徳川光圀(1628~1700)
Wikipedia によると没したのは陰暦1700年末と陽暦1701年正月の重なった時期。
江戸時代の2代目水戸藩主。
『大日本史』の編纂を始め、ラーメン(拉麺)好きとも言われる。

1690年に隠居。その後の10年間、主に西山荘で生活したが、日本各地で起きた諸問題の被害者が首都圏まで陳情に訪れ、綱吉の命令で光圀が何度も旅をしていた。

水戸藩の佐々宗淳(さっさ むねあつ、1640~1698)が佐々木助三郎として、安積澹泊(あさかたんぱく、1656~陰暦1737/陽暦1738)が渥美格之進として旅に参加。
里見浩太朗は佐々木助三郎と水戸光圀を演じたことで有名だが、里見が助三郎役だったとき、光圀一行が敵をあざむくために、里見扮する助三郎が光圀に変装した場面があり、今、観ると予言的な作品である。

フジ『トリビアの泉』では「水戸黄門の最大遠征先は鎌倉」というトリビアが紹介され、それより前にNHK『歴史への招待』でも「水戸黄門、漫遊せず」という特集が組まれていた。

ドラマ『水戸黄門』では、綱吉の時代、各地方の政治、経済で問題が多く發生し、これらを立て直すため、綱吉は水戸の隠居・徳川光圀に何度も偵察を頼んでいた。
当然、場当たり的な対症療法で、各地域に根付いた改革にならず、光圀一行が何度、全国行脚しても、各地域の諸問題は収まらなかった。言うまでもなく、光圀の死によって、これは破綻する。
漫遊で紀州にやってきた際に、光圀は、当時、源六と名乗っていた若き吉宗に会ったことがある。

確か、TBSの『水戸黄門』では光圀が綱吉に犬の皮を多数献上して諭(さと)したように想うが、実際は「憐みの令」は綱吉の死まで、つまり、光圀の死後も9年ほど続いた。
└→補足

前後一覧
08年9/25