自覚も責任感もないわけだ。このようなドラマが人気ということは日本にはなかなか民主主義が定着しないのであろう。

 

忍者のお銀と飛猿、お娟、鬼若などはTBS『水戸黄門』のスタッフが作ったオリジナルのキャラクター。
佐々木助三郎のモデルは佐々宗淳、渥美格之進のモデルは渥美格之進のモデルは安積澹泊
佐々宗淳は1698年、光圀が没する2年前に先にその生涯を閉じている。

 

風車の弥七も忍者で、八兵衛は弥七にあこがれて子分を名乗っていたらしい。
弥七の場合、実在の忍者・松之草村小八兵衛がモデルとされることもあるらしいが、これは俗説であって公式設定ではないらしい。

 

普通に考えると、八兵衛も忍術をマスターすれば2代目弥七になりそうなものだは、弥七は俳優が変わっただけで、八兵衛は「うっかり八兵衛」から「ちゃっかり八兵衛」にバトンタッチしており、この二人の八兵衛は別人である。新旧八兵衛の交代は芭蕉が生きていた時期(第40部)なので、1694年の芭蕉没より前の話である。

 

ドラマで光圀は「副将軍」だったとされるが、実質的に有効な身分は「中納言」であろう。「副将軍」という肩書は存在しなかったか、あっても形だけのものであろう。それはのちの10代将軍・家治の時代の老中・松平定信、12代・家慶の時代の老中・水野忠邦、14代・家茂の時代の大老・井伊直弼らが将軍に代わって政治を担当しながら「副将軍」でなかったことからもわかる。

 

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2010年1/19~25平成22年1月

 

関連語句
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『水戸黄門』 『水戸黄門』第40部 光圀 水戸光圀 副将軍
水戸黄門 幻想 片山善博 将軍家 忍び旅
【作品】(江戸時代初期)

注釋
琉球には行っていない
『暴れん坊将軍』では吉宗が琉球に行った話もある(もちろん、フィクション)。『必殺仕舞人』の仕舞人一座も琉球に行った。『仕置人』の棺桶の錠も琉球出身である。

参照
平成20年BLOG

 

/徳川光圀(または水戸光圀)【人物

 

平成22年BLOG
/徳川光圀・補足/

 
平成23年BLOG